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2213年9月29日

旧社会では官民問わず、また大小にかかわらず、様々な組織体の中で「長」の付く役職が非常に目立ちました。係長・課長・部長などはその典型ですが、事務局長、書記長なども同類です。23世紀の現在、こうした「長」はめっきり減りました。代わりに「責任者」が増えています。例えば、係責任者・課責任者・部(総括)責任者のように。

管理職に付く「長」という接辞は専ら権限の大きさに着目した呼称です。つまり管理職とは権限の大きな職というわけです。それに対して「責任者」は権限より責任の重さに着目した呼称です。管理職とは単に権限が大きいのではなく、責任が重いのです。こうした変化は単に言葉のあやにとどまらず、意識の変化にも現れています。

かつて「長」は「上司」の権威の象徴であり、中には本当に自分は偉いと思い込み、部下に当り散らすような勘違い「長」も見られました。しかし「責任者」は権威より責任の象徴であり、自らが統括する部署の最終責任を負うべき人なのです。権限もそうした責任に裏打ちされたものであって、決して偉いわけではありません。そのため近年は「上司‐部下」という対語もあまり使われなくなっています。

権限より責任となると、旧社会のようにみんながこぞって「長」になりたがる風潮は影を潜め、本当に責任感の強い人だけが「責任者」になるという組織体にとってはプラスの効果も得られます。

ただ、「長」がこの世から消えてしまったわけではありません。本当に「長」と呼ばれるべき各組織体のトップはやはり「長」ですが、およそ未来社会の組織は合議を重んじる民主的な構造になっているため、例えば前回ご報告した電力事業機構のような基幹企業体トップも「社長」ではなく、「経営委員長」ですし、政治の最高機関たる民衆会議のトップでかつての元首や自治体首長に当たるような職も「議長」です。

こうして「長」が少なくなると、組織体のリーダーシップが弱くならないかとご心配かもしれません。しかし、未来社会のリーダーシップとは猿のボスのような一人の強力な個人の指導性ではなく、民主的な合議を通じた集団的指導と理解するのが世界標準です。ある意味で、人類は23世紀の今、ようやく「サルからヒトへ」の進化の長旅を終えたと言えるのかもしれません。
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by komunisto | 2013-09-29 11:54 | 社会
2213年9月26日

21世紀初頭の日本では福島原発の事故以来、電力供給のあり方が議論となり、電力事業の発送電分離や料金自由化、地域独占排除などの電力自由化推進が取り沙汰されていました。

そうした議論はしかし、当時モードであった新自由主義の立場から、規制の強い電力事業を市場に開放し、究極的には各家庭を含む電力受益主体が自由に電力会社を選べることを理想とする資本主義的「自由化論」でした。

23世紀の現在、電力供給は「日本電力事業機構」という単一の公益事業体が全土にわたって発送電すべてをまかなっています。おや、それではかつての地域独占を超える超独占企業体では?と思われるかもしれません。

ある意味ではそうなのです。しかし「独占」の意味が違います。未来の共産主義社会の独占は営利独占を意味せず、公益独占です。つまり環境的持続可能性を考慮した計画経済の一環としての「独占」なのです。

こうした「独占」は電力に限らず、他の基幹産業すべてで採られており、例えば「日本鉄鋼生産機構」とか「日本造船事業機構」などがあり、自動車ですら今や「日本自動車生産機構」が一括して自動車生産に当たっているのです。もはやトヨタも日産もありません。

このような生産体制は資本主義に慣れた者には理解しにくいところもありますが、計画経済が全世界に行き渡った現在では、これが世界標準モデルとなっています。

電力に話を戻すと、電力事業も「経済3か年計画」の中に組み込まれ、計画に基づき電力事業機構が日本中の電力供給を一括して担っているわけです。地方事業所はおおむね旧電力会社の所在地ごとに設置されていますが、長く東西で異なっていた周波数も統一され、電力融通供給の技術的な問題もクリアされています。

