カテゴリ:社会( 36 )

2214年6月13日

23世紀人は全般に儀礼的な事柄に関心が薄いので、儀式の類を極力省略しようとする傾向があります。そのため、冠婚葬祭のあり方も200年前とは大きく変化してきています。

例えば、結婚式。前にも報告したように、結婚という制度自体廃止され、すべて登録パートナーシップに置き換わっていますから、「結婚式」なるものも存在せず、特別な儀式はしない人が多いようです。

ただ、人によっては親族や親友を招いて簡単な披露フェスト(パーティーのエスペラント語)を開くことはあるようです。しかし、これとて昔の「披露宴」ほど派手なものではありません。

ちなみに、かつての「ブライダル産業」も存在しません。結婚式場という専用ホールもありませんし、特別仕立ての結婚衣装的なものもありません。披露フェストもカジュアルな服装で行われます。

一方、葬儀についても、葬儀を専門に手がける葬儀屋は存在しません。一般に人が死亡した場合、居住する市町村に届出が必要な点は変わりませんが、そうすると市町村葬祭事務所が遺体の移送・火葬までやってくれます。

葬儀に関しては、家族親族だけで済ませる近親葬が多いですが、葬儀を希望する場合は市町村営の葬儀所を利用します。しかし多くの場合、火葬した後の告別式的な葬儀で、通夜のような前葬はしないのが一般です。

23世紀とやや異なるのは、子どもが誕生したときにも披露フェストをする習慣が見られることです。もちろんこれも派手なものではなく、身内や親友を招くだけの簡素なものです。 

ちなみに、出生届または死亡届を出すと、首長に相当する市町村民衆会議議長名で祝意状または弔意状が渡されます。民衆会議というだけあって、住民の生死は大切に扱われるようです。
[PR]
by komunisto | 2014-06-13 10:04 | 社会
2214年4月29日

23世紀の世界で感銘を受けることは、性的少数者の権利が完全に保障されていることです。21世紀にはLGBTと言われていましたが、そんな用語も不要なほど、性的少数者はごく当たり前の存在です。

例えば、かつてはほぼあり得なかった職場や学校での同性恋愛やその結果としての同性パートナーシップもごく普通で、それを奇異に思う人はいません(前にも報告したとおり、現在婚姻制度はすべて公証パートナーシップ制に変わっていますから、同性婚とは呼ばれません)。

各界でも同性愛を公言する人や性別転換した人が普通に活躍し、そのことがあたかもスキャンダルのように騒がれることはありませんし、女装のおネエさんタレントたちが好奇の脚光を浴びるということもありません。

政治の世界でも、かつてほとんど見られなかった同性愛の自治体首長相当職(民衆会議議長)は今や珍しくないのです。海外ではすでに何人も出ていますが、いずれ日本でも性的少数者の元首相当職(中央民衆会議議長)が輩出するでしょう。

社会の性意識の革命的な変化には本当にめざましいものがあり、23世紀はLGBT天国と言ってよいものがあります。今や、憲法にも性的指向による差別禁止が明記されていることも、そうした変化の現われです。

これは日本だけのことではありません。かつて宗教上の理由から反同性愛の風潮が最も強かったイスラーム圏ですら、状況は変わっており、同性パートナーシップももはやタブーではありませんし、それを禁ずることは世界共同体憲章にも反します。

こうした変革の要因は、やはり地球全体が共産化されたことで、宗教倫理的な縛りから人類総体が解放されたこと、人を排除する衝動よりも、共に在ることへの希求が強くなったことの結果と考えられます。
[PR]
by komunisto | 2014-04-29 11:58 | 社会
2214年3月31日

昨年6月より「未来社会ブログ」に衣替えして初めての4月を目前に控えています。21世紀の日本では、いまだ4月から新年度という基準が残されていることでしょう。 

そのため、前月の3月は締めくくりの季節ということになる一方、入学や就職の夢破れてか自ら人生を締めくくってしまう人も多く、公式に「自殺対策強化月間」に指定されていたものです。

23世紀の現在、こうした「4月基準社会」はもはや過去のものです。基礎教育の学校関係は9月入学が基本となっていますから、学期も9月基準で組まれており、4月は単に季節の変わり目の通過点でしかありません。

就職に関しては、高等教育としての大学制度が廃止され、生涯教育制度に移行して以降、そもそも「新卒一斉採用」の習慣が消滅したため、官民問わず随時募集・採用が基本です。 

人事の入替えなど業務年度については、現在では単純に1月基準となっていますから、1月期から新年度が始まることになり、4月は特段の意味を持たず、やはり通過点の一つです。

こうして、4月が新年度の開始月でなくなると、3月にも締めくくりの意味は特になく、それは冬が終わって春の始まりを報せるという自然の周期の一つでしかなくなります。

こうして200年後、4月がもはや社会運営の基準季としての意味を失ったのは、世界共同体の創設により、各領域圏の社会運営にも世界標準が適用されるようになったことによるようです。

