カテゴリ:世界旅行記( 13 )

2217年7月23日

ルシーオ〔ロシア〕探訪の続きです。前回ご説明したとおり、23世紀のルシーオ合同領域圏はルシーオ連合、極東ルシーオ、ベロルシーオの三領域圏から成るのですが、まずはルシーオ連合から。

ルシーオ連合はかつての旧ロシア連邦にほぼ匹敵する領域圏ですが、前回述べたように、極東地方が分離された代わりに、ウクライニーオ〔ウクライナ〕の東部地域の一部が編入されています。ウクライニーオはそちら21世紀には熾烈な内戦が起きている所ですが、その後の経緯についてはウクライニーオ探訪の際に触れます。

ルシーオ連合の政治的代表都市はサンクトペテルブルクです。この点、長くロシアの首都だったモスクワとは入れ替わっています。サンクトペテルブルクは、18世紀、ロシアのヨーロッパ化を推進したピョートル大帝によって建設された新都でした。

そこが再び政治的代表都市に戻ったのは、現在のルシーオがエウローポ‐シベリーオ〔ヨーロッパ‐シベリア〕環域圏の一員として、いわゆるヨーロッパに包摂されている結果、モスクワよりヨーロッパに近い西のサンクトペテルブルクに重心が移ったからです。

世界共同体という地球的枠組みの中で、ルシーオは旧ソ連時代や旧ロシア時代のように覇権や勢力を誇示することなく、ヨーロッパの一員として平和的に治まっています。覇権・大国主義的でない形で、ロシアのヨーロッパ化というピョートル大帝の意志が実現されているとも言えるでしょう。

ちなみに旧首都モスクワにはルシーオ合同領域圏の本部に当たる政策協調委員会が置かれ、ここもルシーオ合同全体の代表都市としては維持されており、全く寂れてしまったわけではありません。

他方、ベロルシーオは旧称べラルーシ時代から旧ロシアとは国家連合を組むほど緊密な関係にあり、その延長上で23世紀も合同を組んでいるようです。言語・文化的にはルシーオと近縁ですが、隣接するポランドからの影響も大きいとのこと。

ベロルシーオはルシーオ連合よりずっと小さくのどかで、畜産・酪農が盛んな領域圏です。政治的代表都市ミンスクはかつて旧ソ連時代風の無機質な都市と見られていたそうですが、23世紀には再整備が進み、こじんまりとして、芸術的なポスト近代建築の都市に生まれ変わっています。
 
それにしても、ルシーオ合同領域圏は広大で、短期間ではとうてい回り切れません。今回はシベリーオ方面には足を運べませんでした。とりあえず、この後は南下してウクライニーオに入ります。
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2217年7月1日

ルシーオにやってきました。旧ロシアです。相変わらず広大な領域圏ですが、23世紀には少し縮小されています。すなわち、旧ロシアの東のはてにあった旧極東連邦管区の部分が「独立」して、極東ルシーオ領域圏となっているのです。

この極東ルシーオは人口もまばらな地域ですが、実態としては東アジアに包含されるので、現在では日本も含まれる広域的なまとまりである東方アジーオ〔アジア〕環域圏の招聘領域圏として、オブザーバ参加しています。

現在のルシーオは旧ロシアの領土からこの極東ルシーオを除いた部分で成り立っています。それでもなお世界最大面積の領域圏であり、複数の準領域圏が結合した連合領域圏であります(ルシーオ連合領域圏)。

少しややこしいのですが、23世紀のルシーオは、このルシーオ連合領域圏と極東ルシーオ領域圏に、ルシーオ連合領域圏の西で接するベロルシーオ〔ベラルーシ〕領域圏の三つの領域圏が合同したルシーオ合同領域圏にまとめられています。

従って、この三つを合わせると、まさにユーラシア大陸にまたがる超広大な領域圏となりますが、これまでにもいくつか事例を見たように、合同領域圏とは独立の領域圏の緩やかな合同ですから、一つの帝国のようなものではありません。

