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世間的な意味での「友人」というものを持たないことをほとんど主義として生きてきた。世間的な基準では、非社会的な変人ということになるのかもしれない。

たしかに人間は社会的動物と言われる。ゾーオン・ポリティコンというアリストテレスの原語は正確には「ポリス的動物」ないし「政治的動物」だが、政治は社会的なものの典型例であるから、「社会的」ということは人間の本性なのであろう。

しかし、一方で人間はそれぞれが独異性を備えた個独的存在である。ひとは究極的には独りだ。自分のことは自分にしかわからない。肉親や親友といえども、他人同士で完全にわかり合えることはないし、他人と融合してしまうこともできない。

こうした個独的存在と社会的本性の相克から、孤独感も生まれる。「居場所」探しに走り、流行りのSNSにはまる現象もそうした孤独感から脱出しようとする渇望の現代的なありようを示している。

だが、逆説的に言えば、人間が自己の個独的存在性を意識するところから、社会が始まる。社会は個独的なお互い同士のことが一応わかる範囲内で、もっと言えばわかるふりによって成り立っている関係性である。

社会はそこに帰属すべき場所などではなく、個と個の関係性の集合のようなものにすぎないから、「居場所」などもともと存在しないのである。

そう考えることで、孤独感も軽減・解消されるだろうし、単にお喋りし、戯れるだけの「友人」など持たなくとも、社会性は維持できるのである。  
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先進国の条件とは何か。20世紀的基準によれば、国富の規模が大きいことであった。それゆえ、資本主義か社会主義かを問わず、諸国は国富の量的拡大を目指して競い合った。

これに対して21世紀的基準による先進国とは、生活水準が高い国である。生活水準が高いといっても単純に所得水準が高いことではない。量的な所得倍増は国富の拡大のおこぼれにすぎない。

21世紀的な意味での生活水準の高さとは、生きるうえでのバリアーがセロではないにせよ、最小限であることだ。

生きるうえでのバリアーは、傷病、老化や失業、破産などによって生じる。そうした場合のバリアーを最小限に抑える方法としては、さしあたり社会保障と民間福祉がある。

この点、現在の日本では社会保障は一通りラインナップが揃っているように見える。だが実際には中途半端であったり、杓子定規な規則に縛られていたり、国の統一的な制度として確立されておらず、自治体ごとにばらばらであったり、と使い勝手が悪いこと甚だしい。

生活保護に代表される社会扶助については元来弱い。弱いものをさらに制度の縮小・制限によりいっそう弱めようとしている。

社会保障を補う民間福祉は、寄付文化が根付いていないことから福祉団体はみな財政難に悩み、十分に稼動できない。

このように見てくると、GDP世界第三位の日本は21世紀的基準による限り、すでに先進国とは言い難いのではないか。真の先進国とは何か、20世紀的基準を離れて検証されたい。
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ボストンマラソンでの爆破事件は当然のように「テロ」と呼ばれ、世界に「衝撃」を与えた。しかし、犯人に法の裁きを受けさせると宣言したオバマ大統領がパキスタンやアフガニスタンなどで「標的殺害」のために許可している無人機による航空攻撃は「テロ」とは決して呼ばれない。

このような用語の不均衡は、テロ(テロリズム)という語の慣用化した意図的逆用から生じている。

元来、テロとは恐怖政治のことであった。具体的にはよく知られるフランス革命当時のジャコバン独裁下の恐怖政治のことである。それがいつしか、民間人による破壊活動をテロと呼ぶようにすりかえられた。

原義によれば政府が秘密裡に敵を殺害する無人機攻撃こそテロであり、ボストン事件のように一介の民間人の手による爆破はテロではなく、単なる破壊活動だ。あの9・11事件も在野過激勢力の犯行であればやはりテロではなく、組織的な破壊活動にすぎない。

無人機攻撃で毎日人殺しをしているアメリカにわずか数人が死傷しただけのボストン事件を騒ぎ立てる資格なし、などと糾弾したいわけではない。

しかし、9・11事件やボストン事件は当然にテロだが、テロリストを殺す―実際は多くの巻き添え被害が黙認されている―無人機攻撃はテロにあらずという言説は、それ自体がマス・メディアも大いに加担している政治的な情報操作にすぎない。 
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アベノバブルという言葉を自ら思いついたつもりでいたら、すでに先を越されていた。この語はもうネット上で出回っている。

