カテゴリ:思考( 10 )

2216年2月20日

21世紀の読者から、カール・マルクスは23世紀にどのような扱いを受けているかとの質問を受けました。私もかねて気になっていながら放置していた問題でしたので、調べてみました。結果は、やや複雑でありました。

23世紀現在の社会は共産主義ですが、いわゆるマルクス主義を標榜するような政党・政治団体は力を持っていません。共産党も存続しているのですが、当ブログでもたびたび言及しているとおり、政党政治は排除されているため、マルクス主義政党が政治に関与することはありません。

といって、マルクスが完全に無視されているわけでもなく、彼は近世共産主義思想の祖という扱いになっています。すなわち、資本主義に対して初めて体系的な批判を加えた先駆者で、それゆえに世間からは認められず、生涯在野知識人として貧困にあえぐことになったとされます。

そうした見地から、マルクスは一種の聖人とみなされ、共産党のようなマルクス主義政党は政治の外にはあるものの、ある種の教会のような役割を果たしています。共産党の地域支部が駆け込み寺のようなよろず相談事業を実施している場合もありますし、共産党トップが社会的な問題についてコメントすると、大きく報じられることもあります。

こうした扱いを見ると、そちら21世紀で言えば、マルクスはキリスト?で、共産党はキリスト教会?になぞらえることができるかもしれません。逆に言えば、その程度のことで、それ以上でも以下でもなく、儀礼的な尊敬の対象なのです。

おそらく現在の発達した共産主義社会はマルクスをも超えてしまっており、もはやマルクスの思想を云々する必要もないのでしょう。従って、学校教育でマルクスの思想が教え込まれるようなこともありません。

共産主義と聞くとすぐにマルクスを想起し、しかもそれに旧ソ連のイメージを重ねてネガティブにとらえてしまう思考習性からすると、23世紀におけるマルクスの扱いはなかなかイメージしにくい微妙なものと思われます。
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by komunisto | 2016-02-20 09:29 | 思考
2215年11月15日

23世紀人の思考法の特質について、自身と比較してあれこれと思いをめぐらせることが多いのですが、最近気のついた23世紀的思考法として、良い/悪いという善悪二元論的な思考をしないことがあります。このことは、21世紀から飛んできた筆者にとっては一種のカルチャーギャップとなっています。

実際、私は23世紀の知人から「きみは良い/悪いという発想をしすぎる」と苦言を呈されたことがあるのですが、このように何でも良い/悪いという二元定式にあてはめて物事を判断しようとするのは、おそらく21世紀―というより、専ら20世紀に生育した旧人の発想の癖かもしれません。

もっとも、用語のうえでは「良い」と「悪い」という単語は残されていますが、23世紀人は「良い」という言葉を道徳的に「良い」ではなく、「適切」とか「合理的」という意味で用いることが多いようです。他方で、「悪い」という単語はあまり使われず、「良い」の否定形「良くない」が使われます。これも、先ほど言った意味の反対、すなわち「不適切」とか「不合理」というニュアンスです。

前回ご報告した自殺論でもそうですが、自殺は「悪い」という価値観は希薄で、自殺は心の病の「良くない」症状とみなすという考え方も、こうした23世紀的思考法の適用例と言えます。さらには、他殺行為のような旧人的感覚では「悪い」ことでも、23世紀人はそのように断じません。

以前のたよりで、23世紀には刑罰制度が存在しないことをご報告しましたが、それは本稿の問題関心から言えば、犯罪を「悪い行為」として処罰するという発想が存在しないことを意味します。犯罪行為は逸脱行為ではあるものの、社会の歪み・欠陥が反映された一種の社会病理現象としてとらえ、個人の矯正とともに、社会の改良の手がかりとするという考え方が定着しているのです。

こうした発想は文化の面にも反映されていて、善人が悪人をやっつける勧善懲悪的なドラマのような創作はほとんど見かけません。かつての勧善懲悪ものは、古い時代の価値観を反映した古典作品として、鑑賞よりも学術的な分析の対象とされています。

良い/悪いという二元論的発想では、「悪い」と判定されたものは排斥・攻撃されることを予定していますから、良い/悪いの判断基準が異なる個人間・民族間・文明間では衝突が起きやすくなります。そちら21世紀が直面しているテロリズムもそうした衝突現象の最も憂慮すべき例なのかもしれません。
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by komunisto | 2015-11-15 10:49 | 思考
2215年10月22日

