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2213年6月28日

生活のための労働を強いられない未来社会の人生設計は非常に自由度が高くなっています。旧社会におけるように、10代末から20代前半で学業を終えたら就職し、40年働いて60代で定年といったライフステージによる制約がないのです。

未来社会では標準18歳で学校を終えて10年モラトリアム、30歳くらいで就職、さらに40歳で各種専門職に転職するなど珍しい人生コースではありません。

極端には60歳にして初めて就職することだって―さすがに容易ではないでしょうが―理論上は可能です。定年という制度がないので、何歳でも働けるのです。

この点、未来社会の労働は賃金労働ではなく、すべてがボランティア労働ですから、定年制がなく高齢労働者が増えると、結果として若年者の就労チャンスが制約されるという心配もありません。労働者の世代間対立は解消されています。

こうしたことを可能にする法的基盤として、未来社会では雇用上の年齢差別が一切ないことも重要です。労働法では官民問わず、年齢差別は罰則付きで固く禁止されています。賃金労働が廃止された未来社会において、年齢差別は労働基準監督署の主要な取締り事案となります。

そのうえに、雇用に際しての履歴調査さえも禁止されているのです。履歴を調査すると、不利な履歴による就労差別が生じやすいからです。従って、履歴書という慣行も消滅しています。労働者の採用は過去の履歴によらず、応募者は現時点でどんな人物であり、今後何ができるのかという観点でなされるのです。

こうした個人の自由な人生設計を知的な面で支えているのが、極めて合理的に設計・組織された柔軟性の高い教育制度なのですが、これについては次回、ご報告します。
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by komunisto | 2013-06-28 10:36 | 人生
2213年6月25日

貨幣が廃止された未来社会における就職は極めて自由です。もはや生活のために就職を強いられることはありません。貨幣交換システムの廃止に伴い、労働も労働力=商品の売買ではなくなり、すべて無償のボランティア仕事となっています。

未来社会における労働の目的は、旧社会では理想にすぎなかった自己実現にあると考えられています。すなわち働くことそのものが目的なのです。

かつてのように学業を終えると一斉就職する慣行も消滅しています。ただ、学業を終えた人は早晩、何らかの職に就きますが、やりたい職がなければ、自分で職を創ることもできます。ブロガーもその一つと言えるでしょう。

そんなことでは怠け者だらけになってしまわないか?実は、かつて貨幣が廃止された直後、しばらくは罰則付きの労働義務というものがあったそうです。実際、当時はまだ貨幣交換システムの中で育った人が大半であったため、貨幣なしで生活でき、労働が無報酬では誰も働こうとしなくなるのではないかということが懸念されたのです。

しかし試験的に労働義務を廃止してみたところ、そうした心配は杞憂とわかりました。人間は何も労働せずにいるとくるってしまうもののようです。おそらく労働とは、人間にとって生きることそのものなのでしょう。

それでも人によってはギャンブル漬けにならないか?ノーです。確率に対してカネを賭けるギャンブルは、貨幣廃止とともにとうに廃れてしまったからです。そうした過去のギャンブルの象徴として、一部の競馬場は遺跡として保存されています。

ちなみに、旧社会では日雇い仕事の代名詞でもあった建設作業は、今日では地方自治体に所属する「建設作業隊」というれっきとした公営の労働団が一手に請け負います。建設作業員はもはや日雇いではなく、専門的な常勤職として人気職種の一つとなっているのです。 
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by komunisto | 2013-06-25 13:15 | 生活
2213年6月22日

前回、未来社会は一見旧社会と大差のない既視的ユートピアだと書きました。しかし、旧社会と決定的に違う点がひとつあります。それは理想と現実の関係です。

旧社会では理想と現実は対立概念でした。しかも、現実の前に理想を断念することは現実を維持するための必要事でした。そのため理想を追求するすべての思潮が最終的には現実との妥協・後退を強いられたのです。個人の人生観の面でも、理想の夢を追求する「夢追い派」は同情されつつ揶揄されていました。

要するに、旧世界では理想主義は現実主義に常に圧倒されていたのです。そのため、ユートピア的社会実験はすべて挫折しました。

これに対して、未来社会では理想と現実が統一されています。理想が現実の中で実現されているからです。現実的なものはそのまま理想的なものでもあります。今や辞書的にも理想と現実は同義語とされています(理想のほうが「未実現」という意味合いを含む点で、なお若干のニュアンスの違いは残されていますが)。

旧世界では―資本主義か社会主義か、はたまたその他の何主義かを問わず―、貨幣交換システムがあらゆる理想の妨げとなっていたのでした。理想の実現に必要な貨幣の蓄積がなければ、理想も意味を失うからです。貨幣の廃止はこうした「現実」という名の物質的な壁を撤去したのです。

