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※本記事以前の記事は、旧ブログ『新時代流コラム』に掲載されたものです。

「創職」なる言葉を自分で思いついたつもりでいたら、すでに先を越されていた。それはともかく、既存の職業に就く「就職」ならぬ自ら新たな職業を創り出す「創職」は、少しでも自分らしく創造的に生きようと志す者にとっては夢であろう。

例えばブロガー。すでに事実上職業的にブログ書きをする人は数多いが、ブロガーが職業として確立されているとは言えない。多くは無報酬で発信しているのが実情だろう。

他にも、自分で好きな職業を創り出すことは自由だが、問題は経済的に成り立つかどうかだ。現存社会は貨幣経済で回っている以上、一定の仕事を日々反復・継続して、対価を原則としてカネで受け取らなければ、生活は成り立たない。

結局、無報酬の仕事はボランティアや趣味道楽の延長で終わる。貨幣経済の常識では、ボランティアや趣味道楽は「職業」として認知されない。ということで、創職は決して容易でない。

昨今、一部で言われている「創職」とは、就職難の時代、就職にこだわらず、自力で職を作り出そうといった趣意で、要するに「起業」のすすめの別表現であろう。

しかし、そうした狭い意味での創職は景気回復で求人が増えればすみやかに忘れられるであろうし、安易な脱サラ起業はかえって借金漬けの破産につながりかねないリスクを伴う。

本来の創職とは、好・不況にかかわらず、文字どおりに自分らしい新たな職業を一から創り出すことの謂いであるが、そんなことは貨幣経済の権化たる資本主義社会では極めて難しいというのが現実である。

いずれにも適性を欠く既存職業に自己を当てはめることをとうにやめた筆者にとっては、ホームレス化の足音が近づく正念場に入ってきているこの頃である。
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介護を受ければ受けるほど弱り、要介護度は上昇していく。筆者の高齢家族も介護保険による要介護認定から1年あまりであっと言う間に歩けなくなり、オムツ生活に。介護の矛盾である。

介護は治療ではないから、状態を良くするわけではないというのが理屈であろう。だが、日本の介護は寝たきり老人を作り出すが、スウェーデンに寝たきり老人はいないとも聞く。この種の比較話にはしばしば誇張も混じるから要注意ではあるが、まんざら嘘でもなさそうだ。なぜか。

簡単に言えば、日本の介護制度は寝たきり老人の世話で民間の介護事業者が儲ける仕組みである。しかしスウェーデンのように、介護に国・自治体が責任を負う公的責任介護の制度なら、サービス依存度が高い寝たきりは財政上困る。そこで寝たきり防止策が採られる。

逆説的だが、理想の介護とは介護依存度を抑制すること、すなわち介護予防である。といっても、サービスの利用を制限するための本末転倒的な「予防」ではなく、本人の苦痛や家族の負担を軽減するために介護度上昇を防ぐことだ。少なくとも、寝たきりのような重度の要介護状態は死の直前まで延期・短縮する。

これは筋トレに象徴されるようなリハビリテーションではない。高齢者のリハビリ効果などたかが知れていよう。機能低下は加齢に伴う必然である。むしろ機能低下の先延ばし=サスペンション(suspension)こそ、真の介護である。具体的には、日常生活の場で本人と日常的な動作・作業を共にするような寄り添いヘルパーがイメージされる。

こうしたサスペンション・サービスの普及と充実は、日本の現状におけるような民間丸投げ型介護ではなく、介護の公的責任化を基本とした民間参加型介護でなくては無理だろう。
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人類とは何か。松本清張の代表作『わるいやつら』をもじれば、「ずるいやつら」である。これは人類の最もネガティブな定義であるが、真理である。

脳の異常な発達によって高等知能を獲得したおかげで、人類は狡猾さにかけても生物界随一となった。そしてその高等知能の典型的な所産である貨幣経済が狡猾さにいっそう磨きをかけてきた。

