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2213年12月29日

6月から23世紀の社会の様々な側面をひとわたりご報告してきましたが、全体に良いこと尽くめの書きぶりで、欠点はないのかという反問を21世紀人から受けましたので、中間総括的な意味で、長短をまとめておきたいと思います。

まず長所は何と言っても、貨幣なしで基本的な物・サービスが入手できることです。こうした無償供給経済が世界中で確立されたことで、生活難・貧困は世界から一掃されました。これは人類史上のまさに革命です。

この長所の偉大さは、すべての短所を相殺するほどだと言ってよいのですが、長所ばかり宣伝すると不興を買いますので、短所にも触れておきましょう。

まず消費生活の上では、物品供給所での行列が困りものです。人気物品は並ばないと品切れになることもあります。また入手できても取得数量が厳格に限定されていることも、不便に感じることがあります。この点は、交換に供する金さえあれば(あくまでも・・・)自由に物が買えた資本主義時代のほうが、便利な面はありました。

それとも関連して、電気使用量の制限措置もやや不便な点です。さすがに計画停電まではしないのですが、環境規制の一環として、電気使用―もちろん無償です―のリミットが厳格に決められており、それを超えると強制的に電気供給が止められる仕組みです。常識的な使い方であれば、まずリミットを超えることはありませんが、日々の電気使用量を常に把握しておく必要はあります。

もう一つの不便さは、病院の予約制です。最小限医療社会のため、病院自体が少ないのですが―その分、保健所や薬局が活用されていることはご報告しました―、原則すべて予約制ですから、急病でなければ診療が数か月も先になることがあります。その代わり、全身的な総合診療や精鋭揃いの専門医制度など医療の質は明らかに進歩しています。サービスの質の担保のため、量は制限するという策なのでしょう。

なお、個人的な不便さというか不満として、紙の書籍がほぼ消滅してしまったことがあります。本=電子書籍は23世紀の常識です。電子書籍にはそれなりの便利さもありますが、ページをあちこち自由にめくりながらのんびり拾い読みすることが好きだった私にとっては、不便な思いもあります。

こうして23世紀の社会も良いこと尽くめの楽園ではなく、短所や不満も決してなくはないのですが、先ほども述べたとおり、基本物資・サービスがすべて無償という最大長所の大きさは何にも代え難いものがあるのではないでしょうか。
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by komunisto | 2013-12-29 10:16 | 生活
2213年12月25日

今日はクリスマスですが、21世紀日本ではイブも含めて平日の扱いでした。23世紀には、クリスマスは公式の休日です。具体的には、イブの24日から元旦をはさんで1月6日まで14連休という冬の大型連休が設定されているのです。

現在、かつてのような単独の「祝日」という制度がなくなった代わり、春夏秋冬の四季ごとに公式の連休が法律で定められています。冬を含めて通算すると、年間50日を超える公休日があることになります。  

まず春の大型連休は、旧春分の日から3月末日までの10日余り(期間不定)となっています。ちなみに、いわゆるゴールデンウィークは廃止されていますが、5月に職場独自の連休を設ける慣習が残されています。

夏はいわゆるお盆休みにとどまらず、まさに「夏季休暇」であって、8月12日から31日にかけて20日間に及ぶ最大の大型連休です。秋は旧体育の日の10月10日から19日までの10日間となります。

他方で、週休2日の慣習は廃れ、土曜日も平常の扱いですが、公休日以外に各職場では設立記念日などを独自の休日に指定している例が多く、こうした私休日を加えれば、毎週日曜日に加えて年間60日以上の休日がある計算になります。

しかも、前に報告したとおり、一部の特殊職域を除き、4時間労働制(半日労働制)が基本なのですから、毎日の半分は休暇も同然。21世紀人からすれば、これではあまりに休み過ぎでは?と思えるほどでしょう。