とはいえ、社会慣習的には日本領域圏の4月には一区切りのリセットの季節という意義はなお残されており、3月から始まる恒例のお花見行楽も盛んに行われています。
[PR]
by komunisto | 2014-03-31 10:47 | 社会
2214年3月15日

23世紀の社会には透明感があります。その要因を21世紀までとの比較で考えてみると、一つには金銭的な癒着構造の廃絶があリ、もう一つには情報公開制度の発達があると思われます。

貨幣経済下では金銭的な癒着関係のネットワークが社会全体に張り巡らされ、いわゆる政財官の利権トライアングルの形成により、民衆の目の届かない裏側で一体何が行われているのかわからない不透明性の要因となっていました。それは情報公開制度の不十分さともつながっていたでしょう。 

貨幣経済が廃止された現在、こうした金銭的な癒着の構造は解体され、民衆会議で決定される政策にも表裏はありません。政策決定プロセスも公明正大に公開され、バックルームの談合で決められてしまうようなことはないのです。

他方、第二の情報公開制度ですが、これは21世紀当時も理念としては謳われ、関連法規も存在していたものの、一方では外交・軍事分野を中心に厳罰で担保された国家秘密の壁があり、一般行政情報の公開度も秘密主義の風潮が強かった日本では不十分なままでした。

23世紀現在、そもそも軍が世界中で廃止され、外交も、すでに報告したように、世界共同体内の調整的な協商の問題に移り、そもそも秘密の発生する余地がなくなりました。官庁という行政制度も消滅し、代表機関である民衆会議が行政も担う体制が確立されたことで、秘密主義も一掃されています。

情報公開は当然の常識で、それは企業体の情報開示にも及んでいますから、私的な性格の強い企業―自主管理企業と呼ばれます―であっても、企業登記所のオンライン・システムで詳細な企業情報をいつでも閲覧できます。

この点、資本主義的な技術開発競争もないことから、いわゆる企業秘密も存在せず、むしろ新技術は特許化されず世界的に共有されるため、秘密ではなく、開発企業は世界科学技術機関への新技術の開示・登録が義務づけられているほどです。

こうして、23世紀社会の透明感は、やはり貨幣と国家の廃止という二つの革命的な成果から生まれていることが見て取れます。逆に言えば、貨幣と国家の結合が不透明感の源泉だったのです。
[PR]
by komunisto | 2014-03-15 08:50 | 社会
2214年2月19日

2014年2月の日本では、記録的な東日本豪雪被害で一大事となっているようですね。特に深刻なのは、道路の積雪の影響で、食料の流通が麻痺することでしょう。23世紀現在、こうした問題は公共災害備蓄制度によって解決されています。

公共災害備蓄制度とは、予め生産企業に対し、災害に備えた物資の製造を義務づけ、市町村の地区ごとに常備し、災害時に被災者に供出・配給するというものです。これは企業や自治体の自主性に委ねられた対策ではなく、全土的に法律で義務づけられた公共的な制度なのです。 

ちなみに、災害時には乳幼児向けのミルクやおむつ、病者・高齢者向けの薬品・療養食、おむつ等の配給も不可欠ですが、これらも公共災害備蓄制度でカバーされます。

災害に備えたこうした余剰生産体制は、計画経済の一環となっています。環境に配慮された計画経済が世界規模で確立されている23世紀現在、21世紀に見られたような極端な異常気象は終息していますが、地震、台風、大雪など避けられない災害は起きており、そうした時にこの制度が効果を発揮しています。

災害時の交通途絶は物資の配給をも困難にしがちです。21世紀には大規模災害の救援は自衛隊の出動に頼りがちでしたが、救難は国防部隊である自衛隊の本務ではなく、災害救難に専従できるわけではありませんでした。

現在、こうした場合こそ以前報告した地方圏(道)所属災害救難隊の出番です。この部隊はまさに災害救難に特化していますから、市町村の要請があれば直ちに出動し、物資配給にも従事でき、欠乏状態が早期に解消されます。

資本主義時代、平常時の流通は円滑で、物不足になるようなことはまずありませんでしたが、災害のような非常時になると、自由流通経済は途端に弱みを発揮します。こうした非常時の強みは、計画経済のほうにあると言えるのではないでしょうか。
[PR]
by komunisto | 2014-02-19 09:26 | 社会
2214年2月15日

日本の代名詞のようにもなっていた交番は23世紀の今でも健在ですが、制度には大きな変化があります。かつての交番はれっきとした警察組織の一部でしたが、現在の交番はある意味で「民営」なのです。