人類社会は他人より多くの貨幣を獲得するために同胞をすら出し抜き、欺くずるさの競争社会である。「正直者がばかを見る」は、残念ながら真理である。

だが、脳は狡猾さを産み出すだけのマシンではない。高等知能を貨幣なき公正・公平な経済社会を構築するために使うこともできるのではないだろうか。

この点、経済学という学問は、流派を問わず貨幣経済を絶対前提とする現状分析と短期予測に没頭し、想像力の飛翔を許さない。貨幣なき経済社会のあり方を想像してみることは、少なくとも正統的な経済学では決して行われないことである。

取引上貨幣は大変便利な交換手段であるが、バブルと金融危機を症候的に繰り返す現状は、人間が自らの所産である貨幣という人工物に逆襲・翻弄されていることを示している。

果たして貨幣が廃止されて困る者はいるのだろうか。いるとすれば貨幣を溜め込むこと自体を愛好する貨幣蓄蔵者か。しかし使い切れないほどの貨幣を蓄蔵するのは、何も持っていないのと同じである。そこで、使わない貨幣は投資に回る。

しかしバブル再来の予感から投資熱に浮かされる前に、頭を冷やしてみたい。そのうえで、貨幣に致命的逆襲を食らわないよう、慎重の上にも慎重にご投資を。
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平成司法改革の中で日本初の公式的な法曹教育機関として2004年に華々しく登場した法科大学院の志望者が激減し、あおりからか法学部の志願者も減少傾向という。

法科大学院は日本における近年最大の政策的失敗かもしれない。早くも廃止論がくすぶるが、どこに問題があったのか究明せずに単純に廃止しても、代わってより良い制度ができるわけではない。

法科大学院は、ロー・スクールと呼ばれるアメリカ式の大学院相当の法曹教育機関を範に導入され、日本版ロー・スクールとも宣伝された。だが、問題はまさにそこにあった。

アメリカでは、ロー・スクールが唯一かつ最終の法曹教育機関であるが、日本では4年制の法学部があり、さらに唯一の国立の法曹養成機関として司法研修所が控えている。日本版ロー・スクールは両者の間に挟まれるような恰好で置かれている。

その結果、法科大学院がまるでサンドイッチの具のような形になってしまった。サンドイッチの具はそれだけでも食べられないことはないが、所詮は具材にすぎず、本格的な料理にはならない。それと同じで、法科大学院も中途半端な中間教育機関と化している。

法科大学院の役割が曖昧で、実際、高額な学費を負担して無事卒業できても、司法試験に合格し法曹になれる保証もないというのでは、詐欺に等しい。志願者激減も必然の結果である。

さしあたって問題を解決するには、医師養成課程を参照するとよい。すなわち法科大学院は廃止し、既存の法学部を従来型の4年制一般就職コースと6年制の法務専門コースに分ける。そのうえで、法律家となるには6年制法務専門コースの卒業資格を要するものとする。司法試験は医師免許試験と同様に、一種の統一的な卒業試験と位置づけられる。

ちなみに現行司法研修所のように、国(最高裁)が一手に法曹養成を担う中央集権的研修機関は廃し、法曹の研修は医師の研修と同様に、資格を取った後の実地研修のみに絞ったほうが実務家の研修としてふさわしいだろう。

法曹教育の危機は決して法曹界だけの内部問題ではなく、法治国家の危機であり、その影響は回りまわって
一般市民にも及んでくる。社会全般が関心を寄せるべき問題である。
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学生にとっては五月病の季節である。政治学という役立たずの学問を専攻した筆者もかつて体験した。政治学ときたら就職の圧倒的中心であるビジネスとも縁が遠く、いわゆる「資格」にも直結しないのだ。  

なぜそんな科目を選択したのか、当時は自らの選択を後悔した。実際、選択の明確な動機・理由はいまだもって不明である。が、あれから長い年月が経った今では役立たずの政治学に少しばかり感謝もしている。

政治学は政治という人類に特有の営為を分析することを通じて、哲学、法学、経済学といった主要な人文社会科学をつなぐ輪のようなもので、方法論的には社会学や人類学、心理学とも関連する。コンテクストによっては文学、芸術とも接点を持つ。

知的な関心を広げ、超域的な知を獲得するためには案外役に立つ。言わば「無用の用」である。法学のような体系性はなく、フリースタイルの学問であるがゆえに自由はあるが、迷宮のようでもある。

