<   2013年 03月 ( 9 )   > この月の画像一覧

日本はシカクの国である。難易様々な無数の職業資格が林立している。資格取得は就労の要、生活に直結するとあって、資格試験の受験(または資格取得に必要な学校の受験)に狂奔する人は多い。

ところが、そうして誕生する各種専門家たちの意欲や人格に疑問を感じることが少なくない。それどころか、肝心な専門技能にも疑問符が付くことすらある。専門家は資格試験によってその専門能力が証明されているはずなのに、である。 

真実は逆で、専門家の養成をペーパー試験に頼りすぎているのだ。つまり試験の点数に絶対的な重みを置き、実質的な適性や意欲、人格を問わない点に問題がある。

一定の能力証明として資格試験の必要性は否定しない。だが、それは最初の形式的な関門にすぎない。本来、資格とは試験によって一応―あくまでも―証明される専門知識のみならず、適性や意欲、人格も含めた資質のことをいう。

だから、神技的な技能を持つが、適性や意欲、人格はゼロという専門家はいない。逆に言えば高技能の専門家は適性や意欲、人格を含めた総合的な資質にすぐれている。つまり専門技能と適性や意欲、人格は総合的に密接不可分である。 

一方、多くの資格が一度取得すればそれで終身間資格を維持できる特権とされていることも、既得権にあぐらをかき不勉強を棚に上げた尊大な専門家たちを生み出す要因となる。有資格者には厳しい事後研鑽義務と定期的な資格更新試験も必須である(むしろ、試験の効用は資格取得後にこそあると言える)。

真に信頼に値する専門家を生み出すには、ペーパー試験依存を止めることだ。脱ペーパー資格社会へ向けた専門家養成制度の大改革が必要である。これは各専門業界任せではなく、政治が課題意識をもって統一的に主導すべき政治問題だ。

ちなみに、政治家は選挙に通りさえすれば(≒カネとコネがありさえすれば)誰でもなれる無資格職業である。しかし、政治家こそ政治学の専門知識を問う資格+選挙制にしてはどうだろう。
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人間をその思考法によって分けると、実際家と思想家の二通りのタイプがある(この分類は職業とは必ずしも直結しないから、職業的には実際家だが思想家であったり、職業的思想家でありながら実際家であったりもする)。

実際家は与えられた現実の枠内で思考する。思考枠は狭いが、その範囲内でできることを考える人間である。

これに対し、思想家は与えられた現実を乗り超えようと、思考を飛翔させる。そのため、かれらは実際家から夢想家として嘲笑されることもあるが、思想家は実際家の狭い発想に苛立ちを覚える。

大きな視点で見れば、社会を変えるのは思想家、変えられた社会を動かすのは実際家である。両方兼ねていれば人間として完璧だが、天は二物をなかなか与えてくれない。

ただ、社会の主導権は通常実際家が握っているため、一度造られた社会は容易なことでは変化しない。反対に思想家が社会の主導権を握ると、実験的だが不安定な社会になりやすいという問題もある。

この点で、日本社会は実際家が多い官僚やその他の専門家の主導性が極めて高度な社会である。このことが、大胆な変化を厭う日本社会の保守性の大きな要因ではないかと思われるのである。
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介護という営為は人的要素のウェートが大きい。猫も杓子も介護者にというわけにはいかず、自ずと介護適性というものがあるようだ。

おそらく良い介護者とは、介護対象者とさりげなく、心のこもったコミュニケーションが取れる人である。具体的には、対象者が介護ならぬ快護と感じられるような言葉かけができる人で、しかも決して饒舌でなく、慎み深さも必要だろう。

ところが、現実にはそうでない介護職に遭遇する。ろくに挨拶もせず黙々と仕事をこなす人、家族とばかり話したがる人、型どおりのぎごちない世間話しかしない人、コミュニケーションは取れるが、本人の前で露骨にシモの話をする人等々。今のところ文句なしに理想の介護職と言える人にはめぐり合えていない。

こうした介護適性に疑問のあるプロが続出しているのは、「介護の産業化」の結果である。恒常的な人手不足の中で介護職が乱造され、介護ビジネスがかつての建設業に代わって現代の失業対策事業の意義を担わされているのだ。「失業したら介護職へ」と言わんばかりである。