また以前ご報告したとおり、原発は全廃されているため、現在の電力供給事業は再生可能エネルギーで大半をまかなっており、風力や水力、太陽光、地熱など多種類の発電所が機構によって運営されています。
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by komunisto | 2013-09-26 09:57 | 経済
2213年9月23日

「水素社会」というキーワードは21世紀にも盛んに登場していましたが、23世紀の現在、日頃格別に意識されないほど水素の活用は一般化されているため、「水素社会」などという用語が使われることはありません。

なかでも、自動車です。23世紀の自動車はすべて燃料電池車です。燃料電池は水素と酸素の化合によって発電する仕組みで、充電が必要だった旧型電気自動車に比べても、環境的持続可能性を含めた総合エネルギー効率は良好です。

こうした燃料電池車自体はすでに私が旧世界にいた21世紀初頭には開発されていましたが、まだ希少車で、自動車と言えば圧倒的にガソリン車でした。23世紀の未来世界では、ガソリン車は環境的持続可能性を欠く悪しきクラシックカーとして記憶されています。

燃料電池自動車の一世代前には充電式電気自動車がありましたが、充電が必要なことや走行距離の短さといった限界があったところ、燃料電池車はこれらの限界を乗り越えたのです。

実際のところ、燃料電池車の優位性は21世紀から認識されていたのですが、水素の生産・運搬・貯蔵等に関わるインフラ整備にかかる多額のコスト、ひいては商品水素の末端価格の高額化がネックとなって、普及の実現可能性は乏しいと見られていたのでした。

要するに、資本主義時代ではあらゆる分野でぶつかったカネの問題です。しかし、貨幣経済が廃止されたことにより、こうしたカネにまつわるネックは完全にクリアーされたのです。

こうして自動車=水素自動車となって、高速道路沿いで見慣れたガソリンスタンドは消滅しました。その代わりになるのは、水素スタンドです。形はガソリンスタンドに似ていますが、水素スタンドはその名のとおり、燃料電池自動車に水素を供給する施設です。

もっとも、オール水素電池車といっても、23世紀世界はもはやクルマ社会ではありませんから、自動車の保有台数自体が減少しています。特に自家用車は量産されておらず、個人が好みの型やデザインで発注する注文生産方式によっています。

路線バスは路面電車やライトレールに転換されている例が多く、地方市町村部の停留所を持たないコミュニティーバスでの活用が主となっています。長距離バスは無料で乗り放題の電車や飛行機で代替され、一部観光目的のチャーターバスを除き、ほぼ廃れました。

21世紀に展望されていたように、ガソリン車が平行移動的に電動車に置き換わるというような単純な話ではないわけです。かくして23世紀のオール水素自動車化は、さらに未来のノー自動車化への道なのかもしれません。
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by komunisto | 2013-09-23 10:50 | 環境
2213年9月20日

21世紀の日本では今日から26日まで動物愛護週間だそうですね。知らなかったのですが、このことは動物愛護管理法で正式に定められています。しかし23世紀の現在、そのような特別なキャンペーン週間は必要ありません。動物権利法というさらに進んだ法律があるからです。

これは動物を愛護の対象とするのでなく、対等な人間の仲間として遇する考えに立って動物にも人に準じた権利主体性まで認める法律で、言わば動物版“人権宣言”です。

この法律では動物の野生状態を尊重することが原則とされ、飼育できる動物は法令指定の種に限定されます。そのうえ飼育者には動物の健康維持や埋葬等につき厳格な義務が課せられます。

やや驚かされるのは動物園・水族館に代表される動物の拘束的展示が禁止されていることです。このことは野生状態尊重の趣旨から導かれます。そのため旧動物園・水族館の多くは閉鎖もしくは希少動物の保護繁殖や傷病野生動物の救護を目的とする動物保護センターに転換されています。このセンターは飼育動物を写真やネット動画で公開することはありますが、公開展示はしません。

また動物実験は禁止されていないものの、他に代替し得る方法がない場合に限り、動物実験管理委員会の許可の下に認められるうえ、実験者は実験動物の苦痛の軽減・除去の義務を負います。