すなわち現在の交番は、市町村ごとに組織された社会安全連絡会(社安連)という防犯市民組織が運営しており、交番に詰めているのは警察官ではなく、防犯員と呼ばれる民間人です。

防犯員は先の社安連に雇用された職員で、民間のガードマンと似ていますが、ガードマンよりは公的な性格が強く、広い範囲で防犯警邏活動を行います。

従って、防犯員は警察官としての権限を持たず、制服も別で、拳銃も所持しません。時に現行犯を逮捕することはあるようですが、事件に際しては警察に通報したうえ、現場で警察官を補助するのが本務です。

かくして「交番のお巡りさん」というお馴染みの警察官の姿はもう見えず、パトロール警官もいかつい警備警察の一員となり、警察は身近な存在ではなくなっています。ただ、何度か指摘したとおり、犯罪は極めて少ないため、警察官の数も比較的少なくて済み、「小さな警察」となっています。

ちなみに、社安連という組織は交番を基礎とした地域防犯活動のほか、保護観察中ないし社会復帰した犯行者の更生保護、さらには公安監視などのアンダーカバーな任務も持つ総合的な防犯組織となっています。

このように治安に関わる業務が「民営化」されているというのは、私のような旧世界から来た人間にはなかなか想定し難いことではありますが、市民主導の23世紀社会の特質をよく示しているように思われます。
[PR]
by komunisto | 2014-02-15 10:37 | 社会
2213年12月25日

今日はクリスマスですが、21世紀日本ではイブも含めて平日の扱いでした。23世紀には、クリスマスは公式の休日です。具体的には、イブの24日から元旦をはさんで1月6日まで14連休という冬の大型連休が設定されているのです。

現在、かつてのような単独の「祝日」という制度がなくなった代わり、春夏秋冬の四季ごとに公式の連休が法律で定められています。冬を含めて通算すると、年間50日を超える公休日があることになります。  

まず春の大型連休は、旧春分の日から3月末日までの10日余り(期間不定)となっています。ちなみに、いわゆるゴールデンウィークは廃止されていますが、5月に職場独自の連休を設ける慣習が残されています。

夏はいわゆるお盆休みにとどまらず、まさに「夏季休暇」であって、8月12日から31日にかけて20日間に及ぶ最大の大型連休です。秋は旧体育の日の10月10日から19日までの10日間となります。

他方で、週休2日の慣習は廃れ、土曜日も平常の扱いですが、公休日以外に各職場では設立記念日などを独自の休日に指定している例が多く、こうした私休日を加えれば、毎週日曜日に加えて年間60日以上の休日がある計算になります。

しかも、前に報告したとおり、一部の特殊職域を除き、4時間労働制(半日労働制)が基本なのですから、毎日の半分は休暇も同然。21世紀人からすれば、これではあまりに休み過ぎでは?と思えるほどでしょう。

このように休暇の多い社会となっているのは、休息の権利が憲法上明記されているためです。結果、毎年多数の過労死を出し、悪名高かった「働き蜂」社会はもはや昔話です。

しかし、23世紀社会は決して「怠け蜂」社会ではありません。むしろ生産性は21世紀よりも向上しています。十分な休息が生産性を上げることは労働科学的にも実証済みです。長時間働くほど成果が上がるというのは、神話であったのです。
[PR]
by komunisto | 2013-12-25 10:36 | 社会
2213年12月1日

23世紀の情景は、何気なく見ると200年前と大差ないのですが、仔細に見れば相違点があります。その相違の一つに、超高層建築物の消失があります。

東京でもかつて「都心」とか「副都心」と呼ばれた超高層ビル街は消えてなくなっているのです。理由は、今や全土的に適用される景観保護法という法律が存在し、高さ60メートルから100メートルの範囲内で、各市町村に地区ごとの景観に応じた建築物の高さ制限を義務づけているからです。

ということは、原則として100メートルを超える建築物はもはや日本に一つもないことになります。今、日本で一番高い建築物は、東京湾岸に建てられた展望台です。これは景観制限の例外扱いですが、それでも200年前に日本一の高さを誇ったスカイツリーより低い約400メートルにすぎません。

ちなみにスカイツリーはもう120年近くも前に取り壊され、跡地と周辺は植生豊かな緑地公園になっています。付近の住民もここに昔超高層タワーがあったらしいという伝説を知る程度です。

住宅に関しては、消防・防災の観点から50メートルを超える高層建築が全土一律に禁止されているため、かつて人気だったタワーマンションも存在しません。階数にすると、マンションはせいぜい12階止まりです。

こうした超高層建築物の消失は世界的な現象となっており、200年前には世界随一の摩天楼都市であったニューヨークですらも、超高層ビルは消失しています。ニューヨークでも高さ制限がかかっているようです。

200年前の超高層ビル街などの写真は今でも残されていますが、23世紀人に感想を聞くと、「無駄」「奇怪」「恐怖」等々のネガティブな答えが多く、あこがれるという人はわずかです。

