カテゴリ:文化( 19 )

2216年1月2日

私がまだ21世紀にいた頃、新年早々から撃ち合い場面の多いドラマを観せられてげんなりしたことがありました。あの頃の映画やドラマでは、撃ち合いは定番の演出的な要素として製作者の頭に刷り込まれていたようです。

一方、23世紀のドラマや映画を観ていて気がつくことは、撃ち合い場面がないことです。検閲とか自主規制によってそうなっているのではなくて、そもそも製作者の念頭に銃撃戦というものがインプットされていないからです。

それもそのはず、23世紀の世界には、軍隊も兵器も存在せず、戦争という行動も過去のものですから、23世紀人には戦闘という場面が思い浮かばないのです。また以前ご報告したように、警察さえも廃止の潮流にあります。

そもそも武装強盗とかテロのような武装犯罪がないので、制圧に際して武器を使用する必要性もないのでしょう。かつては世界最大の銃社会であったアメリカも現在では銃とは無縁の社会です。これも銃規制によってそうなったというより、犯罪の激減が銃の必要性をなくし、銃規制を後押ししたのです。

アメリカでも地方では警察が廃止され、まだ警察が存続している大都市圏でも、警察官は少なくとも日中、丸腰で勤務することが多いと聞きます。革命前のアメリカ人には信じ難い光景でしょう。

ちなみに、有名なハリウッドはいまも映画製作の聖地であり続けていますが、ハリウッドが所在するカリフォルニアはもはやアメリカではなく、アメリカから分離し、メキシコと合併してできたアメヒコに属しています。
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by komunisto | 2016-01-02 09:56 | 文化
2215年12月21日

23世紀にやってきてしばらくして気がついたことの一つは、一般市民の教養の高さです。失礼ながら、一般市民ってこんなに知的だったっけ?と思うほどです。200年前にはそれほどでもなかったはずですが、この違いは何なのか考えてみました。

以前のたよりでも報告したように、23世紀には大学という制度、それを頂点とするふるい落としの教育システムがありません。すべての人は旧義務教育に相当する課程を終えると、いったんは就労するのが普通です。

ある意味では、総労働者社会です。しかし、労働者=無教養ではないのです。以前ご報告した多目的大学校のような生涯教育のシステムが整備されており、社会に出た後、いつでもどこでも学ぶことができます。

旧大学制度は、「学位」に基づく知識階級制を作り出し、「学位」を持たない大衆の無教養のみならず、「学位」を持つ各種専門人の無教養―いわゆる“専門バカ”―をも結果していたのだと気づかされました。

こうした生涯教育制度に加えて、代議員免許試験も一般市民の教養向上に一役買っていると思われます。以前ご報告したように、代議員免許試験は社会科学全般にわたる幅広い素養を問う試験ですが、多くの人がこれを受験することで、市民の教養の向上に寄与しているのです。

代議員免許試験は、同時に市民の政治的・社会的関心の高さにも寄与しています。そのことを象徴する社会現象として、これも以前の記事でご報告した討論喫茶のようなものもあります。そのほか、ネット上でも市民同士の高度な意見交換がなされています。

23世紀的教養はもはや知識人層の専売ではなくなっているのです。そもそも「知識人」とか「有識者」といった言葉自体がほぼ死語と化していて、目にすることも耳にすることもまずありません。それだけ知が普遍化されているということでしょう。
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by komunisto | 2015-12-21 16:38 | 文化
2215年11月27日

23世紀に飛んできて、当初不便に思ったのは、公式の天気予報がないことです。かつて生活の一部のようになっていた天気予報は、いったいなぜ消滅したのでしょうか。驚いたことに、天気予報は法律で禁止されているのです。

その理由として、予報は外れるからというのです。気象観測の技術レベルがどんなに向上しても、科学は予測するものではなく、事後分析するものですから、予報は外れます。天気予報外しは時に人を誤った判断に導き、重大な結果を招くので公式の予報は許されないのです。

ただし、重大災害の警報は別です。災害警報は予報とは異なり、重大災害の差し迫った危険が認められる場合に発せられるもので、かつてのように危険性に応じたランク付けはありません。警報にランクを付けると、そのランク予測が外れた場合に、やはり重大な結果を招きかねないからです。

こうした重大災害警報を出すのは、中央災害対策本部という常設の危機管理機関であって、気象庁ではありません。気象庁という役所は廃止され、旧気象庁は現在、気象地質観測センターという純粋の研究機関に再編されています。災害警報は同機関の観測をベースに、災害対策本部が発する仕組みです。