知性を鍛えるうえでは、迷宮も悪くない。ただし本当に迷い人になってしまうことを恐れる人には、やはり法学、経済学、経営学などの「役に立つ」学問がお奨めである。
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近年、薄葬を望む人は多いが、散骨を望む人はまだ多くはないだろう。

散骨にはどこか遺骨を「捨てる」イメージがつきまとい、家族や親類から強い異論が出ることもあるようだ。比較的簡単な山林への散骨は周辺住民の感情からも困難が多い。

しかし、海への散骨なら―漁業者への配慮は一定必要であるが―比較的自由である。

海洋散骨は「捨てる」のではなく、「還る」のである。海は生き物の原郷だから、こう表現することは決してただの比喩ではない。

海洋散骨は、国土の狭い日本で高齢死者が増えたことによる墓地の不足という状況に対応でき、環境的にも魚の餌になって生態系のサイクルを回す貢献もできる最善のエンディングだと思う。

他人に勧めるわけではないが、自分のエンディングは海洋散骨と決めている。
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富士山が「文化遺産」として、世界遺産に登録される。日本の象徴の栄誉を素直に喜ばない日本人は非国民扱いされかねない空気である。しかし、世界遺産という発想と制度そのものに疑問を持つことなら、許されるであろう。

そもそも富士山のような自然が「文化遺産」かどうかには大いに疑問符が付くが、それをおいても何が世界遺産に当たるのかの基準は不明確で、政略的ですらある。富士山は○で古都・鎌倉は×という今回の結果がそうした不透明さを物語る。

制度の運用のみならず、世界遺産という発想にも疑問がある。世界遺産というが、その裏には遺跡や建造物、自然景観までを観光資源化しようとの狙いが透けて見える。登録されれば観光客が落としていくカネで地元が潤う。世界遺産の正体は、観光資産だ。

世界遺産とは、文化を商品化する文化資本主義の象徴である。制度自体は1972年から存在しているが、「世界遺産フィーバー」の発生がグローバル資本主義の広がりと時を同じくしていることは決して偶然ではない。 

遺跡保存の必要性は否定されないが、その価値評価は純粋に学術的に行われるべきであり、「顕著な普遍的価値」などというあいまいな主観的基準で選別されるべきでない。 

一方、自然景観の場合は、世界遺産登録によってかえって観光客が落としていくカネならぬゴミ(廃棄物+排泄物)の増量で環境が損なわれる恐れすらあることを考慮すれば、そもそも世界遺産の概念から自然景観は外すべきものと考える。
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「団地」という昭和の風景が消えつつある。「団地」の運営主体であった旧住宅公団はすでに都市再生機構(UR)に改組・改称されている。ここでの「都市再生」とは老朽化した団地の解体を意味している。

URにも民営化論がくすぶり、すでに独立行政法人化で高層マンションへの建て替えと民間並み家賃への移行が始まっている。長く住んできた世帯への追い出し策の企図すら窺える戦略である。

団地に生まれ育ち、世代をまたいで半世紀近く住んでいる我が家にとっても他人事ではなく、まさに追い出しの危険がじわじわと迫ってきている。

高度成長期に設立された旧公団が供給してきた低家賃・無期限の公共賃貸住宅は、持ち家・民間マンションと低所得層向けの公営住宅の中間にあって、まさに中間層の住まいを支えてきた。 

社会の貧富二極分解と住居喪失者の増大を防ぎたければ、継続すべき住宅政策である。その際、民間並み家賃で建設費等を回収する必要のある豪華な高層マンション化は不要だ。従来型の簡素な中層団地で必要十分である。

むしろ高層化よりも、高齢世帯の増加や、障碍者世帯の入居も考慮して、バリアフリー化にこそ力を入れるべきである。世代をまたいで長く住むケースも多く、民間の貸家とは性格が異なることから、持ち家に準じて同居家族への相続も原則的に認めるべきだ。

マスメディアも、こうした公共住宅の問題を正面から取り上げるべきであると思うが、なぜか高齢者の孤独死問題や昭和の風物詩的な観点でしか取り上げようとしない。再考を願う。
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