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2214年1月30日

今回はお酒好きの人にとっては、悲報です。23世紀の現在でも酒類の製造は認められていますが、それは酒類製造機構という公共的事業体の独占事業とされるうえ、供給についても厳しい制約があり、かつてのような自販機での供給はもちろん、飲食供給所での提供も許可を受けた所定の供給所で一定時間内しか認められていません。

これはいわゆる禁酒法とも異なり、禁酒はしないものの、製造・供給を規制するという政策です。こうした政策の根拠は、酒類を嗜好品として認めつつも、過度の飲酒による心身の疾患や飲酒運転を防止するために、供給方法や時間を制限するものだといいます。

しかし、そうすると闇の酒場のようなものが発生しないか。これについては規制をかいくぐる密造酒の闇酒場がやはり存在するようで、時々警察に摘発されています。酒好きはいつの時代にもいるもので、規制が闇営業を生むのは避けられないでしょう。個人的には酒飲みではないので気になりませんが、良策かどうかについては何とも言えません。

ただ、21世紀に比べ、アルコール依存症や飲酒原因の肝臓病が減少し、また飲酒運転事故もほとんどないという限りでは、効果を発揮しているようです。

一方、タバコについては全面禁止政策です。これは世界的な共通政策となっており、タバコは世界中で麻薬より厳しい扱いを受けています。禁煙運動は21世紀にもありましたが、社会啓発だけでは律し切れず、法的な厳禁という強硬策に移ったのです。結果、肺がんの減少、ニコチン原因の諸疾患の予防が進んでいます。

こうした厳格な酒・タバコ規制が敷かれると、当然飲食店主やタバコ栽培農家は経済的打撃を受けますから、貨幣経済時代にはこうした規制には関係事業者団体から猛反対が起き、実現は困難でした。

その点、貨幣経済が廃された23世紀には、規制によって経済的打撃を受ける事業者は存在しませんから、反対は出ないのです。とはいえ、嗜好品の厳格な規制によっても、闇のタバコ栽培者を含め、闇業者の出現・跋扈を完全に抑止することは難しく、もぐら叩き的な様相となっているため、政策の当否をめぐる議論が続いています。
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by komunisto | 2014-01-30 13:01 | 経済
2214年1月26日

23世紀人は討論好きです。それを象徴するのが、「討論カフェーヨ」(カフェーヨとは、カフェのエスペラント語)。これは様々な討論を目的としたお客の集まる喫茶室です。

こうした喫茶室がほとんどの市町村にいくつかは必ずあり、結構人で賑わっています。外見上はかつてのカフェとそう変わらず、コーヒーや紅茶が飲めるのですが、お客たちは普通の茶飲み話ではなく、政治経済や哲学・科学などに関する討論を交わすのです。

私も市内に行きつけのカフェーヨがあり、時々お邪魔をしています。ここには地元のS市民衆会議の代議員なども訪れ、市民と気軽に討論したりしていますし、地元にある私立系学術研究センターの研究員が来て、ゼミナール的な会を開いたりと、様々な目的に使われるちょっとした会議室のようなものです。

21世紀初頭に生きていた頃、日本では一般市民がこうした討論に参加する風潮はほとんどなく、社会的無関心が蔓延していました。そうした状況が大きく変わった要因としては、やはり民衆会議制度の確立が大きいと考えられます。

民衆会議は免許制ではありますが、代議員免許さえ取得して、くじ引きに当たれば、誰でも代表機関である中央及び地方の民衆会議代議員として直接に政治参加できる制度ですから、基本的にお任せ主義だった選挙制議会制度の時代よりも、人々の政治的・社会的な関心は高まります。

また大学を頂点としたエリート主義的な高等教育制度が廃され、老若男女問わずすべての市民に開かれた生涯教育制度に転換されたことも、一般市民の知的関心と向学心を高めていることは間違いありません。

そうした社会的変革の文化的な象徴が、討論カフェーヨだと言えるでしょう。ちなみに、貨幣経済が廃された現在、討論カフェーヨでも無料で飲食が提供されるのはもちろんです。
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by komunisto | 2014-01-26 10:20 | 文化
2214年1月22日