このように休暇の多い社会となっているのは、休息の権利が憲法上明記されているためです。結果、毎年多数の過労死を出し、悪名高かった「働き蜂」社会はもはや昔話です。

しかし、23世紀社会は決して「怠け蜂」社会ではありません。むしろ生産性は21世紀よりも向上しています。十分な休息が生産性を上げることは労働科学的にも実証済みです。長時間働くほど成果が上がるというのは、神話であったのです。
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by komunisto | 2013-12-25 10:36 | 社会
2213年12月21日

未来社会は農業のイメージと結びつきにくいと思われますが、農業は23世紀においても重要な産業です。しかし、200年前とはその仕組みが大きく変わりました。

日本では農業は長く中小の土地持ち農家によって家業化されていましたが、22世紀に革命が起きた頃には、中小農家の断絶は決定的となる一方、競争力を持った外国農産品の輸入による食料自給率の低下を商業資本による農業の集約化でカバーしている状況でした。

革命後の農業は、日本農業機構という単一の農業生産組織に集約化されています。言ってみれば、旧農業協同組合が統合されたようなものですが、組合組織ではなく、地方ごとに分権化されているものの、一個の生産企業体です。

前にご報告したとおり、土地は誰にも属しない無主物であることは農地に関しても同じですから、農業機構は土地管理機構から土地を永代借用して農業を経営しています。

末端の農地は市民農場として区画されており、農場長が管理しています。農作業はこの市民農場の職員という形で雇用された農務員が従事しますが、週末だけのボランティア農務員も存在します。

こうした仕組みはあたかも社会主義的な農業集団化政策のように見えますが、微妙に違います。農業機構は国営企業ではなく、社会的所有企業と呼ばれ、計画経済が適用される公企業の一環です。

農業生産は環境的持続可能性と食の安全を考慮した有機栽培によって行われ、効率のために遺伝子組み換え技術に頼ることはしません。一方で、天候による豊凶の変動を回避するため、栽培工場化が進んでいます。

また、貿易というものが世界的に廃された結果、農産品の輸入は限定的となり、特定不足産品の輸入制度がある程度で、食糧自給率は80パーセントまで回復しています。

こうした持続可能な農業の集約化により、農業生産は安定しており、農産の最前線を担う農務員は人気職の一つで、競争率も高く、希望してもなかなか就けないようです。
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by komunisto | 2013-12-21 10:46 | 経済
2213年12月17日

23世紀の世界で、私のような旧世界から来た人間がやや当惑を覚えるのは、社会の生命観が人工的ないし機械的に感じられることです。

前にもご報告したように、現在、出生前診断に基づく障碍胎児の中絶はあっさり定着しています。子の出産は妊婦及びそのパートナーの自己決定権と考えられているからです。

つまり障碍胎児を産むかどうかは個々人の自己決定に委ねるが、その結果生まれた障碍者に対しては、手厚い療育とバリアフリー政策でその生活を支えていくという考え方のようです。

一方では精子バンクが普及しており、特定のパートナーを持たずにバンクを通じて妊娠・出産する女性も少なくありません。この場合、バンクに精子提供する男性は匿名を希望する正当な理由がない限り、出生した子どもが父親を知る権利に答えなければなりません。

また21世紀には倫理的な疑義が持たれていた代理母についても、代理母の適格審査に通り、登録されている女性に限ってではありますが、認められています。この場合も、代理出産した代理母は出生した子どもの知る権利に答える義務があります。

かつて不妊は疾患として治療の対象とされていて、上記のような制度は人工授精も不能な場合の窮余の一策とみなされていました。現在でも人工授精法はありますが、苦労して不妊治療を受けるよりも、子ができなければ上記のような制度を利用して子を持つことがあっさりと習慣化されているのです。

これに対して、クローン人間とかデザイナー・ベビーといった遺伝子レベルでの生命操作技術については、「生命倫理条約」という世界法によって禁止されており、この点では世界レベルでの共通規制を欠いていた21世紀よりも進歩的と言えます。

