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あと残すところ1日となった今年2012年は、戦後日本国民にとって最大の政治的学習の年だったと言えるだろう(戦前のそれは間違いなく1945年だろう)。教訓は「労働者階級は、単に出来合いの国家機構を掌握して、それを自分自身のために利用することはできない」(マルクス)である。

振り返ると、3年前の「政権交代」とは、思い切り拡大解釈すれば日本史上初の「労働者革命」であった。まがりなりにも労組を有力な支持基盤とし、「生活第一」を掲げた政党が圧勝し、短い中断をはさんで半世紀以上も政権の座にあったブルジョワ保守政党を大敗させたのだから。

しかし、「革命」はわずか3年あまりで終わった。その理由の一端が、冒頭マルクスの箴言にある。要するに、「労働者革命」―現代風に言い換えれば「生活者革命」―を実行するには、既成の政党にとどまらず、既成の国家機構そのものと決別すべしということだ。

今度こそ「民主党」のようなヌエでない真の「労働者党」を結成して次期総選挙に出直せというのではない。もはや政党政治によらない全く新しい政治の仕組みを作り出すことである。その土台は生活不安の元凶である資本主義経済ではもはやないだろう。

そうした根本的な変革のためには、既成の社会構造全般との断絶が必要であるが、それは旧来の武装革命の手法によってはもはや実現しないことも確かだ。

むろんそのような大変革は一朝一夕にできることではない。さしあたりは元の木阿弥の選挙結果となったわけであるが、その原因は衆院選で戦後最低の投票率にとどまったこと、言い換えれば棄権率が戦後最大に達したことが、地すべり効果を持つ小選挙区制の歪みと相乗して旧与党の圧勝・政権復帰をもたらしたと分析されている。

棄権者が悪いと言わんばかりである。しかし、棄権者を責めるべきではない。その棄権は怠慢ではなく、行き場を失っての躊躇である。この躊躇は新しい政治を作り出すうえで必要な一時停止であるとポジティブにとらえるべきだ。「圧勝」した旧勢力は国民の圧倒的支持を受けたものと勘違いすべきではない。
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とうとう新聞の購読を止めた。思えば10代の終わり頃から読み始めた新聞は、テレビに次いで長い付き合いのメディアであった。

読み始めた頃の新聞には突っ込んだ連載調査報道や、読みごたえある外部筆者の文章なども掲載され、毎日読むに値すると思えるような媒体であったが、近年の新聞にはそうした特色が失われ、横並びの当局発表記事や無難な生活雑報、スポーツ・芸能への過剰な傾斜などの人気取りも目立つ。

そういうわけで、近年の新聞に月数千円の購読料に値する価値があるかどうか疑問も少しずつ頭をもたげていたのだが、介護費などがかさむようになった家計的事情が決断を後押しした。

それでも、新聞という最も古いマスメディアにはなお長所がなくはない。画一化著しいとはいえ、まさに横一線のテレビ報道に比べれば多様なニュースの提供源とはなっているし、テレビにはない「社説」という形で社論を日々発表することから、各紙でイデオロギー的な違いも若干は残されている。

複数紙を平行購読して読み比べる余裕があれば、新聞はなお有益な媒体であるかもしれないが、我が家計がそんな贅沢を容赦しない。 

ちなみに、将来の消費増税は新聞代にかかる消費増税をも排除しない。この点、「25%」という消費税率だけがしばしば引き合いに出されるスウェーデンでは、新聞や書籍のような文化商品には軽減税率が適用されるという。

遺憾ながら日本政府にはそんな文化的センスを期待できないことも、購読中止の動機である。
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政権交代ならぬ「政権復旧」で再び公共事業頼みの経済への復帰も取り沙汰される。たしかに、かつての開発至上・利権まみれの公共事業への復古が起きないか懸念はあるが、「コンクリから人へ」といった教条的な公共事業否定論にも疑問がある。

資本主義社会では公共事業による人為的な雇用創出はなお失業防止の安全弁として有効であり、特に建設関係の肉体労働は労働条件面で多くの問題含みではあっても、雇用の下支え効果は否定できない。

