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ネット検索全盛時代には、自分が関心を持ち、共感できる言説だけを取捨選択して接する傾向が以前にもまして強くなる。こうした傾向をポジティブにとらえる向きもあるが、筆者の見方は異なる。

共感できる言説だけを取捨選択していると、思考の純化が起きる。思考の純化とは、もう一つ文字を加えれば「単」純化であり、思考の単純化は思考の陳腐化、教条化の原因を成す。それは一見思考しているように見えても、実は思考の遮断・停止にほかならない。

そうした事態を防ぐには、共感できない言説にもあえて接することである。そうすると、時に不愉快な思考の衝突が発生するけれども、その衝突から思考の化合が起きる。思考の化合とは単なる混合を超えて自己の思考枠を広げ、独創的な思考を生み出す反応である。

化学世界では水と油のように混ざらず、新しい物質を作り出さない物質同士もあるが、思考世界では水と油も混ざり合って化合し、新しい思考を生み出すのである。

筆者の場合は、例えば資本主義とか国家主義といった言説には共感できないのだが、そうした言説をも排除せず、自己の思考上化合させることが独創的な新思考につながると信じる。
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安倍再政権が打ち出した「金融緩和・公共事業・経済成長」の経済政策三点セットの中では、最後の「経済成長」に最大力点があることは明らかである。21世紀の日本経済は成長期を過ぎた成人の段階。それなのにまだ成長させようというわけである。

これは通常の成人に成長ホルモン剤を投与して、さらに背を伸ばそうとするようなものである。無理をすれば重篤な副作用の危険がある。すなわち雇用・賃金増なき“成長”である。政策的インフレによる物価高とその後に控える増税により、貧富差の拡大と貧困化の増大が結果されるだろう。

三点セットには長引く深刻なデフレからの脱却という狙いもあるようだが、見方を変えれば、長期デフレとは頑張りすぎた急激な成長期を終えた疲れが長引いているようなものだ。

そもそも資本主義的成長モデルは食べ盛りの成長期の政策である。それは「質より量」ということで、とにかく子どもに盛り盛り食わせて成長を促す政策である。

その甲斐あって成長した暁には、成長ならぬ成熟の段階に適するモデルへ移行する必要がある。「量から質へ」の転換である。すなわち環境的持続可能性の制約下で、生産量より生産性を重視した経済活動を展開することだ。

そのためには、再生可能エネルギーへの転換が欠かせない。また雇用は全般に縮小するので、ワークライフ・バランスを考慮した時短とワークシェアリングでカバーしていく必要がある。

だが、こうした道はたしかに険しい。資本主義は成熟モデルと本質的に不適合だからである。資本主義は無理矢理にでも成長し続けなければ維持できないシステムである。成熟モデルに移行するには、「資本主義」という歴史的な思考枠から飛び出す必要があるゆえんである。
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「延命」について考えさせられる出来事が二つあった。一つは家族が通う介護施設から「万一」の時に当たっての延命治療の希望の有無に関する同意書を突きつけられたこと、もう一つは麻生財務相の「さっさと死ねるように」発言である。

自分自身の延命に関しては「辞退」と決めており、尊厳死も容認する立場だが、難しいのは家族という他人の延命に関する判断である。

生命は何よりも一身専属的なものであるから、本来何ぴとも他人の生命の帰趨については―たとえ肉親といえども―決定権を持たない。しかし、自身の延命に関する患者本人の見解が不明で、最期に当たって意思表示もできない場合は、家族が代理的な判断を求められるわけである。

これはたいていの人にとって悩ましい問題であるのに、近年はいささか粗雑な扱いがなされているように見える。「延命措置を希望する/希望しない」の二者択一判断を、まだ延命が問題となるような段階では全然ないのに一枚の書類で突きつける無神経なやり方には当惑を通り越して憤慨せざるを得ない。麻生発言も―その粗雑さはいつもの癖だろうが―同類だ。

医療慣習としては、患者にとっても肉体的・経済的な負担が大きな「延命のための延命」はしないことを原則とすべきであるとは思うし、予め尊厳死の意思を文書化しておくリビングウィルの普及も望ましいことではある。

