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2214年11月29日

23世紀の民衆会議代議員は代議員免許取得者の中からくじ引きで選ばれるとご報告したことがありますが、代議員免許試験とはどんなものなのか、興味があり、覗いてみました。

まずこの免許試験で問われることは、市民が中央・地方の代議員として活動するうえで必要な社会科学的な素養です。などと言えば、各種資格試験のような難関なのかと思われるでしょうが、そうではなく、合格率80%以上、落ちても最悪三回以内で合格するとされています。

内容は[Ⅰ]基礎科目として「政策立案」、「立法技術」、「政治倫理」、[Ⅱ]政策科目として(A群)は必修科目の「政治・法律」、「経済・環境」、(B群)は「福祉・医療」、「教育・文化」のいずれか一方を選択します。

結構盛りだくさんで大変なように見え、21世紀の人なら「受験対策」に走りたくなるかもしれませんが、問われる内容は、13年間一貫制の基礎教育(義務教育)の内容に多少上積みした程度のことにすぎません。逆に言えば、それだけ基礎教育の内容は充実しているということです。

しかも、試験方法も民衆会議が定期的に監修・発行する各科目の公式テキストを試験会場に持ち込んでよいという寛大なもので、いわゆる丸暗記は必要ないのです。設問は暗記力を問うのでなく、テキストの情報をもとに自ら課題を発見・解決するというまさに代議員の任務に沿ったものとなっているからです。

免許試験の受験資格も寛大で、基礎教育の過程を修了していなくとも、15歳以上なら誰でも受けられます。実際、毎年10代の免許取得者も少数ながら出ています(ただし、代議員の適格年齢は19歳以上)。

また海外からの移民でも居住2年以上なら受験可能です(代議員となるには、地方で3年以上、中央なら5年以上の居住歴が必要)。そして、嬉しいことに、私のように過去から来た旧世界人にも受験資格があります。

21世紀にいた頃、丸暗記が何より苦手だった私にとって、テキスト参照OKの問題発見型試験は理想の試験に思え、旧世界人なりに政治貢献すべく、受験を考えているところです。
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by komunisto | 2014-11-29 10:42 | 政治
2214年11月24日

2014年の日本では、依然として悲惨な児童虐待事件が跡を絶たないようですが、23世紀の社会では児童虐待のニュースはほとんど耳にしません。23世紀の親たちはみんな責任感溢れる立派な親揃いなのでしょうか。

たぶんそうではなく、子育て観の大きな変化が影響していると思われます。現在、「子どもは社会が育てる」という考え方が定着しているのです。

その意味は21世紀なら誤解を招く恐れがありますが、親は育児の責任を負わないということではありません。親権とそれに伴う親の養育義務は変わりませんが、子の養育は親のみの責任ではなく、むしろ究極的には社会の責任であるという意味です。

いつの時代であれ、親の養育能力には埋め難いほどの格差があります。頭の下がる立派な親もいれば、無責任極まりない親まで様々です。親になるのに資格や免許は必要なく、誰でもなれてしまうのですから、こうした「親格差」は考えてみれば当然のことです。

そこで、個々の親の養育義務は当然残しつつも、究極のところでは社会が養育するということが明確にされているのです。

具体的には、子どもの権利法という法律があり、これは民法の特例として、親に養育能力がない場合に裁判所の審判で親権を停止したり、剥奪したりすることが親絶対主義だった時代より容易にできるようになっています。

そうして親権者を失った子どもは厳格な適格性審査と講習を受けた里親が引き取って養育する認定里親制度が充実しているため、いわゆる児童保護施設というものは存在しません。ただ、児童擁護センターという機関で一時保護することがあるだけです。

その児童擁護センターは旧児童相談所の機能をいっそう拡充したもので、旧児童福祉司をより専門化した児童保護士が多数配置され、子どもの権利全般の擁護に当たっています。センターは警察機能すら持っており、児童虐待の疑いがあれば令状に基づく家庭への立ち入り調査や人身保護の権限が与えられています。

また前々回報告したように、1歳から保育が義務とされていることも、乳幼児の養育を親任せにせず、学齢前の子どもでも、社会が責任を持って養育するという「子どもは社会が育てる」の具体化と言えるかもしれません。
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by komunisto | 2014-11-24 09:48 | 福祉
2214年11月19日