旧来の公共事業は御役御免としても、新たな21世紀型公共事業は可能であり、有益でもある。それは、老朽化した道路や橋などの安全配慮的なリニューアル工事や学校を中心とした公共建造物の耐震化工事・再築といったリフレッシュ型公共事業である。

こうした公共事業は高度成長期の開発型公共事業のような成長効果を狙うのではなく、晩期に入って不安定さを増す資本主義社会における雇用対策としての効果と、社会経済が成長期を終えて成熟期へ移行するための準備をも想定したものである。

この点、公明党が公約に掲げる「防災・減災ニューディール」はこうした新しい公共事業の方向に比較的沿うが、そこにはなお古い成長論の枠組みが残されているように見える。

今日発足の運びとなった安倍再政権には、失敗に終わった「コンクリから人へ」を「人からコンクリへ」に揺り戻す単純な反動ではない、新しい公共事業のあり方を模索することを期待する。復古調の香り高い安倍再政権に期待したい唯一の新味である。
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人間の平均寿命はどれくらいが適正か。これは、ひたすら長寿を言祝ぎ、煽ってきた―今でも―日本社会では普段ほとんど思考されることのない、封印された問いであろう。

だが、平均寿命が伸び過ぎれば、人口構成や生産活動、介護・医療の社会的負担など様々な点で解決困難な諸問題が発生することは、まさに世界に冠たる長寿国となった現代日本が証明している。従って、「あるべき平均寿命論」をタブー視すべきではないのだ。

さて、それではあるべき平均寿命とは?この答えを科学的に算出することは難しいだろうが、経験論的に言えば75歳前後ではないだろうか。

ちなみに、この75歳という数字は現行後期高齢者医療制度上の年齢区分となっている。この「後期高齢者」という概念は差別的だとして評判が悪く、制度廃止論もくすぶる。だが、案外この数字には意味がありそうだ。

一般に75歳前後を境に要介護となる確率が高まっていくことは事実のようである。現代のいわゆる先進諸国では75歳くらいまではどうにか自立的な生活が可能であるが、それを超えると様々な老齢期疾患に見舞われ、自立度が落ちていく。よって、そうなる境目の75歳くらいでお迎えが来るのがちょうどよいというわけだ。

もっとも、無条件に長寿を良しとする考えからすれば、要介護でも生き続けるべきだということになるかもしれないが、果たしてどうか。 

要介護状態というものには、周囲にとっても本人にとっても経験しなければ実感できない辛さがある。生きるということは単に生命活動が生物学的に保たれていることではなく、人間として自立的に生活することを意味するのではないか。

そう考えると、長生しすぎるのは決して無条件に幸福ではなく、適当なところで今生に別れを告げたほうがよいというのが、とりあえずの私見である。

もちろん、平均寿命とは全体の平均値にすぎないから、例外的にかくしゃくとして100歳まで自立を保って大往生する人があって悪いわけではない。しかし、それはすべての人にとって可能なことではない。

戦後の日本社会で長寿が讃美され、実際長寿化が達成されたのも、「数字が大きいことは良いことだ」として規模の拡大をひたすら追求する資本主義的成長論の副産物であったのだろう。だから、長寿化に対応する社会的サービスの充実のほうは常に後手後手に回っているのだ。

とはいえ、今から平均寿命を政策的に引き下げることは困難であるから、皆が平均して75歳でお迎えにきてもらうためには、適度に不摂生をしたり、75歳前後になったら癌のような死病も積極的に治療せず自然の経過に委ねるといった各自の死生観の転換が必要になるだろう。

一般化して言えば「数字が大きいことは良いことだ」という数値至上主義の価値観から脱却すること、より簡潔に言い換えれば「量より質」ということに尽きる。
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漱石の有名なデビュー作『吾輩は猫である』は、野良猫上がりの主人公の猫「吾輩」が猫の目を通して近代の人間社会を皮肉を込めて批判的に観察批評するところに妙味がある。

中でも「人間とは天空海闊の世界を、我からと縮めて、おのれの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだ」という一節には考えさせられる。