実際、現在の急展開的な株価・地価上昇にはバブルの気配がある。バブルの再来なのであろうか。そうであったとしても驚くには当たらない。資本主義の歴史は世界史上初のバブルとされる18世紀の南海泡沫事件以来、常にバブル経済の歴史でもあったのだから。

ただ、今回のバブルの特徴は半ば人工的に作り出されていることにある。管理されたバブルだ。この術策は一つの経済実験になるかもしれない。

制御されないバブルの危険性はすでに20年前のバブル崩壊で経験済みであるが、制御されたバブルの効果についてはまだ解明されていない。

資本主義のしぶとさの秘訣は、「自由経済」をタテマエとしつつも、危機に陥ると適宜政府や中央銀行を使ったコントロールで体制を立て直す技にある。

脱デフレを目指すアベノミクスもそうした技の一つとしてみると、興味深いものがある。当否はともかく、経過を注視する価値はあろう。

もしこの術策に失敗すれば、マルクスの言葉「歴史は繰り返す、一度めは悲劇として、二度めは笑劇として」が的中することになるだろう。
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最近はセルフサービス型店舗でじっくり商品を見ているだけで万引きの疑いをかけられるようだ。商品の選択に少し手間取っていると、複数の店員が明らかに警戒シフトで近くを通り抜けたりする。

マニュアルを実行しているのだろうが、あまりに見え見えなので悪意のない客にとっては万引き扱いされて不快である一方、プロ級の万引き常習犯なら裏をかけるに違いない。

年間の万引き被害は深刻とされるが、冤罪を作り出す危険の一方で真犯人を見逃す恐れもある素人的なやり方で、そこまで過剰に監視・警戒する必要はあるのか。監視社会の進行極まれりである。

監視社会化は世界的現象ではあるが、日本ではそういう問題意識自体が希薄だ。どうも日本の場合、五人組や隣組以来の相互監視体制が文化として根付いてしまっている可能性を感じる。

監視カメラの際限なき増設や風采・容貌が変わっているというだけで110番通報されたりする風潮も、そうした監視社会を超えた「監視文化」の現代的発現ではないか。

しかし、それは人間不信を増幅させる悪しき文化であるし、過剰な監視活動はいささか滑稽ですらあるという意識を持ちたい。

ちなみにセルフサービスというのもグローバルに広がった一つの商業文化だが、これは要するに客に自由に商品を取ることを許すタイプのサービスで、万引きとの差は最後に会計を済ますかどうかだけという際どいものだ。どうぞ万引きしてくださいというに等しい売り方なのだ。

今ではスーパーやコンビニに押されてすっかり廃れかけている伝統的な対面型店舗では万引きはしにくい。すると、究極の万引き防止策は対面販売の復活だが、それは現代資本主義の法則が許さないだろう。
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本国の軍事的挑発がきっかけで、改めて朝鮮学校への公費補助が問題となっている。対応は自治体により分かれており、問題の複雑さを示している。

この問題の根本は、そもそも私学助成という不可思議な制度にある。本来、私学は公権力から独立して、学費や寄付に基づく自前の財政基盤を持ちつつ、独自の理念とカリキュラムで運営されるタテマエであって、助成は財政窮迫時等の例外的な制度のはずだ。

ところが、現状では私学助成が当然視されている。そこから選別の問題も発生してくる。朝鮮学校の場合、いわゆる拉致問題や本国の軍事行動が公費助成を打ち切る理由として持ち出されている。

そもそも私学は公教育の不備を補う意義を持つ。公教育が充実してくれば、私学は役割を終える。例外的に残る私学は宗教系や民族系など独自の教育理念を持つ自己完結的な学校に限られる。それらの学校は独自性を保持するためにも、公費助成に依存すべきでない。

日本は先進国といいながら、実は公教育がいまだに不十分なため、多数の私学が公費助成のもとに運営されている状況にある。そのことを当然視せず、公教育を中心に据えた本来的な教育制度のあり方を考えてみたい。 
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改憲手続きを定めた憲法96条(「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」)の改正が議論になっている。