こうしてみると、23世紀の生命観は機械的に見えながらも、倫理的な押さえはしっかりと効かせている。そんな印象を持ちます。
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by komunisto | 2013-12-17 13:42 | 死生
2213年12月13日

大地といえば、それは個人の所有物であるのみならず―土地の私有を認めない国も一部にありましたが―、国家の領土でもあることがかつては常識でした。23世紀の今、この常識も覆されています。

以前ご報告したとおり、現在の世界秩序は国家ではなく、領域圏というまとまりで構成されているのですが、この領域圏が統治権を及ぼす「領域」とは「領土」のような排他的なものではなく、もっと緩やかなエリアのことです。「大地は無主物」の原則は世界秩序の上でも貫かれているのです。

そのため、かつては戦争の原因として最大級のものであった「領土紛争」―言わば国家間での土地紛争―もありません。とはいえ、世界が完全に一つになったわけでなく、世界共同体(世共)の下でなお領域圏に分かれているならば、「領域」を巡る争いの余地はないのか。

それはあります。ですが、現在領域圏間で領域を巡る争いが起きた場合は、必ず領域圏を束ねる世共の調停を受けなければなりません。その結果、調停案がまとまることが多いですが、まとまらない場合は世共司法裁判所に持ち込まれ、司法的に解決されます。

ただ、調停でも判決でも、領域の帰属をすんなり確定できない場合があります。そうした場合は、政治的な妥協策として、(A)世共もしくは環域圏の信託統治領とする(B)複数の領域圏の共同統治領とするといった方策が講じられます。

こうした制度は日本のように四囲を海に囲まれ、必然的に領域があいまいになりがちな領域圏にとっては、有意義なものです。実際、かつて先鋭な問題となっていた尖閣諸島は現在(A)の方法(世共信託統治領)で、「北方領土」については一部返還、一部(B)の方法で解決を見ています。

こうして領土という観念から脱した23世紀の世界秩序は、争いが起きても戦争に直結しないシステムであるため、「国防」のために軍隊を持つ必要はなく、また「国境」を厳重に警備する必要もないのです。
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by komunisto | 2013-12-13 10:06 | 政治
2213年12月9日

かつて土地を巡る争いは、法的紛争の王様でした。23世紀の現在、こうした土地紛争は存在しません。理由は簡単で、現在土地は誰の物でもない、すなわち野生の動植物と同様に無主物だからです。

このような発想は、旧人類には新鮮に響きます。かつて社会主義体制を自称した国の中には土地を国有化したものもありましたが、土地を無主物とした国は聞いたことがありませんでした。

「土地は私有か公有かは別としても、必ず何者かに属しているべきだ」という固定観念を、未来人は「地球上の大地は野生動物と同様、何者にも属しているべきでない」という簡明な定理によって見事に克服してみせたのでした。

土地は国を含めて何者にも属しないということは、要するに誰も土地の排他的所有権を主張することはできないということです。従って、土地を巡る紛争はなくなります。とはいえ、誰の物でもない土地をどのようにして管理しているのでしょうか。

この点はやや複雑で、土地所有権は認められないものの、土地管理権についてはかつての国に相当する領域圏に一括帰属しており、旧国土庁と不動産登記所を併せたような「土地管理機構」という公的機関が一括して全土の土地を管理しています。この機構は、土地の不法占有のような経済犯罪に対する優先捜査権まで付与された強力な管理機関です。

前回、個人の住宅の敷地面積に制限があると報告しましたが、住宅は所有できてもその敷地は所有できないため、住宅を建てるには敷地利用権を先の機構との間で設定しなければなりません。その敷地利用面積に上限があるわけです。こうした敷地利用制限は個人の住宅以外の建造物についても同様です。

かくして23世紀の世界も所有権を否定はしていませんが、所有の範囲を生活必需物資に限定することによって、所有を巡る無用の紛争の発生を未然に防ぐ知恵を編み出したのだとも言えるでしょう。
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by komunisto | 2013-12-09 15:31 | 法律
2213年12月5日