現実の猫も「縄張り」を持つ動物であるが、猫の縄張りは「ホーム・テリトリー(寝食の縄張り)」と「ハンティング・テリトリー(狩の縄張り)」とに分かれるという。このうち「ホーム・テリトリー」は猫にとってまさに「我が家」であり、相当に排他的であるが、「ハンティング・テリトリー」は他の猫とも共有する部分が多く、その境界はあいまいであると言われる。

人間の場合は、ホーム・テリトリーすなわち「マイホーム」も排他的であるが、言わばハンティング・テリトリーに相当する「領土」はそれ以上に排他的である。

だが、そのことによって移動の自由を自ら制約し、まさに「おのれの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工で自分の領分に縄張りをする」状態になってはいないか。その結果、それこそ猫の額のように狭小な小島の領有権をめぐって国同士が激しく角突き合うということも珍しくはない。

実際、人間のテリトリーに関する観念は、他の動物に比べてもいささか狭量すぎるようである。そういう狭量さは、時代下っていわゆる近代国家の建設が進むにつれて、いっそうエスカレートしてきた。古代中世までは国境の観念はあいまいであったから、遊牧民に限らず、人々はもっと自由に他国との境界を出入りしていたのだ。

そうした原点を見つめつつ、おそらくは人間の動物的本性に由来するのであろうテリトリーという観念自体を再考に付し、より開かれた領域概念を創案すべき時ではないか。それは人間が誇る“高等知能”を駆使すれば不可能ではあるまい。

領土主義的主張を高く掲げる勢力が「圧勝」の美酒に酔う今、最近、狭小な我がホーム・テリトリーの周辺に増え始めた野良猫たちを眺めながら、そんなことを思惟うこの頃である。
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「エコロノミスト」は、エコノミストの誤記ではない。エコノミストであれば、現代ではメディアでお馴染みの経済分析家のことであるが、エコロノミストは、おそらくまだそれとして存在すらしていない新しい職業である。

この語の語源である「エコロノミー」とは、「エコノミー」と「エコロジー」を掛け合わせたアメリカの国際法学者スティーブ・チャーノビッツの造語で、そこからさらに筆者がそうしたエコロジーを踏まえた経済分析家の名称として造語したのが、表題の「エコロノミスト」である。

通常のエコノミストは、天災地変や気候変動といった環境的変化を視野に入れず、経済現象だけを見て現状分析や将来予測に及ぶ。かれらの経済分析は地球には何ら自然的変化がないという不自然な観念的想定に立っているわけだが、これはまさに伝統的な「経済学としての経済学」を基礎とする実践である。

それに対して、エコロノミストの仕事は、環境的持続可能性を踏まえた経済分析である。これは、地球環境問題が重要な人類的課題となった現代において新しい経済学の分野として認知されてきている「環境経済学」の実践と言ってもよい。

こうしたエコロノミストが待望されるのは、例えば今般の総選挙でも重要な争点となった「脱原発」にしても、単に節電問題にとどまらず、原発なしで経済がどう回っていくかということについて社会科学的に信頼に値する分析は伝統的なエコノミストの仕事の仕方では不可能だからである。

そうした環境経済学的分析は今日、あらゆる経済問題に関して必須となっている。エコロノミストは環境経済学的に信頼に値する分析を提出することで、さしあたりは資本主義経済の枠内で環境的に持続可能な経済活動のあり方―その不能性をも含めて―を計量的に指し示すことができるのである。

それを超えて資本主義に取って代わり得る究極の選択肢を示すことはもはやエコロノミストの任務ではなく、エコロジストあるいはコミュニストの任務である。その意味で、エコロジストやコミュニストは政治活動家であると同時に経済分析家でもなければならないのである。
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少し前から“安心・安全”という連結語が流行している。人々の不安が増している現状を反映してか、政治家も企業家もキャッチフレーズとして多用するが、筆者はこの語にこそ、いささか不安を覚える。

