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自ら「職」とみなすブログの運営資金にでも、と思いアフィリエイトを齧ってみたことがあったが、見事なゼロ行進を続け、あえなく挫折。ノウハウ本を読むと自分でも簡単にできそうに見えるが、他人の財布の紐を緩めるのは簡単でないと思い知った。

今、反省するに、筆者流アフィリエイトはどうやら「おいこら、買え!」的な雰囲気で敬遠されてしまったようだ。

これで思い出したのは「士族の商法」。明治維新の後、武士の身分に続いて頼みの俸禄を喪失した者たちの中には生活のため慣れない商売を始めた面々もあったが、高飛車な武士気分が抜けず、お客は集まらない。それで失敗者が少なくなかったという史実に基づく譬え話である。

アフィリエイトはネットショップとは違い、商品を自ら売るのではなく、売られている商品を紹介して成功報酬を貰うだけとはいえ、他人に買ってもらうからには「プチ商売」の要素がある。ただでさえ皆の財布の紐が堅いご時勢だ。がま口をこじあけるにはちょっとした商才も必要ではないか。

否、たかがアフィリエイト、成功は才覚ではない、努力の賜物だと叱咤してくれるノウハウ本もあるが、果たしてどうだろう。

ちなみに先祖はどこぞの田舎下級藩士だったそうだから、筆者には武士のDNAが一部埋め込まれている模様である。「士族の商法」ならぬ「士族のアフィリエイト」に陥るゆえんか。 

昨今、不況下で現代の士族たる企業戦士の身分と給与が危うい時代だからこそ、自力で商売を・・・という呼びかけがある種政策的に行われていて、最上は起業ブーム、末端にアフィリエイト・ブームのようなものがあるのだろうが、安易な「国民皆商」は資本主義の構造が許さない。
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地球で一番平和な地域はどこか。ここで言う「平和」とはもはや単に戦争がないというだけでない。生態系が平穏に保たれているという意味での「環境的平和」も含めた平和である。

そんな場所はもはや地球上に存在しないという悲観的な回答もあり得よう。

だが、南太平洋はまだそうした平和の条件にあてはまっているのではないだろうか。この地域にはかねてより世界で二番目に古い非核地帯条約が施行されており、生態系もおおむね良好に保存されている。

その秘訣はおそらく「小国寡民」にある。実際、この地域は唯一の大国オーストラリア―といっても、人口は2000万人余りにすぎない―を除けば、少人口の島嶼国家が占めている。海に囲まれた小国には外部の他者―自然を含む―への征服欲がない。

もっとも、懸念されるのは、この地域には米国やフランスが今なお自国の勢力圏として事実上の植民地を保持し、軍事的にも利用していることである。かつては両国が水爆・核実験場に利用した前歴もある。

また、ツバルやキリバスなどのように海面上昇による水没の危険に直面している国もある。これまた大国の環境無視の経済活動のとばっちりでもある。

こうした問題を乗り越え、南太平洋がまさにその名のとおり太平な地域として存続し、地球的平和を恢復するための先導役となることを願う。
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昨年末に新聞と決別して以来、TVの視聴時間が増えた。だが、新聞の代替を期待した報道番組がつまらない。

各局が横並びで同じ事件・事象を取り上げることには目をつぶるとしても、報道キャスターの切り口や観点が凡庸・陳腐すぎる。いわゆるコメンテーターもありきたりの無難なことしか語らなかったり、表見上“過激”なだけで中身のない発言に終始するような“文化人”らを各局で使い回している印象だ。

といって、最近のTVが得意とするいわゆる情報バラエティー番組は豆知識のごった煮的で、かつ浮薄な“小窓芸能人”の存在が鬱陶しい。

こうして報道番組や情報番組に不満な分、ドラマに目が向く。中には無理筋と思われるストーリーの作品もあるが、日本のTVドラマにはリアリズム系の作品が比較的多いせいか、社会問題や歴史などをうまく絡めた問題作・力作も見られる。

登場人物の台詞にもありきたりの報道番組ではなかなか聞かれないような考えさせる言葉もあり、所詮はフィクションと片付けられないリアルさが感じられる。

「事実は小説より奇なり」と謂われるが、TVに関する限り、「ドラマは報道より奇なり」と言ってみたいところである。 
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「言葉の乱れ」が指摘されて久しい。だが、「食べれる」「見れる」などの「ら抜き語法」はすでに老若男女を問わず普及しているし、疑問文ではない文中で語尾を上げ調子にして相手に同意を求めるかのようなイントネーションも定着してきた。

国語の先生方が眉をひそめても、口語として使用される自然言語は生きものであるから、誤った言葉使いも普及してしまえば、それが“正統語法”に昇格してしまうのだ。そういう意味では、言葉は本来的に「乱れもの」である。

そもそも“標準”とされる「国語」自体がすでに「乱れて」いる。実際、現代の標準日本語は上代の原日本語とは大いに異なっており、極端に言えば別言語とみなしてもよいほどだ。万葉歌人たちが現代の「国語」を読み聞けば、「言葉の乱れ」どころか「外国語」と認識するかもしれない。

もともと「国語」とはエスペラント語のような完全な計画言語とは異なるが、国の中心地域の方言をベースとして―標準日本語の場合は関東方言―政策的に標準化された官製言語であるから、それを基準に言葉の「乱れ」を判別し、排除しようとすることは、方言差別や表現の自由の侵害ともなりかねない言語統制である。