かつての超高層建築物は資本主義的近代化の象徴でもあったわけですが、資本主義の終焉とともに摩天楼も姿を消したことは必然なのでしょう。 
[PR]
by komunisto | 2013-12-01 13:30 | 社会
2213年11月19日

先日、地元のS市民衆会議(市議会に相当)を傍聴に行ったところ、身体障害者や視覚障碍者の代議員が4人ぐらいいました。旧市議会時代には考えられなかった光景ですが、聞いてみると珍しいことではなく、隣の隣のK市の民衆会議議長(市長に相当)は障碍者だそうです。

国会に相当する中央民衆会議でも障碍者代議員は50人近くいるそうですから、23世紀には障碍者が中央・地方の代表機関にも当たり前のように存在するわけです。世の中には一定数障碍者が存在するのですから、考えてみればまさに当たり前のことです。

世界を見渡しても、障碍者の活躍はめざましく、北欧のように歴史的なバリアフリー先進地では元首に相当する領域圏民衆会議議長にも障碍者が何人も出ています。

街を歩いていても、様々な障碍者によく出会います。一見、障碍者の数そのものが増えたかのように錯覚してしまうのですが、もちろんそうではなく、「社会参加する障碍者の数が増えた」というのが正解です。

それは21世紀と比べて、バリアフリーが大幅に進んだからです。もはやバリアフリーを超えて、そうした言葉も死語となるほどに23世紀世界にとって障碍者の社会参加は普通のことです。

21世紀までは障碍者が健常者規格に適応できるように助けることがバリアフリーでしたが、今や、すべての人のためにバリアをなくすことがバリアフリーであり、そのためバリアフリーという特別な言葉も不要になったのです。実際、公共的な場所に足を踏みはずしかねないような段差がないことは非障碍者にとっても助かることです。

そうした物理的なバリアフリーだけでなく、心理的なバリアフリーも進みました。かつてはバリアフリー云々と言いながらも、やはり障碍者を「欠格者」扱いする心理はどこかに残されており、議会にほとんど障碍者の姿が見かけられなくても不自然とは思わない無意識の差別感覚が自分自身にもありました。

そうした心のバリアも23世紀世界では消滅したようです。その一方では出産前診断による障碍胎児の中絶があっさり定着していることとの整合性が気にかかるのですが、これは死生観にも関わる大きな問題ですので、別の機会に改めて取り上げることにしましょう。
[PR]
by komunisto | 2013-11-19 13:16 | 社会
2213年9月29日

旧社会では官民問わず、また大小にかかわらず、様々な組織体の中で「長」の付く役職が非常に目立ちました。係長・課長・部長などはその典型ですが、事務局長、書記長なども同類です。23世紀の現在、こうした「長」はめっきり減りました。代わりに「責任者」が増えています。例えば、係責任者・課責任者・部(総括)責任者のように。

管理職に付く「長」という接辞は専ら権限の大きさに着目した呼称です。つまり管理職とは権限の大きな職というわけです。それに対して「責任者」は権限より責任の重さに着目した呼称です。管理職とは単に権限が大きいのではなく、責任が重いのです。こうした変化は単に言葉のあやにとどまらず、意識の変化にも現れています。

かつて「長」は「上司」の権威の象徴であり、中には本当に自分は偉いと思い込み、部下に当り散らすような勘違い「長」も見られました。しかし「責任者」は権威より責任の象徴であり、自らが統括する部署の最終責任を負うべき人なのです。権限もそうした責任に裏打ちされたものであって、決して偉いわけではありません。そのため近年は「上司‐部下」という対語もあまり使われなくなっています。

権限より責任となると、旧社会のようにみんながこぞって「長」になりたがる風潮は影を潜め、本当に責任感の強い人だけが「責任者」になるという組織体にとってはプラスの効果も得られます。

ただ、「長」がこの世から消えてしまったわけではありません。本当に「長」と呼ばれるべき各組織体のトップはやはり「長」ですが、およそ未来社会の組織は合議を重んじる民主的な構造になっているため、例えば前回ご報告した電力事業機構のような基幹企業体トップも「社長」ではなく、「経営委員長」ですし、政治の最高機関たる民衆会議のトップでかつての元首や自治体首長に当たるような職も「議長」です。

こうして「長」が少なくなると、組織体のリーダーシップが弱くならないかとご心配かもしれません。しかし、未来社会のリーダーシップとは猿のボスのような一人の強力な個人の指導性ではなく、民主的な合議を通じた集団的指導と理解するのが世界標準です。ある意味で、人類は23世紀の今、ようやく「サルからヒトへ」の進化の長旅を終えたと言えるのかもしれません。
[PR]
by komunisto | 2013-09-29 11:54 | 社会