介護を産業ならぬ福祉・奉仕としての原点に立ち返らせなければ、対象者にとって介護は快護ならぬ不快護と化してしまいかねない。

もっとも、介護適性問題はかく言う家族介護者にもはねかえってくる。介護適性は職務ならぬ義務として他人を介護しなければならない家族介護者にもあてはまる共通条件だからだ。

しかし、少子高齢化の中で介護には不向きな家族が独りで介護せざるを得ない悲哀・悲劇が至るところで生じている。我が家も例外ではないが。 
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今日は春分の日。しかし、なぜこの日が祝日なのか毎年理解しかねている。春夏秋冬それぞれに一日ずつ祝日を割り振るならば、春分・秋分の日以外にも、夏至の日や冬至の日があってもよさそうだが、それがないのはなぜなのか。

ともあれ、このように週の中で本来の平日を一日だけ祝日にするという設定はかえって不便である。ことに一般の公的機関や医療機関が一斉に休業するのは社会的にも大きな問題である。病気は祝日を避けてはくれないし、公的機関への連絡が必要な事態も然りである。

労働者にとっては休息の意味があるかもしれないが、しかし週の中で一日だけ祝日が挿入されると、週間業務の流れが中断し、やはり不都合ではないだろうか。結果、事実上祝日出勤を強いられる職場も少なくないだろう。

祝日は休息の自由の観点からも必要な制度ではあるが、それなら夏季と年末年始に思い切り長期バカンスを認めるほうが、細切の祝日より合理的である。

ただし、公的機関や医療機関にはそもそも祝日を認めるべきでない。もちろん職員には輪番・シフト制で休息を保障すべきであるが、こうした常時社会的ニーズのある機関は365日24時間体制を取るべきである。

ちなみに、「国民の祝日に関する法律」によると、春分の日の趣旨は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことにあるとされるが、一年に一度だけ「自然をたたえ、生物をいつくし」んでも、エコロジーの実践にはならない。
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このところ、気温の寒暖差が激しい。夏の猛暑と冬の寒気の対照ばかりなく、春や秋のような中間季の寒暖差もまた然りである。

まるで人間の体力を試されているかのようで、高齢者や病者には厳しい気候条件である。

原因として自然的なものがあることは間違いないが、近年の不安定な気象にはそれだけでは説明できない人為的な原因も関わっていると考えざるを得ない。それは産業活動の巨大化・全地球規模化である。

人為的気候変動説への懐疑論派を形成してきた産業界は、もちろんこうした見方に否定的であろう。

しかし、具体的なメカニズムはともかく、人類史上例を見ない産業活動の大規模・超広域化が地球の気候条件に一切影響を及ぼしていないと考えるほうが難しいのではないか。

そうした意味で、寒暖差は単なる天気の問題ではなく、生産活動のあり方を体感させてくれる重要な環境的試金石の一つである。
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震災から二年。復興はどこまで進捗しているか。行政側の言い分はいろいろあろうが、生活者の視点で見れば「遅々」という形容があてはまる現況だろう。

その原因として官僚主義の問題があることは否めないが、視点を変えてみると、「破壊されたふるさとを取り戻せ」という農耕民型の復興が目指されていることも復興を困難にしている。

それは失われたものを取り戻す「復旧」を軸とする復興であるだけに、破壊の規模が甚大であると、復興には相当な長期間を要することになる。

中世以降の日本人は農耕民型であることに加え、古くから農漁業が盛んだった沿岸被災地域の土地柄や移転が困難な高齢世代が多い被災者の年齢構成などもこうした復興のあり方を導いている。

これに対して、必ずしもふるさとの回復に拘泥せず、新しい土地で再出発することを目指す型の復興がある。これは農耕民型復興に対して遊牧民型復興と呼び得る。

定住地を持たない遊牧民の生活は決して楽ではないが、移転の自由があり、一箇所にとどまらないことから災害への耐性も強い。故地に住めなくなったら、別の新天地で巻き返しを図るまでである。

