カテゴリ:経済( 29 )

2215年4月19日

かつて様々な専門職が広い意味での「資格制」になっていた時代がありました。特に日本はおそらく世界一の「資格社会」で、多種多様の職が資格化され、資格試験への合格が社会へのパスポートになっていました。まだ21世紀に生きる方々は実感できるでしょう。

しかし、現在23世紀はもはや資格社会ではなくなっています。もちろん医師、看護師など医療系専門職のようなものは依然として資格制(免許制)で、しかも医師免許などは一度取得すれば終身間有効な特権ではなく、一定期間ごとに更新されていくというように厳格化されています。

また以前の記事で紹介したように、歯科予防師とか、臨床哲学士児童保護士などといった23世紀ならではの未来資格も生まれています。

その一方で、かつて無数に林立していた業界資格的なものは多くが廃止されています。業界での技能評価は就職後、実地で行われ、形式的な資格証明によるのではありません。

思うに、かつて資格が隆盛だったのは、旧来の身分制社会が崩れ、多くの職業が世襲制や徒弟制ではなくなった反面、所定の職業能力を簡単に証明でき、かつ組織内研修の手間を省ける手段として、「資格」が利用されていたのでしょう。結果として、今度は「資格」によるある種の身分制社会が立ち現われており、その傾向は資格林立社会の日本で特に顕著化していたのでした。

現在、かつて皆が「資格」取得に奔走させられていた時代を、少し皮肉を込めて「士師時代」と呼んでいます。「士師」とは、今でもそうですが、日本の各種資格には「士」または「師」の付くものが多いため、それらを併せて「士師」と呼ぶようです。

23世紀が「士師時代」でなくなった理由として、一つには他目的大学校のように一度社会に出た後、いつでも必要に合わせて実用的な科目を学べる生涯教育制度が確立されたこと、また各職場ごとの内部研修制度が充実していることが挙げられます。

「士師」となるために個人の費用負担で資格取得に必要な、時に長期に及ぶ「受験勉強」に追い立てられる代わりに、実質的な技能習得・向上のための社会的な諸制度が確立されているのも、貨幣経済の廃止という人類的な大決断の成果と言えるようです。
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by komunisto | 2015-04-19 09:30 | 経済
2215年1月7日

2015年の年初は、年末以来の原油安で始まり、予測どおり、世界経済の減速要因となるのでしたが、原油輸入国である日本のような国にとっては僥倖となりました。他人の不幸は我が身の幸福という資本主義らしい現象です。

商業活動が廃された23世紀には、石油はそもそも売り買いの対象とならないので、市場での値動きに左右されることもあり得ません。石油をはじめ、天然資源は人類共通資源として民際管理がなされています。

民際管理とは、21世紀的な表現なら「国際管理」となりますが、23世紀の世界に「国」という制度は存在しないので、「国際」ではなく、「民際」という言葉が充てられるのです。

資源の民際管理とは、従って、石油をはじめとする天然資源を売買したり、資源埋蔵地の独占物とするのでなく、民際機関を通じて地球規模で管理することを意味します。

そうしたことを可能とするために、世界天然資源機関が設置されています。以前は石油の枢要性に照らして、石油専門の機関が設けられていましたが、脱石油燃料が世界に行き渡り、天然資源機関に統合されています。

天然資源機関は世界経済計画機関と連携して、環境的に持続可能な資源開発を統括する開発・供給機関でもあり、地球規模での資源の計画的かつ公平な分配を担保しています。

このような資源管理体制は21世紀までの資本主義的常識では意想外のことだったでしょうが、共産主義的にはむしろ常識で、原油が取引され、日々の値動きに世界が右往左往するなど、23世紀人にとっては信じ難い話のようです。
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by komunisto | 2015-01-07 11:39 | 経済
2214年10月15日

アフリカと言えば、21世紀までは貧困、紛争というイメージの強い地域で、事実そうした問題が集中していました。一部の諸国では資本主義がある程度軌道に乗り、経済発展を見せ始めてもいましたが、それは格差や腐敗を伴う歪んだ「発展」でもありました。

