カテゴリ:教育( 16 )

2216年1月16日

そちら21世紀の日本では、そろそろ大学入試センター試験の季節ですか。最近は様々な電子機器の発達により、いわゆるカンニング防止策も細かく規定されるようですが、23世紀のこちらでは、そうした状況は一変しています。

以前のたよりでもご報告したとおり、そもそも大学という制度が存在しないので、当然大学入試もないのですが、試験という制度は校内試験から各種資格・免許試験まで種々あります。それらの試験では、程度の差はあれ「カンニング」が許されています。つまり、資料の参照が認められるのです。

これは、試験の意義が旧世界とは大きく異なっているからです。旧世界の試験は一定の膨大な事項を暗記して、与えられた問題に解答する能力を問うということで一致していました。ですから、ほぼ例外なく資料の参照は厳禁され、無断で参照資料を持ち込むことは「カンニング」として取り締まられたのです。

旧世界の試験は暗記力試験でした。ですから、試験直前には必死で詰め込み勉強をした苦い思い出が筆者にもあります。23世紀人にとっては、信じ難い話です。おそらく21世紀人にとっても『論語』完全暗誦のような前近代の暗誦教育は信じ難いものだったでしょうが、試験では基本的に暗記力を試していた点において前近代と近代とで変わりはなかったのです。

これに対して、23世紀の試験は考察力試験です。つまり、参照資料をもとに各自で考察すること、問題に解答するよりも、問題を発見することに主眼が置かれます。ですから、いかなる試験でも参照資料が与えられます。

ただし、参照資料が予め許可されたものに限られる場合や、出題当局側が試験場で配布する資料に限定されたりすることはあり、そうした場合に無許可資料を持ち込むことは禁じられますが、そのような限定参照型試験は代議員免許試験や高度専門職試験のような公的な免許・資格の取得に関わる試験の特例です。

こうした現象は大きくとらえれば、教育観の変遷によるものでしょう。時代が進むにつれて、何かを暗記することよりも、考察することが重視されるようになっていくのです。これは暗記ということに関して、人間の脳は電脳に全くかなわなくなってきたことにもよると考えられます。

こうして、「カンニング」という俗語も現在では死語となりました。23世紀的試験観による限り、「カンニング」は試験における正道であって、参照を一切許さなかったかつての試験こそ暗記力偏重の邪道ということになるのです。
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by komunisto | 2016-01-16 13:50 | 教育
2215年5月31日

そちら21世紀日本の5月は、春季運動会の季節でしょうか。20世紀には運動会は秋とほぼ決まっていたのですが、21世紀には春が増えたそうです。理由は残暑による熱中症を防止するためとか、行事の分散化を図るためとか、受験勉強の妨げにならないようにするためとか、いろいろ言われているようですが、よくわかりません。

こちら23世紀日本ではどうかと言えば、そもそも運動会という学校行事自体がありません。運動会好きには寂しいかもしれませんが、私のような運動音痴には羨ましい限りです。ついでに言えば、修学旅行という定番行事もありません。これも、集団旅行苦手の私には羨ましい限りです。

要するに、23世紀の学校には全員参加型の行事というものが、ほとんどないということになります。あるのは入学式と卒業式くらい、学期ごとの始業・終業式もクラス単位の自由形式で行うだけと聞きます。

学校ごとに多少の違いはあったでしょうが、合唱コンクール、学習発表会、社会科見学等々、学校行事は毎学期何かしら組まれており、教師も生徒も準備やリハーサルなどで多忙だった学校時代を思い出すと、23世紀の学校とは、私どもが通った学校とはまるで別世界のようです。

23世紀型学校生活はずいぶんと簡素化されていることになりますが、これは、学校という場の存在理由が大きく変化したためです。かつての学校ではとかく「集団生活」への適応が強調され、悪く言えば子供たちを家から引っ張り出して昼間強制収容する場だとも言えたわけです。

従って、全員参加型の学校行事も単なる息抜きや娯楽ではなくして、集団としての団結心や集団における協調性を養うためといった教育目的の下に、長く続けられてきたものと考えられます。