ちなみに、かつて日ロ間の懸案であった北方四島は極東ルシーオの領域に含まれますが、現在では日本領域圏との共同管轄地域という折衷的な形で解決されています。その見返りとして、日本領域圏はルシーオ合同領域圏の招聘領域圏としてオブザーバ参加するという形で、クロスしています。

このような器用な芸当が可能なのも、国境で隔てられた国家をなくし、単一の世界共同体にまとまったおかげとしか言えず、21世紀までの主権国家体制下では不可能なことだったでしょう。

さて、こたびの旅行では、シベリーオ〔シベリア〕のはてにある極東ルシーオまでまとめて足を伸ばすのは厳しいので、極東ルシーオは後で改めて回ることとし、さしあたりルシーオ連合とベロルシーオのみ足を運ぶこととします。とはいえ、やはり広いので、詳細は次回へ。
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2217年6月18日

ポランド〔ポーランド〕が心地よく、つい長滞在してしまいましたが、ようやく隣のバルティーオ合同領域圏に入りました。バルティーオとはバルトのことです。かつてはバルト三国などと呼ばれたリトアニア・ラトビア・エストニアの三国が合同して構成する領域圏です。

20世紀には三国もろともソ連に併合されて独立を失いましたが、20世紀末に独立を回復しています。三国はとても緊密で、22世紀の革命後もそれぞれリトビーオ・ラトビーオ・エストニーオとして領域圏を保持しつつ、緩やかに合同したのです。

ただ、三領域圏はそれぞれ文化・言語に差異があるので、エスペラント語を事実上の共通語として使用し、合同に関わる公文書もエスペラント語で記述されるとのことです。

ポランド側から入った場合、三領域圏のうちポランドに隣接するのは、近世にはポランドと合同を組んだこともあるリトビーオ〔リトアニア〕ですが、合同領域圏の中で一番開けているのは、一番小さなエストニーオのようです。ここは、そちら21世紀からIT先進地として発展を遂げており、その伝統は23世紀も続いています。

エストニーオは文化的・言語的にはノルド合同領域圏の一つスオミーオ〔フィンランド〕に近く、実際スオミーオはバルティーオ合同領域圏の招聘領域圏としてオブザーバ参加しているのです。

エストニーオに比べ、リトビーオとラトビーオは中世以来の町並みをいまだに残し、おとぎ話に出てきそうな雰囲気を湛えていますが、全体として、バルティーオは小さいながらも先進的な地域とみなされています。

もっとゆっくり見て回りたいところなのですが、先を急ぎますので、エストニーオから東で隣接するルシーオ〔ロシア〕に向かいます。あの信じられないほど広大な領土を誇った旧ロシアは23世紀の今、どうなっているでしょうか。楽しみです。
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2217年5月17日

スロヴァキーオ〔スロヴァキア〕から、ポランド〔ポーランド〕へ入りました。代表都市はワルシャワです。今回は鉄道を使わず、エアバスで移動しました。ワルシャワの空港は、ワルシャワ・ザメンホフ空港と呼ばれます。

ザメンホフとは今や世界公用語であるエスペラント語の創案者ルドヴィコ・ザメンホフで、当時ロシア領だった旧ポーランドの出身でした。そのことを記念して、ポランド玄関口の空港に彼の名が冠されているのです。

ちなみに、ワルシャワの空港は革命前、ワルシャワ・ショパン空港と呼ばれていました。ショパンはポランドが生んだ作曲家で、少しでも音楽、特にピアノを齧ったことのある人なら誰でも知っている「ピアノの詩人」フレデリック・ショパンのことです。

ショパンも決して忘れられたわけではないのですが―五年ごとに開催される有名な国際ピアノ・コンクールも続いています―、世界共同体の創設によりエスペラントが世界公用語の地位を獲得したことで、ザメンホフがショパンを押しのけてしまったようであります。

