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2213年11月28日

以前のたよりで、いわゆる老人ホームは50年以上前に廃止されたと報告しました。すなわち23世紀の介護は在宅のみです。介護は在宅と入院の双方があり得る療養とは明確に区別され、於居宅と決まっているのです。 

こうしたオール在宅介護を支えるのは、「介護スタチオ」(エスペラント語でステーションに相当する「スタツィーオ」に由来)と呼ばれる総合介護事業所です。これは市町村ごとに組織される「介護事業団」の地区出先サービス機関という位置づけとなっています。

各スタチオには介助士を中心に、看護師、医師、ヘルパーが常駐します。また昔の介護タクシーに相当する介助車も常備され、移動介助にも対応するまさに総合的なワンストップサービスです。介護が必要になったら、このスタチオに一括で依頼すればよいわけで、200年前にはサービスごとに別々の事業所と契約しなければならなかった煩雑さが解消されています。

介護サービスも、すべて無償です。それでも平均寿命が100歳に伸びたわりに健康長寿社会であり、要介護の対象者はさほど多くないので、介護サービスも充分ゆとりがあるようです。我が家の場合は介護付き高齢者住宅に入居中のため、介護は住宅専従の介助士が担当してくれますが、人員に限りがあるため、介護スタチオからも来てもらっています。

ちなみに、昔の訪問介護と決定的に異なるのは、医師も常駐していることです。介護スタチオ専従医師は老年科もしくは障碍者科の専門医資格を持つ総合医で、定期・随時の往診が基本です。また基幹的なスタチオには老年歯科医もいます。このように介護と医療が結合しているのも23世紀の介護制度の便利な特徴となっています。

介護スタチオはまた介護労働の最前線でもあります。上述したように、ここには介護に関わる多種のスタッフが配置されています。このうちヘルパーとはアマチュア(無資格)の家事援助員のことで、家事援助以外の介助は有資格の介助士の専権とされていることが200年前との違いです。

介護労働は現在でも楽ではありませんが、家事援助と介助がはっきり分離されていることや(後掲記事参照)、スタチオへの集約化が実現していることも、比較的安定した労働力確保を可能にしていると考えられます。
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by komunisto | 2013-11-28 11:35 | 福祉
2213年11月25日

良い言葉ではありませんが、資本主義時代には「3K」(きつい、汚い、危険)と呼ばれる仕事がありました。清掃、建設、介護はその代表格であったと思われます。こうした仕事に限って社会的な必要性は高いのでした。

そのため、人手不足が起きては困るのですが、強制労働によるわけにはいかないので、資本主義的「3K」労働は他の仕事が見つからない人のためのある種失業対策事業として留保され、それでもカバーし切れなければ外国人労働者に押し付けられていたのです。

しかし、およそ労働が無償のボランティア化された23世紀、こうした「3K」仕事に自発的に従事しようとする人は激減し、決定的な人手不足に陥らないかという疑問も浮かびます。実際そのような心配はないのですが、内情はそれぞれの業界ごとに異なるため、ここでは特に清掃労働について取り上げます。

清掃というと、ゴミ回収やビルの清掃などの仕事が思い浮かびます。そうした仕事は今日でも清掃労働の重要な一環ですが、23世紀の清掃労働はより広く「環境労働」というカテゴリーに包摂されています。環境労働とは、環境保全を目的とする労働の総称で、清掃だけでなく、放射線等の各種有害物質の測定・除去や、有害生物(特に害虫)の駆除などにも及びます。

こうした環境労働は、各市町村ごとに組織された「環境労働団」という公的団体が担っています。これは生活ゴミの回収やビル等の清掃はもちろん、上述の環境労働全般を請け負う団体です。なお、清掃事業を営利的に展開する清掃会社というものは存在しません。

この環境労働団の従業員は単なる清掃員ではなく、清掃を含めた環境労働全般の技能を持ったある種の技術者です。こうした環境技術は各地の生涯教育機関である多目的大学校でも教えられており、認定資格制もあります。考えてみれば、清掃も完璧にこなそうとすれば素人ではなかなかうまくいかないもので、たかが清掃と侮れないわけです。