また動物の捕食・屠殺については、その動物が主食または主食に匹敵する死活的重要性を持つ場合に限り許されるという基準が適用されるため、かつて日本が槍玉にあげられていた捕鯨のように美食目的での動物の捕食は禁じられています。

興味深いのは「動物司法」という領域です。これは動物を当事者とする一種の民事訴訟で、公益法人である動物権利擁護協会が動物に代わって訴訟を提起する専権を与えられているのです。例えば開発によって生息環境を奪われる恐れのある動物に代わって協会が生息場所の保全を求めて提訴できますし、害獣駆除の差し止めも同様です。

最近も、過保護で殖えすぎ、樹木や農作物を食い荒らすとして駆除されかけたニホンカモシカが差し止め訴訟に勝訴したとの報道がありました。駆除を申請した農業機構は判決に強く反発し、控訴する方針とのことです。カモシカ対ヒトの訴訟合戦、果たして最終的にどちらが勝つのでしょうか。
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by komunisto | 2013-09-20 09:03 | 法律
2213年9月17日

「大学解体」などと言えば、20世紀学生運動のスローガンみたいですが、23世紀の未来社会ではそれが現実のものとなっています。すなわち現在、大学という教育機関は世界に存在しません。ハーヴァード大学もオックスフォード大学も東京大学もないのです。

大学という教育機関は西洋で誕生し、20世紀中には世界に広がり、いわゆる高等教育機関の代表格となりました。「大卒」は社会的に良いポジションを得るには不可欠の学歴証明となっていたため、一部の国では一流大学入学を目指す受験競争が熾烈化していました。

こうして大学は世襲身分制度が一掃された後の知識に基づく新たな階級制の土台となっていたわけですが、世界連続革命はこうした知識階級制の打破を導き、大学制度の解体へと進んだのでした。

20世紀の学生運動と違うのは、大学解体後の新しい教育制度のあり方まで具体的に示されたことです。その概要はすでに基礎教育課程と生涯教育課程を軸とする合理的な教育制度としてご報告したところです。その中で生涯教育の中心を担う「多目的大学校」は旧世界の大学とは異なることも説明しました。

では、旧大学は完全に消滅したのかと言えば、そうではありません。旧大学はそのまま「学術研究センター」という研究機関として純化されました。例えば日本の旧東京大学は現在、「東京総合学術センター」が継承しています(ちなみに有名な「赤門」も再建のうえ保存されています)。

こうした「学術研究センター」は複数の研究所の集合体として構成されており、各研究所が自前の研究員を擁しています。しかしもはや教育機関ではないので、教授という職は存在せず、かつての教授に相当するのは上席研究員です。

「学術研究センター」は研究者養成も独自に行っており、各研究所ごとに研究助手を募集します。募集に際しては所要の学識試験も課すため、かつての大学入試に似てはいますが、それはあくまでも研究員となるための就職試験の一種であり、入学試験とは異なるものです。

例えばあなたが物理学の研究者になりたいならば、東京総合学術センター理学研究所の研究助手試験を受験することができます。合格すれば助手として採用された後、先輩研究員の下で訓練を受け、研究者としての道を歩みます。

ちなみに医科大学のように専門職養成に特化した大学は現在、「高度専門職学院」という生涯教育課程の一環としての専門教育機関が継承しています。医学であれば「医科学院」と呼ばれ、例えば先の東京総合学術センターも系列の医科学院を傘下に持っています。

こうした高度専門職学院には他にも歯科学院、薬科学院、獣医学院や法科学院、工科学院、教育学院、福祉学院、芸術学院、体育学院等々様々なものがありますが、これについてはまたの機会にご報告したいと思います。
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by komunisto | 2013-09-17 13:52 | 教育
2213年9月14日

23世紀の未来社会へ飛んできて、21世紀までの旧社会で慣れ親しんでいた何かを見かけないという気がしていたのですが、それは広告でした。かつて溢れかえっていた商品広告を全く見かけないのです。

