カテゴリ:世界旅行記( 18 )

2217年10月31日

セルビーオ領域圏〔セルビア〕に入りました。旧ユーゴスラビアを構成した地域では一番大きな領域圏です。21世紀時点との相違は南部のコソーヴォが分離して、現在はアルバニーオ領域圏に編入されていることです。

コソーヴォはそちら2017年時点では国際的に未承認の独立国として存在しているはずですが、元来アルバニア系住民が大半を占める州であり、独立志向が強かったため、現在のセルビーオ領域圏が形成された22世紀初頭頃に正式に分離し、民族的にも近いアルバニーオに編入されることになったのです。

そのコソーヴォでも20世紀末に凄惨な内戦があったように、旧セルビアと言えば、私のような20世紀生まれ旧人類にとっては、ユーゴスラビア内戦時の戦争加害国に立った悪名で記憶されてしまうのですが、あれから200年以上が経った今、戦争の記憶は消え、セルビーオはバルカン半島を代表する平和な領域圏です。

戦争の要因ともなった強烈なナショナリズムのイメージも20世紀人の偏見に近いもので、たしかに今も人口の8割以上がセルビア人ですが、国家が存在せず、国家を前提としたナショナリズムというものが想定できない23世紀人にナショナリズムの風潮は見られません。

代表都市ベオグラードは、ポストモダンな文化街として静かに繁栄しています。同時に、この都市は欧州最古級の都市でもあるそうです。実際、セルビーオにはローマ‐ビザンティン時代の建造物が残されるとともに、中世の城址も多く見られます。

自然に関しては、西部山岳地帯にある鍾乳洞で有名なターラ国立公園があります。ちなみに、鍾乳洞に関しては、東部のライコバ・ペチナも有名です。代表都市ベオグラードで交差するドナウ河とサヴァ河の中洲にも未開発の自然が保存されています。

このように多彩な歴史と自然を持つセルビーオですが、内陸領域圏であるため、海がないのは唯一残念な点でしょうか。ただし、海水浴シーズンは過ぎていますし、海水浴をしない私にはあまり気にはなりませんが。
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2217年10月7日

ハンガリーオから南下してクロアティーオ〔クロアチア〕へ入りました。ここから先は、バルカン半島の領域圏になります。バルカンと言えば、歴史的には戦乱の地で、クロアティーオでも20世紀末に当時のユーゴスラビアから独立するに当たっての内戦がありました。しかし、23世紀の現在、それはもう過去の話です。

ここで参考的にかつてユーゴスラビアを構成していた地域の現在をまとめておきますと、クロアティーオとセルビーオ〔セルビア〕は単独の領域圏として、ボスニーオ〔ボスニア〕、モンテネグロ、マケドニーオ〔マケドニア〕はブルガリーオ〔ブルガリア〕とともにバルカニーオ合同領域圏を形成しています。またスロヴェニーオ〔スロベニア〕はすでに見たように、アウストリーオ〔オーストリア〕などともにアルポイ合同領域圏を形成しています。

さて、クロアティーオはバルカン半島の入り口のような場所に位置する比較的こじんまりとした領域圏です。東隣のセルビーオとは民族的・言語的に近縁ながら東方正教会系のセルビーオに対し、宗教的にはカトリックが大半という相違があるため、結局は分離することになりましたが、宗教の重要性が低下した23世紀にはセルビーオとも良好な関係にあります。

代表都市ザグレブは多くの博物館や美術館が立ち並ぶ学芸都市であるとともに、スポーツも盛んです。20世紀以来、日本の京都市と姉妹都市提携を結んでいます。クロアティーオは南部でアドリア海にも面しており、沿岸地方はダルマチアと呼ばれ、美しく入り組んだ海岸線が続く風光明媚な所です。

ダルマチア最南部はドゥブロヴニクと呼ばれ、「アドリア海の真珠」と評される美しい町並みを誇ります。かつてここは旧ボスニア・ヘルツェゴヴィナの領域で分断された飛び地でしたが、23世紀現在はクロアティア人居住地域であるヘルツェゴヴィナ地方の一部がボスニーオから分離されクロアティーオに編入されたことから、飛び地状態が解消されています。

バルカン半島の歴史的な複雑さを物語るこの話のついでにボスニーオに行くのがよいのでしょうが、ここでは旅程の都合上、クロアティーオに続きいったんセルビーオを経由してみたいと思います。
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2217年9月16日

ルマニーオ〔ルーマニア〕からハンガリーオ〔ハンガリー〕へ入りました。ハンガリーオへ入る前に通過したルマニーオのハンガリーオ境界地域はトランシルバニーオという準領域圏ですが、ここにはハンガリー系の住民が多く住んでおり、すでにハンガリーオの香りがしていました。