21世紀初頭に生きていた頃、痛感していたことの一つは、医師、教師、各種「士業」その他もろもろのいわゆる「専門家」たちが頼りないということでした。そうした人たちが起こすにわかに信じ難い不祥事や過誤も毎年のように続発していました。その原因を探っていくと、それはあの当時の専門家養成教育の不備・欠陥という構造的な教育問題に行き着きます。

当時の専門家とは、ひとことで言って試験エリートぞろいでした。世間ではそれゆえに崇拝されていた面もあるわけですが、実際のところ、そうした試験の点数が良い学校秀才型の人間とは、ひ弱で世間知らずな一方、金銭欲は人一倍強く、良い暮らしをしたいがために資格を取得するといった発想の人間類型でした。結果、プロ意識の欠如やモラルの低下も顕著に見られたのです。

このように人格識見や意欲、社会経験等の実質的な適性を等閑視し、学歴や試験の点数といった形式的な要素だけで専門家を選抜・養成する旧制は、23世紀の現在、劇的に変革されています。

23世紀の専門家は一般市民の上に立つ「エリート」なのではなく、「民衆の同輩たる専門人」という共通標語によって位置づけられています。従って、専門家は他の職業経験のある市民の中から輩出されるのでなければなりません。

前に報告したとおり、高等教育の象徴であった大学が廃止された結果、専門家教育の大半は高度専門職学院という一種の専門学校へ移っているわけですが、この学校は基礎教育課程修了者かつ一定年数の職業経験者にのみ受験資格があり、生涯教育の一環とされています。要するに、基礎教育課程からの直行便はないわけです(例外は芸術系やスポーツ系のような早期教育の必要性がある分野)。

高度専門職学院には筆記試験がなく、書類選考を経て討議形式の集団面接による二次選考をパスした後、最終個人面接で合否が決まるというのが共通した選抜パターンとなっています。当然ながら、旧制のように試験で点数を稼ぐ受験技術に長けただけの人は合格できません。

また入学後の教育でも、とかく狭い専門技術・知識の習得に偏りがちな専門職教育を改め、職業意識や倫理感覚の修養にも重点を置き、クライエントとのコミュニケーションのとり方といったヒューマン技能も含めて、厳しく修練されるということです。 

こうした実質的な選抜方法による厳しい専門職教育システムが確立された結果、実際、医師などはたしかに人格・資質の面でも技能・識見の面でも向上していることが実感できます。

ちなみに旧世界からタイムマシンで飛んできた私は23世紀の基礎教育課程未修者であるため、専門職学院の受験資格は与えられません。旧大卒資格などは21世紀的感覚で言えば、あたかも江戸時代の「藩校卒」のような「前近代」の扱いですから、全く通用しないのです。自由な文筆をなりわいとすることができる現在、あえて専門家になるつもりもないので不満はありませんが。
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by komunisto | 2014-01-22 10:27 | 教育
2214年1月18日

23世紀の世界では結婚という伝統的な旧制が廃れ、パートナーシップ制が主流です。こうした問題ではとかく保守的な日本ですら、以前ご報告したとおり婚姻制度はすでに廃止され、契約的なパートナーシップ制に移行しています。

このような契約主義の最も進歩的な(?)シンボルは浮気特約です。つまりパートナー関係を結ぶに当たり、お互いに浮気してもパートナーシップを解消しないとの特約も有効だというのです。これがあると、パートナーが浮気しても離婚に相当するパートナーシップ解消事由にならないというわけです。

さすがに日本の制度ではここまで認められていないのですが、欧米圏のパートナーシップ制度では近年、このような浮気特約を認める例が主流だそうです。

この場合、浮気はもはや倫理の問題(=不倫)とは考えられていないようです。浮気はお互いの信頼を裏切る行為として一般的には不法行為なのですが、お互いが浮気を認め合うならばとやかく言うことはないというのです。

たしかに、現パートナー以外の人が好きになってしまうということは生きていればあり得ることで、それを一概に不道徳だと決めつけられない一方、ひとたびパートナーになったらお互いを独占できると当然に言えるわけでもないので、浮気を信頼の問題とすることは、個人本位のパートナーシップ制では自然な流れなのかもしれません。

ここには、単なる法律問題を超えて、広い意味でのパートナーシップを道徳という社会の高みから考えるか(婚姻制度はその典型)、それとも個々人の尊重という水平な視座から考えるかという価値観の文化的差異が反映されているようです。
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by komunisto | 2014-01-18 14:19 | 文化
2214年1月14日

冷凍食品への農薬混入事件の捜査は難航しているようですが、仮に誰かが意図的に混入させたのであれば、21世紀の日本では犯罪行為として厳罰に処されることは確実です。しかし、23世紀にはこうした犯罪行為はもはや刑罰の対象ではありません。ということは、犯罪は野放しなのか?