ここで天気予報禁止といっても、それはメディアなどを通じて公に予報することの禁止であって、各人が個人的に予測すること、言わば「マイ天気予報」は自由です。気象地質観測センターはリアルタイムで気象観測画像及び天気図を公開しており、それを端末に取り込むアプリもありますから、個人で天気を予測することは自由なのです。

つまり平時の天気予報は自己責任で、ということです。ちなみに、かつてテレビではちょっとした「顔」だった気象予報士という資格はもう存在しません。気象を専門にやりたければ、先のセンターに入職するのが近道とされています。

公式の天気予報がなくて不便に思わないか周囲に聞いてみますと、「天気予報なんて星占いみたいなものでしょ」という冷めた答えが返ってきました。これも23世紀人に科学的思考習慣が定着しているゆえんかもしれません。
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by komunisto | 2015-11-27 07:55 | 文化
2215年11月3日

今日11月3日は、そちら21世紀の日本ではまだ「文化の日」ですね。まだと言ったのは、こちら23世紀の日本では11月3日はもう祝日ではないからです。以前のたよりでもご報告したように、23世紀の公休日は春夏秋冬ごとの大型バカンスを基本としています。

ともあれ、旧「文化の日」の恒例行事は文化勲章授与式でした。実は、23世紀の世界にはこうした叙勲の制度も存在しないのです。勲章目当てに頑張っている方は消沈するかもしれませんが、世界革命は一代限りの勲章という制度も廃止に導きました。

例えば、日本領域圏の憲法に相当する憲章には、「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、これを行なわない。」とあります。ちなみに、旧憲法(そちらでは現憲法)では、「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」とされていました。両者比較すれば、違いは一目瞭然です。

この規定のおかげで、現在では文化勲章のような学術・芸術的な叙勲だけでなく、政治や行政、経済などの分野での功績を理由とした叙勲も廃止されているわけです。

叙勲とは君主が臣下に栄典を与えることで、元は世襲であったのが、民主化が進むと一代限りの栄典となり、そしてついに一代限りの栄典すらも廃止となったのです。漸次身分制が廃止されていった時代の流れとも言えるでしょう。

では、文化勲章に相当するような賞は一切存在しないかと言えば、そうでもなく、学術団体ないし芸術団体が高い功績を上げた学者や芸術家に授与する賞があり、そうした有力な賞の受賞者はかつての文化勲章に匹敵する栄誉を得ているようです。

学術や芸術分野の業績の表彰は本来、国や公共団体が政治的・行政的に行なうよりも、各専門団体がその専門的な知識・経験に基づいて自主的に行なうのが最も正確かつ公正なのですから、このような23世紀的な表彰のやり方は、大いに合理性があるように思われます。
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by komunisto | 2015-11-03 13:58 | 文化
2215年8月23日

以前のたよりでもご報告したように、23世紀には臨床心理士が開業運営する臨床心理クリニコが少なくないのですが、同時に臨床哲学士という相談専門の哲学者も存在しているのでした。

この両者はどちらも心の悩みの相談に乗る点では、似たような仕事をしているのですが、資格としてはまったく別ものです。どのように違うのでしょうか。

まず心理士のほうはすでにそちら21世紀にも見られる心理士と同様、心理療法の専門家ですが、主に行動療法を行ないます(細かいことですが、より深く心の内奥に踏み込む精神分析は現在、医師の専権とされています)。

それに対して哲学士のほうは、より広く人生や死生観に関する悩みの相談に応じる新しい仕事です。そのため、病院やホスピスのような医療機関に在籍して患者の相談に乗ることも多いようです(開業や出張サービスをしている人もいます)。

このように二種の相談専門家がいるので、悩みを抱えた場合どちらにいくべきか迷いも生じると思われますが、大雑把に言って、正常な心の悩みについては哲学士、やや病的な心の悩みになると心理士という振り分けがあるようです。

これは23世紀の心理士が医療系の資格とされ、専門性も向上していることに関係しているようです。心理士が扱うのは、精神疾患一歩手前のような状態なのです。一方、哲学士のほうは人文系の資格であり、人生相談のような領域を担当しています。

