カテゴリ:死生( 6 )

2215年11月9日

以前のたよりで、23世紀の世界では自殺者数が顕著に減少していることをご報告しました。とはいえ、日本でも年間7000人ほどが自殺しています。このように希少な現象となった自殺について、23世紀の価値観ではどのようにとらえられているのか、気になり、調べてみました。

すると、自殺という行動は鬱病など心の病気の症状とみなされる傾向が強いことがわかりました。このような医学的自殺論は、すでに20‐21世紀中から有力化し、精神保健的な自殺予防策の取り組みなどありましたが、めざましい成果を上げているとは言えませんでした。

当時、私などは、生きていることが死ぬことより辛い情況下では、最後の最後のエスケープ手段として自殺も容認せざるを得ないのではないかとさえ想念していたのですが、このような自殺容認論は23世紀人には無縁のようです。

たしかに貨幣経済が廃された安心の23世紀的共産主義社会では、生きていることが死ぬことより辛い情況などなかなか想定できません。このことは、21世紀の社会に生き辛さを痛感していた筆者にもはっきりと感じ取れます。

また、政治的な抗議としての自殺というものもあり得ると考えられますが、23世紀にはこのような現象も見られません。民衆会議を通じた民主的な政治制度が根付いているため、自殺をもって抗議しなければならないほど深刻な不条理は存在しないからでしょう。

このようにして、23世紀の生き易く、公正な社会で自殺を企図するのは、やはり何らかの心の病気のせいだということになるのです。といっても、特別な「対策」を要するほど自殺者は多くないので、「自殺予防」などという用語も特に聞かれないのですが。

その一方、医療化された自殺とも言える安楽死が認められているのです。病院に安楽死を専門にする部門まであることには驚かされます。これはどのような価値観によるものなのか、またどのようなプロセスで安楽死が実施されるのか、別の機会にこの問題についてご報告しようと思います。
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by komunisto | 2015-11-09 09:04 | 死生
2215年6月24日

23世紀人の発想で当初いささか驚かされたことは、「癌死は格好いい」というような死生観を持つ人が少なからず見られることでした。そちら21世紀では癌は国をあげて世界的に征圧すべき「国民病」と言われているはずですから、驚かれることと思います。

以前ご報告したとおり、23世紀には癌自体が大幅に減少し、平均寿命も100歳台まで延びています。そのため、癌死者もそう多くないのですが、それでも癌死者は毎年確実に出ます。そうした中で死生観が大きく変わったのは、医療哲学の変化が要因と思われます。

これも以前のたよりでご報告したように、23世紀には臨床哲学士という専門職があり、そうした臨床哲学の重要な一分野として、医療哲学があります。例えば、癌に対してどう向き合うかといったことがこの臨床哲学の課題となります。

この問いに対して、23世紀には基本的に積極治療せず、自然の死期に委ねるという考え方が有力化しているのです。ばかな・・・と思われるかもしれませんが、このような考え方はすでに21世紀に提起されていたものの、癌は必ず治すべしという考えが支配的だった時代には、少数の異端説とみなされていました。

ところが、23世紀には西洋医学の枠組み内で漢方的な思想が再発見されていることで、特に外科治療を絶対視する思想が後退したのです(このことも、以前のたよりでご報告しました)。そのため、癌のような病変もできる限り切らずに治すか、そもそも積極治療せず、症状管理的な対応をするといった考えが医療界でも有力化しているわけです。

そのような事情から、癌死者はこうした新しい医療哲学の実践者として敬意を持たれることすらあるのだと思われます。それにしても、癌死の中には若年死も含まれますが、それが格好いいとは?

この点はよくわからないのですが、普通に健康であれば100歳までお迎えは来ないという長大な人生を生きなければならない社会では、案外、早めにお迎えが来た人は太く短い人生を生きた格好いい人という逆説的な死生観も生まれるのかしれません。
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by komunisto | 2015-06-24 09:07 | 死生
2214年10月30日

ホスピスという言葉は、21世紀の皆さんもご存知かと思います。死を目前にした人の終末期ケアをする施設のことです。23世紀には「緩和施療院」といういかめしい正式名称が与えられているのですが、通称では今でもホスピスと呼ばれます。

ホスピスは、沿革的には宗教系慈善事業として始まったことから、かつては私立の施設が多かったのですが、現在では、公立のホスピスが各地にあって、終末期の患者が病院や在宅から移行する形で、最期を過ごします。地元S市にも一か所設置されており、先日見学してきました。

ベッド数は70床と案外大きな施設で、看板が出ていなければ小規模のマンションと見紛うような外観です。中に入ると、ホテルのような雰囲気で、看護師や医師も白衣を着ていないのが特徴です。つまり、病院風の雰囲気を極力排除しようとしているのです。

そうすることにより、一般住宅のような雰囲気の中で、最期の時を穏やかに過ごしてもらおうという趣旨です。もちろん、穏やかといっても、末期がんなどになると、痛みを緩和する医療的処置は必要になりますが、治療目的ではないので、なるべく病院風にはしないわけです。

このあたりは21世紀のホスピスとそう変わらないところだと思いますが、もう一つの特色はホスピスが在宅ケアにも対応することです。つまり、在宅で最期を過ごしたい人や、定員の関係上ホスピスに入所できなかった人向けに訪問サービスにも対応するのです。

こうした終末期ケアが充実した結果、病院では重体搬送者を扱う救急部を除き、看取りをしなくなっています。つまり末期になると、病院からは退院を迫られるのです。もちろん終末期ケアにつなぐ手はずは整えてくれますが、23世紀に病院死は原則としてありません。