こうした環境労働は決して楽ではありませんが、もはや人が敬遠する「3K」仕事ではなくなり、環境的持続可能性の理念が社会に定着した現在では、むしろ社会的にも敬意を持たれる仕事とみなされているのです。
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by komunisto | 2013-11-25 10:46 | 環境
2213年11月22日

23世紀世界七不思議の一つは、労働が全面的に無償のボランティア化されているにもかかわらず、多くの人は労働し、生産活動も高度に保たれていることです。その謎を解く鍵は意外なところにありました。それは教育です。

23世紀の教育が基礎教育と生涯教育の二つの課程に分かれることは以前ご報告しましたが、特にかつての小中高に当たる基礎教育課程での職業導入教育が徹底しているのです。

日本の旧高校課程のように、大学を中心とする高等教育課程への進学を想定した普通高校と就職を前提とした職業高校とに分断してしまうやり方によると、普通高校では一般教科教育に偏り、職業教育が抜け落ちてしまいがちでした。おそらく、どうせほぼ全員が大学等を終えれば「会社員」になるのだから、特段の職業教育など必要ないと軽視されていたのでしょう。

しかし労働が完全に無償化され、基本的衣食住と労働が分離された23世紀の今、職業導入教育はかえって不可欠になっています。そうでなければ、労働者が激減し、恒常的な労働者不足の社会状態に陥る恐れもあるからです。

そこで、13か年に及ぶ基礎教育の終盤の4年間ほどでは集中的な職業教育がすべての学校で行われます。これは労働倫理から始まり、生徒一人一人に対する科学的な適性検査の結果はじき出された適性分野の業種ごとに分かれての職場見学や実地での試験労働に至る実践的な教育です。

入門の労働倫理教育では、労働とは何か、またなぜ労働するのか、さらにどのように人生を設計するかといった哲学を徹底的に考えさせる指導が行われます。これは、労働が完全に自発性に委ねられる時代には不可欠のプロセスです。

こうした職業導入教育を担当するのは、職業カウンセラー(エスペラント語で「コンシラント」と呼ばれます)の資格も持つ専任の教員で、すべての基礎教育課程に職業教育担当教員が配置され、生徒一人一人と面談しながら、きめ細かい指導が行われているようです。

こうして23世紀の生徒たちは充分な職業導入教育を受けた上で、なおかつ学校卒業後直ちに就職する必要はなく、少なからぬ卒業生がモラトリアム期間を経験しますが、それはかつてひきこもりやニートなどと呼ばれた「迷える子羊」への道ではなく、各自の人生設計に基づく準備期間なのです。

そのうえで就職しても、終身雇用ではありませんから、転職は日常事です。そうした場合に効いてくるのが先の生涯教育課程における実践的な継続教育です。ここで全く新しい分野の技能知識を身につけて、転職することも可能となります。

こうして23世紀の労働社会は、「食べていくためには働かなければならない」という外的な強制ではなく、「働きたいから働く」という教育を通じた内的な自発性によって支えられていることが理解されるのです。

とはいっても、清掃や建設、介護といった重労働はいかに教育しても無償で自発的に従事しようとする人は少なく、恒常的な人手不足に陥るのではないかという疑問がなお拭えないかもしれませんが、これについては次回改めてご報告することにします。
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by komunisto | 2013-11-22 10:29 | 教育
2213年11月19日

先日、地元のS市民衆会議(市議会に相当)を傍聴に行ったところ、身体障害者や視覚障碍者の代議員が4人ぐらいいました。旧市議会時代には考えられなかった光景ですが、聞いてみると珍しいことではなく、隣の隣のK市の民衆会議議長(市長に相当)は障碍者だそうです。