ちなみに心理士の学問的素養の基礎にある心理学自体、現在では身体の生理学に対応する基礎医学に分類されるようになっており、いわゆる文系の学問ではなくなったのです。

一方、哲学も昔のように哲人が書斎で沈思黙考する抽象的・思弁的な学問ではなくなり、より実際的に人々が日常の中で抱える悩みに解決を与える実学として新たな発達を見せているのです。
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by komunisto | 2015-08-23 09:03 | 文化
2215年6月18日

23世紀の日本語はどうなっているの、21世紀の日本語は通じるのというご質問を受けました。実は21世紀からタイムトラベルしてきた当初、私も不安に思いましたが、間もなく不安は解消しました。日本語の骨格は、この200年であまり変わっていなかったからです。

近代以降に確立された標準語としての日本語は歴史的に定着しており、そのまま23世紀現在まで維持されていますので、タイムトラベルしてきた21世紀人にとっても、日常的に言葉で不自由することはありません。

ただし、日本語に特有の敬語体系はかなり廃れており、年長者に対しても、かつてなら「ため口」と非難されるような話法が一般化しており、戸惑うことはあります。敬語表現はよほど改まった場でしか使用されなくなっているため、現代では「敬語」ではなく、「儀礼語」と呼ばれるようになっています。

なぜ敬語表現が廃れたかについてはいろいろな議論がなされているようですが、やはり革命後、社会的な平等性が高まり、儒教的な伝統に由来する長幼の序の観念が希薄になってきたことが指摘されています。敬語は用法が難しく、誤用もしやすかったので、敬語表現が廃れてきたのは、日本語話者にとっては幸いなことかもしれません。

もう一つの変化は、ほぼ全員がエスペラント語とのバイリンガルであることです。これは以前のたよりでもご報告したように、学校での言語教育が大きく変わり、世界公用語となっているエスペラントの習得が義務付けられ、早期からエスペラント教育が徹底されているためです。

日本語における外来語の豊富さは相変わらずなのですが、外語教育の変化を反映し、かつては圧倒的に英語由来の外来語が多かったのが、現在ではエスペラント由来の外来語が多くなっており、例えば、バイリンガルもエスぺラントのdulingvaに由来するドゥリングワという外来語が使われます。

ちなみに、以前のたよりでは近隣外語一つを加えたトリリンガル(トリリングワ:trilingva)話者の育成が目指されているとご報告しましたが、ここまではなかなか理想どおりにいかないもので、実際に三言語を同等に使える人はまだ限られているようです。

さらに、これも別のたよりでご報告したように、手話も学校教育で必修となっているため、初歩的な手話はほぼ全員が習得しており、非障碍者同士でも少々おどけて手話で会話することもあるほど普及していることも、21世紀の言語状況とは大きく変化した点と言えるでしょう。
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by komunisto | 2015-06-18 08:39 | 文化
2215年6月6日

そちら21世紀とこちら23世紀における文明の最大の違いは何かと問われれば、それは「持てる文明」と「持たざる文明」の違いだと言えます。21世紀は20世紀の延長で、持つことが最大の美徳であるような文明でした。それに対して、22世紀を大きな画期点として、23世紀は持たないことが美徳であるような文明に転換したのです。

20世紀後半から21世紀前半にかけて全盛期を迎え、そちらでは「グローバル化」の名の下に、全世界に拡大された資本主義は、持てる文明の最終的到達点であり、持って持って持ちまくれ!が合言葉であり、最大の持てる者=富豪はヒーローでした。

もっとも、21世紀には「断捨離」なる流行語のもと、物欲からの解放が擬似宗教的に説かれたりするようになりましたが、これには裏がありました。ここでの「断捨離」は、もともと不用品まで大量に所有していた持てる者が要らない物を捨てることを意味しており、もともと持たざる者にとって、断捨離も何もあったものではありません。

貨幣経済が廃止された今日、人類の物欲のほぼ100パーセントを占めていたカネというものを知らない世界にある意味原点回帰したわけですから、言わば文明そのものが「断捨離」されているのです。

それは精神論にとどまらず、地球規模での計画経済とそれに基づく計画的な経済協力が実施されることで、政策的にも確証されています。従って、毎日大量のゴミが発生・廃棄されるような無軌道な大量生産はあり得ない話です。

ただし、所有権の観念が消滅したわけではありません。日常の生活必需品の多くは、今日でも個人の所有物ですが、以前のたよりでも報告したように、リサイクルを前提としたリユース制が行き渡っており、特に大型家電は法律によりリユースが義務づけられています。もちろん、使用料は一切かかりません。