これは一見冷徹な対応にも思えますが、病院はあくまでも治る病気を治して帰る場所で、自然に還っていく終末期ケアはホスピスでという機能分化が徹底しているのです。このような発想は、23世紀人の合理的な死生観に沿うもののようです。
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by komunisto | 2014-10-30 13:00 | 死生
2214年4月9日

21世紀初頭の日本では、墓地不足や墓地にかかる費用が問題となり、墓無しを選ぶ人も増えていましたが、23世紀現在はどうなっているのか気になり、調べてみました。すると、23世紀人は墓に入るほうが少数派であることがわかりました。

どうしているのかと言えば、山林や海洋、河川などに自然散骨する人が多いのです。自然に還るという発想です。こうした方法は21世紀から徐々に広まっていたものの、宗教的感情がまだ強かったことや、特に山林散骨は近隣住民の反対から禁止される地域もあるなど、限定的でした。

しかし、エコロジーの思想が社会にも広く根付いた一方で、宗教の縛りからほぼ解き放たれた現在、自然に還るという終わり方はごく自然に受け入れられています。そのため、各地の山林には「散骨場」というある種の自然墓地が区画されていて、そのエリア内での散骨は完全に容認されています。

こうしたことが可能になった背景としては、現在すべての土地は誰の所有にも属しない無主物として公的管理下に置かれているという土地制度の革命的変化もあると思われます。

他方で、墓に入る人もまだいますが、墓の形は大きく変化しています。かつての画一的な四角の墓石ではなく、家や乗り物、動物など故人を象徴する様々な形をしたお洒落墓石があり、それ自体がアートになっています。

ちなみに、こうした伝統的な埋葬方法の場合、墓地の有効活用のため個別墓の保存期間が契約上限られており、通常は30年限定です。更新は可能ですが、遺族・子孫が更新しない場合、墓石と遺骨は撤去され、共同納骨堂に移転されます。

こうして、自然散骨といい、期間限定墓地といい、23世紀のお墓事情は、200年前と比べ、拍子抜けするほどあっさりした淡白なもののように見えます。これは、過去200年間における民衆の死生観の変化を物語っているのでしょう。
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by komunisto | 2014-04-09 09:00 | 死生
2213年12月17日

23世紀の世界で、私のような旧世界から来た人間がやや当惑を覚えるのは、社会の生命観が人工的ないし機械的に感じられることです。

前にもご報告したように、現在、出生前診断に基づく障碍胎児の中絶はあっさり定着しています。子の出産は妊婦及びそのパートナーの自己決定権と考えられているからです。

つまり障碍胎児を産むかどうかは個々人の自己決定に委ねるが、その結果生まれた障碍者に対しては、手厚い療育とバリアフリー政策でその生活を支えていくという考え方のようです。

一方では精子バンクが普及しており、特定のパートナーを持たずにバンクを通じて妊娠・出産する女性も少なくありません。この場合、バンクに精子提供する男性は匿名を希望する正当な理由がない限り、出生した子どもが父親を知る権利に答えなければなりません。

また21世紀には倫理的な疑義が持たれていた代理母についても、代理母の適格審査に通り、登録されている女性に限ってではありますが、認められています。この場合も、代理出産した代理母は出生した子どもの知る権利に答える義務があります。

かつて不妊は疾患として治療の対象とされていて、上記のような制度は人工授精も不能な場合の窮余の一策とみなされていました。現在でも人工授精法はありますが、苦労して不妊治療を受けるよりも、子ができなければ上記のような制度を利用して子を持つことがあっさりと習慣化されているのです。

これに対して、クローン人間とかデザイナー・ベビーといった遺伝子レベルでの生命操作技術については、「生命倫理条約」という世界法によって禁止されており、この点では世界レベルでの共通規制を欠いていた21世紀よりも進歩的と言えます。

こうしてみると、23世紀の生命観は機械的に見えながらも、倫理的な押さえはしっかりと効かせている。そんな印象を持ちます。
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by komunisto | 2013-12-17 13:42 | 死生
2213年8月3日

私が旧世界に生きていた21世紀初頭頃、先進諸国の平均寿命は年々上昇し、特に日本は世界一の長寿国となっていましたが、反面として介護の問題が社会全体にのしかかっていました。

私は個人的に当時から、ヒトの平均寿命は75歳前後が適正ではないかと考えていたのですが、23世紀の今、世界的に平均寿命が飛躍しており、日本では男女とも平均寿命は100歳台です。私の目論みは外れ、世界は長寿化しているのです。

その原因として、アフリカに代表されるようなかつての短命地域では食糧生産や保健衛生の向上が進む一方で、日本のようなところでは「飽食」が是正されたことで、かえって長寿化がいっそう進んでいるというのです。

資本主義的な「飽食」は一定の長寿を実現する一方で、糖尿病のような成人病の増加により平均寿命の延びを抑制している面もあったことが明らかとなっています。

これに対して、共産主義は必要なものを必要なだけ生産するシステムであるため、全体として相対的な少量生産になりがちです。それは食品にもあてはまりますから、共産主義の未来社会に「飽食」はあり得ません。

また前に指摘した「最小限医療社会」ということも影響しているでしょう。医療に関する考え方が変わり、むやみに病院を受診しないことが常識となっています。このことがかえっていわゆる「医原病」のような事態を防止していると考えられるのです。

私が平均寿命75歳を適正と考えた理由は介護問題にあったのですが、これも不思議なことに未来社会に要介護老人は少なく、かつて理想とされた健康長寿が実現しています。万が一要介護になっても、比較的ゆとりをもって介護システムが機能しているため、介護に不安を持つ必要はないわけです。

要介護者の減少に関しても、やはり「飽食」の是正に加え、病院のような治療機関よりも保健所のような予防機関が活用されていることが大いに影響しているものと考えられます。
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by komunisto | 2013-08-03 10:29 | 死生