個人の人生観の面でも、貨幣の廃止は各自の夢の追求を大幅に可能にしました。もはや現実的に生活するために夢を諦める必要はないのです。理想の夢を追求することは、即ち理想が実現される現実を生きることにほかならないからです。

その結果、就職の意味も大きく変化しています。この未来社会の就職状況という未だ旧社会で生きるすべての人にとって関心を引くであろう問題については次回、報告します。
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by komunisto | 2013-06-22 10:44 | 思考
2213年6月19日

未来社会はユートピアです。しかし全く未知の世界ではなく、どこかで見たことがあるような感じがします。当初は200年時間が飛んだことに気がつかなかったほど、一見すると200年前と大差ないのです。

そうした意味では、多くのユートピア文学で描かれる理想郷的ユートピアとは異なり、さりげないユートピアと言えます。

23世紀日本社会は今から100年余り遡る21世紀末から22世紀初頭にかけての世界連続革命によって生まれた社会の一つですが、これら未来社会は旧資本主義社会の成果を放棄することなく取り入れつつ、共産主義に基づいて発展した社会です。資本主義時代を経験した筆者のような旧世代の者に既視感があるのはそのためでしょう。

従って、しばしばユートピアのイメージとして持たれるような農村共同体的社会ではありません。発達した都市を持ち、工業化・情報化はよりいっそう進展しています。一方で環境的持続可能性が社会的規準として確立されており、その枠内での発展が目指されています。資本主義時代には空虚なお題目にすぎなかった「持続可能な発展」が実際に達成されているのです。

ちなみに現在、日本の人口は8000万人余り。しかし革命前夜の21世紀末頃には少子化・人口減が著しく進み、最盛期の半分以下、約5000万人まで激減していました。その結果、労働人口の減少で生産活動は停滞し、生活水準も先進国から中進国レベル以下まで転落しました。

保守的な日本における革命は連続革命の一番最後となったのですが、人口激減の存亡危機が革命の重要な契機となったのです。それでも栄光の(?)1億人台は回復していませんが、8000万人は狭小な日本列島には十分な人口と言えるのではないでしょうか。

東京のような大都会でもかつてのような雑踏は見られません。人口密度が緩和されて全体に風通しがよく、住み心地は旧社会よりも格段によくなっていると感じます。
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by komunisto | 2013-06-19 10:21 | 社会
2213年6月16日

前回、23世紀社会における介護についてご報告しましたが、今回は医療のご報告です。23世紀社会における医療は、介護以上に大きく変革されていました。

未来社会へ飛んできて最初に気がついたのは、あれほど街中に溢れていた診療所・病院がめったに見当たらないことでした。記憶をたどると病院があったはずの場所がことごとく全然別の建物になっていたりするのです。

未来社会では病院制度まで廃止してしまったのだろうかと思ったものですが、そうではなく、診療所・病院の数が大幅に減っただけでした。それにしても、未来社会ではいざ病気になったとき病院探しに苦労するのかと不安が募るかもしれません。しかし、心配は無用です。未来社会では保健所と薬局が大幅に活用されているのです。

保健所というと、かつては食中毒事件の時に名前を聞く程度でしたが、今では保健所は日常的な健康相談機関として根付いています。保健所にも予防的な外来部門があって、夜間・休日を除き毎日保健医が健康相談に応じているのです。

またかつては医師の指示で処方薬を出すだけだった調剤薬局では、通常の風邪程度の軽症疾患に対しては薬剤師自ら診断して薬を処方することが認められています。

要するに、かつては開業医が担っていたような第一次的な健康相談・診療を保健所や薬局が担うので、診療所もさほど多くは必要ないのです。病院は中・重症者を治療する場という意識が確立されているため、風邪程度で病院へ行くことはありません。その意味で未来社会は「最小限医療社会」であるとも言えるでしょう。

ちなみに資本主義的医療の象徴であった開業医や私立病院は激減しました。診療所・病院が見当たらなくなった最大の理由はそれです。

なぜそうなったかと言えば、これも貨幣交換システム廃止の結果です。要するに、医療を商品化してカネを稼ぐということは一切できなくなったからにほかなりません。未来社会では医療も完全に無償で提供されますから、医師という職業のあり方も大きく変化しています。

未来社会の医療に関しては、他にも「随時巡回診療車」など興味深いものがいろいろあるのですが、それらについては別の機会にご報告してみたいと思います。
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by komunisto | 2013-06-16 10:02 | 衛生
2213年6月13日