その点、震災直後に一部の自治体が試みた「町ごと移転」は臨時の緊急避難措置とはいえ、遊牧民型復興の一つの社会実験だったと言えるかもしれない。

このような型の復興は「復旧」ではなく、新たな「再生」を軸とする復興である。この場合、復興政策としても、新天地での住・職を中心とした再生支援策が核となる。

被害が甚大だった東日本大震災の復興では、こうした型の復興を大胆に取り入れていかなければいつ終わるとも知れない永遠の復興となりかねない。もっとも、それは復興利権を狙うハゲタカたちには好都合であろうが。
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家族が久しぶりに入院することになった。入院中の患者が日常接するのは医師より圧倒的に看護師である。しかし気がかりな点がある。どうもかつてに比べ、看護師が全般に冷淡、がさつで時に傲岸にさえなったように感じられる。

長年定着していた「看護婦」の呼称が「看護師」に変わり、看護婦の象徴だったナースキャップもほぼ廃止されている。この変化は看護職の専門性と地位の上昇を示しており、表面的にはむしろ歓迎すべきことなのだろう。

その分、看護職が従来から「師」業であった医師に準じる技術職として純化され、もはや「白衣の天使」ではなくなってきたのかもしれない。個々的には「白衣の天使」的な看護師も見かけられるが、今では「絶滅危惧種」のようだ。

もっとも、「白衣の天使」は、「看護婦」という旧語ともども見方によっては女性差別的ともみなされかねない古典的なステレオタイプのイメージではあろう。

だが、病院=ホスピタルは「もてなし」の意味を持つホスピタリティーと同一語源の言葉である。要するに、病院とは単に病気を治す修理工場のような場ではなく、病人(及び家族)をもてなすホテルのような場でもあるということだ。

看護職はそうした病院の本質たるホスピタリティーの最前線を担う職である。従って、医療の知識・技術のみならず、患者や家族への懇切な応対も看護師の重要な仕事である。現代の看護婦改め看護師は知識・技術に偏り、応対面がおろそかになってはいないか。

これは直接的には病院経営者・管理者の理念と現場教育の問題だが、究極的には医療という普遍的な文化の問題としてとらえられるべきテーマである。おそらく、近年の冷たい技術職的な看護師像は、日本の医療文化が本格的に西欧化してきたことを示すものだろう。

だが、日本には古来「おもてなし」の文化があると言われる。ならば、ホスピタリティーは本来日本の得意分野ではなかろうか。日本型看護の理想を文化的な観点から追求する機運が起こることを期待することも無理ではなかろう。
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経済指標というと、通常はエコノミストが操る経済統計上の数字であるが、街で見かける人々の「顔」も数字だけでは読み取れない重要な経済指標となる。

その点、近年街で見かける日本人の「顔」はどうも疲れ気味で、勢いがなく、白けているようにも見える。これは90年代後半頃からの現象である。

70年代から90年代初頭頃にかけて街で見かけた「顔」はもっと生き生きとして、輝いていた。これはその当時の映像を見れば、はっきりと感じ取れる。

最近の沈滞した「顔」とは不況の時代の「顔」だ。アベノミクスなる人為的な術策による一時的、かつ一部的な経済の回復ではかつての「顔」は取り戻せない。

ただ、資本主義的経済成長の時代の輝ける「顔」とはマネーの「顔」だった。同じ「顔」の復活ではなく、今度は別の輝ける「顔」での再生を期待しよう。
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最近、スクールカーストなる言葉を知った。周知のように、学校の生徒間には上級生・下級生という学年による序列があるが、同級生間にも主として学級内での「人気」による序列があり、これがスクールカーストだという。

数年前から使われ始めた言葉らしいが、こういう同級生間序列は筆者の学校時代からすでに存在した。一般的にはカーストの下位にいる生徒ほど、いじめの対象になりやすい。最下層に落とされれば、「きもい」「くさい」などと蔑視され、まさに不可蝕民化される。

おおむね序列中位から下位に身を置いていたと記憶する自分にも、学校時代に良い思い出はほとんどなく、過敏性腸症候群になったのも、学校への拒絶反応に始まったと自己分析している。

昨今、「いじめ対策」が政治問題にすらなっているが、いじめの根源であるスクールカーストを廃絶できない限り、いじめの根本的解決はない。いじめとは子どもの領分における差別行為である。この認識が教育関係者にも欠けている。 

ただ、スクールカーストは学校という序列組織そのものに由来する。とすれば、スクールカーストは学校制度そのものを廃止するか、さもなくば学校を「脱学校化」することでしか廃絶できないだろう。現代の難題である。
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