国会に相当する中央民衆会議でも障碍者代議員は50人近くいるそうですから、23世紀には障碍者が中央・地方の代表機関にも当たり前のように存在するわけです。世の中には一定数障碍者が存在するのですから、考えてみればまさに当たり前のことです。

世界を見渡しても、障碍者の活躍はめざましく、北欧のように歴史的なバリアフリー先進地では元首に相当する領域圏民衆会議議長にも障碍者が何人も出ています。

街を歩いていても、様々な障碍者によく出会います。一見、障碍者の数そのものが増えたかのように錯覚してしまうのですが、もちろんそうではなく、「社会参加する障碍者の数が増えた」というのが正解です。

それは21世紀と比べて、バリアフリーが大幅に進んだからです。もはやバリアフリーを超えて、そうした言葉も死語となるほどに23世紀世界にとって障碍者の社会参加は普通のことです。

21世紀までは障碍者が健常者規格に適応できるように助けることがバリアフリーでしたが、今や、すべての人のためにバリアをなくすことがバリアフリーであり、そのためバリアフリーという特別な言葉も不要になったのです。実際、公共的な場所に足を踏みはずしかねないような段差がないことは非障碍者にとっても助かることです。

そうした物理的なバリアフリーだけでなく、心理的なバリアフリーも進みました。かつてはバリアフリー云々と言いながらも、やはり障碍者を「欠格者」扱いする心理はどこかに残されており、議会にほとんど障碍者の姿が見かけられなくても不自然とは思わない無意識の差別感覚が自分自身にもありました。

そうした心のバリアも23世紀世界では消滅したようです。その一方では出産前診断による障碍胎児の中絶があっさり定着していることとの整合性が気にかかるのですが、これは死生観にも関わる大きな問題ですので、別の機会に改めて取り上げることにしましょう。
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by komunisto | 2013-11-19 13:16 | 社会
2213年11月16日

以前、「草食系23世紀人」と題する記事の中で、23世紀人の健康長寿は肉食の後退によってもたらされていると論じたところ、菜食が広がり、動物蛋白質の摂取が減少すれば、かえって栄養失調による寿命の短縮をもたらすはずであり、矛盾があるとの指摘を21世紀人から受けました。

そこで再度調べ直してみたのですが、たしかに前記事内容はやや一面的でありました。肉食習慣が後退しているのは事実ですが、魚食については水産資源の回復に伴い、増加していることがわかりました。従って、魚類からの蛋白源の摂取はかなりできているようです。

他方においては、やはり蛋白源が豊富な一般動物食の後退による栄養失調傾向も、まださほど深刻ではないものの、世界的に見られるようで、世界保健機関が極端な菜食の危険性を警告しています。

ただ、これも別記事でご紹介したとおり、23世紀社会は病院以上に保健所が活用されています。医師も病気の診断・治療を行う臨床医と病気の予防・啓発を行う保健医とが別の資格となっており、保健医は保健所で一般健康相談や栄養指導をしています。人々はちょっとした体調不良の場合は病院へ行く代わりに、保健所へ行き保健医に相談します。

また保健医はかつては学校近辺の開業医が嘱託されていた校医の仕事もしており、寿命にも大きく影響する子どもの健康や栄養に関してもきめ細かく指導助言を行っているのです。

こうした保健医によって一人一人の個別的な体質に合った健康管理と食事指導が広く普及しているほか、今や効果的な栄養補給剤が数多く開発されており、保健医はこうした栄養補給剤の処方まで細かく行います。

もう一つ、賃労働の廃止と時短の徹底は労働に伴うストレス要因を大幅に除去し、癌の発症にさえ寄与すると考えられるストレスから人々を解放しました。結果、癌患者は大きく減少しています。

こうして、食習慣、保健指導、ストレス除去などの様々な生物学的及び社会的・経済的な要因が複合的に作用して、23世紀の健康長寿がもたらされていると考えられます。ただし、上述したように、脱飽食の時代は逆に栄養失調の危険と隣り合わせであることにも注意が必要なようです。
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by komunisto | 2013-11-16 10:03 | 衛生
2213年11月13日