しかし、およそ生命に関わる問題では、他のいかなる問題にもまして教条主義は禁物である。「延命のための延命」はしない原則に立ちつつも、本人または家族が何らかの事情ないし感情から残り三日であろうとあえて延命を希望するならば、その希望をかなえるだけの柔軟さを持たせる必要はある。

同時に、延命が問題となる以前に同意書の類を言質的に取るようなやり方はやめるべきである。「その時」に延命に関する原則を説明したうえで、あえて延命を希望するかどうか、ソーシャルワーカーのような相談業務の専門家を通じて丁寧に意思確認することが望ましく、それで何の不都合もないはずである。
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米国のSF映画『地球が静止する日』を偶然テレビで観た。偶然というのは、日頃この手の宇宙人映画は観ないからであるが、今回はたまたまテレビをつけたら始まったので、結局最後までお付き合いすることにした。

この種の映画に通じていないため、本作の評価はよくわからないが、おそらく同ジャンルの作品の中ではあまりよい出来栄えではないのかもしれない。

ただ、地球を救うため人類を滅ぼすべく地球へ飛来したという人間の姿をした主人公の異星人クラートゥの「もはや人類に地球は任せられない」という信念は、意外にリアルに響く。

実際、地球環境問題に関しては散々国際会議が開かれてきたが、自国の経済発展を優先したい各国の利害が対立し、真に実効性のある解決が得られた試しがない。「人類はまだ地球を救えるから、猶予が欲しい」と懇願するクラートゥと親しくなった女性宇宙生物学者ベンソン博士の言葉も虚しく聞こえる。

詳しいプロットは略すが、曲折を経てベンソン博士の懇願を聞き入れたクラートゥ―その経緯はいまひとつ理解しにくいのだが―は、条件付きで人類を救う決断を下す。その条件とは、地球の恒久的な停電であった。やや拍子抜けするが、これもエネルギー問題を考えさせる結末ではある。

本作は1951年に公開された同名SF映画のリメイク版というから、すでにSFというジャンル自体が古典的となった今日では、SF映画というよりも環境映画として観る意義はあるかもしれない。

ちなみに、その前にやはり偶然テレビで観た『Avatar(アバター)』もより話題を呼んだSF映画だそうが、こちらはいよいよ地球資源が枯渇した22世紀という未来に、人類が惑星パンドラに進出し、鉱物資源の採掘プロジェクトを進める中で、人類に似た―しかし長い尾を持つ―自然と共生する知的生物ナヴィの先住民勢力と戦う活劇である。

地球をしゃぶり尽くし、まさに地球が「静止」したら今度は別の惑星を新たな開発標的にするという御都合主義は人類が実際にやりそうなことではあるが、映画では結局、人類はパンドラを征服できず、先住民勢力の前に敗退する。人類の御都合主義を成功させない結末は好感が持てる。

こちらは前者以上に荒唐無稽な米国流活劇の性格が強い作品ではあるが、そうした中にもやはり環境映画として観ることのできる要素があるのも、面白い発見であった。
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人間は笑う動物である。笑いは生理的―時に病理的―反応であると同時に、一つの文化現象でもある。

近年の日本では「お笑い」が花盛りで、テレビをつければお笑い番組ばかり、通常番組にすらお笑い芸人が多数進出し、お笑い系以外の出演者までもが無理にお笑い的言動をしてみせるようなご時勢である。

しかし、心底笑える「お笑い」は少ない。ただのギャグや悪ふざけにすぎない「お笑い」が多い。そこにはユーモアが欠落している。笑いの種類で言えば、哄笑や嘲笑である。

ユーモアには文化的な特色がある。日本の伝統的なユーモアは狂言や落語に見えるが、こうした伝統的な笑いと現代の「お笑い」の間には断絶がある。

現代の「お笑い」は吉本興業に代表されるような芸能資本によって商業的に生産されている。それは文化の衣を纏ったマーケティングの産物である。言わば、経済的な笑いである。