また、これも以前のたよりで報告したとおり、土地は誰にも属さない自然の無主物という扱いですが、土地の上物としての建物は私有が認められています。ただし、これまた以前のたよりで報告したように、持ち家比率は40パーセントほどに下がっています。

このように物欲の法的表象であるところの所有権の観念が狭く限局されているのも、持たざる文明の帰結です。従って、21世紀以前とは正反対に、23世紀の文明にあっては、持たざる者こそがヒーローです。テレビの情報番組でも、今や「豪邸」の紹介ではなく、余分な物を持たずに持続可能かつ効率的に生活している家庭の紹介が人気です。
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by komunisto | 2015-06-06 09:08 | 文化
2214年11月19日

23世紀人に説明するのが一番難しいもの、それは知的財産権でしょう。このような概念はもはや存在しないからです。無形的な知まで財産権の対象となり、金に換えられるというのはまさに資本主義の象徴だったようです。

しかし、知的財産権が存在しないと、盗作や海賊版が横行するのではないか。実際、そのとおりです。ですが、23世紀人はそうした模倣を悪とは思わず、良い作品は真似されると割り切っているようで、盗作された著作家たちも憤激したりしないのです。

実際のところ、貨幣経済が廃されたことで、著作家たちも著作権料など手にすることはできなくなり、プロとアマの垣根も非常に低くなっていますから、カネをもらう人=プロ、もらわない人=アマという区別もありません。ただ、いわゆる人気のある・なしで、おおまかにプロ・アマの境界が分けられているだけです。

とはいえ、盗作が当然に認められているわけではなく、慣習上著作倫理が形成されています。盗作は著作倫理違反とはなるのですが、そのことが著作権侵害として法的追及の対象となることはないのです。ただ、盗作が発覚すれば盗作者は評判を落とし、社会的制裁を免れないことはあります。

以上のことは発明についても妥当します。21世紀には特許戦争という用語もあったほど、特許技術は知的財産権分野では最も資本主義的競争圧力にさらされていた分野でした。

ですが、この分野でも、新案技術は発明者や発明企業が独占することは許されず、人類共通財として扱われるため、競争どころか、以前にも報告したように、新案技術は必ず世界科学技術機関に登録する必要があります。

こうして、人間の頭脳が生み出す知的生産物も、所有権の対象として囲い込み、金儲けのネタにするのではなく、人類共通の知的財産として共有し合うのが、共産主義的な23世紀社会の知のありようとなっているようです。
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by komunisto | 2014-11-19 16:51 | 文化
2214年9月30日

200年前、「時代劇」と言えばたいていは江戸時代もしくはその直前の戦国時代を舞台とした封建時代のドラマを現代劇俳優が演じるものでした。こうした封建時代劇は20世紀に発祥し、それが21世紀にもおおむね引き継がれていました。

23世紀にも「時代劇」と呼ばれるジャンルのドラマや映画は残されていますが、扱う時代は大きく異なり、近代です。それも昭和前期から中期頃までの「モダン」ながら、まだ前近代的な要素も残されていたレトロな感じのする舞台となります。

21世紀にもこの時代を扱うレトロなドラマはそれなりにあったと記憶しますが、それらを「時代劇」と呼ぶことはなかったので、筆者のような旧時代人にとっては時代感覚がずれているような感もあります。しかし世紀が進むにつれ、「時代劇」が扱う「時代」も少しずつずれていくのは当然とも言えます。

では、かつての「時代劇」に相当する封建時代を舞台とするドラマなどは消滅したのかと言いますと、そうでもなく、それは「古典劇」という名前に変わって存続しています。

ただ、「古典劇」はかつての「時代劇」ほどに大衆化しておらず、演劇愛好者向けの玄人的なジャンルとなっています。俳優も通常の現代劇俳優が着物を着て演じるというのではなく、「古典劇」だけを演じる専門の俳優と劇団が存在しています。

「古典劇」が通常のテレビ番組として放映されることはほとんどなく、専門劇団の公演として演じられるのが基本で、あとは映画のDVD頒布、動画配信などの方法によって愛好者層に向けて発信されるものです。

このように封建時代劇が廃れた理由についてはいろいろと文化論的な分析がなされていますが、封建時代が終わって350年近くを経た現在、さすがに封建時代人の心情や時代背景を理解し、鑑賞できる人は、一部に限られてきたからのようです。
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by komunisto | 2014-09-30 17:21 | 文化
この記事は、都合により削除致しました。
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by komunisto | 2014-07-03 22:31 | 文化