ここで人々の不安の内実を立ち入って考えてみると、不安にも二種類ある。一つは自然的不安、もう一つは人為的不安である。

前者の自然的不安はおよそすべての生き物につきものの不安である。それは端的にいえば、「生きている限りいつ死ぬかわからない」という生物普遍の法則であって、避けられない不安である。言い換えれば、生きることは不安と同義と言ってもよく、もしこうした自然的不安が解消されてしまえば、それはもはや生き物ではなく、ただのモノになってしまうということだ。

それに対して、後者の人為的不安とは人間自らが作り出した不安である。その最大のものは生活不安であるが、治安上・軍事上の不安がこれに次ぐ。こうした人為的不安は、自然的不安とは違って人為的に解決できる不安である。しかし、これとて不安をゼロにすることはできない。「ゆりかごから墓場まで」は幻想であるし、犯罪も戦争も一切ない世界というものも到達不能な理想郷である。

となると、あたかもこうした不安をすべて取り除いてくれるかのような安心感を搔き立てる“安心・安全”は、安楽さへの危険な政治的・経済的欲望操作のマジックワードではないだろうか。

それは、政治的な面では軍事・警察国家化や社会保障名目での課税強化策に利用される。経済的な面では生命保険、ホームセキュリティなどなどの各種保障サービス・商品の売り込みに利用される。要するに、人々の不安を利用した権力と資本の心理的戦略なのだ。

こうした甘い罠にはまらないためには、不安ゼロで生きたいと欲望しないことだ。不安はある意味で、正常な生活感覚の一つである。そうした不安をうまく自分の内部で消化しながら生きることの重要さが痛感される。

ただし、人為的不安については社会変革を通じて削減していくことが可能である。例えば、現代の生活不安は景気循環に左右される本質的に不安定な資本主義経済体制の欠陥に由来する。それは資本主義体制を根本から見直すことで一定の解決策が見出せるだろう。
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選挙カーから発せられる“大きな音”を聞かされるにつけ、政党というものの空虚さを体感する。同様に感じる人は少なくないらしく、各種世論調査でも、支持政党なしのいわゆる「無党派層」は増大の一途である。

おそらく、かつては民主主義の代名詞とも言えた政党政治そのものの消費期限が過ぎているのだ。そう結論せざるを得ないほど、近年の政党政治は劣化が進んでいる。

そのことを「民主主義の危機」として不安視する見方もあろう。たしかに「強いリーダー」待望論のような形で、指導者の鶴の一声で動く権威主義的な独裁政治への憧憬がじわりと生じてきている気配はある。

それはたしかに危険であるが、政党政治の終わりは決して民主主義の終わりを意味しない。むしろ、政党政治という形態こそ、民主主義の過渡的産物にすぎなかった。政党政治は世襲を基本とする古来の王侯貴族政治を克服し、政党を媒介して政治参加の枠を拡大した歴史的な功績を持つ。

しかし、今では政党こそが政治参加の枠を狭めていると言って過言でない。政党政治とは裏を返せば、政党にコネクションのない者を政治の中心―議会―から遠ざけ、単に定期的に投票するだけの周縁的存在へと追いやる仕組みだからである。

こうした政党政治の終わりは、政党なき民主主義の地平を開拓するチャンスでもある。すなわち、政党に媒介されない民主主義の制度が新たに発明される可能性が眼前に開けているのだ。

発明という言葉は政治の世界ではなじみが薄いが、本来、政治制度は鉱脈のように「発見」するものではなく、機械のように「発明」するものである。政党や議会といった諸制度も、元をただせば近代の政治的発明物であった。

政党なき民主主義の制度は、政治を政党が選抜する職業政治家に委任するのでなく、政治すなわち自分たちが住む社会の運営を自分たちで処理するような仕組みとなるはずである。ただ、それは現実的に不可能な「直接民主制」ではなく、代議制の仕組みを継承しつつ、それをより「直接的」なものに練り上げていく方向に行くだろう。