それに対して、23世紀の学校は個別的に子供たちの資質を発見し、伸ばす場となったのです。そのため、以前の記事でも報告したとおり、学校はどの学年でも通学制/通信制を選択できるようになっており、通学制課程にあっても、集団性より個別性が優先されますから、カリキュラムの自由度が高く、行事も最小限なのです。
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by komunisto | 2015-05-31 09:25 | 教育
2215年5月13日

先月の記事で、23世紀の問題発見型教科書についてご報告しました。その後、記事では触れていなかった教科書検定制度はどうなっているのかというご質問を21世紀の読者からいただいていました。遅れましたが、お答えします。

23世紀に教科書検定制度はありません。といっても、オール自由化というわけではなく、全土で統一教科書を使用しているからなのです。それでは究極の検定、教科書統制では?と思われるかもしれません。

しかし、前回記事でご説明したように、23世紀型教科書は既存知識体系を教え込むのではなく、問題発見の手助けをするツールであるため、統一教科書を使用しても、特定見解の刷り込みになるようなことはありません。同一教科に何種類もの教科書は必要ないのです。

教科書自由化とは、実は教科書販売の自由化を意味しており、教科書を手がける出版資本の自由な売り込み競争に委ねることを意味します。そこでは、生徒の教育的な利益は二次的な関心にとどまります。教科書採択をめぐる癒着・汚職も起こるでしょう。

23世紀の教科書は統制でも営利でもなく、純粋に教育的な観点から、日本学術会議傘下の中央教科書編纂委員会という機関が各界の中堅研究者を集めて、教科ごとに編纂しています。

また言語教育と科学教育に関しては、ユネスコの後身である世界教育科学文化機関が世界統一の指導指針を数年ごとに改定して各領域圏に提示し、これをもとに各領域圏で教科書を編纂する体制が採られています。

こうした世界的な統一教育という発想はまさに世界共同体ならではのことでして、全世界統一指針をもって、世界公用語であるエスペラント語や科学分野(数学や社会科学を含む)の教育が世界共同体全域で統一されることが期待されているわけです。

ところで、先進的な領域圏の中には、そもそも教科書という制度自体を廃止し、教科ごとの指導指針だけを提示し、後はすべて教師の独自教材に委ねているところもあります。日本でもそうした議論はありますが、伝統的な教科書の制度はなかなか手放せないようです。

ちなみに、私学ではどうしているのでしょうか。実は、公教育制度が完備した23世紀に私学はほとんどありません。例外的な私学でも、正規の学校として認可されるためには、統一教科書に基づく教育が義務付けられています。
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by komunisto | 2015-05-13 09:21 | 教育
2215年4月7日

2015年4月の日本では、中学校の全社会科教科書で領土に関する記述が増量されるなど、政府見解に沿った教科書検定が一段と厳しくなったとの不穏な報道がありました。愛国主義路線に則った教科書統制策でしょう。

少し歴史を先取りしておきますと、こうした「愛国」教科書で教育された子供たちが中年に達し、政治家や文科官僚として指導的地位に就き始めた2050年代になると、教科書統制はいっそう強化され、政府見解以外の見解の掲載禁止、政府見解に批判的な見解を教えた教員の処分など抑圧の嵐が吹き荒れることになります。

言論全般への抑圧も広がり、反愛国的言論の警察的取締りも行われました。23世紀から振り返って、革命前のこの時代は、20世紀前半期に次いで公然と思想統制が行なわれた「ネオ・ファシズム」の時代として記憶されています。

それから革命を経て23世紀に到達した現在、教科書はどうなっているでしょうか。以前の記事でもご報告したとおり、23世紀の教科書はオール電子化されており、紙書籍の教科書は過去のものです。

問題は電子教科書の中身ですが、生徒の一人から見せてもらって驚きました。昔の教科書と異なり、とても記述が簡単です。解説調の長文は一切なく、ただ必要最小限の情報が与えられ、あとは自分で問題を発見するように作られています。与えられた問題に解答せよ、ではなく、与えられていない問題を作成せよ、という趣旨です。