ハンガリーオは欧州の真ん中にありながら、周辺とは異なる独特の言語を持つ領域圏です。そのせいか、現在では伝統的なハンガリー語を第一公用語としつつも、エスペラント語を第二公用語として採用し、普及させていますが、日常的にはやはりハンガリー語が優先使用されます。

その代表都市ブダペストは19‐20世紀には革命や動乱など数々の歴史的事件の舞台となりましたが、23世紀現在は何事もなかったかのように静かに佇む風光明媚な都市です。寡聞にして知らなかったのですが、ハンガリーオは欧州随一の温泉集中地帯で、しかも有名温泉がブダペストにあるのです。

中でも欧州最大規模と言われるセーチェーニ温泉は人気が高く、私も行ってみました。20世紀初頭に建てられた温泉施設の建物が中世のお城のようで豪華です。欧州型温泉ですから水着必着で、温水プールのようなものです。

この温泉には世界で三番目に古いというブダペスト地下鉄1号線で簡単に行くことができます。1号線のトンネルや駅はなるほど古いですが、車両は最新の無人自動運転システムで運行されています。地下鉄の自動運転は23世紀では日本も含め、世界標準の常識なのです。

ちなみに、同じブダペスト市内には、ハンガリーオ最古という16世紀に作られたキラーイ温泉もあります。ここはオスマントルコ支配下でトルコによって作られたため、現在でもトルコ様式の温泉施設が維持されています。

ハンガリーオの魅力はもちろん温泉だけでなく、学術・芸術分野でも多くの先人を輩出してきた学芸の地でもあり、現在でも学芸の香りのする落ち着いた領域圏となっています。もっと長居したいところですが、先を急ぎ、次は南下してクロアチーオ〔クロアチア〕に入ります。
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2217年9月2日

ルマニーオ連合領域圏へやって参りました。ルマニーオはかつてのルーマニアにほぼ匹敵する領域圏ですが、21世紀当時と少し異なるのは、旧モルドバも包摂されていることです。

モルドバは20世紀にはソ連に組み込まれていた小国でしたが、ソ連解体後は他の構成共和国同様に独立していました。ただ、モルドバはその昔モルダビアとも呼ばれ、言語的・文化的にはルーマニアと非常に近く、ほぼイコールと言ってもよいほどです。

19世紀末から20世紀半ばまで、ワラキアと呼ばれていていたルーマニアとともに統一ルーマニア王国を形成したこともありますが、その後分割され、22世紀の世界革命後また再統合されて現在のルマニーオが出来るという複雑な歴史をたどっています。その影響から、現ルマニーオは連邦型の連合領域圏として構成されているわけです。

さらに複雑なことに、旧モルドバ東部ドニエステル河流域のロシア系住民が多い地域チェドネストリーオ〔沿ドニエストル〕特別準領域圏は、高度な自治権をもってルマニーオ領域圏に包摂されつつ、ルシーオ連合領域圏〔ロシア〕の招聘準領域圏でもあるという状況になっています。

このようにルーマニアの領域が膨張することは大ルーマニア主義と呼ばれ、かつては周辺諸国から危険視されていましたが、世界共同体という新しい世界秩序の中では、ルマニーオも世界共同体に包摂される一つの単位にすぎないので、さほど問題化はしませんし、チェドニストリーオの微妙な地位なども世界共同体ならではの芸当と言えるでしょう。

さて、ルマニーオの代表都市は現在もブカレストです。ブカレストは知られざる美術館の街で、多数の美術館があるほか、舞台芸術や音楽も盛んな活気溢れる街です。私のような旧世界人はストリートチルドレンや野犬が多いと聞かされていたのですが、現地の人に聞くと、そんなのは何百年も前(20世紀後半頃)の昔話と一笑に付されました。

ルマニーオを南下すると、一度行ってみたかったバルカン半島へ抜けますが、ここではいったん進路を西へ取り、隣接するハンガリーオ〔ハンガリー〕に向かってみようと思います。
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2217年8月13日

ルシーオ合同領域圏から南下してウクライニーオ領域圏に入りました。旧ウクライナです。ウクライナと言えば、そちら21世紀には新ロシア派東部と反ロシア派西部の間で、ロシアも深く絡んだ根深い内戦が続いているでしょう。

元来、旧ウクライナの首都キエフこそがロシア国家の発祥地でもあり、ロシアとウクライナに大差はないはずなのですが、歴史の進行の過程で分立し、事態が複雑化してしまったようであります。