また、古い学術都市クラクフにはザメンホフ・エスペラント記念館が所在しており、見学してまいりました。そこはザメンホフの生涯を記録する史料や、エスペラント普及の歴史などをたどれる史料のほか、エスペラント文献を誰でも閲覧できる文書館を兼ねた博物館です。しかも、公認エスペランティスト向けの宿泊施設付きです。

公認エスペランティストとは、世界共同体が認定するエスペラント専門家としての公式資格です。私はその一歩手前の暫定公認資格を有しているため、その資格で宿泊が認められました。決して豪華ではありませんが、古都らしい落ち着いた環境でした。

そのついでに言葉の細かい話になりますが、ポランドの正式名称は「ポーラ領域圏」です。ポーラはエスペラント語でポランドの形容詞形であり、「ポランド領域圏」は本来不正確なのですが、日本語に取り込んだ外来語としてわかりやすくするため、このように表記しています。こうした表記法は、当ブログで取り上げる他の領域圏についても適用します。

さて、ポランドの歴史と言えば、アウシュヴィッツ―ポーラ語ではオシフィエンチム―も忘れられません。ザメンホフはポランド出身とはいえ、ユダヤ系でした。彼が1930年代まで生きていたら、エスペラントを敵視したナチスの手でアウシュヴィッツ送りになっていた可能性もあります。果たして、彼の子どもたちは皆ホロコーストで命を落としているのです。

とはいえ、ホロコーストからすでに300年近く。歴史的記憶の限界も感じつつ、ワルシャワから鉄道で行ってみました。すると、相変わらず絶滅収容所跡は博物館として保存されていて、大勢の見学客がありました。大虐殺は消し去りたい悪と残虐の歴史ですが、まだしっかり記憶されていることに安心しました。

そもそも23世紀の世界秩序である世界共同体はアウシュヴィッツを生んだ世界大戦のような惨事、その反省も虚しく核戦争危機を惹起した冷戦や仁義なきテロ戦争を繰り返さないために設立された平和機構でもありますから、ナチスの記憶も忘れられないのです。
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2217年4月29日

前回予告していたとおり、アルポイ〔アルプス〕合同領域圏から鉄道を使って隣のチェヒーオ〔チェコ〕へ入りましたが、正確に言いますと、ここはチェヒーオ・カイ・スロヴァキーオ合同領域圏です。英語風に言い換えれば、チェコ・アンド・スロヴァキアとなります。

すなわち、チェヒーオ領域圏とスロヴァキーオ領域圏が合同したものです。合同領域圏という点では、アルポイなどと同様、緩やかな政策協調の限度内での合同体制ということになります。

実はその昔、20世紀にはチェコスロヴァキアという一つの国(1948年以降は社会主義国)が存在していたことがありましたが、20世紀末、社会主義体制が民衆革命により倒れた後、言わば協議離婚のような平和的な形でチェコとスロヴァキアは分かれ、別々の国として再出発しました。

とはいえ、チェコとスロヴァキアには月とスッポンほどの違いはなく、言葉も素人には同じように聞こえるスラブ系言語です。文化的にも、ともに音楽を中心に芸術が盛んです。町並みもともに歴史的で、中世に戻ったような景観が維持されています。80年間くらい一つの国だったのも不思議はありません。

その後、22世紀の世界革命を経て、チェコとスロヴァキアは世界共同体を構成する領域圏同士として両者の緊密な関係性を見直した結果、完全に一体化はしないものの、緩やかな合同としてのまとまりを取り戻したことになります。それが、エスペラント語で表記し直されたチェヒーオ・カイ・スロヴァキーオなのです。

従って、チェヒーオとスロヴァキーオの境界には控えめな標識があるだけで、完全ノーチェックで往来が可能ですので、私もチェヒーオから鉄道で簡単にスロヴァキーオに移動しました。境界を越えた時にあえて両者の違いを見つけるとすれば、スロヴァキーオのほうがややのどかな感じはします。

さて、スロヴァキーオからさらに北上して次はポランド〔ポーランド〕に向かおうと思いますが、このあたりはかつて「東欧」と呼ばれていた地域に当たります。しかし、23世紀現在、このような地政学概念は存在せず、すべてはエウローポ‐シベリーオ〔ヨーロッパ‐シベリア〕環域圏の一環になります。
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2217年4月15日