200年後の未来社会に飛んできても、なぜかまだ介護を続けています。しかし介護環境は一変しました。かつては手狭な旧公団住宅で苦労の多い孤独な介護を続けていたのが、現在は在宅介護ながら市営の介護付き高齢者住宅に同居しています。

なぜ高齢者住宅なのか。200年飛んで自身も年老いたからではありません(物理学的には論証できないことですが、年齢は止まったまま200年先にタイムスリップしたので)。介護付き高齢者住宅では、家族介護を条件に高齢ではない家族の同居が認められるからです。

この住宅は外観は旧公団住宅と似たような集合住宅ですが、当然にも内部は完全バリアフリー化されていて、介護士やヘルパーが常駐しています。しかし、いわゆる「介護施設」ではありません。

介護施設としての老人ホームはもう50年以上も前に全廃されたとのことです。未来社会では「在宅か、施設か」の二者択一は迫られません。言わば全員が「在宅」。しかしその意味が広がったのです。

文字どおり自宅で介護することだけが「在宅」ではなく、介護付き高齢者住宅では同居家族がいる場合は日常の介護はその家族自身でするのが原則ですが、家族では難しい高度な介護や、家族が不在の時間帯は常駐職員が手を貸してくれるわけです。

もし状態が重度化し、在宅介護の限界を超えたときは、手厚い看護・介護の受けられる療養病院へ入院することができますが、介護付き高齢者住宅でも最期の看取りまでしてくれます。

ちなみに介護保険制度も貨幣交換システムの廃止に伴い、とうの昔に廃止されています。未来社会では各種物品のみならず、介護のような無形的サービスも無償で供給されます。

介護サービスを商品化したうえで、その購入費用を社会保険で補填するという苦肉の策であった介護保険制度は、資本主義的姥捨て山であった老人ホームとともに過去の悪制として、今では一部専門家しか知らない歴史書の中の存在となったのです。
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by komunisto | 2013-06-13 09:26 | 福祉
2213年6月10日

前回、未来社会は決して厳しい監視・統制社会ではないと書きました。実際、物品供給所でも内部に監視カメラは設置されていません。監視カメラは公共的な場所への出入りチェックが中心で、街頭カメラもゼロではありませんが、設置場所や台数に法的な制限がかけられています。個人による防犯カメラの設置は自宅への取り付けに限り認められます。

総じて未来社会の監視活動は最小限に抑えられている印象を受けます。こうした最小限監視社会の実現にあたっては、保安ロボットの活用のようなセキュリティ技術の向上も寄与していますが、そもそも監視しなければならない犯罪行為自体がまれであるという現実があります。

資本主義時代の犯罪の大半はカネにまつわるものでした。殺人のような生命犯ですらもどこかでカネが絡んでいることは資本主義社会に生きる者にとっては常識でしょう。資本主義社会では利欲的動機が犯罪行為の大半を支配するわけです。

しかし貨幣交換システムの廃止は、こうした人間を時として究極の犯罪にさえ走らせる利欲を抑制し、犯罪を激減させました。人々は監視カメラの際限なき増設ではなく、貨幣の廃止こそ究極の防犯対策であることを知ったのです。

未来社会では犯罪に対する不安から監視カメラの増設が際限なく進行していくような「防犯パニック」現象は全く見られません。監視カメラの法的制限に関しても異論がほとんど聞かれないのはそのためです。ただ、残念ながら今でも少数の犯罪は発生するため、必要最小限度の監視システムは保持されているわけです。

もっとも、およそ監視活動に反対というような徹底した反・監視社会論者であれば、保安ロボットですらおぞましいということになるかもしれませんが、最小限の規律ある監視活動は受け入れることができるという者にとっては、おおむね理想状態が保たれていると言えるのではないかと思います。
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by komunisto | 2013-06-10 10:46 | 社会
2213年6月7日

未来社会ではすべての物品がタダで供給されるなら、物品供給所から自由に物品を持ち去ってもお咎めなしなのかという期待?を持たれるかもしれません。

残念ながら、答えはノーです。前回も報告したように、物品供給所では決められた数量の取得をレジで確認・記録するまでは、所有できないからです。

とはいえ、物品供給所からの無断持ち去りは、いわゆる窃盗とも違います。この点、資本主義社会のスーパーで商品を無断で持ち去るいわゆる万引きが窃盗罪として処罰されたのとは異なっています。

やや細かな理屈になりますが、物品供給所の物品は供給所が所有しているのではありません。物品供給所は社会的共有物としての物資を保管・占有しているにとどまります。

ただ、それは法に基づく正当な占有ですから、物品供給所が占有する物品を無断で持ち去ることは許されず、やはり犯罪行為なのですが、個人の家から物を盗む窃盗罪とは異なる「社会的物資横領罪」という罪に当たります。