22世紀の世界革命以前の旧人とそれ以降の新人とを分ける大きな相違点として、美意識の有無があります。すなわち、新人は美意識というものを持っていないのです。もっと正確に言えば、新人は美/醜という二元的価値規準を持っていないということになります。

この美/醜の二元的価値規準は長い間、人類共通の価値尺度だとして疑われていませんでした。しかし、実はこれこそがあらゆる差別の源泉であることが明らかにされたのです。当然ながら、美が優等視され、賞賛される一方で、醜は劣等視され、差別されます。

人間の価値評価すら、美男美女が理想的人間として賞賛され、それと対照される醜女醜男は蔑視されるということが当然のごとく行なわれてきたのです。実際上、人種差別や障碍者差別も、その根底には、そうした外見上の美/醜規準があったのです。

しかし、22世紀の世界革命は一面では「反差別」革命でもあったので、差別の根源にある美/醜二元論も批判・克服の対象として、厳しい検証にさらされたのでした。ことに見栄えを理由としたあらゆる美/醜の評価が槍玉に上がりました。

その結果、美人コンテストのようなイベントも差別的な“人間品評会”とみなされ、開催されなくなりました。旧世界では憧れの対象だった美人コンテストは今や、差別に鈍感な旧人の野蛮な風習として否定されているのです。

また美とは何かを追求する学問としての「美学」も批判にさらされ、23世紀には「美学」というものはなくなり、旧美学が扱っていた領域は「芸術学」という学問に吸収されており、その研究主題も「醜」と対照される「美」ではなく、対照項を持たない「芸術性」へと変化しています。

美/醜の二元的対照項がない芸術性ということは、旧人にはなかなか理解が難しいのですが、結果として、旧人的感覚では「美しい」とは評し得ないようなものでも「芸術的」と評されることがあるのです。

このように23世紀の新人には美意識がないといっても、このことはかれらが粗野・無粋であることを意味しません。かれらもすぐれた芸術、ことに美術には旧人以上に傾倒しており、住宅を含む建造物なども極めて芸術的に設計するのです。

ただ、そうした態度を支える価値観はもはや「美」ではありません。従って「美術」とは呼ばれず、「アルト」というエスペラント由来の外来語が使われます。ただ、これまでのたよりの中では、21世紀の旧人読者にもわかりやすいように、「美術」という語を使ってきましたが、これは23世紀の用語ではありません。

人間の価値評価に関しても同じことで、23世紀には美女とか美男その他これに類する俗語の類はほとんど死語と化しており、日常慣用されません。人間を外見のみで賞賛したり軽蔑したりする慣習一切が廃れているからです。

そんなこともあり、旧人の世界ではしばしば外見を理由とする被差別者であった筆者のような人間にとっても、美意識を持たない新人の世界は人目を気にすることなく住みやすく、ある種の楽園です。そちら旧世界へは二度と帰還できないという掟にも何ら悲嘆していません。
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by komunisto | 2015-10-22 08:21 | 思考
2215年3月26日

『未来社会だより』という当ブログのタイトルについて、これは19世紀英国のアーティスト・作家で社会活動家でもあったウィリアム・モリスの代表作『ユートピアだより』に着想を得たものではないかとのご指摘を21世紀の読者より受けました。

慧眼と博識に敬意を持ちます。モリスの名は21世紀には一部の人々の間でしか知られなくなっていましたので、それをご存知であったとは、相当な方です。たしかに、タイトルは同書から着想を得ました。ですが、内容はかなり違います。

モリスの「ユートピア」は、明らかに全員平等の共産主義的田園ユートピアを想定しています。それは彼が生きていた19世紀後半の英国が世界に先駆けて歩んでいた資本主義産業社会への鋭いアンチテーゼでした。

そのため、モリスの「ユートピア」は結局のところ、一人称主人公の夢幻であったことが結末で明かされます。その終わり方はいささか寂しさを感じさせ、所詮ユートピアなどかなわぬ夢にすぎないのだというペシミスティックなメッセージを読み取ることすら不可能ではありません。

これに対して、当ブログでご報告している23世紀未来社会は、これまでの通信からも明らかなように、高度な共産主義的産業・情報社会であり、農業・手工業中心のモリス的「ユートピア」とは大きく異なります。

23世紀社会は、「ユートピア」=どこにもない理想社会ではなく、23世紀の地球世界に遍く実在する未来社会、理想と現実が統一された未来現実です。それは21世紀までの資本主義産業社会と全面で対立するものではなく、旧時代の成果をもより高い次元で継承した後続社会でもあるのです。

