超バリアフリー社会

2213年11月19日

先日、地元のS市民衆会議(市議会に相当)を傍聴に行ったところ、身体障害者や視覚障碍者の代議員が4人ぐらいいました。旧市議会時代には考えられなかった光景ですが、聞いてみると珍しいことではなく、隣の隣のK市の民衆会議議長(市長に相当)は障碍者だそうです。

国会に相当する中央民衆会議でも障碍者代議員は50人近くいるそうですから、23世紀には障碍者が中央・地方の代表機関にも当たり前のように存在するわけです。世の中には一定数障碍者が存在するのですから、考えてみればまさに当たり前のことです。

世界を見渡しても、障碍者の活躍はめざましく、北欧のように歴史的なバリアフリー先進地では元首に相当する領域圏民衆会議議長にも障碍者が何人も出ています。

街を歩いていても、様々な障碍者によく出会います。一見、障碍者の数そのものが増えたかのように錯覚してしまうのですが、もちろんそうではなく、「社会参加する障碍者の数が増えた」というのが正解です。

それは21世紀と比べて、バリアフリーが大幅に進んだからです。もはやバリアフリーを超えて、そうした言葉も死語となるほどに23世紀世界にとって障碍者の社会参加は普通のことです。

21世紀までは障碍者が健常者規格に適応できるように助けることがバリアフリーでしたが、今や、すべての人のためにバリアをなくすことがバリアフリーであり、そのためバリアフリーという特別な言葉も不要になったのです。実際、公共的な場所に足を踏みはずしかねないような段差がないことは非障碍者にとっても助かることです。

そうした物理的なバリアフリーだけでなく、心理的なバリアフリーも進みました。かつてはバリアフリー云々と言いながらも、やはり障碍者を「欠格者」扱いする心理はどこかに残されており、議会にほとんど障碍者の姿が見かけられなくても不自然とは思わない無意識の差別感覚が自分自身にもありました。

そうした心のバリアも23世紀世界では消滅したようです。その一方では出産前診断による障碍胎児の中絶があっさり定着していることとの整合性が気にかかるのですが、これは死生観にも関わる大きな問題ですので、別の機会に改めて取り上げることにしましょう。
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by komunisto | 2013-11-19 13:16 | 社会