ゲルマニーオ〔ドイツ〕から、隣のアルポイ合同領域圏に移動しました。アルポイはアルプスのエスペラント語です。ここは、名称のとおりアルプス山脈を囲む複数の領域圏の合同として形成されています。

すわなち、アウストリーオ〔オーストリア〕連合領域圏、スヴィス‐リヒテンシュテイノ〔スイス‐リヒテンシュタイン〕連合領域圏、スロヴェニーオ〔スロヴェニア〕領域圏の三領域圏の合同です。なお、細かいことですが、アウストリーオとスヴィス‐リヒテンシュテイノはそれぞれが複数の準領域圏から成る連邦型の領域圏構成を採っています。

歴史的に見ますと、アルポイは旧ハプスブルク帝国の主要領土をカバーし、おおむねドイツ語圏に属しますが、現在ではハプスブルクなどはるか昔の歴史であり、アルプス山脈の共有を意識した合同体のようであります。

リヒテンシュテイノはかつては小さな独立君侯国でしたが、革命により君主のリヒテンシュタイン侯が追放された後、元来関係の深い旧スイスと合併して連合領域圏となりました。そうした歴史的な経緯からリヒテンシュテイノは特別準領域圏として広範な自治権を保持しています。

また旧スイスと旧オーストリアはかつて「永世中立国」を宣言しておりましたが、世界が一つになり、恒久平和体制たる世界共同体が確立された23世紀現在、もはやそのような中立宣言は失効しており、これも歴史の中のお話であります。

ちなみにスロヴェニーオはアルポイ合同の中で一つだけスラブ系主体の領域圏で、20世紀にはユーゴスラビア連邦を構成していましたが、ドイツ語もよく通用することから、アルポイに加盟しているものと思われます。足を運んだ代表都市リャブリャナはおとぎ話に出てきそうな美しい町です。

アルポイ合同領域圏全体を象徴するのは名称どおり、アルプス山脈であり、スキー競技ですが、一方で、ウィーンやザルツブルクをはじめ、クラシック音楽の里でもあります。有名なウィーン・フィルのようなオーケストラも健在で、域内では様々な音楽祭が開催され、世界中から人が集まってきます。

風光明媚で、ずっと滞在していたい場所ですが、世界旅行は前進します。次は北へ向かい、意外に知られざる芸術の里であるチェヒーオ〔チェコ〕に行ってみようと思います。
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2217年3月31日

べネルクソからフランツィーオ〔フランス〕とゲルマニーオのどちらへ行くかで迷い、結局、後者にしました。すなわち旧ドイツです。ドイツはかつてドイツ連邦共和国を名乗っていましたが、23世紀にはドイツ連合領域圏です。

現在ではもはや「国」ではありませんが、その領域の地理的範囲は21世紀当時と変わっていませんし、形態としても連邦制を継承した連合制を維持しています。16の州(うち3つは都市州)構成した旧連邦の形もほぼ継承され、16の準領域圏(うち3つは都市型準領域圏)で構成されている点、かなり保守的と言えます。

ゲルマニーオはエウローポ‐シベリーオ〔ヨーロッパ‐シベリア〕環域圏の中では、ルシーオ〔ロシア〕に次ぐ大きな領域圏で、人口は1億ちょうどくらい。21世紀当時より約2000万人増え、人口減少した日本を上回っています。これは主にトルコ系移民が土着して殖えたためだといいます。

今回の旅で行ってみたかったのは、べネルクソと境界を接するラインラント‐プファルツ準領域圏の町トリーアです。なぜなら、ここはあのカール・マルクスの出身地で生家も保存されていると聞いたからです。

行ってみると、それは200年前の情報でした。たしかに21世紀当時にはマルクスの生家は博物館として保存されていたのですが、23世紀の現在は取り壊され、ポスト・モダンな住宅地となっており、わずかに跡地であることを示す石碑が残されているだけでした。

