カテゴリ:社会( 36 )

2216年10月27日

前回ご報告した司法大革命は、警察制度の大改革ともセットになっています。以前の記事で、警察制度の廃止が世界的なモードであることをご報告しましたが、ついに日本でも実現したのです。このことは、もちろん犯罪を野放しにすることを意味しておりません。

まず犯罪捜査に関しては、各地方圏ごとに置かれる捜査局という捜査機関が担当します。これは従来の警察の捜査部門だけを取り出し、階級や制服を持たない捜査専門組織として再編したものです。従って、その機能は従来の警察の捜査部門と大差ありません。

一方、交通取締は専門性が高いため、地方圏交通警邏局(交警局)が担当します。これは従来の警察の交通部門を取り出したようなもので、上記捜査局とは全く別組織です。警察のような階級はありませんが、制服があります。

地域の防犯・警備活動及び現行犯逮捕などの緊急執行は、従来から交番を運営してきた社会安全連絡会の下に組織される警防団が担当します。警防団は消防団の警察版のようなもので、市町村ごとに結成される非常勤の団員から成る一種のボランティア組織ですが、団員は法執行官としての権限を与えられています。

警防団は地域の警察署及び交番に相当するようなものですが、犯罪捜査及び交通取締には関与しません。従って、警防団が現行犯逮捕した被疑者はいったん捜査局または交警局に引き渡され、本格的な捜査が行なわれます。

こうして長く人々が馴染じみ、空気のように当たり前だった警察という制度も終焉したのです。そちら21世紀ならば、まだ常識を大きく踏み越えるこの改革も、貨幣経済が廃された共産主義社会下での劇的な治安向上を背景としていることは言うまでもありません。
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by komunisto | 2016-10-27 12:10 | 社会
2216年7月8日

21世紀にいた頃、苦手だったものに、ルルルルという電話の呼出音や家電関係のピーといったお知らせ音がありました。気にしない人は全然気にならないらしいのですが、私の場合、突然ルルルル、ピーと鳴ると心臓もドキュンと鳴り、心臓に悪いと思っていました。

なぜ、それほどあの種の機械音が苦手だったか思い出してみますと、音楽性がまるでないただの機械音の無機質性が私の繊細な?神経を逆なでしていたようです。その点、携帯電話の着信メロディーは進歩的でした。

一方、23世紀に飛んできてみると、無機質な機械音は一掃され、電話の呼出音などもみんなオルゴールによるメロディー化されており、しかも自分で好きなメロディーを選択できるようになっているのです。

全般に23世紀の社会で、オルゴール音は実にいろいろな場面で使われています。ただし、駅などの公共施設は別です。これは、以前のたよりでもご報告したように、「囚われの聴衆」論により、強制的に音楽を聴かせることは禁止されているからです。

ちなみに、21世紀の頃、鉄道駅の発車ベルをメロディー化することが流行っていましたが、23世紀の鉄道駅にはそもそも発車ベル自体存在しません。大きなターミナル駅などでも、自動案内放送で列車の間もない発車を知らせるだけで、音無しです。

オルゴールの使用は、あくまでも個人に対する何らかの通知・警報などの場面に限られているのですが、それにしてもそうした場面はかなり多いので、23世紀にはオルゴールが溢れているように思えます。

溢るるオルゴールは23世紀の世界的な傾向なのですが、オルゴールには人間の脳に働きかけて、心を落ち着かせる療法的な効果もあることが広く認識され、いろいろな場面で使われるようになったようです。実際、オルゴールなら私の心臓ドキュンも回避でき、安心です。
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by komunisto | 2016-07-08 10:28 | 社会
2216年6月5日

これまでの通信でたびたびご報告してきたように、23世紀は貨幣のない社会です。あらゆる物やサービスがすべて計画的に無償で供給される社会。このような社会に住む人間たちは、21世紀までの貨幣社会の人間たちとはどう違うでしょうか。

表面上は同じ人類ですが、その性格や思考行動様式にはかなり違いが見られます。23世紀人は貨幣というものを知らないため、損得計算をしません。かれらは損得よりも、要否で行動します。つまりある行動が必要か、不要かです。