ここには、教育理念の革命的な変化が反映されています。すなわち、教育とは生徒に既存知識体系を暗記させることではなく、生徒自身の知の探求を手助けすることだというのです。比喩的に言えば、軍隊的行軍から森の散策への変化でしょうか。

当然、政府見解の強制などあり得ません。もっとも、以前の記事でご報告したとおり、23世紀には政府という機関はなく、民衆会議あるのみですから「政府見解」なるものも存在し得ないのですが。

こうした問題発見型教科書で教育される23世紀の生徒たちは、知的探究心と自由な創造性に富んでおり、萎縮し、ロボットのように政府見解を暗唱する21世紀の生徒たちとはまるで別の生き物のように感じられるでしょう。
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by komunisto | 2015-04-07 15:25 | 教育
2215年2月24日

23世紀に飛んできてしばらくすると、近所に学校に通っていないように見える子どもが少なからず存在するようなので、調べてみたところ、その訳がわかりました。それは、23世紀の学校が選択的通学制を採用しているためでした。

選択的通学制とは要するに、学校に通学するかどうかは子どもと保護者の選択に委ねられるという制度です。通学しない選択をした場合は、自動的に通信コースに編入されますので、一切学校教育を受けないという選択は許されません。

以前の記事でご報告したように、23世紀の学校制度は義務教育の期間を13年間に延長しつつ、通学/通信を選択式にして、柔軟な制度に設計されているわけです。なお、通学/通信の選択は学期の節目であれば、いつでも自由に切り替えが可能という極めて柔軟性の高い制度です。

ただし、例外があり、健康体育と生活技術という実技系科目だけは、その性質上通信受講は不可能なことから、一律に通学が義務づけられているため、結果として通信生でも週何日かは部分的に通学する日があります。

とはいえ、義務教育は通学オンリーという時代を経験した者には、13年間ずっと通信制で学ぶとなると、いわゆる社会性の涵養が疎外され、ある種の引きこもりになってしまうのでは?という心配も浮かびます。この点、教育関係者に尋ねてみると、怪訝な顔をされ、おおむね次のような回答をされました。

23世紀の学校は社会性云々ではなく、生徒個々の資質や適性を発見し、それを伸ばす手助けをすることに重点を置いているところ、学びのスタイルについては通学/通信いずれでもよく、自分に向いたコースを選択するほうがむしろ身につきやすい、と。

なるほど、23世紀的な合理主義思考に基づく教育観であると思います。考えてみれば、学校嫌いで毎朝の通学に苦痛を感じていた筆者にとっては、羨ましい制度です。

もっとも、社会性の涵養も無視されているわけではなく、それは学校とは切り離して、地域少年団という公的な集団活動の役割とされているそうです。これは通常の教育とは別立てとなっているため、改めてご報告することにします。
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by komunisto | 2015-02-24 09:50 | 教育
2215年2月12日

前々回の記事で、トリリンガルな言語人の育成を目指す23世紀の外語教育について報告しましたが、これは少し修正する必要があります。というのは、四つめの「言語」として、手話が必修とされているからです。

手話には、母語手話とエスペラント手話の二種類がありますが、とりあえず学校で必修科目となっているのは、母語手話のほうです。日本なら、言うまでもなく、日本語手話です。

21世紀には手話というと、聴覚障碍者向けのコミュニケーション手段と考えられていましたが、23世紀の手話は、ボディーランゲージの代表として、非障碍者も身につけるべき「言語」だと考えられているのです。

従って、手話は特殊な授業ではなく、「言語」という科目の中で扱われます。この「言語」とは、かつての国語にエスペラント語及び近隣外語、手話まで併せて、言語全般の運用能力を総合的に涵養するすぐれて23世紀的な授業科目です。

こうした手話必修化も世界レベルで実践されているため、基礎教育を修了した23世紀人なら、普通に母語の読み書きができるのと同じレベルで母語手話もできます。またテレビ番組は原則として手話通訳が法律で義務づけられています。