経済的な笑いは、―マルクス的な意味での労働搾取をも伴った―ひとつの商品であり、技巧的に笑いを取りにいってナンボの世界。

それに対して文化としての笑いは無償の笑いであり、そこには権力や権威、世間といったものをチクリと刺す風刺の精神がある。良質のユーモアは必ず風刺の精神と結びついている。

こうした文化としての笑いの現代的な再生を願う。それは単なる文化問題を超えて、資本主義という経済システムの変革とも密接な、文化‐経済問題でもある。
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今日は「成人の日」。かつての元服式のようなものだが、元服年齢は15歳前後。それが明治時代に制定された現行民法で20歳成人となった。 

平均寿命が延びるにつれ、ひとまず社会に出る基準年齢である成人年齢も引き上がっていく。かつて人生50年かせいぜい60年であった時代の20歳成人は妥当な線だったろうが、現在、人生80年超え時代の成人年齢はもはや20歳ではやや早く、実質30歳成人が妥当ではないだろうか。

ちなみに40歳は「不惑」というが、これも語源を作った孔子の時代、人生50年にも届くか届かないかくらいの頃のこと。ただし、孔子は70歳までのライフステージを論じているから、意外に今日的な長命を前提としていたことになる。

とはいえ、生物年齢としては不惑を超えた筆者であるが、精神的にはとうてい不惑の境地に達しておらず、種々惑うことが多い。人生80年超え時代の不惑は、ようやく60歳くらいかもしれない。もっとも、筆者は人生75年くらいが妥当と考えているのだが、それにしても40歳では不惑に到達しそうにない。

平均寿命が延びるにつれて、人間の成熟―特に精神的成熟―は遅くなる傾向にあるようである。だとしたら、“就活”も“退職”も焦る必要はない。

実質成人の30歳くらいまでは人生の模索期として試行錯誤が保障され、なおかつ真の不惑60歳からの新たな人生の可能性も開けるようなゆとりを持たせた社会経済システムが望ましくはないか。
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一生徒の自殺が社会問題化した「体罰」は、学校教育か家庭教育かを問わず、日本の教育慣習における宿弊と言ってよい。筆者を含め、大多数の日本人が一度は体罰を受けた経験があるのではないか。

体罰が単なる暴行・傷害と同視できないのは、体罰の根底に「子どもに体で教える」という教育理念があるからである。かつては、西欧でも教師は鞭を携帯し、実際授業中生徒に鞭を振るうこともあった。子どもは理性を欠いた動物並みの存在とみなされていたのだ。 

しかし、人間の教育は動物の調教とは違う。動物は言葉を本質的には解さないから、体で教えるということをせざるを得ない場合もあるかもしれないが、人間は言葉を操る生物である。子どもも未熟とはいえ、言葉を操る。

だが、動物の調教でも体罰だけでは成功せず、むしろ褒美の餌が効果的であるという。その点では人間もまさに“動物並み”であって、褒美が効果的である。ただし、人間の褒美は言葉―褒め言葉―である。

この点、一般に日本人は目上の者に対しては褒め上手だが、目下の者に対しては褒め下手ではないだろうか。師弟、親子といった上下関係を意識しすぎるためであるとすれば、「上下」という発想をやめ、水平な「大小」の関係でとらえてみてはどうだろう。

長年の宿弊となった体罰を脱するためには、まずは教師や親の側が言葉を磨くことである。とはいえ、誰が教師あるいは親を教育するのか、それが問題ではあるが。
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思考枠という用語はあまり使われないが、ここではものを考える際の大きな枠組みのことを指す。この枠がかつてなく狭小になっているのが現代である。

例えば市場、議会、家族などといった大きな枠組み観念をそのまま無条件に前提とする議論が圧倒的である。一見様々な考えが出されているように見えても、それは狭い思考枠の内側で堂々巡りしているだけである。かつてのように、こうした思考枠を乗り越え、オールタナティブを構想するということが少なくなった。