この対立は結局のところ、ドネツクを中心とする東部地域の一部分離、ルシーオ連合への自治的編入という形で決着することになります。この自治的編入地域は「新ロシア」を意味するノヴルシーオと呼ばれ、改めて独立した領域圏への昇格も検討されているようです。

従って、23世紀現在のウクライニーオは、21世紀中にロシアに併合されたクリミアも除かれ、旧ウクライナよりずっと縮小された形になっています。しかしルシーオとウクライニーオの関係は決して険悪なものではなく、ウクライニーオはルシーオ合同領域圏の招聘領域圏としてオブザーバ参加し、政策協調関係にあります。これも国家という枠組みが取り払われた世界共同体システムの恩恵でしょう。

実際、ウクライニーオとルシーオに包含されるノヴルシーオの間に国境線のような障壁はなく、簡素な標識と駐在所のような小規模の検問所あるのみ、筆者のような旅行者でも原則として自由に往来可能なのです。

さて、現ウクライニーオの代表都市は旧ウクライナ時代と同じキエフです。ここは聖ソフィア大聖堂やキエフ洞窟大修道院を中心とする中世以来の古い教会建築の宝庫で、現在でも厳正に保存され、拝観することができます。一方でキエフは23世紀的な街でもあり、ポストモダン芸術にも富むなど、新旧融合の文化が見られます。

縮小されたとはいえ、ウクライニーオには、キエフ以外にもオデッサやリヴィウなど、見所の多い都市がたくさんありますが、全部は回り切れません。ウクライニーオの次はさらに南下してルマニーオ〔ルーマニア〕に入ります。
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2217年7月23日

ルシーオ〔ロシア〕探訪の続きです。前回ご説明したとおり、23世紀のルシーオ合同領域圏はルシーオ連合、極東ルシーオ、ベロルシーオの三領域圏から成るのですが、まずはルシーオ連合から。

ルシーオ連合はかつての旧ロシア連邦にほぼ匹敵する領域圏ですが、前回述べたように、極東地方が分離された代わりに、ウクライニーオ〔ウクライナ〕の東部地域の一部が編入されています。ウクライニーオはそちら21世紀には熾烈な内戦が起きている所ですが、その後の経緯についてはウクライニーオ探訪の際に触れます。

ルシーオ連合の政治的代表都市はサンクトペテルブルクです。この点、長くロシアの首都だったモスクワとは入れ替わっています。サンクトペテルブルクは、18世紀、ロシアのヨーロッパ化を推進したピョートル大帝によって建設された新都でした。

そこが再び政治的代表都市に戻ったのは、現在のルシーオがエウローポ‐シベリーオ〔ヨーロッパ‐シベリア〕環域圏の一員として、いわゆるヨーロッパに包摂されている結果、モスクワよりヨーロッパに近い西のサンクトペテルブルクに重心が移ったからです。

世界共同体という地球的枠組みの中で、ルシーオは旧ソ連時代や旧ロシア時代のように覇権や勢力を誇示することなく、ヨーロッパの一員として平和的に治まっています。覇権・大国主義的でない形で、ロシアのヨーロッパ化というピョートル大帝の意志が実現されているとも言えるでしょう。

ちなみに旧首都モスクワにはルシーオ合同領域圏の本部に当たる政策協調委員会が置かれ、ここもルシーオ合同全体の代表都市としては維持されており、全く寂れてしまったわけではありません。

他方、ベロルシーオは旧称べラルーシ時代から旧ロシアとは国家連合を組むほど緊密な関係にあり、その延長上で23世紀も合同を組んでいるようです。言語・文化的にはルシーオと近縁ですが、隣接するポランドからの影響も大きいとのこと。

ベロルシーオはルシーオ連合よりずっと小さくのどかで、畜産・酪農が盛んな領域圏です。政治的代表都市ミンスクはかつて旧ソ連時代風の無機質な都市と見られていたそうですが、23世紀には再整備が進み、こじんまりとして、芸術的なポスト近代建築の都市に生まれ変わっています。
 
それにしても、ルシーオ合同領域圏は広大で、短期間ではとうてい回り切れません。今回はシベリーオ方面には足を運べませんでした。とりあえず、この後は南下してウクライニーオに入ります。
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2217年7月1日

ルシーオにやってきました。旧ロシアです。相変わらず広大な領域圏ですが、23世紀には少し縮小されています。すなわち、旧ロシアの東のはてにあった旧極東連邦管区の部分が「独立」して、極東ルシーオ領域圏となっているのです。