面白いのは、非障碍者同士でも、少々おどけて手話で会話する光景が見られることです。実際、23世紀人はその気になれば、すべて手話で会話し合うことも可能なわけです。

そんな光景を見るにつけ、筆者が20世紀後半に受けた音声言語至上主義的な―それも国語と英語に偏った―旧言語教育は、いかに人間の言語運用能力を制約し、ひいては思考世界をも狭めていたか、痛感させられます。
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by komunisto | 2015-02-12 09:28 | 教育
2215年1月31日

23世紀には外語教育のあり方も大きく変化しています。現在エスペラント語が世界公用語の地位を与えられているため、世界の学校でエスペラント語が必修科目として教えられていることは、以前の記事でもご報告したところです。

エスペラント語はちょうど21世紀の英語と同様の地位にあり、世界共同体の公式会議等はもちろん、民間の民際会議でも公用語として普通に用いられますから、民際人として活躍したい人には必須の言語です。

反面、英語は任意選択科目となり、その地位を大幅に低下させています。一方で、重視されているのが近隣外語教育です。近隣外語とは境界を接している周辺領域圏の公用語のことをいい、日本の場合には、中国語と韓国語、ロシア語がそれに当たります。

ちなみに、再三再四説明しているように、23世紀には「国」という政治体が存在しないので、現在では中国語は漢語、韓国語は高麗語と呼ぶようになっています。

こうした近隣外語教育の目的は、近隣領域圏との友好善隣を深めることにあり、世界共同体の教育憲章でも、エスペラント語教育とともに、近隣外語教育が構成領域圏に義務づけられているため、すべての領域圏においてそれぞれの近隣外語教育がなされています。例えば、日本の近隣では日本語が教えられているわけです。

日本の近隣外語教育は、21世紀の教育制度でいえば、小学校高学年に相当する課程から、必修選択科目として課せられます。つまり、すべての生徒は漢語、高麗語、ロシア語のいずれか一つを選択しなければなりません。

このようにして、全員必修のエスペラント語に選択必修の漢語・高麗語・露語のいずれかを加え、理想的には、母語(日本語)とエスペラント語及び漢語または高麗語のいずれかのトリリンガルな言語人の育成が目指されているのです。
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by komunisto | 2015-01-31 14:48 | 教育
2214年12月4日

23世紀の教育制度は振るい落とし型のエリート選抜教育ではなく、基礎教育を中心とした平等な市民教育が徹底していることは前にご報告しましたが、スポーツ・芸術分野のように「才能」に大きく依存する分野はどうなっているのか、気になっていました。

こうした早期英才教育が必要と考えられている分野では、やはり少し例外があるようです。基本的には高度専門職学院の一環として、体育学院とか芸術学院といった教育機関が設置され、アスリートやアーティストの養成を行っています。

通常、医科学院とか法科学院等の専門職学院に進学するには、基礎教育を修了した後、一定年数の就労経験を要するのですが、スポーツや芸術では性質上早期からの専門教育やトレーニングが必要なため、基礎教育終了後、直ちに進学することも認められています。

こうした特殊な専門職学院は附属の予備課程も擁していて、基礎教育課程に在籍するスポーツ・芸術面で特に際立った才覚を発揮している生徒には、この予備課程への編入が認められることもあります。附属予備課程では通常の基礎教育とともに、各専門分野の教育も並行して行われています。

従って、厳密に言えば、エリート選抜教育もないことはないのですが、あくまでも例外的なコースにとどまっていて、いわゆる受験専門進学校のようなエリート校は存在しないことに変わりありません。

ちなみに、個人的な関心のある芸術学院の音楽科を覗いてみて印象的だったのは、21世紀までのいわゆる音大にはほとんど見られなかった大衆音楽専攻のコースもあることでした。クラシック音楽を特別に高尚なものとみなし、“低級な”大衆音楽を教育対象から外すという階級的発想が一掃されています。

もちろん、伝統的なクラシック音楽のコースも用意されていて、一応別系統で教えられているのですが、どちらが偉いというような差別はないことが印象的でした。それだけ芸術の世界も良い意味で共産化され、階級的な垣根が取り除かれているようです。
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by komunisto | 2014-12-04 13:53 | 教育
2214年11月9日