とはいえ、言葉使いにも品格というものはある。「ら抜き」に象徴されるような最近の語法はそうした品格の点で疑問符がつくから、「乱れ」と指摘されやすいのかもしれない。言葉は「乱れもの」だとしても、濫りに乱れるのでなく、できるだけ上品に(?)乱れるほうがよいのだろう。
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一人っ子である。きょうだいが多い人やきょうだい仲の悪い人からは羨ましがられることもある。親の愛情を独占でき、最後は遺産も貰い放題だからということらしい。

しかし、一人っ子には親の関心が一人に集中し、しばしば「期待」という名のプレッシャーが重くのしかかることはあまり知られていない。また、我が家のような無産階級にとって遺産問題はそもそも無縁である。

さらに、一人っ子は親が要介護ともなれば、基本的には独りで―配偶者に介護を分担してもらえる場合はあるとしても―介護責任を背負うことになる。もっとも、きょうだいがいても介護責任が一人にしわ寄せされることはあるが、うまく分担したり、きょうだいから精神的な励ましがあるだけでも違うものである。

こう見てくると、一人っ子が羨ましいという見方は変わるのではないだろうか。

むしろ、社会的動物たる人間はきょうだいを持つほうが自然である。「きょうだいは他人の始まり」というが、それはきょうだい関係こそ、社会性の最初の訓練の場となることを意味している。一人っ子にはそうした場がなく、社会性を欠きがちであることも問題である。

筆者などは今からでもきょうだいが欲しいと焦がれることすらある。叶わぬ願望ではあるが。

ただし、一人っ子に長所があるとすれば、それは孤独への耐性が強いことかもしれない。人間は社会的動物といいながら、究極的には世界に在って独りである。この大きなテーマについては、また別の機会に書いてみたい。
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介護生活で不便に思うことの一つは、こんなものがあればいいなと思う日常手軽に使える福祉用具の少なさである。例えば、車椅子ならぬ「車付き椅子」。

家の中でも車椅子が使えるほど広いお屋敷に住んでいるならともかく、我が狭い兎小屋でも高齢者を乗せて移動できるような簡便な椅子がなかなか見当たらないのだ。

日本はこうした福祉用具開発の基礎を成す福祉工学の先進地でもあるとされ、実際、車椅子などは相当に高機能・多機能な製品が開発されてきている。だが、それらは専ら施設向きや外出機会の多い若い障碍者向きのものであって、高齢の要介護者が在宅で日常使いこなせるものではない。

「ものづくりの時代は終わった」とも言われるが、福祉用具の製造は高齢社会に突入した21世紀の新たなものづくりの象徴である。それは従来のような大量生産ではなく、多品種少量生産のものづくりでもある。

しかも、福祉用具は利用者一人一人の身体条件に合っていなければかえって状態を悪化させてしまう恐れもあるので、オーダーメイドによる職人的生産方式が本来的な姿である。この点が、産業的なものづくりとの大きな違いだ。

さらに、適切な福祉用具を製造するためには、福祉工学の素養と福祉用具に関する専門知識に基づいて各利用者に合った福祉用具を設計・調節する「福祉技工士」といった正式の国家資格の創設が望まれる。

政治・行政においても、高度成長を支えた産業工学に代わる21世紀的工学である福祉工学の発展のための政策的な支援を考えて欲しい。
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昨年の年間自殺者数が15年ぶりに3万人台を切ったという。これをもって行政の“自殺対策”の成果だとして称賛する声も聞かれる。しかし、そういう形式的な数字いじりこそ官僚的だ。依然、万の単位で死を選ぶ人がいる現実に変わりはない。

ひとはなぜ自殺するか。自殺の「動機」はいろいろであろうが、自殺への最後の引き金を引くのは共通して「生きる理由」の喪失であると思う。逆言すれば、「生きる理由」が見出せる限り、自殺の「動機」があっても、ひとは死を選ばない。

ところが一方で、「現代とは、生きる理由を通常は構成すると考えられている一切が消滅し、すべてを問い直すことなしには、混乱もしくは無自覚に陥るしかない、そんな時代である」。(シモーヌ・ヴェイユ)

哲学者ヴェイユがこう書き付けたのは、1934年のことであった。すでにその頃、彼女の母国フランスのような先発国では「生きる理由」の喪失状況が起きていたのだ。

ただ、自殺の歯止めとなる「生きる理由」とは、哲学者が考えるほど高尚なものである必要はない。他人から見れば全くくだらないことでも、当人にとっては十分に「生きる理由」を構成するということがある。

また、「生きる理由」とはいわゆる「生き甲斐」とも微妙に異なる。「生きる理由」は「生き甲斐」と言えるほどに社会的な価値のあることである必要はなく、日常の何気ない事柄であってもよい。

そうした意味で、究極の自殺防止策は抗うつ剤の服用ではなく、自己の実存の保持にある。さしあたりの技術論としては、自殺念慮者に対して、「生きる理由」をたった一つでも見出せるように援助していくような精神療法を開発することである。

だが、資本主義社会は自殺者増大の時代を、商品としての抗うつ剤の開発・流通チャンスととらえているように見える。しかし抗うつ剤は、それによって表面上自殺が防止できたとしても、決して「生きる理由」の代替物とはならない。

ちなみに、全くの無自覚な能天気も自殺の歯止めとなり得る一つの非実存的状況ではあるが、能天気はおそらく天性の性格に由来するものであるので、残念ながらすべての人に妥当するわけではなさそうである。
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