この極東ルシーオは人口もまばらな地域ですが、実態としては東アジアに包含されるので、現在では日本も含まれる広域的なまとまりである東方アジーオ〔アジア〕環域圏の招聘領域圏として、オブザーバ参加しています。

現在のルシーオは旧ロシアの領土からこの極東ルシーオを除いた部分で成り立っています。それでもなお世界最大面積の領域圏であり、複数の準領域圏が結合した連合領域圏であります(ルシーオ連合領域圏)。

少しややこしいのですが、23世紀のルシーオは、このルシーオ連合領域圏と極東ルシーオ領域圏に、ルシーオ連合領域圏の西で接するベロルシーオ〔ベラルーシ〕領域圏の三つの領域圏が合同したルシーオ合同領域圏にまとめられています。

従って、この三つを合わせると、まさにユーラシア大陸にまたがる超広大な領域圏となりますが、これまでにもいくつか事例を見たように、合同領域圏とは独立の領域圏の緩やかな合同ですから、一つの帝国のようなものではありません。

ちなみに、かつて日ロ間の懸案であった北方四島は極東ルシーオの領域に含まれますが、現在では日本領域圏との共同管轄地域という折衷的な形で解決されています。その見返りとして、日本領域圏はルシーオ合同領域圏の招聘領域圏としてオブザーバ参加するという形で、クロスしています。

このような器用な芸当が可能なのも、国境で隔てられた国家をなくし、単一の世界共同体にまとまったおかげとしか言えず、21世紀までの主権国家体制下では不可能なことだったでしょう。

さて、こたびの旅行では、シベリーオ〔シベリア〕のはてにある極東ルシーオまでまとめて足を伸ばすのは厳しいので、極東ルシーオは後で改めて回ることとし、さしあたりルシーオ連合とベロルシーオのみ足を運ぶこととします。とはいえ、やはり広いので、詳細は次回へ。
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2217年6月18日

ポランド〔ポーランド〕が心地よく、つい長滞在してしまいましたが、ようやく隣のバルティーオ合同領域圏に入りました。バルティーオとはバルトのことです。かつてはバルト三国などと呼ばれたリトアニア・ラトビア・エストニアの三国が合同して構成する領域圏です。

20世紀には三国もろともソ連に併合されて独立を失いましたが、20世紀末に独立を回復しています。三国はとても緊密で、22世紀の革命後もそれぞれリトビーオ・ラトビーオ・エストニーオとして領域圏を保持しつつ、緩やかに合同したのです。

ただ、三領域圏はそれぞれ文化・言語に差異があるので、エスペラント語を事実上の共通語として使用し、合同に関わる公文書もエスペラント語で記述されるとのことです。

ポランド側から入った場合、三領域圏のうちポランドに隣接するのは、近世にはポランドと合同を組んだこともあるリトビーオ〔リトアニア〕ですが、合同領域圏の中で一番開けているのは、一番小さなエストニーオのようです。ここは、そちら21世紀からIT先進地として発展を遂げており、その伝統は23世紀も続いています。

エストニーオは文化的・言語的にはノルド合同領域圏の一つスオミーオ〔フィンランド〕に近く、実際スオミーオはバルティーオ合同領域圏の招聘領域圏としてオブザーバ参加しているのです。

エストニーオに比べ、リトビーオとラトビーオは中世以来の町並みをいまだに残し、おとぎ話に出てきそうな雰囲気を湛えていますが、全体として、バルティーオは小さいながらも先進的な地域とみなされています。

もっとゆっくり見て回りたいところなのですが、先を急ぎますので、エストニーオから東で隣接するルシーオ〔ロシア〕に向かいます。あの信じられないほど広大な領土を誇った旧ロシアは23世紀の今、どうなっているでしょうか。楽しみです。
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2217年5月17日

スロヴァキーオ〔スロヴァキア〕から、ポランド〔ポーランド〕へ入りました。代表都市はワルシャワです。今回は鉄道を使わず、エアバスで移動しました。ワルシャワの空港は、ワルシャワ・ザメンホフ空港と呼ばれます。

ザメンホフとは今や世界公用語であるエスペラント語の創案者ルドヴィコ・ザメンホフで、当時ロシア領だった旧ポーランドの出身でした。そのことを記念して、ポランド玄関口の空港に彼の名が冠されているのです。

ちなみに、ワルシャワの空港は革命前、ワルシャワ・ショパン空港と呼ばれていました。ショパンはポランドが生んだ作曲家で、少しでも音楽、特にピアノを齧ったことのある人なら誰でも知っている「ピアノの詩人」フレデリック・ショパンのことです。