当ブログの各通信では、そうした旧時代からの継承面と革新面とをできるだけ明瞭に切り分けて報告するよう努めてきましたので、そのあたりはある程度お読み取りいただけるかと思います。

このようなモリス的ユートピアとの相違点を別としても、モリス『ユートピアだより』は21世紀時代の私のお気に入りでした。マルクス『資本論』―こちらはある意味、資本主義的ディストピア文学としても読めます―よりも面白く感じたくらいでした。

ちなみに、23世紀の現在、モリスは作家よりもアーティストとして再発見されており、デザインの世界で「新モリス派」が形成されています。『ユートピアだより』については、民主的な農村自治体のあり方として参照されることはあるようです。
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by komunisto | 2015-03-26 09:33 | 思考
2215年1月13日

23世紀人の思考法の最大の特徴として、差別することを知らないことがあります。特に人間同士を比較して優劣を付けるという発想がないのです。だから、「優秀」とか「劣等」といった言葉はほぼ死語となっています。

ある意味では、大人たちも差別を知らない小さな子どものようなのですが、このような差別フリーな思考法はどのようにして身につくのか興味を持って調べてみますと、一つには保育や学校教育の中で、意識的に反差別の価値観を教えていることがあります。しかし、どうやらそれだけではないようです。

やはり貨幣経済が廃止され、貨幣価値という観念が消滅したことが決定的と思われます。貨幣価値というのは、21世紀人なら誰でも知っているように、物に値段をつけて、100万円の品は100円の品より価値が高いというように、物を等級付けするうえでの基礎になります。

物の等級付けで止めておけばまだよいのですが、かつては人間まで等級付けされました。士農工商のような身分制度はもちろん、それが廃止されても、社会的地位による公的な等級付けとか容姿による私的な等級付けまで、実に様々な要因から人間が等級付けされていました。

当然にも、等級が低いほど価値が低いとみなされ、蔑視、無視、排除される確率も高くなります。21世紀にも、人間の差別は良くないということは道徳的なタテマエとして認識されていながら、実際には種々の差別が世界中で横行していましたし、容姿による差別などはそもそも「差別」ではなく、それこそ物の値段と同じように当然視されていたことでしょう。

かつての人類社会における差別は、突き詰めれば貨幣価値という観念の発明に端を発していたのでしょうか。思想史家でない筆者にはよくわかりませんが、貨幣に換算した等級付けを止めたことの影響が人間の思考法にも及んでいることは明らかと思われます。

21世紀の世界に住んでいた最後の頃、差別をやめようとしない人類社会そのものに否定的になっていたものですが、過去200年の進歩を見ると、人間もまだまだ捨てたものではないとポジティブな気持ちになります。
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by komunisto | 2015-01-13 14:01 | 思考
2214年10月5日

23世紀にはいろいろとユニークな職業が生まれていますが、臨床哲学士というのもその一つでしょう。臨床哲学史とは哲学の専門家ながら、書斎で沈思する哲学者ではなく、主に組織に所属して哲学・倫理的な問題の解決に当たる専門職です。

こうした臨床哲学士が一番活躍しているのは、病院やホスピスです。医療機関では、治療の技術的な問題ばかりでなく、哲学・倫理上の問題が現場で発生したとき、医師や看護師など医療者だけでは解決できず、苦悩する場合もあるため、臨床哲学士の出番となるわけです。

特に23世紀にはいっそう高度に発達している生殖医療の現場は倫理問題が山積するため、倫理的な問題の処理では臨床哲学士の役割が大きく、問題解決の最終責任者となります。また終末期医療でも、患者や家族からの生と死をめぐる相談に乗り、どのような終末がふさわしいか、助言もします。

現在、大きな総合病院には「臨床哲学外来」という窓口を開設している例も見られ、ここでも、心理相談に当たる臨床心理士とは別に、臨床哲学士が重大な病気の診断を受けた人や、難病の治療中の患者などからの人生相談的なことを担当しています。

そのほか、臨床哲学士の中には相談所を開設したり、自宅への出張相談をサービスしたり、自営的に活動する人もあって、これも結構利用されているようです。

臨床哲学士になるには、臨床哲学士協会が主催する講習を受けたうえで、資格試験に合格し、暫定資格認定された後、指定研修機関で実務研修を受け、最終試験に合格して初めて正式に資格認定されるという本格派の業務資格となっています。