これはおよそ商業というものが廃止された以上、必然の結果です。すべての物品・サービスは無償で計画的に供給されるのですから、「買わせる」ための広告は必要とされないのです。

それどころか、いわゆる物品供給所では広告によって人が殺到することを防ぐために、かえって広告は禁じられているほどです。だから、どんな物品が入荷しているかは行って見なければわからないので、この点では時々スーパーの折り込み広告が入ってきた旧世界より不便な感じはあります。

それでも、毎日ポストに投げ込まれる広告の山に苦慮することはありませんし、たびたび番組を中断させるテレビCMや、インターネットの閲覧速度を落とす大量の広告バナーもなく、すっきりした印象です。

ちなみに広告がないということは、広告のキャッチコピーを考案するコピーライターという職業も存在しないことを意味します。

その代わり、電化製品を中心に物品の取扱い説明書は極めて明快で、そうした説明書を専門に執筆する職業が確立されてきています。かつてわかりにくさの象徴だった説明書が今や非常にわかりやすくなっていることは、「メカ音痴」にとっては助かります。

これは文化にも関わる重要な変化で、簡単に言えば、「広告・誘惑の文化」から「説明・納得の文化」への変革があったとまとめることができるでしょう。

ところで、今でも広告を唯一見ることのできる場所があります。それは美術館です。大きな美術館には資本主義時代の代表的な商品広告を集めた展示コーナーがあるのです。広告は今や、近代の古美術品として扱われているわけです。
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by komunisto | 2013-09-14 09:47 | 経済
2213年9月11日

20世紀から21世紀にかけて“世界の保安官”として最強の軍隊を擁し、世界に君臨した資本主義総本山の「帝国」アメリカ合衆国。ですが、23世紀の現在、アメリカはもう存在しません。というより、分裂したと言うほうが正確かもしれません。

現在の旧アメリカは、おおむね北部が(一部南部を含み込む形で)旧カナダと合併して「北アメリカ連合領域圏」にまとまり、南部・南西部の旧メキシコ領土だったカリフォルニアやテキサスを中心に旧メキシコと合併して「アメヒコ連合領域圏」にまとまっているのです。後者の「アメヒコ」とはアメリカとメキシコのスペイン語読みメヒコを合成した名称です。

旧アメリカでは21世紀後半以降、主にメキシコなど中米にルーツを持つヒスパニック系人口が増大し、22世紀になると、特に南部・南西部では人口比で最多となりました。しかしヒスパニック系は人口がどれほど増えようとも貧困層が多く、経済的利権はヨーロッパ系富裕層に握られていました。 

そうした中、主としてヒスパニック系が中心となって、21世紀末に世界連続革命の起爆剤となる最初の革命がアメリカで発生し、次いで多くのヒスパニック系の郷里である南隣のメキシコへも波及しました。

これにより、一旦は旧アメリカ合衆国が総体として「アメリカ連合領域圏」へ移行したのですが、革命終息後に分裂が起き、すでにヒスパニック系が多数派となっていた南部・南西部の旧メキシコ領土地域はメキシコとの合併を望んだのです。一方で、依然としてヨーロッパ系が多数を占めていた北部を中心とする諸地域は、元来ヨーロッパ系主体の北隣カナダとの合併を希望しました。

ここでアメリカにとっては言わば歴史上二度目の「南北戦争」とも言える事態となったのでしたが、19世紀のそれとは異なり、軍事的な衝突には至らず、論戦を経て住民投票の結果、平和裏に分離が決まりました。

ちなみに「連合領域圏」とは、旧アメリカや旧メキシコのように連邦制の伝統の強い地域で採られている構成で、独自の憲法を持ち強い内政自治権を保障された「準領域圏」が連合して一つの連邦的な「連合領域圏」を構成する体制です。この点では北アメリカもアメヒコもともに連合領域圏として共通しています。