ショパンも決して忘れられたわけではないのですが―五年ごとに開催される有名な国際ピアノ・コンクールも続いています―、世界共同体の創設によりエスペラントが世界公用語の地位を獲得したことで、ザメンホフがショパンを押しのけてしまったようであります。

また、古い学術都市クラクフにはザメンホフ・エスペラント記念館が所在しており、見学してまいりました。そこはザメンホフの生涯を記録する史料や、エスペラント普及の歴史などをたどれる史料のほか、エスペラント文献を誰でも閲覧できる文書館を兼ねた博物館です。しかも、公認エスペランティスト向けの宿泊施設付きです。

公認エスペランティストとは、世界共同体が認定するエスペラント専門家としての公式資格です。私はその一歩手前の暫定公認資格を有しているため、その資格で宿泊が認められました。決して豪華ではありませんが、古都らしい落ち着いた環境でした。

そのついでに言葉の細かい話になりますが、ポランドの正式名称は「ポーラ領域圏」です。ポーラはエスペラント語でポランドの形容詞形であり、「ポランド領域圏」は本来不正確なのですが、日本語に取り込んだ外来語としてわかりやすくするため、このように表記しています。こうした表記法は、当ブログで取り上げる他の領域圏についても適用します。

さて、ポランドの歴史と言えば、アウシュヴィッツ―ポーラ語ではオシフィエンチム―も忘れられません。ザメンホフはポランド出身とはいえ、ユダヤ系でした。彼が1930年代まで生きていたら、エスペラントを敵視したナチスの手でアウシュヴィッツ送りになっていた可能性もあります。果たして、彼の子どもたちは皆ホロコーストで命を落としているのです。

とはいえ、ホロコーストからすでに300年近く。歴史的記憶の限界も感じつつ、ワルシャワから鉄道で行ってみました。すると、相変わらず絶滅収容所跡は博物館として保存されていて、大勢の見学客がありました。大虐殺は消し去りたい悪と残虐の歴史ですが、まだしっかり記憶されていることに安心しました。

そもそも23世紀の世界秩序である世界共同体はアウシュヴィッツを生んだ世界大戦のような惨事、その反省も虚しく核戦争危機を惹起した冷戦や仁義なきテロ戦争を繰り返さないために設立された平和機構でもありますから、ナチスの記憶も忘れられないのです。
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2217年4月29日

前回予告していたとおり、アルポイ〔アルプス〕合同領域圏から鉄道を使って隣のチェヒーオ〔チェコ〕へ入りましたが、正確に言いますと、ここはチェヒーオ・カイ・スロヴァキーオ合同領域圏です。英語風に言い換えれば、チェコ・アンド・スロヴァキアとなります。

すなわち、チェヒーオ領域圏とスロヴァキーオ領域圏が合同したものです。合同領域圏という点では、アルポイなどと同様、緩やかな政策協調の限度内での合同体制ということになります。

実はその昔、20世紀にはチェコスロヴァキアという一つの国(1948年以降は社会主義国)が存在していたことがありましたが、20世紀末、社会主義体制が民衆革命により倒れた後、言わば協議離婚のような平和的な形でチェコとスロヴァキアは分かれ、別々の国として再出発しました。

とはいえ、チェコとスロヴァキアには月とスッポンほどの違いはなく、言葉も素人には同じように聞こえるスラブ系言語です。文化的にも、ともに音楽を中心に芸術が盛んです。町並みもともに歴史的で、中世に戻ったような景観が維持されています。80年間くらい一つの国だったのも不思議はありません。

その後、22世紀の世界革命を経て、チェコとスロヴァキアは世界共同体を構成する領域圏同士として両者の緊密な関係性を見直した結果、完全に一体化はしないものの、緩やかな合同としてのまとまりを取り戻したことになります。それが、エスペラント語で表記し直されたチェヒーオ・カイ・スロヴァキーオなのです。

従って、チェヒーオとスロヴァキーオの境界には控えめな標識があるだけで、完全ノーチェックで往来が可能ですので、私もチェヒーオから鉄道で簡単にスロヴァキーオに移動しました。境界を越えた時にあえて両者の違いを見つけるとすれば、スロヴァキーオのほうがややのどかな感じはします。

さて、スロヴァキーオからさらに北上して次はポランド〔ポーランド〕に向かおうと思いますが、このあたりはかつて「東欧」と呼ばれていた地域に当たります。しかし、23世紀現在、このような地政学概念は存在せず、すべてはエウローポ‐シベリーオ〔ヨーロッパ‐シベリア〕環域圏の一環になります。
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