議論すること自体には大いに意義がある。なぜなら同条項は、しばしば改憲派も誤解しているように、改憲のための形式的な手続き条項にとどまらず、究極的な憲法制定権の所在を定めた最重要の規定、まさに憲法そのものだからである。

であればこそ、改正に対して無条件に絶対反対するのではなく、この重要な条項を改正するとしたらどう改正すべきか、建設的な議論を聞きたい。

改憲派の狙いは「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」という極めて厳格な改憲の発議要件を、せめて「各議院の総議員の過半数の賛成」に緩和して改憲の突破口とすることにあるようだ。たしかに発議要件があまりに厳格では事実上改憲は不能となりかねないから、発議要件の緩和は認められてよいだろう。 

そこで、最も安易な改正は発議要件の緩和に加え、プラスして要求される国民投票を不要とすることである。しかし、それは究極の憲法制定権者たる国民を無にする改悪にほかならない。

これに対して、発議要件を緩和しつつ、国民投票については現状維持とする限定的な改正も考えられる。このあたりが実際の改憲の落としどころかもしれない。

だが、発議の要件を緩和するなら、代償としてむしろ国民投票の要件は厳格化して「三分の二以上の賛成」を要求すべきではないか。そのうえ投票率も50パーセント超を要求することが望ましい。それで初めて国民の大多数が改憲に賛成したと評価できるからだ。

憲法96条の具体的な改正例は他にもあり得るが、いずれにせよ、改憲手続きを巡る技術的・瑣末的な議論に終始することなく、改憲を含む憲法制定の権力は究極的に国民に存するという事実を踏まえた大局的な論議が必要である。
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介護サービスを使えば使うほど、貧乏になっていく・・・。公式説明によれば、そういう事態を防いでくれるのが公的介護保険の役割であるはずだ。しかし、現実はそうなっていない。

厳しすぎ、かつ大雑把すぎる「要介護認定」のせいで満足のいくサービスは受けられない。そのうえ、元来介護保険外の自己負担サービスも結構ある。

一方で、高齢者は介護を受ければ受けるほど、それまで自立的にできていたことができなくなり、要介護状態は進行していく。往診のような医療サービスや福祉用具のレンタル、介護タクシー等も含め、出費がかさむ。まさに介護貧乏だ。 

しかし、介護事業者にとっては、それこそ望むことである。介護事業者が弱った老人に群がるハゲタカに見えてくる。ただし、善意を装う笑顔で群がってくるのが本物のタカと違う点だが。

これが介護を福祉から切り離して産業化(商業化)し、資本に売り渡してしまった結果である。今や介護は飲み屋も参入してくる成長産業だ。当面、この介護商業化路線に変更は望めないだろう。

そこでさしあたっての教訓は、公的介護保険に頼らないこと。具体的には公的介護保険に強制加入する40歳になったら、将来の介護資金を貯めていくこと、また補充的に民間の商業介護保険への加入も検討することである。

しかし究極の教訓は、要介護状態を可能な限り先延ばしにし、かつ短縮すること。秘訣は適度な運動(=体の介護予防)と社交(=頭の介護予防)である。そして・・・要介護状態になったら、程なく逝くこと。
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日本特有の一斉入学・就職の季節がまた巡ってきた。それは同時に入学・就職の失敗の季節でもある。

過去の履歴がことさらに重視される日本社会では、学歴を含む履歴に空白が生じることは重大なマイナスとなる。こうした履歴社会ではあなたが過去に何であったかに専ら関心が集中するからである。 

人の採用に当たって履歴を重視するのは、少しでもすぐれた人物を発見したいという採用側の意志の表れではあろう。たしかに過去の履歴からどんな人物であるかを推定することはある程度まで可能だが、人には過去の履歴だけでは推し量れない要素がある。

過去何であったかばかりでなく、現在何であるか、また将来何であり得るか、に関心を向け変える必要があるのではないか。つまり現在及び将来何ができ、何をしたいのかを問う履歴書不要の採用方法だ。採用側にとっても思わぬ逸材の発見につながるのではないだろうか。

履歴書不要の採用が慣行として定着し、履歴書がそれこそ過去の物となるとよい。脱履歴社会である。
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