こうしておおむね北と南に分離した旧アメリカはもはや「帝国」ではなく、ともに世界共同体を構成する73の領域圏の一つにすぎません。世界から軍隊が廃止され、恒久平和の時代に入った今や、“世界の保安官”の役目も終わりました。

ただ、北アメリカ連合領域圏は大雑把に言えば「旧アメリカ+旧カナダ」という構成のため「先進地域」の性格は残り、実際、科学技術やその他の学術全般では依然として世界をリードする存在であり続けています。

一方のアメヒコ連合領域圏は実質上世界連続革命の生みの親のような立場で世界から尊敬を集めており、その動向は世界共同体においても一定の重みを持っていますが、その地位はもちろん「帝国」と呼ぶべきような覇権的なものではありません。
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by komunisto | 2013-09-11 08:48 | 政治
2213年9月8日

2020年五輪開催地が、東京に決まりましたね。日本列島では―原発避難が続く福島を除き―さぞお祭り騒ぎになっていることでしょう。次の世紀には五輪というイベントそのものが消滅する運命にあることもつゆ知らず・・・。

実際、私自身意外なことに、五輪は22世紀の世界連続革命の後間もなく廃止されてすでに100年近くになります。廃止の理由は、環境保全と経済合理性でした。すなわち単発の五輪開催のために都市を「再開発」することの環境的悪影響や経済的不合理性が鋭く批判されるようになったのです。

より本質的には、19世紀末に始まった近代五輪は資本主義と深く結ばれていたのだということです。21世紀の五輪は、近代五輪の父・クーベルタン男爵のアマチュア主義の思想をも離れ、「経済効果」を狙った商業主義にますますのめり込んでいました。共産主義に変革された22世紀以降、そうしたアマチュア主義ならぬ商業主義の祭典が廃れたのも不思議はありません。

それに加えて、そもそもスポーツ自体が盛んではなくなっています。資本主義の時代には大資本の後援を受けたスポーツの価値が過剰なまでに強調され、五輪を頂点とする国際スポーツ大会が一大イベントとしてスポットライトを浴び、人気スポーツ選手はアマチュアを含め、一種のブルジョワ貴族階級と化していました。

貨幣経済が廃された今、競技で報酬を受け取って生活するプロとそうでないアマチュアの区別は完全に撤廃されました。スポーツは個人の趣味活動にすぎません。その意味で、スポーツ選手は全員アマチュアとも言えますが、専業で競技する人は職業的選手と認識されています。

ちなみに五輪は消滅しても、個々の競技の世界大会は存続しており、サッカーのワールドカップなどは依然、人気の高い大会です。ただ、メディア上でもかつてほどこうした国際スポーツ大会が大々的に報道されることはなくなり、定時ニュースではほとんど扱われず、スポーツ専門テレビ局で中継放送される程度です。

総じて23世紀人はスポーツよりも、絵画や音楽その他の文化活動に関心が高いようです。23世紀人は言わば「体育会系」ではなく、「文化系」なのでしょう。この点、「スポーツ音痴」の私にとっては、安住できる文化環境です。
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by komunisto | 2013-09-08 09:55 | 文化
2213年9月5日

これまでにもしばしば「世界共同体」について触れてきました。わかりやすくするため、これを旧国際連合の後身として説明してきましたが、実際のところ世界共同体(世共:Universala Komunumo)と国際連合(国連:United Nations)の構造は大きく異なっています。

国連はあくまでも主権国家の連合組織にすぎませんでしたが、世共は主権国家ではなく、領域圏と呼ばれる未来世界特有の政治単位で構成する共同体組織です。それはまさに「地球村」と呼ぶにふさわしい世界組織です。

この違いは言葉以上に大きなものがあります。特に重要なのは、条約の効力です。旧国連条約は加盟国の主権を優先し、それを批准するかどうかは各国の自由に委ねられていました。従って、自国の都合から重要な国連条約の批准を拒否し続ける加盟国も珍しくなかったのです。