未来社会のイメージとして、コンピュータが全社会に行き渡り、オンライン化が高度に進行した高度コンピュータ社会というものがあると思います。実際、23世紀社会はそのような形容がぴったりあてはまります。

23世紀型コンピュータ―前にご報告したとおり、現在は舌がもつれそうなコンプティーロというエスペラント語由来の外来語で呼ばれます―の特徴は、小型化・省エネ化、音声入力/タッチパネル式ということに集約できそうです。

こうした技術的傾向はすでに21世紀の段階で現れており、さほど驚くべきことではないでしょうが、私のような旧世界人がやや戸惑うのは、デスクトップ型とノート型というお馴染みのパソコン分類がないことです。言わばすべてがノート型なのですが、それもまさにノート大に小型化し、かつ機能は旧デスクトップ級だといいます。

携帯電話の小型パソコン化という現象も21世紀に現れていましたが、今や携帯電話はパソコンそのものであって、「テレコン」(テレコンプティーロの略)と呼ばれます。前にご報告した全員に支給される行政手続き専用端末もその一つであり、警察・消防・救急への一発通報のような便利機能も備えています。

23世紀の社会では老若男女ともコンプティーロを自由自在に使いこなします。それもそのはず、今や高齢者でも生まれたときからコンプティーロ社会ですから、当然でしょう。そのためアナログ派の高齢者に配慮する必要がなく、ほとんどすべての業務がオンライン処理されるため、オフィス等の事務の現場で紙の書類やファイルはまず見かけません。

例えば、かつては書類の山となりがちだった病院では診察券という制度もありません。患者データベースで簡単に照合できるため、受付カウンターで患者番号を言うか、再診機に打ち込めば受付完了です。これは診察券紛失の常習犯だった私には大いに助かります。

また学校の教科書類も生徒・学生一人一人に支給されるやや大きめの教育専用端末にすべて集約されるため、紙書籍の教科書はもはや存在しません。よって、ランドセルも博物館でのみ見られる古い骨董品です。
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by komunisto | 2013-11-13 13:21 | 情報
2213年11月10日

21世紀の世界から23世紀に飛んできて不思議に思ったことの一つは、23世紀の労働人口は21世紀より減少しているにもかかわらず、企業をはじめとする様々な組織体には働いている人がやたらに多く見えることでした。

実際、組織体のメンバー、職員数は多いのです。例えば、国会に相当する中央民衆会議の代議員は2000人もいます。これはかつての国会議員の3倍近い数字です。その他、下部機関の職員を含めると、1万人以上が中央民衆会議で働いています。

企業でも特にサービス業界の人員は多く、スーパーに当たる物品供給所などでもコーナーごとに人が配置される昔のスタイルが復活しているようですし、路面電車や路線バスでもとうに廃止されていたはずの車掌が乗務するのが通常です。

これには理由があり、今や組織体では「人減らし」ならぬ「人増やし」が合理的な経営方針とみなされているからです。

資本主義時代は人件費節約が至上命令でした。要するに少ない労働者を安い賃金で目いっぱい働かせて利益を搾り出すという経営方針こそが合理的とされていたのです。

しかし、人口減の中での共産主義的経営は労働者を無賃でできるだけ多く、ゆとりをもって使って社会的必要を充たすことが合理的とされ、いわゆる「ワークシェアリング」が、そういう用語も死語となるほどに常識です。

労働者がだぶついているように見えるのも、分業体制が高度で、かつ短時間勤務のシフト回転が頻繁だからです。これによって労災や過労死を防止する効果も得られると考えられています。

どちらが真に合理的かは一概に言えないかもしれません。資本主義で「人増やし」ができるのはよほどの好況かつ成長局面においてだけですが、それとて資本主義に付き物の景気循環でいつ不況に襲われるか確実に予測できない中では、「人減らし」のほうが合理的とも言えます。