物品供給所からの無断持ち去りは今でも「万引き」と俗称されていますが、その意味は資本主義時代とは大いに変わったわけです。

ちなみに物品供給所の出入りチェックは意外に厳しく、出入り口には保安ロボット装置が取り付けられています。万引きして通り抜けようとすると警報が鳴るだけでなく、ロボットアームで身柄を拘束されるのです。

こう書くと、未来社会はすべてがタダである反面、厳しい監視・統制社会なのかと思われるかもしれません。決してそうではないのですが、このことについては次回報告します。
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by komunisto | 2013-06-07 11:47 | 法律
2213年6月4日

前回、未来社会はすべての財・サービスが無償で供給される社会だと書きました。それはどういうことか、具体的な経験を書いてみましょう。一番わかりやすいのは、物品供給所での物品の取得方法です。

物品供給所とは、簡単に言えば資本主義社会の商店に当たるものです。しかし、そこで扱う物品は商品ではないから、商店とは呼ばれないのです。物品供給所にはいくつか種類があるのですが、そういう細かい話はおいて、スーパーに当たる「包括供給所」での話に絞ります。

「包括供給所」は今でも通称「スーパー」で、外観も内部もスーパーと変わりません。棚に並んでいる欲しい物品をまとめてカゴに入れます。ここまでは同じ。違うのは会計のレジがないことです。タダなのですから、会計も無用なのは当然でしょう。

とはいえ、すべてがタダでは独り占めされないか。ご心配無用です。取得できる物品には数量規制があるからです。例えば、りんごは一人何個までとか、肉は一人何グラムまでというように。陳列物品にはかつての価格表に代わって、こうした数量表が付けられています。

そのため、棚から取った物品をカゴに入れる際に、カゴに取り付けられた機械で物品名と数量を読み取り、データ化します。そして、最後に出口でカゴ内の物品を自動包装する際に最終チェックがなされる仕組みです。このチェックカウンターを通らないと外に抜けられず、保安ロボットに阻止されます。

しかし、何度も並び直すことでそうした数量規制をかいくぐれないか。ノーです。チェックカウンターでは顔認証システムが作動しているので、同一人物が数量規制を超えると警報が鳴り、ばれる仕組みです。

それでも、すべてタダでは人が殺到しないか。残念ながら、これはイエスです。物品供給所で欲しい物が切れる前に確実に手に入れるには並ぶ必要があり、整理券発行はしばしば見られる光景です。この点は、昔のスーパーより不便を感じる点です。

ただ、目下私の悩みはすべてがタダでもらえてしまうことによる罪悪感です。思わずポケットの中にあるはずもない財布という骨董品を捜してしまうことも・・・。貨幣経済の旧社会育ちの哀しい性でしょう。
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by komunisto | 2013-06-04 10:11 | 経済
2213年6月1日

タイムスリップして今、200年後の未来社会に来ています。職業は相変わらずブロガー。違うのは、無報酬でも堂々と「ブロガー」を職業として名乗ることができ、なおかつ全く不自由なく生活できていることです。

資本主義社会で生きていた頃は、ブロガーという言葉自体余り普及しておらず、ましてそれを職業として名乗れば「自称」という“肩書き”を被せられてしまう肩身の狭い思いをしていました。

当然ですが、貨幣経済では住まい(貸家)から光熱、あらゆる生活物資に至るまで貨幣交換を要求されますから、無収入の生活は苦しく、常にホームレス化の危険と隣り合わせの不安な日々でした。

未来社会では貨幣経済が完全に廃止されていますから、生活は楽です。資本主義時代には有償であったものすべてが無償なのです。文字どおり、すべての財・サービスが無償で供給される社会が完全に実現されています。

ちなみに昔の貨幣・紙幣はどうなったかと言えば、各地の博物館で見ることができるほか、骨董品として愛好家によって蒐集されたりしています。また貨幣入れとして誰もが持ち歩いていた財布も、昔の民芸品として蒐集・展示されています。

今、自分の理想がほぼすべて実現できる未来社会に飛んで来て、資本主義時代には白々しくて使う気になれなかった「幸せ」と表現することができそうな実感を得ています。資本主義時代は毎日が不平・不満・苦悩の連続で、それを表明する場もなく、ストレスに苛まれていたのとはまさに天地の差があります。

これから折に触れて、未来社会の様子を手紙形式で綴っていくつもりです。資本主義社会の様子も過去の時代を同時代に変換して映す特殊なテレビ放送を通じて知ることができますので、そちらの時事にも関連させながら書いていきたいと思います。
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by komunisto | 2013-06-01 09:41 | 生活