200年を経て、現在はどうでしょう。おそらく、アフリカはこの200年で最も劇的に変化した地域です。もはや貧困や紛争は過去の悲劇。今や、アフリカは洗練されたクール(エスペラント語ではチャルマ)な地域として、文化的にも世界の注目を集める場所なのです。

そうなったのも、貨幣経済・資本主義の廃止という革命的な変革の恩恵です。アフリカの伝統的な共同体生活は元来、資本主義より共産主義に適合的にできていました。それを無理に資本主義的な経済開発路線に乗せようとしたことが、アフリカを苦しめていたのです。

貨幣収入を得るのに苦労の多かった農村でも、貨幣経済の廃止により自給自足生活が可能となり、豊かな農村が回復されました。地球温暖化が緩和されたため、干ばつ被害も最小限で済んでいます。

豊かになったことで、寿命が延びると同時に人口爆発現象にも歯止めがかかり、多子若年化でも、少子高齢化でもない、中子高齢化が最適条件で実現されており、人口問題でも23世紀のアフリカは模範的です。

そうした点で、かつてアフリカ自身が拒んでいた面もある共産化は、アフリカ的問題の最高の治療薬となりました。そればかりか、アフリカを世界でも最も洗練された地域へと発展させ、共産主義的成長のモデルにまで押し上げたのです。

そのため、世界が共産化された現在、その中心がアメリカでなく、アフリカであることは必然と言えるでしょう。実際、世界を束ねる世界共同体の本部―旧国際連合本部に相当―は、ニューヨークではなく、南アフリカ領域圏の最大都市ヨハネスブルグにあります。
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by komunisto | 2014-10-15 10:07 | 経済
2214年8月12日

23世紀の社会へ飛んできて最初に目に付いたのは、自販機の多さです。自販機と言えば、かつては飲料販売機が大半でしたが、23世紀の自販機は飲料よりも調味料や衛生用品を含む日用雑貨などの小物類の自販機が多いのです。

ところで、23世紀の「自販機」とは正確には「自頒機」です。なぜなら、基本物資は無償供給が原則となった現在、正式名称は「自動販売機」ならぬ「自動頒布機」だからです。

では、なぜこのように自頒機が多いかというと、貨幣経済が廃されて基本物資の無償供給が原則となったことで、商業店舗というものが消滅し、かつてのスーパーやコンビニに相当する物品供給所での供給だけではまかない切れないため、小物類は供給所へ行かなくとも自頒機で取得できるようにしてあるのです。言わば、無人供給所です。

これらの自頒機は各地方ごとに組織された一種の生協組織である消費事業組合が一括して設置管理しており、個人に管理が委託されることはありません。

こうした自頒機が街のあちらこちらに設置され、一つの街の景観となっています。それでも目障りな感じがしないのは、以前ご報告したように、美術に関心の高い時代ゆえ、自頒機もアート化していて、昔の画一的な四角い機械ではなく、個性的なオブジェ作品となっているので、目の保養にすらなるのです。

ちなみに、これもご報告したとおり、酒・タバコは厳格な規制下にあるため、酒・タバコの自頒機は一切存在しません。酒は許可された飲食供給所で一定時間内での限定供給、タバコは麻薬に準じて全面禁止です。

飲料の自頒機もミネラルウォーターやお茶類に限られ、ジュースの自頒機はありません。ジュースのような糖分を含む飲料は保健指導の行き届いた23世紀には自頒機での供給が禁止され、通常の物品供給所での供給に限られているからです。
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by komunisto | 2014-08-12 07:56 | 経済
2214年6月28日

23世紀の日本は相変わらず鉄道網が発達していますが、200年前と決定的に違うのは、鉄道網がすべて一本化されていることです。どういうことかと言うと、公営の地下鉄や路面電車を除く鉄道網はすべて「日本鉄道事業機構」という公企業が運営しているのです。