その結果として、必要だけれど損になるとか、得にならないといった理由である行動をしないという意思決定には至らず、必要な行動なら何でもするようになります。

また当然にも仕事の報酬として金銭を受け取ることはあり得ないため、無償で仕事をすることに抵抗感がありません。ですから、23世紀人はある意味でばか正直なほど勤勉に見えることもあります。

さらに、あらゆる事業が金儲けを目的としない共産主義社会であるため、金銭的な利欲と絡んだ利己主義的な思考行動様式が見られません。自分と自分が所属する組織の利益しか考慮しないという利己主義傾向はなく、人々はごく自然に無償で助け合うことができます。

その結果、医療や福祉の分野では原点である人道性が回復されているばかりか、工場労働のような分野ですら、無償で社会的な生産活動に従事することが普通に実現されているのです。利他主義という言葉を使わなくとも、利他主義的です。

貨幣というある種の麻薬を完全に抜いてしまったことで、人類はその性格まで変化したようなのです。総じて―残念な例外もありますが―23世紀人は親切で、他人への暖かな関心が高いと感じます。これも損得計算をしないこと、利他主義的であることから生まれる性格なのかもしれません。

翻って、貨幣経済がその最高度の形態に達しているそちら21世紀の状況はどうでしょうか。あまり悪くは言いたくないのですが、少なくとも、私が21世紀世界にいた最期の頃の人間像は23世紀人とは好対照だったと記憶しています。

さて、当ブログは現実暦2013年(未来暦2213年)6月にタイトルを変更して以来、次第に更新ペースを落としながらも、定期通信をしてまいりましたが、管理人(筆者)のよんどころなき事情により、今月より不定期通信に変わります。従前よりもペースはさらに落ちるでしょうが、ぼちぼちと23世紀社会の様子をご報告していきたいと存じます。
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by komunisto | 2016-06-05 11:14 | 社会
2216年4月30日

そちら21世紀の社会では、災害ボランティアという社会奉仕活動が定着していて、大災害のつど、災害ボランティアが被災地に入って瓦礫処理などに従事しているでしょう。立派なことと思いますが、中には自己満足的な「迷惑ボランティア」も混じっているとか。

もちろん、多くは真摯な気持ちから参加をされていると思いますが、そうなると、まだ災害が終息していない段階で被災地入りして瓦礫処理などの危険を伴う作業に従事する善意の人たちを、「自己責任」の名のもとに使役してよいのだろうかという疑問も沸きます。

23世紀からあえて過去に口出しをさせていただくなら、災害ボランティアは一定の講習を受けて認定された人に限り、そういう「認定ボランティア」の作業中の死傷や重篤な後遺症などは公務災害に準じた補償対象とすべきではないか、と思われるのですが。

その点、23世紀の災害ボランティアは以前ご報告した建設作業隊(建設事業団)の任務として明確に位置づけられています。かれらの主要任務は建物の建設ですが、解体も担い、震災瓦礫処理などもその延長的な任務とされます。

以前のたよりでも触れたように、建設作業隊員は建設学校で養成された技術者であり、単なる善意のボランティアではないのですが、23世紀には他のすべての職業と同様、無償ですから、ある意味では「ボランティア」と言えましょう。

しかし、身分としては地方圏(道)公務員であり、その主力は常勤職ですが、日頃は別の職業に就いていて、必要に応じて招集される予備作業隊員も存在しており、災害時にはこの予備隊員も動員されるようです。

建設事業団はこのように公的組織ですので、どこにどのくらいの作業隊員を投入するかも計画的に決定されるため、21世紀の災害ボランティアのように志願者が必要以上に殺到したり、被災地のニーズに合わなくなったりする混乱はないのです。

ただし、貨幣経済ではないので、公務災害補償のような金銭補償の制度はありません。仮に死傷しても、それによって遺族や本人の生活が破綻する心配はないからです。非貨幣経済の長所はこんなところにも活きてきます。

もっとも、23世紀の日本列島は小康的な地殻安定期に入っているようで、記録的な大震災はこれまでのところ起きておらず、建設作業隊の大活躍を目にする機会にはまだ恵まれていません。もちろん、そんな機会に恵まれる不幸が起きないことを願っていますが。
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by komunisto | 2016-04-30 10:04 | 社会
2216年3月12日