しかし、世共条約は構成領域圏すべてを拘束しますから、制定過程では反対した領域圏も条約が成立した限りはそれに従わなければならず、所要の法改正も強いられます。

こうした強力な条約の審議・議決を行うのは、「世界民衆会議」という世共の最高議決機関です。通称「総会」と呼ばれますが、構成領域圏は「総会」で平等に一票を保有します。その投票権は各領域圏の国会に相当する中央民衆会議によって選出された大使代議員が行使することになります。

現時点で世共を構成する領域圏は73あります。私が旧世界にいた21世紀初頭の国連加盟国が200近くあったのと比べ、領域圏の数はざっと三分の一ほどです。これは、小さな島嶼国家などが合併したことによる結果のようです。一方で、かつては国を持てなかったクルド人は独立のクルド領域圏を形成しています。

ところで、世共の執行機関は領域圏が地域ごとにまとまった「環域圏」と呼ばれる五つの大地域の民衆会議が選出する環域圏常任全権代表で構成する「環域圏代表者会議」です。

環域圏は国家という単位が常識だった旧世界にいた者にはわかりにくい概念ですが、例えば日本領域圏は「環東方アジア・オセアニア圏」に属しています。この環域圏はおおむねかつての東アジア・東南アジアとオセアニアから成っています。現在の環東方アジア・オセアニア圏常任全権代表はマレーシア領域圏出身の人ですが、その前任者は日本領域圏の出身でした。

ところで、旧国連本部は“世界の保安官”アメリカ合衆国の首都ニューヨークに置かれていましたが、現世共本部は南アフリカ領域圏の都市ヨハネスブルグに置かれています。あれほど強盛だったアメリカは今どうなっているのか。これについてはいずれご報告しましょう。
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by komunisto | 2013-09-05 10:57 | 政治
2213年9月2日

1日過ぎてしまいましたが、21世紀日本の昨日は「防災の日」でした。23世紀日本に「防災の日」というものは特にありません。現在、避難訓練ということ自体、専門機関の演習としてしか行われていないのです。

これは避難訓練の効果がかつてほど信奉されなくなった結果でもありますが、現在、各地方圏(道)ごとに極めて強力な災害救難隊が配備されていることもあります。

かつて災害救助は第一次的には消防、消防だけでは対処しきれない大規模災害では自衛隊が投入される一方、警察や海上保安庁も一定の救助任務を負うというように、災害救助機関が錯綜しており、しばしば連携も乱れがちでした。

こうした問題を克服した現在、災害救助は上述の道災害救難隊が一元的に担うことになっています。消防や警察等も災害救助に関しては救難隊の指揮下に入ります。

この救難隊は高度のレスキュー技術を備えた常設機関で、隊員は特別な訓練を受けた精鋭です。そのため、通称ウルトラ・レスキュー隊とも呼ばれています。特に山岳地帯の多い北陸信越道の災害救難隊は山岳救助でも知られています。

ちなみにかつて高度のレスキュー技術をもって大規模災害の救助にも投入された自衛隊はすでに軍隊廃止条約に基づいて廃止されて久しいのですが、道災害救難隊は旧自衛隊のレスキュー技術を引き継ぐ存在でもあります。

各道災害救難隊を中央で束ねるのが、災害救難センターという中央組織で、複数の道にまたがる災害では連携・統合運用も可能になっています。

さらに災害救難隊のみでは対処し切れないほどの大災害では、国連に相当する世界共同体に所属する民際緊急救難隊が派遣要請に基づいて出動しますが、派遣要請がなくても世界共同体独自の判断で出動する場合もあります。

現在、大災害のような緊急時に国際救助をしばしば妨げた国家主権という観念は克服されており、世界共同体は独自の判断でも救難介入を行えるようになっているのです。

大規模災害は今も毎年世界各地で続いていますが、救助体制の一元化と民際化が進んだことにより、かつていわゆる開発途上地域の災害ではしばしば膨大な数に上った犠牲者数も大幅に減少してきています。 
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by komunisto | 2013-09-02 10:35 | 社会