従って、日本中の鉄道網が文字どおり一つにつながったわけではありませんが、機構により一括運営されています。それでは20世紀の国鉄分割民営化に完全逆行では?と思われるかもしれませんが、これは、他のすべての基幹産業(環境高負荷産業)が公企業として一本化されていることの一環なのです。

そうすると、かつてJRの他にもたくさんあった私鉄がすべて一つになってしまったのかと残念に思う人もいるでしょうが、すでに200年前にも、多くの鉄道会社が相互乗り入れ政策によって部分的には一本化されていたのですから、完全一本化はその延長と思えばよいと思われます。

とはいえ、日本もなかなか広いので、機構は地方圏ごとに設置された地方事業所を通じて分権的な運営がなされており、鉄道員の制服も事業所ごとに違っています。例外はオール・リニア化された旧新幹線のリニア線で、これはリニア高速線事業部という特設部が事業所の境界を越えて統合運用しています。

ちなみに、地方の閑散路線を廃止するかどうかについては沿線住民の直接投票にかけることが法律で義務づけられており、住民投票の結果、存続・ライトレール化されることが多いようです。

鉄道一本化で不便なことと言えば、路線名が紛らわしいことです。かつては同地域を走っていた競合路線だったものまで一本化されているため、似た名称の路線も多く、私のような旧世界人でなくとも、乗り間違いが生じやすいのです。

その点を除けば、一本化されて不便なことは特に見当たりません。運賃はなく、完全無料ですし、必要なサービスも行き届き、保守点検のような安全対策は商業鉄道時代よりも万全です。鉄道の競合化がサービス向上につながるというのは、20世紀的神話だったようです。 
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by komunisto | 2014-06-28 10:26 | 経済
2214年5月9日

23世紀の社会はあらゆる製品・サービスが無償供給されるので暮らしやすいというが、競争的な生産活動がなくなると、品質の低化という問題は起きないか?というご質問を21世紀の読者からいただきました。気が付かなかったので、よい機会と思い、考えてみました。

品質の評価にはどうしても主観的な要素が混じるため、なかなか難しいのですが、あくまでも私自身が20世紀後半から21世紀初頭にかけて暮らした旧世界との比較で言えば、品質はむしろ向上していると感じます。

その理由として、23世紀には多くの分野で職人仕事が復活していることが考えられます。商業活動が消滅し、画一的な大量生産社会から多種少量生産社会に転化したため、職人組合的な生産組織が数多く見られます。そのため、多くの製品がある種の芸術的な価値を帯びた精巧な作りになっているのです。

その反面、機能的にはシンプル化しているようです。商業生産の時代には、他社との差をつけるため、不必要なまでに多機能化された商品が開発されがちでしたが、競争がない現在、そうした多機能化戦略的なものも廃れました。

安全性という面から見ても、製品の安全保証に関する法規制は格段に強化されており、製造物責任法は最大で製造企業の強制解散というペナルティーまで備えた厳しいものとなっています。

無形的なサービスの分野でも、例えば電気・ガスのようなエネルギー供給や交通機関などを見ても、安全かつ安定的に供給されており、特に不満は感じません。

ただ、顧客サービスの側面では、貨幣交換がなく、商品を買わせようとする目的で客に媚びるようなアプローチをする必要もないためか、スタッフの対応が昔より無愛想になった感じはします。そういう意味でのサービス(リップサービス)低下が全般に観察されるのは事実です。 

ともあれ、私も含めた資本主義時代人は「競争が品質を支えている」という神話―競争神話―に陥りがちだったように思いますが、実際は逆で、競争こそがコスト削減圧力から、品質低下・安全軽視の風潮を作り出していたのではないかと思えるのです。

もう少し突っ込んで考えると、無償供給だからこそ、商品としての交換価値(値段)ではなく、製品としての使用価値(値打ち)がストレートに問われるため、製造者は品質管理を云々するまでもなく、製品の命である品質については常に最大限の配慮をするのでしょう。 
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by komunisto | 2014-05-09 08:03 | 経済
2214年4月19日