地元の人に聞いてみますと、「マルクスは郷土の歴史的人物だが、詳しくは知らない」と流暢なエスペラント語で答えられました。たしかに23世紀から見れば、19世紀のマルクスさんは4世紀も昔の歴史的人物に過ぎないのでしょう。

もう一箇所行ってみたかった場所は、これも20世紀の象徴・旧ベルリンの壁跡地。たしか壁の一部が保存されていると聞いたのですが、これも200年前の情報でした。23世紀には壁は跡形もなく、ベルリンは分断の歴史などなかったかのように統一都市(それ自体として準領域圏扱い)として静かにたたずんでいました。

ちなみに、ベルリンは現在も連合領域圏全体をまとめる連合民衆会議の所在地であり、政治的な代表都市の地位を維持しています。こうした安定性もゲルマニーオらしさでしょうか。ゲルマニーオからは鉄道を使い、隣のアルポイ〔アルプス〕合同領域圏に移動してみたいと思います。
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2217年3月16日

アングリーオ〔イングランド〕から北海を渡り、べネルクソ〔ベネルクス〕に移りました。北海渡海は周辺を結ぶ無料乗り放題の客船によりました。以前にもご紹介したとおり、23世紀には船舶という交通手段が復権しており、多くの利用客がありました。窮屈な飛行機とは違う、ゆったりした快適な船旅でした。

べネルクソとはベネルクスのエスペラント読みであり、21世紀人にはベネルクスのほうが馴染みがあるでしょう。ベネルクスとは歴史的に関連の深いベルギー、ネーデルラント(オランダ)、ルクセンブルク三国の緩やかな協力体を出発点としていますが、23世紀には単なる協力体を越えて、単一の領域圏にまとまっているのです。

23世紀のべネルクソ連合領域圏は連邦制に近い構制の領域圏ですから、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクが単純に結合しているのではなく、この三統治体はいったん解体されたうえ、州に近い権限を持った10以上の準領域圏によって再構成されています。代表都市は旧オランダのハーグです。

このような構成になったことで、かつて国を分裂させかねないほど揺れたベルギーの言語分断問題は解決しています。すなわちベルギーを二分したフラマン語(≒オランダ語)地域とフランス語地域の分断・対立関係は、ベルギーという統治体がべネルクソに吸収されたことで止揚されたのです。

そのうえで、べネルクソは世界公用語であるエスペラントを連合全体の公用語ともしています。もっとも地元における日常会話に際しては、それぞれの伝統的な言語が依然として使用されており、そのことが権利としても保障されているとのこと。

ちなみにベルギー、オランダ、ルクセンブルクはそれぞれ独立国だった時代には英国と並ぶ立憲君主制(ルクセンブルクは大公制)を採るという共通項もありましたが、現在では英国と同様、王ないし大公は歴史文化的象徴としての形式的称号にとどまっています。

また旧ベルギーのブリュッセルはかつて旧欧州連合の中心地でしたが、今日では欧州及び旧ロシア・シベリアを大きく包摂する経済協力体であるエウローポ‐シベリーオ〔ヨーロッパ‐シベリア〕環域圏の民衆会議をはじめとする主要機関の所在地でもあり、歴史的に民際性の豊かな土地柄であることは変わっていません。

個人的にはかつて人口50万人ほどのミニ国家だった旧ルクセンブルクに興味があり、集中的に回ってみました。ここは古城がいくつも保存されているべネルクソ域内有数の歴史地域でもあります。同時にフランツィーオ〔フランス〕とゲルマニーオ〔ドイツ〕への入り口もあるのですが、さてどちらへ赴くか、まだ考え中です。
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2217年2月28日

ケルト合同領域圏に属するスコットランドから、風光明媚な田園地帯を縦断する鉄道を普通列車を乗り継ぎ南下してアングリーオへやって参りました。アングリーオとは、かつてのイングランドのことです。