そうではありません。犯罪は取り締まられますが、それに対する処置の仕方が劇的に変化したのです。21世紀人には驚くべきことではありますが、およそ犯罪行為者に対しては、刑罰ではなく、特殊な矯正処分が課せられるのです。

この矯正処分は裁判の判決によって強制され、一定の場所―矯正所ーに拘束されるという形の上では刑罰に似ていますが、罰ではなく、教育・治療的な働きかけを中心とした処分とされます。

制度の詳細についてはまだ不勉強なのですが、基本的に1年から5年くらいを一単位として構成され、矯正の進展具合に応じてそれをさらに更新していくという仕組みのようです。この点でも、初めに懲役何年と決めて、その範囲内で懲罰にかける刑罰(懲役刑)とは異質のものです。

ちなみに、21世紀初頭の時点でまだ日本に残されている死刑という刑罰は、すでに廃止されて100年近くになります。日本で長く固執されていた極刑は、革命後、なおその存続を求めるいわゆる世論とは一線を画す形で、速やかに廃止されました。

かつて死刑に相当したであろう重大犯罪者に対しては、事実上の終身拘禁となる終身監置という処分が課せられます。刑罰で言えばいわゆる終身刑に当たりますが、文字どおりの終身拘禁ではなく、解除・釈放の可能性を残した柔軟な処分だといいます。

このような刑罰なき社会は、日本に限らず、今や世界共通のものです。200年前にはおよそ刑罰を持たない国は、私の知り得た限り、世界に存在しなかったと思いますが、現在では逆転し、刑罰制度は世界から一掃されたのです。

このことは、貨幣の廃止と並び、人類史的な大変革と言えるでしょう。貨幣が人類共通の経済的風習であったとすれば、刑罰は人類共通の法律的風習であったわけですが、それが一掃されたのですから。23世紀人にとって、刑罰は復讐やリンチと重なる過去の野蛮な風習と映るようです。
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by komunisto | 2014-01-14 14:08 | 法律
2214年1月10日

2014年1月の日本では、大手食品会社の冷凍食品への農薬混入による全国的な被害という普段全く想定外の大事件で揺れているようですが、こういう事件は23世紀にはほとんど考えられません。

まず第一に23世紀社会の食品は地産地消が徹底しています。主要な食品は、各地方圏ごとに設置され地方圏住民全員が自動的に加入する消費事業組合が一括して供給しているため、万一このような事態があっても全土に被害が広がることはなく、せいぜい当該地方圏―群馬工場の事件であれば、旧群馬県を含む北関東地方圏―の範囲で抑えられるのです。

しかし、そもそも工場で量産される一般食に農薬が混入するということ自体が考えられません。というのも、冷凍食品のように工場で量産される既製食品は冷凍による長期保存食のようなものに限られ、あまり種類がないからです。

現在、かつてのスーパーやコンビニに相当する物品供給所でも食品の多くは未調理の食材の形で供給されており、料理は家庭で一から作るという資本主義以前の習慣へ立ち戻っています。

農薬の混入は論外ですが、冷凍食品を全国的に、さらには海外にも流通させるとなれば、保存のための薬剤を使用せざるを得ず、人体には決して有益ではない物質が摂取されることになります。この点で、既製食品に頼らない23世紀の食生活は安全です。

ですが、既製食品が少ないと、私のように料理が苦手な人間はそれこそ食べていけない社会ではないか?しかし、心配は要りません。物品供給所の食品コーナーでは食材や調味料と一緒に、それらを使って作れる簡単料理レシピも必ず置いてありますから、それを参考にすれば、簡単な家庭料理は誰でも一応作れるようになっているのです。