23世紀には貨幣交換による商業活動が廃されているため、「商店」が消えるのは当然なのですが、個人で特定物品の無償供給所を運営することは認められています。それでも、こうした特定物品供給所は服飾・宝石関係などの例外的分野にとどまり、かつての八百屋や魚屋のようなものは見られません。

個人商店は前資本主義的な経済の産物ですが、資本主義の時代にも長く生き残り、地域の「商店街」を形成していました。しかし、資本主義の高度化に伴い、巨大小売資本系の大型ショッピング・モールの進出に押され、個人商店は次第に姿を消していきました。

地元でも、すでに私が旧世界を去った21世紀初頭時点で、子ども時代に見慣れた商店街は消滅しつつあったのですが、23世紀の現在、もはや全く見かけません。外見上は、コンビニやスーパー型の物品供給所がすべてです。

今、あえて個人商店に近い存在を探すとすれば、インターネット上の物々交換サイトでしょうか。これはかつての電子商店街の共産版とも言えるもので、個々人がナマものも含め、思い思いの物品を物々交換し合っています。また最近は、バザール式の青空物々交換市も開催されています。

こうした小規模な物々交換を反復継続し専業として行っている人たちも存在し、「交換業者」と呼ばれていますが、さほど多くはなく、かつての小売商人のように一つの階級を形成するほどまとまった存在とは言えません。

共産主義経済は大資本による流通支配を終わらせはしましたが、個人商店の復活にはつながりませんでした。ある意味では、一人で商売する個人商店とは商業の原点であって、貨幣経済の元祖かつ権化だったのかもしれません。それゆえに、貨幣経済の消滅は個人商店の消滅を意味したのです。
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by komunisto | 2014-04-19 12:02 | 経済
2214年2月27日

かつて人類史は、ある意味で移民の歴史でした。個人的な「移住」でなく、集団的な「移民」が発生するのは、ほとんど専ら経済的な理由―災害や戦争を契機とする場合でも結果同様―からでした。すなわち、貧しい国からより豊かな国への移民です。

このような移民現象が生じるのも、国により経済水準に著しい格差があったからでした。そうした国家間格差の要因は、貨幣にありました。個人間の経済格差と同様、国別の貨幣の持ち高による格差です。しかし、革命後、貨幣経済が廃止されたことで、こうした国家間格差も消滅し、世界は良い意味で均質になりました。もちろん、均質に貧困なのではなく、均質に充足しているのです。

そのため、ひとは生まれ育った領域圏―何度か紹介しているように、かつての国に相当する単位です―を集団で去る必要はなくなりました。移民の歴史は幕を閉じたのです。

ちなみに、かつて世界でも有数の人口減少が生じていた21世紀の日本では、一時移民受け入れによる人口維持策という愚策を試み、失敗に終わっています。

まず、元来異邦人に対して警戒的な風土で、移民政策への反対も強い中、移民受け入れ枠が中途半端なものに終わった一方、懸念されていたとおり、移民は社会で受け入れられず、被差別下層民として底辺労働で搾取されました。結果は、貧しい移民地区の形成と治安の悪化でした。移民排斥を訴える極右政党が議会を席巻し、この政策は間もなく廃止されています。

移民は日本に限らず、程度の差はあれ、こうした周縁化問題と民族摩擦を引き起こすということも、歴史の法則です。

思うに、人間は生まれ育った風土から切り離すことのできない生き物であって、個人的な理由から海外へ移住する場合を除き、生まれ育った領域圏内で生涯を終えるのが最も自然なようであり、また社会の安定にもつながるようです。
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by komunisto | 2014-02-27 08:41 | 経済
2214年2月11日

以前、23世紀の建設作業は地方自治体に属する建設作業隊が一手に担うと報告しました。この建設作業隊とは、正確には「建設事業団」と呼ばれ、地方圏(道)の公営事業体です。