イングランドは21世紀にはいわゆる英国を構成する四つの地域のうちの中心でしたが、前回ご説明したとおり、23世紀には四地域のうち三つが隣のイルランド〔アイルランド〕を含めたケルト合同にまとまったため、単独の領域圏となったものです。言わば独りぼっちになってしまったわけですが、23世紀のアングリーオ人はほとんど気にしていないようです。むしろ、現状が一番すっきりするという感想も聞かれました。

その代表都市は相変わらずロンドンですが、その性格は一変しています。かつては世界金融センターのトップに位置づけられる金融大都市であったわけですが、貨幣経済が廃され、当然「金融」も死語となった23世紀、ロンドンはもはや金融都市ではあり得ません。現在は、静かな歴史文化都市です。

歴史文化といえば、大英帝国時代の象徴とも言えるBritish Museumは現在も存在していますが、名称はEngland Museumに改称されています。また金融の象徴だったロンドン証券取引所跡地は前衛的な建築として著名なアングリーオ中央民衆会議議事堂の一部に変わり、革命の象徴地となっています。

ところで、イングランドと言えば世界で最も有名な王室がありましたが、現在はどうなっているのかというと、王室は残されています。しかし、元首の概念を持たない民衆会議体制において、もはや王は元首ではありません。ただ、歴史文化の象徴として、形式的な称号だけが残されているのです。このような処遇は世界中の王室で普遍的です。

王と王族は全員一般市民として普通に暮らしており、旧王宮バッキンガム宮殿は誰も住まない一史跡です。ちなみに旧英国が唯一残していた旧式の貴族制度も完全に廃止されて久しく、もはや誰が旧貴族の末裔なのかは苗字でわずかに判明する程度です。

こうしてアングリーオは豊かな田園風景を持つ領域圏として、静かに今も存在しています。次はアングリーオから、ベネルクソ〔ベネルクス〕方面へ渡ってみようと思います。
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2217年2月4日

ノルドからスコットランドへやってきました。スコットランドと言えば、そちら21世紀初期の段階では独立論争が巻き起こりながらもまだ英国の一部であろうと思いますが、現在の地政情勢は大きく変わっています。

23世紀のスコットランドは、イルランド〔アイルランド〕、キムリーオ〔ウェールズ〕、アイリッシュ内海に浮かぶマンクシーオ〔マン島〕とともにケルト合同領域圏に編入されているのです。構成領域圏の自立性が強い合同領域圏という点では、北欧のノルドと同じ形式になります。

ケルトとはケルト人のことです。歴史的に見てスコットランド、アイルランド、ウェールズはケルト人が先住していた地域で、ケルト系の言語や文化が残る点で共通しています。その三つが合同したのです。

ちなみに、アイルランドはかつてアイルランド共和国と英国に組み込まれた北アイルランドに分かれ、北では流血の分離独立闘争が展開された時代もありましたが、現在では北アイルランドもイルランド領域圏に復帰しています。

同じく英国に組み込まれていた西部のウェールズも離脱していったため、かつて栄華と覇権を誇った大英帝国はすっかり分解されてしまい、今や旧イングランドを継承するアングリーオ領域圏単独―とはいえ、人口は4000万人を越えていますが―の存在となっています。大英帝国に取って代わって、ケルタ合同領域圏が登場したという感じです。

かつての大英帝国がばらばらに分解したとなれば、さぞ血みどろの戦争になったのでは?と思われるかもしれませんが、実際のところ一滴の血も流されませんでした。まさに平和革命です。その軸となったのがスコットランドです。

領域圏とは21世紀にはまだ固定観念である国家とは異なる緩い単位に過ぎないので、「分離独立」というようなおおごとにはならないのです。そういうわけで、現在でもスコットランドの代表都市エディンバラからロンドンまでは一本の鉄路で結ばれ、その間に国境線や検問のようなものは一切ありません。

エディンバラ‐ロンドン間には超特急列車が設定されており、現在は所要3時間半くらいです。速達もいいですが、今回は普通列車にただ乗りして―貨幣経済はありませんから―ロンドンまで行ってみようと思います。
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