前々回のたより『23世紀の親子関係』が反響を呼び、その中で触れた「子ども養育官」について21世紀の読者から問い合わせが寄せられましたので、その概要を調べてみました。そのご報告です。

まず子ども養育官とは、たよりでも紹介したとおり、子ども館という地域の子ども養育機関に配置される養育の専門官であり、担当地域の基礎教育課程在籍中の17歳までの子ども一人一人に付いて成人するまで家庭外から養育に当たるスタッフです。

子ども館とは、旧児童相談所とは異なり、福祉機関ではなく、市町村が設置する養育機関です。私を含む旧世界の者にはなかなかイメージが沸かないのですが、23世紀は「子どもは社会が育てる」が基本ですから、その理念を生かす最前線がこうした子ども館であり、子ども養育官なのです。

養育官は教員ではなく、全員児童保護士の有資格者ですが、そのうえに養育官としての特別研修を受けた上位有資格者です。かれらは原則として転任することはなく、担当する子どもについては成人するまで一貫して担当します。

一人の養育官が担当する子どもの数は地域により異なりますが、最大限度20人と定められています。そのため、その数は教員よりも多いようです。それだけの数の養育官をよく養成・配置できるものだと思いますが、貨幣経済廃止により自治体も財政的制約を気にする必要がないのです。

養育官の仕事は「第二の親」とも呼ばれるように、本来の親権者とともに、家庭の外から担当する子どもを養育していくことで、担当する子どもとの定期的な面談と随時の相談、時には親権者や学校からの相談も受けます。

これはいわゆる「子育て支援」のような側面サポートとは全く異なり、まさしく「養育」の一貫であるということが特筆されます。ですから、養育官は単に子どもや親から相談に乗るだけではなく、担当する子どもの「メンター」として直接に養育するのです。比喩的に言えば、親と教師の中間のようものでしょうか。

こうした養育官の養育は原則として成人年齢である18歳で終了しますが、必要に応じて、また本人の申し出により、21歳まで延長することができます。実際、正式には養育終了した後も、養育官との関わりが事実上続くケースは珍しくないようです。

ただ、養育に「官」が直接関与することに不安が感じられないこともないのですが、以前のたより『奉仕する公務員』でもご報告したように、23世紀の「官」はかつての「役人」とか「官僚」のイメージとは似て非なるものなのです。

実際、現実の子ども養育官について言えば、私がお会いした近所の子ども館に在籍する方たちは皆、旧世界人が持つ「官」のイメージとは程遠い、ごく普通の市民のような方たちばかりでありました。
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by komunisto | 2016-03-12 11:35 | 社会
2216年2月27日

23世紀の親子関係は、驚くほど希薄、というよりあっさりしています。現在「子どもは社会が育てる」という理念が定着しているため、子どもは親以上に社会の宝なのです。ですから、子どもは早くから自立していきます。

まず保育が義務化されており、親が働いているか否かを問わず、満1歳から保育所に預けられます(0歳児保育は任意)。従って保育所はもはや託児所ではなく、準教育施設として位置づけられています。

保育所を「卒業」後は、地域に設置された子ども館という施設に子ども養育官が配置され、ひとりひとりの親代わりとなります。両親がそろっている子でも同様です。

さらに、8歳から15歳までの子どもは全員が地域少年団に所属し(上掲子ども館が所管)、週末には団の野外活動に出かけることがあります。地域の子どもたちは擬制的なきょうだい関係とみなされているのです。

成人年齢は現在18歳に引き下がっていますが、成人したら子どもは親の家を出るのが通例であるため、公営住宅には独立したばかりの若年成人専用の住居が用意されています。言わば「独立デビュー」制度です。

独立後も親子の縁が切れるわけではないですが、親が成人した子を送り出した後は、お互い他人同士と割り切って、よほどのことがない限り行き来もしないことは珍しくないようです。

旧世界人からすると、これでは親の無責任を助長するようにも思えますが、むしろ昔、皇族・公家・大名などの貴種階級では、子どもは両親ではなく、乳母など傅育専門官が養育したのと似ているような気がします。現在ではすべての子どもが社会によって養育されるのです。