かつて大規模なビルやマンションの建設は、ゼネコンと呼ばれる総合建設会社が元請けし、それを何重もの下請け建設会社に委託して建設させる複雑な方式が一般的でしたが、現在では旧ゼネコンに相当するのは建築事業組合で、そこからの発注で建設事業団が実際の建設作業に当たるのが通常の流れです。

このうち建築事業組合とは建築士が運営する設計事務所のようなもので、企業というよりは建築工房のようなものですが、旧ゼネコンの流れを汲む大規模な企業体は建築事業法人と呼ばれます。これに対して、建設事業団は建築事業組合・法人の設計に従って、現場の建設作業全般を請け負う公営事業体です。

建設事業団は道内の地域圏を目安にいくつかの方面作業隊に分かれており、それぞれの管轄地域内の建設作業を請け負います。建設作業全般を一括して担う技術を擁するため、設備ごとに細分化して請け負う必要もなく、シンプルな流れになります。

作業隊はある種の軍隊的規律をもって運営されており、建設現場でも整列・敬礼などの光景が見られ、昔の建設現場を見慣れた者にはやや奇異にも映ります。ただ、こうした軍隊的規律は生命身体の危険と隣り合わせの建設作業においては安全確保のために有効と考えられているようで、実際、建設現場での巻き添えを含む死傷事故はほとんど聞きません。

この建設事業団に関してもう一つユニークなことは、建設学校という作業員養成校まで運営していることです。この学校を卒業すると建設業務取扱主任者という資格が与えられ、さらに上級資格として建設業務管理者という現場監督レベルの資格もあります。建設作業員は今や、公的に認証された技術職として確立されているわけです。

その結果、建設作業員はかつてのように地方からの出稼ぎや失業対策の手段ではなく、社会的にも認知された技術者となり、21世紀初頭の日本で起きていたような人手不足とも無縁です。
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by komunisto | 2014-02-11 10:25 | 経済
2214年1月30日

今回はお酒好きの人にとっては、悲報です。23世紀の現在でも酒類の製造は認められていますが、それは酒類製造機構という公共的事業体の独占事業とされるうえ、供給についても厳しい制約があり、かつてのような自販機での供給はもちろん、飲食供給所での提供も許可を受けた所定の供給所で一定時間内しか認められていません。

これはいわゆる禁酒法とも異なり、禁酒はしないものの、製造・供給を規制するという政策です。こうした政策の根拠は、酒類を嗜好品として認めつつも、過度の飲酒による心身の疾患や飲酒運転を防止するために、供給方法や時間を制限するものだといいます。

しかし、そうすると闇の酒場のようなものが発生しないか。これについては規制をかいくぐる密造酒の闇酒場がやはり存在するようで、時々警察に摘発されています。酒好きはいつの時代にもいるもので、規制が闇営業を生むのは避けられないでしょう。個人的には酒飲みではないので気になりませんが、良策かどうかについては何とも言えません。

ただ、21世紀に比べ、アルコール依存症や飲酒原因の肝臓病が減少し、また飲酒運転事故もほとんどないという限りでは、効果を発揮しているようです。

一方、タバコについては全面禁止政策です。これは世界的な共通政策となっており、タバコは世界中で麻薬より厳しい扱いを受けています。禁煙運動は21世紀にもありましたが、社会啓発だけでは律し切れず、法的な厳禁という強硬策に移ったのです。結果、肺がんの減少、ニコチン原因の諸疾患の予防が進んでいます。

こうした厳格な酒・タバコ規制が敷かれると、当然飲食店主やタバコ栽培農家は経済的打撃を受けますから、貨幣経済時代にはこうした規制には関係事業者団体から猛反対が起き、実現は困難でした。

その点、貨幣経済が廃された23世紀には、規制によって経済的打撃を受ける事業者は存在しませんから、反対は出ないのです。とはいえ、嗜好品の厳格な規制によっても、闇のタバコ栽培者を含め、闇業者の出現・跋扈を完全に抑止することは難しく、もぐら叩き的な様相となっているため、政策の当否をめぐる議論が続いています。
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by komunisto | 2014-01-30 13:01 | 経済