21世紀の日本では、ワーキングマザーの増加に伴い、保育園不足が社会問題となっていますが、23世紀にはこのような問題は発生する余地がありません。というのも、今や保育は教育と並び、親の法律上の義務となっているからです。

23世紀の教育制度は、以前ご報告したように、原則6歳から始まる13年一貫制の基礎教育がベースとなっていますが、その前に、満1歳から始まる保育が義務づけられています。従って、期間的には5年保育となります。

21世紀まで保育は教育というより福祉の範疇に属する位置づけでしたが、23世紀には教育の前段階という位置づけになっています。その一方で、幼児教育を担っていた幼稚園の制度は廃止されています。

このように保育が義務とされているのは、発達心理学上、社会性の健全な発達を促すためには早幼児期の適切な保育が重要であることが実証されたためだそうです。一方で、早幼児期からの「英才教育」は一般に考えられているほど効果がないことも実証されたことから、幼稚園は廃止されたのです。また保育段階では障碍児と健常児を区別しない統合保育が実践されています。

こうして保育が義務となれば、保育園を民間任せにして、待機児童の行列を作ることは許されません。23世紀の保育園はすべて市町村営の公立保育園となっており、待機はあり得ません。ただ、都市部では定員の関係上、別地域の保育園に入園せざるを得ない場合はあるようですが、どこにも入れないということはないのです。

また保育が義務となったことで、保育専門家の役割も重大となり、保育士は今や漢字表記も「保育師」に変わっています。保育師にはセラピストとしての素養もあり、問題行動の見られる園児や障碍を持つ園児に対しては、個別に療法的な保育も行なうことができるなど、保育士時代に比べ、専門性が格段に上がっています。

一方、保育が義務となったことで、親は仕事の有無を問わず、子が1歳に達すれば、平日の半日は育児から解放される時間を確保でき、育児ストレスを軽減できるので、学齢前に起こりがちな児童虐待の防止にも効果があるとされています。
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by komunisto | 2014-11-09 09:37 | 教育
2214年9月6日

23世紀人を見ていると、男女を問わず、皆日曜大工や家事を難なくこなしています。「男女共同参画」云々といった大袈裟なスローガンは全然聞かれないのに、自然とそうなっているのはなぜか。調べてみると、教育に秘密があるようです。

23世紀の教育は旧義務教育に高校教育を併せた「基礎教育課程」と、成人に対する「生涯教育課程」の二つから成ることは前に報告しましたが、前者の基礎教育課程では「生活技術」という科目が重視されているのです。

この科目は、内容からすると、ほぼ旧技術・家庭科に相当するものと見てよいようですが、技術科と家庭科に分断されておらず、完全に一体化されたうえ、男女必修科目となっています。

また旧技術・家庭科が一般の教科に比べ、どちらかと言えば付け足し的だったのとは異なり、現代の「生活技術」は一般教科と同等の比重をもって、日常生活で必要有益な工作や家事に関する技術全般を旧小学校中学年に相当する年限から何年もかけて重層的に仕込まれていきます。

自動機械もいろいろ進化していて、家事ロボットなど機械の使用法も学びますが、一方で手作業の価値も重視されていて、基礎教育課程を終えれば、ひととおり日常的な生活技術は身につくようにカリキュラムが組まれています。

ところで、23世紀世界に飛んできて驚いたのは、23世紀人はほとんどが両利きであることでした。調べてみると、23世紀人は家庭や学校で意識的に両利きに育てられるようです。学校ではまさに生活技術や言語教育の科目をも通じ、左利きを矯正せず右手も使えるように、また右利きなら同時に左手も使えるように訓練されるのです。

これは万が一利き腕が病気や怪我で不自由になっても生活に支障が出ないようにするための教育的配慮だそうで、さすがバリアフリーが徹底している時代ならではの行き届いた教育方針だと感心したものです。

個人的には手先が不器用で、ちょっとした工作でも怪我をしやすいのが悩みなのですが、筆者も23世紀の生活技術教育をみっちり受けて、両利きになっていれば、今頃生活の達人になっていたかもと思うと、早く生まれすぎたことが悔やまれます。
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by komunisto | 2014-09-06 15:03 | 教育