この点、細分化された領域の“専門家”と呼ばれる人々は元来一定の思考枠内で思考する習性を持つが、これは職業柄やむを得ないことである。それに対して、思想家や文学者といった“自由人”たちは思考枠にとらわれないはずだが、近年はかれらまでもが狭い思考枠の中に閉じこもりがちである。

しかし、今ほど思考枠を拡張する必要性が高い時代もない。実際、先ほど例に挙げたような大きな枠組み観念が随所で限界を露呈している時代だからである。

思考枠の広げ方は様々ある。例えば市場、議会、家族といったもののオールタナティブをどう構想するか。既成の思考枠にとらわれず自由自在に思考してみることは楽しいチャレンジではないだろうか。

ただ、日本では今も主流的な既成知識体系の丸暗記型教育が思考枠を拡張するチャレンジの障害となるかもしれないことは懸念される。 
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多少ともものを書く者であれば、誰しも一度は出版の可能性を考えるだろう。自分の着想を活字にすることは単なる技術的な表現手段にとどまらず、自らの生きた証しを遺すことであり、それは人生そのものである。

とはいえ、筆者のごとき無名著者には出版社側から対価を伴う原稿依頼は決して届かないから、逆に著者側が対価を支払って出版を依頼する自費出版という方法によらざるを得ない。となると、出版は人生などと感傷に浸っておられず、世知辛く「費用対効果」を計算せざるを得ない。

無名・無冠、おまけに堅いジャンルではそもそも商品として流通しないだろう。仮にある程度流通したとしても、ほどなく絶版となるのは確実である。無産者にとっては決して軽くない費用の負担という重荷だけが残ることになりかねない。

もっとも、書籍の購入者には図書館も含まれるから、図書館という言わば「本の博物館」で自著を眠りにつかせることはできるかもしれない。だが、効率偏重の“行革”流行りで図書館などの文化予算が真っ先にカットされる資本主義的文化破壊の時勢下、貸出実績のない無名著者の所蔵本は図書館でも廃棄処分されると聞く。

そればかりではない。幸運にも作品が後世に長く残されるとしても、誤謬や論理矛盾も一緒に残されるならば、読者・評者の失笑を買い、後世に恥をさらすし、そうでなくとも著者にとって意想外の誤読・誤解をされる恐れもある。

結局、自費出版の費用対効果は低いという結果に落ち着きそうだ。そう考えると、自らが生きている限りの期間限定で、なおかついつでも適宜修正可能な電子媒体を発表の場とするほうが人生の上でもベターかもしれないという結論になるのである。
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家族の在宅介護を正式に始めて、今月でちょうど一年になる。大きくとらえれば、この間、筆者の人生は一変したと言いたいところだが、小さく言っても、生活は一変した。

話に聞いていたとはいえ、実際に在宅介護をしてみると、炊事・洗濯・掃除の三大家事に各種介助の仕事が昼夜を問わず、まるで津波のように次々と押し寄せてくるのだ。

特に、筆者も認識不足であったのは、排泄介助やそれに関連するトイレ掃除、汚れ物の処理・洗濯といった排泄関連の仕事が介護の相当なウェートを占めるということ。これには正直なところ、閉口するし、哀しくもなる。

それに加え、原因不明の頻尿を抱える家族を深夜や未明にもトイレに何度も誘導するという極めつけに辛い仕事が追い打ちをかける。

こうして在宅介護に伴う生活変化はマイナス方向のものが主であるが、プラス方向の変化がないわけではない。それは、介護者の自立を促してくれたことである。

筆者もご多分に漏れず、長く家事を他人任せにしてきた男であるが、在宅介護に入ると、否が応でも家事を自ら引き受けざるを得ない。結果、おぼつかない手つきながら家事もどうにかこなせるようになってくるわけだ。

こうした在宅介護の自立促進効果は、介護者全般―元来、主婦/主夫として家事を担っていた人は別として―に広く当てはまるのではないかと思う。

要介護者の自立性は日増しに下降していくのに反比例して、介護者の自立性は―疲労の蓄積を伴いながら―上昇していく━。これが、在宅介護の苦い法則のようである。
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