しかし社会的コストの点から見れば、「人減らし」によって職にあぶれた人を失業保険や生活保護といった「セーフティーネット」で救済し、救済し切れなければホームレス化という資本主義は決して効率的とは言えませんでした。

基本的な衣食住が無償で充足される23世紀の経済社会では失業保険も生活保護も必要なく、ホームレス化もないということでは、一見非効率に見えて社会的コストは高度に節約されている点で効率的と評し得るように思われます。
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by komunisto | 2013-11-10 09:04 | 経済
2213年11月7日

23世紀の国会・地方議会に相当するのは、民衆会議と呼ばれる代議機関です。そのメンバーは代議員免許取得者中からくじ引きで選ばれると述べました。それでは政府や都道府県庁、市町村役場に当たるのは?

存在しないというのが答えとなります。いわゆるお役所の存在に慣れ切った私のような旧世界人にはなかなか腑に落ちないことではあるのですが、23世紀の世界には役所というものが一切が存在しないのです。昔の言葉で言えば、無政府主義です。それでは、日々の行政はどのように?

先の民衆会議自身が行政機関を兼ねているというのが、その答えです。これもなかなかイメージがつかめないのですが、立法府である国会や地方議会自身が行政まで担当すると考えればよいでしょう。そうすると、三権分立は存在しないのか?

イエスです。公権力はすべて民衆会議に集中しています。それでは21世紀の教科書によると独裁的ということになりますが、全くそうではありません。要するに、およそ公権力は民衆の代表機関が担うという「超民主主義」の実践であるとみなされています。

とはいえ、中央・地方ともに複雑多岐にわたる行政をすべて民衆会議単独で担い切れるものではありません。そこで、それぞれの民衆会議ごとに種々の下部機関が設けられ、日常的な行政業務はそうした下部機関が執行します。また民衆会議の立法活動を補佐するための政策情報センターも設けられていますが、これらのセンターはあくまでも調査研究機関であって役所ではないので、政策立案には一切タッチしません。

ちなみにかつて大統領や首相、地方なら知事や市町村長などと呼ばれた行政の長たちも、23世紀の世界にはもはや存在しません。強いて言えば中央・地方それぞれの民衆会議議長が行政の長でもあるのですが、そういう言い方すら聞かれません。また政府の閣僚に相当するのは、中央民衆会議の各委員会委員長です。通常は正副議長及び全委員長で「政務理事会」を構成し、これが閣議に当たります。

それにしても、日頃一般人が足を踏み入れることのない中央省庁ならともかく、市町村役場も存在しないのではかえって不便ではないかと思うのですが、代わりに各地区ごとに住民サービスセンターがあり、ここで相談や簡単な手続きができます。基本的には全オンライン処理ですので、例えば住民票もオンライン請求でプリントアウトもしくは郵送で入手でき、簡便です。

これはまた別の機会にご紹介しますが、現在18歳以上のすべての住民に行政サービス専用端末が支給されており、これを使ってほぼすべての行政手続きをオンライン上でまかなうことができてしまうのです。
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by komunisto | 2013-11-07 13:45 | 政治
2213年11月4日

23世紀の世界で興味深いのは、くじ引きが広く活用されていることです。何しろ、議会に相当する民衆会議の代議員がくじ引きで選ばれるのです。これは国会議員や地方議会議員をくじ引きで選ぶようなものです。

その他、経営トップを含む役員やその他の幹部職をくじ引きで選ぶ企業も少なくありませんし、その他の団体でも役職者をくじ引きで選ぶところは珍しくありません。

選挙制や選抜制に慣れ切った者にはいささか不真面目に思えますが、なぜくじ引きなのかと問えば、23世紀人はそれが一番民主的で公平だからと答えます。

たしかに選挙は周知のとおり、究極的にはカネの力で決まりますし、選抜制ではコネが物を言います。それはしばしば人事の敗者に強い不満や怨恨の情すら起こさせるでしょう。

人事を偶然性に委ねるならば、誰からも不満が出ず、たしかに公平です。このようにくじ引きで要職者を選ぶというやり方は、古代ギリシャの都市国家アテネで見られたことですが、23世紀にはこうしたアテネ的発想が再発見されているのです。