もちろん親も産み捨てが許されるわけではなく、子どもの「製造元」としての責任はありますが、それはあくまでも社会による養育に協力する―少なくとも虐待や放置のような社会の養育を邪魔するような振る舞いはしない―義務にすぎないのです。

考えてみると、このようなあっさりとした親子関係は、ドロドロとした親子密着関係よりも生物学的に合理的かつ健全のようで、23世紀には近代的核家族関係にありがちな家族病理的な精神疾患が少ないと言われています。
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by komunisto | 2016-02-27 09:23 | 社会
2216年1月30日

23世紀に飛んできて、助かったことはいろいろありますが、押印という慣習が消滅していることはその一つです。23世紀の日本人の多くは、ハンコ(判子)という単語をご存知ありません。

ハンコ慣習の廃絶で私が助かるのは、押印が苦手だったからです。まっすぐ綺麗に押印できず、印章の鮮明さが要求される文書の場合、恥ずかしながらしょっちゅう突き返されていたのでした。

私が旧世界にいた最後の頃、すなわち21世紀初頭の時代には次第に押印慣習が廃れ始め、押印省略・サインのみで可という場面が増えていましたし、サインも電子サインの導入が始まっていました。ですので、23世紀の押印廃絶はそうした証明行為の現代化の延長上のことと考えられます。

23世紀の証明はサインのみですが、直筆ではなく、電子サインです。指ではなく、電子サインペンを使って画面に署名します。私の記憶では21世紀初頭ではまだ電子サインシステムが導入されていなかった郵便局の配達でも、現在は配達員が電子サインに対応する端末を携帯しています。

ただし、例外があります。一つは公印と呼ばれる公的機関や企業体の言わばハンコです。これは、組織ごと個別に所持され、組織発行の正式な文書には必ず押印されます。この限りではハンコの制度が残されているわけですが、これは個人のハンコとは異なる組織のお印です。

もう一つの例外は、例えば法廷に提出される可能性のある文書のように、高度な証拠価値を要求される文書については、作成者の指紋を押すことが義務付けられていることです。これを「押紋」と呼びます。押紋の手続きは通常、証拠提出時に裁判所などの司法機関で行なわれます。

ここまで来ると、ハンコのほうがまだましのようにも思えてくるのですが、23世紀の人たちは存外平気のようです。おそらく個人情報保護のレベルが極めて高いことによる安心感なのでしょう。
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by komunisto | 2016-01-30 11:44 | 社会
2216年1月9日

23世紀の世界では、これまでにもご報告してきたように、様々な事物が革新されていますが、200年前と比べてあまり進化していないように見えるのが、自動車でしょうか。

旧世界にいた頃、未来社会を描いたイラストやSF映画にも出てきた空中浮揚自動車に憧れたことがあり、200年後の23世紀世界では見られるかと期待したのですが、やはりあのような技術は実用化されていませんでした。

私がいた21世紀初頭にはまだ試作段階で、将来の普及が想定されていた「自動」自動車も普及していないどころか、自家用車については道交法で自動運転が禁止されています。この点は、電車が原則自動運転化されていること(過去記事参照)と比較して対照的です。

「自動」自動車は交通事故減少に寄与すると言われていましたが、検証の結果、電車のように定められた軌道上を走行しない自動車ではオール自動化は困難であるところ、運転者の手動運転の経験が不足することでかえって手動運転時の危険が高まることや、システム不具合への対処が素人の運転者では困難であることが考慮されたそうです。

一方で、長距離バスのような公共交通に投入される大型車は自動運転システムが導入されているのですが、この場合も訓練された職業運転手が必ず乗務し、必要に応じて手動運転への切り替えがいつでも実行できるように備えられています。

こういうわけで、自動車は以前のたよりでご報告した水素自動車の普及以外、特に大きな革新は見られず、外見上は旧世界と変わりありません。

しかも、これも以前のたよりでご報告したように、23世紀は車社会ではないので、自動車の台数が大幅に減少していて、自動車という乗り物自体、旧世界の産物とみなされているのです。
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by komunisto | 2016-01-09 12:47 | 社会
2215年12月15日