哲学と言えば、実用至上の資本主義時代は役立たずの学問とみなされ、臨床哲学士などという職業も成り立ちませんでしたが、貨幣経済が廃された現在、社会の価値観も大きく変容し、「無用の用」(老子)としての哲学が復権しているようです。
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by komunisto | 2014-10-05 10:58 | 思考
2214年8月2日

23世紀の人たちは、超常現象とか心霊現象といった超科学的な現象とされるものについてどう考えているのだろうかということに興味をもって、周辺の人を含め、直接に聞いてみました。結果は、想像以上でした。

30人ぐらい聞いてみたのですが、その中でその種のものをはっきり「信じる」と答えた人は1人だけでした。その人は実は私と同様、21世紀の世界からタイムスリップしてきた人なので、除外されます。23世紀生まれで「信じる」という人は皆無でしたが、1人だけ科学的に説明のつかない現象もあり得るという科学懐疑的な答えをした人がいました。

「科学の時代」ということは、もう三世紀前の20世紀から言われていたわけですが、そうした表向きの言葉とは裏腹に、超科学的な現象を信じる傾向は21世紀になっても続いていました。200年経って何が変わったのでしょうか。

一つには科学のさらなる進歩により科学的に空白となっていた部分がいっそう埋まってきたということがありますが、それだけではないようです。まず学校での科学教育の徹底です。昔の小学校から高校までの課程に相当する13か年一貫制の基礎教育課程では、特に自然科学の土台となる物理分野の教育が徹底して行われます。

さらに、メディア報道の刷新もあります。かつては超常現象などを科学的に解明しようとするのでなく、それらが科学を離れて存在するという前提で興味本位に取り上げるようなTV番組も少なくなく、そうした番組も視聴者に大いに影響していたものと思われますが、今やその種の番組は存在しません。

その理由として、「表現の自由に関する法律(表現自由法)」という法規が存在し、その中に科学的報道の責務というものが規定されていることが大きいと考えられます。すなわち、報道者は科学的に説明できない現象について、科学的知見を参照することなく興味本位で報じてはならないというルールです。これに違反した報道をしても罰則こそないものの、報道オンブズマンという監察機関から改善命令を受けることがあります。

こうして、教育や報道の面で科学性が徹底されているため、全般に23世紀人は、「科学的に説明のつかない現象は信じない」という科学的思考習慣がごく普通に身についているようです。超科学的な現象について質問すること自体ナンセンスと感じるようで、多くは一笑に付されてしまいました。

23世紀の科学者たちは、かつて信じられていた超常現象等は、それらの存在を「信じる」という精神作用自体がもたらす感応性の集団幻視であるか、もしくは写真・映像等の人為的な加工であったと考えています。
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by komunisto | 2014-08-02 08:08 | 思考
2213年11月4日

23世紀の世界で興味深いのは、くじ引きが広く活用されていることです。何しろ、議会に相当する民衆会議の代議員がくじ引きで選ばれるのです。これは国会議員や地方議会議員をくじ引きで選ぶようなものです。

その他、経営トップを含む役員やその他の幹部職をくじ引きで選ぶ企業も少なくありませんし、その他の団体でも役職者をくじ引きで選ぶところは珍しくありません。

選挙制や選抜制に慣れ切った者にはいささか不真面目に思えますが、なぜくじ引きなのかと問えば、23世紀人はそれが一番民主的で公平だからと答えます。

たしかに選挙は周知のとおり、究極的にはカネの力で決まりますし、選抜制ではコネが物を言います。それはしばしば人事の敗者に強い不満や怨恨の情すら起こさせるでしょう。

人事を偶然性に委ねるならば、誰からも不満が出ず、たしかに公平です。このようにくじ引きで要職者を選ぶというやり方は、古代ギリシャの都市国家アテネで見られたことですが、23世紀にはこうしたアテネ的発想が再発見されているのです。

ですが、何でもくじ引きでは適性・能力に疑問のある者が偶然に選ばれてしまうことはないのでしょうか。アテネには横暴な独裁者(僭主)となる恐れのある者は事前に投票で排除する制度(陶片追放)がありました。 

この点、現代の民衆会議代議員の場合は、代議員試験に合格し、代議員免許を保有する有権者にしか抽選応募資格を認めないことで、適性・能力を担保しようとしています。またその他の団体の役職の場合も、それぞれ内規で抽選の応募資格要件を絞ることが通例ですので、とんでもない人物が偶然にくじで選ばれる心配はないようです。