ですが、何でもくじ引きでは適性・能力に疑問のある者が偶然に選ばれてしまうことはないのでしょうか。アテネには横暴な独裁者(僭主)となる恐れのある者は事前に投票で排除する制度(陶片追放)がありました。 

この点、現代の民衆会議代議員の場合は、代議員試験に合格し、代議員免許を保有する有権者にしか抽選応募資格を認めないことで、適性・能力を担保しようとしています。またその他の団体の役職の場合も、それぞれ内規で抽選の応募資格要件を絞ることが通例ですので、とんでもない人物が偶然にくじで選ばれる心配はないようです。

この点、21世紀的発想では選挙制にせよ選抜制にせよ、優れた人材を登用するとの名目で人為的な要素に偏向し、偶然という要素を軽視したため、かえって公平性を失し、有為の人物を市井に埋もれさせてしまう結果となっていました。

そうした反省をも踏まえ、23世紀には試験などで保証された人為的な資格要件にくじ引きという偶然性の要素を加味して公平性を確保しようという微妙なバランスの思想―中庸―が行き渡っていると言えるでしょう。
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by komunisto | 2013-11-04 10:10 | 思考
2213年11月1日

前回、23世紀には「チャンネル」という英語由来の外来語の代わりに「カナロ」というエスペラント語由来の外来語が使われることをご報告しました。例えば「チャンネル変えて」と言う代わりに「カナロ変えて」といった具合です。

なぜエスペラント語なのかと言いますと、23世紀世界ではエスペラント語が正式に世界公用語として普及しているためです。すなわち地球全体を束ねる世界共同体(Universala Komunumo[略称UNIKO:ウニーコ])の公用語がエスペラント語なのです。

エスペラント語はかねて19世紀末にリトアニア人の眼科医ザメンホフによって世界語として創案された人工的な計画言語ですが、長い間、世界語として正式に採用されることなく、エスペラント運動家・愛好家の間で使用されるにとどまってきました。

それが世界連続革命後、形骸化していた従来の国際連合に代わり、世界共同体が創設された際に、習得しやすい簡明な世界語としてのエスペラント語が見直され、議論の末に正式の世界公用語として採用されたのです。

ただ、公用語としてのエスペラント語は本来の正統的なエスペラント語とは若干異なり、かなり簡略化されていて、よりいっそう習得しやすくされています。その運用管理は世界共同体の下部機関・世界科学教育文化機関が行います。

こうした事情から、各領域圏でもエスペラント語が学校教育で必修化されているため、現在世界中どこでもエスペラント語は通用しますし、世界共同体はもとよりその他の重要な民際会議はエスペラント語で行われることがほとんどで、世界へ向けた学術論文等もエスペラント語で執筆されます。

世界公用語としてのエスペラント語は決して各民族言語を排除するものではなく、世界共同体を構成する各領域圏ではそれぞれ独自の公用語が運用されています。例えば、日本領域圏では当然ながら日本語が公用語です。またアイヌ語のような少数民族固有の言語の保護も世界共同体レベルで実践されています。

他方、21世紀までは事実上の世界公用語的な地位にあった英語は現在、英語圏の領域圏公用語の地位に限定されており、世界語としての地位を失っています。日本の学校教育でも英語必修化は遠い過去の話です。

そのため、かつては大半が英語由来だった日本語の外来語もかなりの部分がエスペラント語由来の単語に置き換わっているのです。カナロ(kanalo)はその代表的なものですが、コンピュータはコンプティーロ(komputilo)、インターネットはインテレート(interreto)です。

こうして世界がエスペラント語を通じて「言霊」的にも一つになったことは、海を越えたコムニカード(komunikado:コミュニケーション)を密にし、世界平和を維持するうえでも大いに役立っていると考えられています。
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by komunisto | 2013-11-01 13:26 | 文化