増大する「無党派層」を最終的に独裁政治に絡め取られる羊の群れではなく、新しい民主主義の政治的発明家集団とするためにも、政党政治を民主主義の唯一の方法であるとみなすような狭い政治学から脱却することが急がれるのである。
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家族の介護をしていて不便なことの一つは医療である。要介護者には多重的に疾患が現れる。そのため臓器・疾患別の縦割り診療では病院を何箇所も回る必要があるが、足腰の弱った要介護者をあちらこちらの病院へ連れ回すのは容易なことではない。

高齢者医療は成人医療の一環ではあるが、それは一般的な成人医療の単なる延長ではない。子どもに関しては子ども特有の疾患を横断的に診療する小児科があるように、高齢者を横断的に診療するワンストップ的な「老年科」があって然るべきではないだろうか。

介護者が望む「老年科」とは、内科(認知症を扱う神経内科を含む)を軸に、要介護者の大半が何らかの関連疾患を持つ整形外科、高齢になると意外に悩む人の多い排尿障害に対応する泌尿器科領域もカバーする診療科である。 

その他眼科や精神科といった「老年科」の枠内ではカバーし切れない領域でも、高齢期特有の疾患については暫定的な診断と適格な専門医紹介ができることも「老年科」の条件となる。

さらに、高齢者が避けて通れない終末期医療も「老年科」の重要な任務である。それとも関連して、通院困難な患者向けの在宅診療に対応する体制が常備される必要もある。

こうした「老年科」はそれ自体が一個の専門診療科でもある。特に認知症が進行すると、患者自身は言葉で症状を説明できなくなるため、老年科医には小児科医並みの直観力も必須で、老年科医は決して片手間ではできない仕事である。

しかし、すでに老年医学の専門家で構成する老年医学会は存在しており、本格的な専門医養成が可能な条件がなくはない。むしろ「学会あって診療科なし」という現状は、小児医学会はあるが小児科はないという状態と似て、奇妙である。

介護は医療と切り離せない。こうした「介護と医療の連携」はスローガンとしてはかねてから言われているが、内実は乏しい。「老年科」があれば、ケア・マネージャーを中心に介護と医療を実際につなぎやすくなるだろう。

ワンストップ型の効率的な「介護‐医療連携システム」は、日本社会が超高齢社会に突入した今、増大する医療・介護費の節減にもつながる必須の社会的インフラである。 
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環境問題・エコロジー関連のキーワードとして定着している「持続可能性」という理念について、筆者はかつてここに現存社会体制の保守という含意を読み取って忌避していたが、現在ではそうした誤解を解いて受容している。

しかし最近、また別の観点から懐疑が頭をもたげてきた。それは要するに、地球の生命自体が永遠不滅ではあり得ないのに、「持続可能性」を云々することにどんな意味があるのだろうかという疑念である。

筆者はいわゆる終末論の信奉者ではないが、地球が包摂される宇宙自体が、遠い未来には電子、陽電子、光、ニュートリノといった物質だけの世界―いわゆる「冷たい宇宙」―に変貌し、地球上に生命体が生存する余地がなくなってしまうという宇宙物理学的な予測がなされている。

そこまで至る前にも、地球が属する太陽系の宗主である太陽の寿命が尽きてしまうとの予測がある。太陽が死滅すれば、人間を含め太陽光に依存する生命体も死滅するであろう。

こうした「科学的終末論」を考慮すると、「持続可能性」という理念は再考を要するのではないかと思えてくるのだ。

もちろん、しょせん地球には終わりが来るのだから、未来のことなどお構いなく、今のうちに地球環境を思う存分食い尽くしてしまえというわけにはいかない。

予測されている「冷たい宇宙」の到来も、それは10の何十乗というまさに天文学的遠未来のことだし、太陽の死滅も50億年くらい先のこととされるから、「持続可能性」とは、せめて地球自体の物理学的な終焉が訪れる以前の近未来のうちに、地球環境を人間が蕩尽してしまうことのないようにしようとの理念ということになろう。

「無限」は数学上の観念としてはあり得ても、現実にはあり得ない。地球環境は無限ではないが、その持続性も決して無限ではない。そうした有限の地球環境の有限の持続性を確保することが「持続可能性」であると考えてみたい。
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