この点、21世紀的発想では選挙制にせよ選抜制にせよ、優れた人材を登用するとの名目で人為的な要素に偏向し、偶然という要素を軽視したため、かえって公平性を失し、有為の人物を市井に埋もれさせてしまう結果となっていました。

そうした反省をも踏まえ、23世紀には試験などで保証された人為的な資格要件にくじ引きという偶然性の要素を加味して公平性を確保しようという微妙なバランスの思想―中庸―が行き渡っていると言えるでしょう。
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by komunisto | 2013-11-04 10:10 | 思考
2213年10月5日

私が旧世界にいた21世紀初頭は、人間の思考が利潤中心に回っていました。要するに金儲けです。常に経済効果とかビジネスチャンスとか「金になるかどうか」という打算が先行しますから、環境保護などは二の次、三の次です。

その前の20世紀には、そうした利潤中心の資本主義的思考に対抗して、社会主義や共産主義などの思潮も普及しましたが、同世紀末に起きた資本主義革命―共産主義の総本山と目されたソ連とその同盟諸国で発生した連続的な体制転換―がそうした思潮をほぼ消し去ってしまったのです。

200年飛んで23世紀の現在は、資本主義一色から共産主義一色に変わっています。ぶれが少し極端な気もしますが、資本主義一色の時代を20世紀末から100年近くも経験してみて、人類が到達した結論です。金儲け優先では、生活や環境―つまりは命に関わる事柄―が害されるという事実にやっと気がついたのです。

利潤中心の思考をしていた頃、人間は貨幣の奴隷と化していました。かれらは自らが作り出した大変便利に見えた貨幣価値という観念に隷従してしまっていたのですが、その代償は頻発する経済危機による生活不安ばかりか、地球そのもののが持続しない危機を招くというものでした。

現在の人類の思考は利潤という狭い了見を抜け出し、福利を中心に回ります。「儲かるかどうか」ではなく、「暮らせるかどうか」です。

かつて貨幣経済だった頃は、暮らすためにも金が必要ということから、「暮らせるかどうか」も結局は「稼げるかどうか」ということに帰着していたのですが、脱貨幣経済の今、「暮らせるかどうか」は「生きていけるかどうか」ということに帰着しますから、地球環境の保全も第一の根本課題となるのです。

とはいえ、人間の思考は時代によってかなり大きくぶれるもののようですから、福利中心の思考がいつまで続くかはわかりません。実際、資本主義への回帰を訴える運動も存在するのです。これについては、次回ご報告しましょう。
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by komunisto | 2013-10-05 09:49 | 思考
2213年6月22日

前回、未来社会は一見旧社会と大差のない既視的ユートピアだと書きました。しかし、旧社会と決定的に違う点がひとつあります。それは理想と現実の関係です。

旧社会では理想と現実は対立概念でした。しかも、現実の前に理想を断念することは現実を維持するための必要事でした。そのため理想を追求するすべての思潮が最終的には現実との妥協・後退を強いられたのです。個人の人生観の面でも、理想の夢を追求する「夢追い派」は同情されつつ揶揄されていました。

要するに、旧世界では理想主義は現実主義に常に圧倒されていたのです。そのため、ユートピア的社会実験はすべて挫折しました。

これに対して、未来社会では理想と現実が統一されています。理想が現実の中で実現されているからです。現実的なものはそのまま理想的なものでもあります。今や辞書的にも理想と現実は同義語とされています(理想のほうが「未実現」という意味合いを含む点で、なお若干のニュアンスの違いは残されていますが)。

旧世界では―資本主義か社会主義か、はたまたその他の何主義かを問わず―、貨幣交換システムがあらゆる理想の妨げとなっていたのでした。理想の実現に必要な貨幣の蓄積がなければ、理想も意味を失うからです。貨幣の廃止はこうした「現実」という名の物質的な壁を撤去したのです。

個人の人生観の面でも、貨幣の廃止は各自の夢の追求を大幅に可能にしました。もはや現実的に生活するために夢を諦める必要はないのです。理想の夢を追求することは、即ち理想が実現される現実を生きることにほかならないからです。

その結果、就職の意味も大きく変化しています。この未来社会の就職状況という未だ旧社会で生きるすべての人にとって関心を引くであろう問題については次回、報告します。
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by komunisto | 2013-06-22 10:44 | 思考