23世紀に消えたのは、摩天楼ばかりではありません。しばしば日本の家屋の狭さの象徴として揶揄された「兎小屋」も消えました。すなわち、住居は全般に200年前よりも広くなっています。

なぜ住居の狭さが解消されたかですが、一つには人口の適正化があると言われます。もともと狭小なうえ山がちな日本で人口が増加すれば、当然住居面積は狭くなりがちです。そのうえ広大な土地が国有地や商業用地として確保されていたため、なおさらです。

現在、国家という権利主体が存在しないため「国有地」も存在せず、商業の廃止により商業用地も多くが宅地として解放されたことで、住居面積は広がったのです。 

もう一つは、上述の事情とも関連して、高層マンションが減少したことです。地面が狭いから空中に住むというのが高層住宅の構想ですが、空中では当然住居の面積は限られます。まさに兎小屋です。しかし、宅地の拡大は高層化の必要をかなりの程度減少させています。高層マンションも存在しますが、前回報告したように、高さ規制によりせいぜい12階建て程度のものです。

ちなみに現在高齢家族と同居中の市営高齢者住宅も旧団地的なものですが、広めの2LDKで介護しやすいようにゆったりした間取りになっており、手狭で介護向きとは言い難かった200年前の公団住宅とは格段の違いがあります。

さらに、もう一つ「脱兎小屋」の秘訣として、一戸で広大な面積を取る「豪邸」が消えたこともあるでしょう。貧富差の原因であった貨幣が廃された23世紀社会には富裕層のシンボルである「豪邸」も存在せず、住宅の平等も確立されているのです。実際、宅地法は庭を含めた一戸建ての敷地面積を規制しているため、広大なお屋敷を建てることはそもそも認められません。

こうして、かつて豪邸が林立していた東京の田園調布なども他と変わらないごく普通の住宅街となった一方、住居を失い、兎小屋にすら入れない野宿生活者の姿も見られなくなっています。
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by komunisto | 2013-12-05 11:40 | 生活
2213年12月1日

23世紀の情景は、何気なく見ると200年前と大差ないのですが、仔細に見れば相違点があります。その相違の一つに、超高層建築物の消失があります。

東京でもかつて「都心」とか「副都心」と呼ばれた超高層ビル街は消えてなくなっているのです。理由は、今や全土的に適用される景観保護法という法律が存在し、高さ60メートルから100メートルの範囲内で、各市町村に地区ごとの景観に応じた建築物の高さ制限を義務づけているからです。

ということは、原則として100メートルを超える建築物はもはや日本に一つもないことになります。今、日本で一番高い建築物は、東京湾岸に建てられた展望台です。これは景観制限の例外扱いですが、それでも200年前に日本一の高さを誇ったスカイツリーより低い約400メートルにすぎません。

ちなみにスカイツリーはもう120年近くも前に取り壊され、跡地と周辺は植生豊かな緑地公園になっています。付近の住民もここに昔超高層タワーがあったらしいという伝説を知る程度です。

住宅に関しては、消防・防災の観点から50メートルを超える高層建築が全土一律に禁止されているため、かつて人気だったタワーマンションも存在しません。階数にすると、マンションはせいぜい12階止まりです。

こうした超高層建築物の消失は世界的な現象となっており、200年前には世界随一の摩天楼都市であったニューヨークですらも、超高層ビルは消失しています。ニューヨークでも高さ制限がかかっているようです。

200年前の超高層ビル街などの写真は今でも残されていますが、23世紀人に感想を聞くと、「無駄」「奇怪」「恐怖」等々のネガティブな答えが多く、あこがれるという人はわずかです。

かつての超高層建築物は資本主義的近代化の象徴でもあったわけですが、資本主義の終焉とともに摩天楼も姿を消したことは必然なのでしょう。 
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by komunisto | 2013-12-01 13:30 | 社会