23世紀には様々な分野で職人的な生産様式が復活していることは、これまでにもいくつかの記事でご報告してきましたが、今回は職人の養成についてです。

23世紀の職人は「徒弟的資格制」と呼ばれる仕組みで養成されています。すなわち、23世紀の各種職人も20世紀以降に確立された近代的な資格制度によって最終的な資格認証がなされるのですが、単に形式的な資格だけに依存するのではなく、養成の過程では近代以前の徒弟制的な仕組みが復活しているのです。

例えば、前回ご紹介した「整容師」のような職人は、所定の専門学校を修了した後、まず業界から師範認定された職人が経営する修練施設で5年以上徒弟として訓練を受け、最終的な技能試験に合格しなければ、職人として業務に従事することができないとされています。

さらに、その業務に切れ目なく継続して10年以上従事し、業界が認定する研修を受けて初めて師範資格が得られ、徒弟を持つことができるようになります。

他の職人的な業種も同様のプロセスによって養成されるため、「徒弟的資格制」と総称されます。この制度は、実質的な技能の習得には効果的だった封建的な徒弟制と、公的な資格認定によってその技能を客観的に証明できる近代的な資格制度とを融合したものと言えるでしょう。

それによって、徒弟制が持つ身分制的な隷属的要素を除去しつつ、資格制が陥りがちなペーパー資格化、気概を欠いた「精神なき専門人」の弊害を克服することに目的があると考えられています。

この厳正な養成制度のおかげで、たしかに23世紀の各種職人は社会的な信頼性が高く、また職人は社会的に敬意を持たれる人気職種ともなっているのです。
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by komunisto | 2015-12-15 09:03 | 社会
2215年10月10日

23世紀の社会に住むようになってしばらくすると、近所で母子家庭が多いように見受けられたのですが、意外なことがわかりました。それは、精子バンクの幅広い普及により、初めからの母子家庭が多いことです。

23世紀の精子バンクは完全に公的な制度として確立されており、不妊症等の問題の有無を問わず、誰でも利用することができるオープンな制度となっています。これにより、実子の出産を望む女性には、パートナーシップを結んで子を生むか、精子バンクを通して子を生むかという二つの選択肢が保障されることになります。

毎年出産する女性の30パーセント近くが精子バンクを利用しているとのことで、母子家庭が多いのも首肯できます。「未婚の母」は決して珍しくも、後ろめたくもないのです。精子バンクの利用率は年々上昇傾向にあるとのことで、将来的には精子バンクを通じて生まれる子どもが半数を超えるとの予測もあります。

精子バンクの仕組みとして、以前は将来、子どもが遺伝上の父親を知る権利に答えるべく、精子提供者は原則として実名で登録しなければならなかったそうなのですが、それでは提供者が限られてしまうということから、実名を明かすかどうかを提供時点で選択できるようになりました。

ただし、匿名の場合でも、年齢(上限は45歳)や職業、出身領域圏などの部分情報は登録し、バンク利用者及び将来の子どもに開示される必要があり、完全な情報秘匿は認められていません。

ちなみに、利用者の中には精子提供者の容姿や人種を知りたい人もいるでしょうが、それを認めると容姿や人種による差別を助長する恐れがあるため、そうした差別につながる情報―差別誘発性情報―については、開示されないことになっています。

21世紀以前の旧人類的感覚からすると、精子バンクを当たり前のように利用する風潮には違和感を覚えるかもしれませんが、これまでにもご紹介してきたように、婚姻という制度が廃止された23世紀の人々にとって両親+子どもという家族構成は決して絶対のものではないようです。

実際、同じ母子家庭でも「離婚」―現行制度ではパートナーシップ解消―という子どもにとってもしばしば辛い過程を経て母子家庭化するよりも、初めから母子家庭のほうがすっきりするという見方もできそうです。

もっとも、精子バンクで生まれたことを知った子ども―知らせることは義務ではありません―がそれをどう受け止めるかは気になるところですが、同じ「仲間」が大勢いることを知れば、衝撃は少ないのかもしれません。
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by komunisto | 2015-10-10 08:16 | 社会