こうして23世紀の食は地元で取れた/獲れた食材を使って、手作りするということが基本となっています。そのため、あえて「食の安全」を「対策」する必要もなく、そもそも「食は安全」なのです。
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by komunisto | 2014-01-10 10:19 | 生活
2214年1月6日

前回、貨幣経済が廃された23世紀の世界では借財という時に自殺をも招く金銭行為がなくなったことに言及しましたが、そのことは司法のありようにも大きな変化をもたらしています。

借金を中心に金銭関係のトラブルはかつて民事訴訟のほぼすべてと言ってよい原因でしたが、貨幣経済の廃止に伴い、そもそも金銭トラブルが消滅したことで、民事裁判というもの自体の意義が揺らいでいるのです。

現在でも民事裁判制度はありますが、それは主として親族関係のトラブルを解決する最後の手段的な位置づけとなっており、あまり利用されていません。そのため民事裁判は開店休業に近く、まさに閑古鳥が鳴いている状況です。

かつて日本の大都市の大きな裁判所では民事法廷と刑事法廷は別になっていることが多かったのですが、現在では統合されており、第一法廷、第二法廷・・・というように番号がついているだけで、民事裁判も刑事裁判も同一の裁判官ないし裁判官の合議体が一括して審理しています。

ちなみに民事裁判/刑事裁判という言い方も変わり、現在では市民法裁判/犯罪法裁判という言い方をするのですが、圧倒的に犯罪法裁判のウェートが高くなっています。といっても、犯罪が少ないため、こちらもそう大忙しではないのですが。

全般に平穏無事で、紛争の少ない23世紀社会における司法の役割は低下しており、かつて訴訟社会として司法がフル稼働していた北アメリカですら、司法はあまり活用されなくなっているそうです。

司法は貨幣経済の付属物というわけではないとしても、貨幣経済下でカネをめぐる紛争や犯罪が多発する中で特に必要とされる強制権力であったのだということに気づかされます。
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by komunisto | 2014-01-06 10:39 | 司法
2214年1月2日

新年早々にやや唐突ですが、皆さんはこれまでの人生を振り返り、自分らしく生きてこられたと納得しているでしょうか。つまり、天才バカボンのパパの決め科白のように「これでいいのだ」と思えますか。

個人的には、全くそうは思えませんでした。20世紀半ば過ぎから21世紀初頭まで生きてきて、自分らしく生きてはこられなかったし、これからも無理だろうという思いが強くありました。それが二度と帰還できない23世紀未来社会へのタイムマシンに乗った動機でもあります。

私が生きていた高度資本主義社会では、人生がライフステージによって制約されており、ステージごとにバリアをクリアできて初めてどうにか納得のいく人生のコースに乗れたのです。逆にそうしたバリアをクリアできないと、そこでコースを逸れていきます。やり直しの余地は極めて狭く、一度逸れるとよほどの才覚や幸運に恵まれない限り、脱落していくことになります。

21世紀の人生とはそんな障害物競走に等しいものだったため、中には追い込まれ、絶望し自殺に向かう人も跡を絶ちませんでした。

23世紀社会は、昨年の記事でもしばしば触れたように、やり直しのきくフレクシブルな社会ですから、そこでの人生は障害物競走ではなく、ゆったりしたウォーキングのようなものです。そのためか、自殺者数は大幅に減り、保健機関の統計によると年間7000人ほどです。日本の人口自体が8000万人余りに減少していることを考慮しても、年間3万人前後の自殺者を出していた200年前からは激減と言えましょう。

こうした自殺の減少は世界的な傾向だそうです。共通した背景として、貨幣経済の廃止に伴い、失業や借財による生活苦という自殺の引き金を引きやすい経済的動機が消滅したことが挙げられています。

全般に、23世紀社会は自分らしく自由に人生設計できるようになっています。例えば、日本のように元来は保守的な風土の地でも同性愛者のパートナーシップが合法化されるようになり、自分の性的指向に沿ったライフスタイルを選択できるのは一つの象徴です。

21世紀人は「これではだめだ」という自己否定的な人生観に支配されがちでしたが、23世紀人はおおむね自己肯定的で、まさに「これでいいのだ」と納得している人が多いように見受けられます。
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by komunisto | 2014-01-02 13:28 | 人生