23世紀人に説明するのが一番難しいもの、それは知的財産権でしょう。このような概念はもはや存在しないからです。無形的な知まで財産権の対象となり、金に換えられるというのはまさに資本主義の象徴だったようです。

しかし、知的財産権が存在しないと、盗作や海賊版が横行するのではないか。実際、そのとおりです。ですが、23世紀人はそうした模倣を悪とは思わず、良い作品は真似されると割り切っているようで、盗作された著作家たちも憤激したりしないのです。

実際のところ、貨幣経済が廃されたことで、著作家たちも著作権料など手にすることはできなくなり、プロとアマの垣根も非常に低くなっていますから、カネをもらう人=プロ、もらわない人=アマという区別もありません。ただ、いわゆる人気のある・なしで、おおまかにプロ・アマの境界が分けられているだけです。

とはいえ、盗作が当然に認められているわけではなく、慣習上著作倫理が形成されています。盗作は著作倫理違反とはなるのですが、そのことが著作権侵害として法的追及の対象となることはないのです。ただ、盗作が発覚すれば盗作者は評判を落とし、社会的制裁を免れないことはあります。

以上のことは発明についても妥当します。21世紀には特許戦争という用語もあったほど、特許技術は知的財産権分野では最も資本主義的競争圧力にさらされていた分野でした。

ですが、この分野でも、新案技術は発明者や発明企業が独占することは許されず、人類共通財として扱われるため、競争どころか、以前にも報告したように、新案技術は必ず世界科学技術機関に登録する必要があります。

こうして、人間の頭脳が生み出す知的生産物も、所有権の対象として囲い込み、金儲けのネタにするのではなく、人類共通の知的財産として共有し合うのが、共産主義的な23世紀社会の知のありようとなっているようです。
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by komunisto | 2014-11-19 16:51 | 文化
2214年11月14日

前回報告した保育の問題を引き継ぐ形になりますが、21世紀には保育園の増設に伴い、園児の遊び声が「騒音」として近隣から苦情化されるという新たな社会問題が生じていました。保育が義務制となり、保育所が診療所より多い23世紀、この問題はどうなっているのでしょうか。

近所の保育園で聞いてみると、住宅が近くまで迫っている園庭などで園児を遊ばせる場合は、あまり騒ぎ声を上げないように指導しているため、騒音苦情はないとのことです。これは、園庭とはいえ、私的空間から一歩外に出たら近隣社会にも配慮するという公私峻別の価値観を保育段階から体得させるという明確な保育方針に基づいているといいます。

実は、こうした公私峻別は23世紀社会では一つの共通した社会のモラルとして定着しています。21世紀にも公私混同はモラル違反として非難されましたが、その一方で公私混同がしばしば役得的に容認される風潮も見られたり、成人でも近隣に配慮せず大騒ぎするような振舞いも見られたところでした。

23世紀の社会には、あらゆる職務において「公私混同・即免職」という厳しい綱紀がありますし、公私混同をチェックするオンブズマンや社内監査なども厳正です。

こうした厳しい公私峻別は、自分たちの社会は自分たちで運営するという広い意味での自治の発想が根付いていることから生まれるようです。何度も報告しているように、23世紀には国家とか政府といった上から個人を管理規律する機構は存在せず、すべてが自治に委ねられるのです。

純粋に私的な領域に公権力は干渉しない反面、何らかの形で社会と接触する場面では、規律ある自己抑制的な振舞いが求められるわけですが、それを綱紀として強制するだけでなく、幼児期の保育でも、遊びの中で公私の別を自然に体得させるという方針には強い感銘を受けました。
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by komunisto | 2014-11-14 09:09 | 社会
2214年11月9日

21世紀の日本では、ワーキングマザーの増加に伴い、保育園不足が社会問題となっていますが、23世紀にはこのような問題は発生する余地がありません。というのも、今や保育は教育と並び、親の法律上の義務となっているからです。

23世紀の教育制度は、以前ご報告したように、原則6歳から始まる13年一貫制の基礎教育がベースとなっていますが、その前に、満1歳から始まる保育が義務づけられています。従って、期間的には5年保育となります。

21世紀まで保育は教育というより福祉の範疇に属する位置づけでしたが、23世紀には教育の前段階という位置づけになっています。その一方で、幼児教育を担っていた幼稚園の制度は廃止されています。

このように保育が義務とされているのは、発達心理学上、社会性の健全な発達を促すためには早幼児期の適切な保育が重要であることが実証されたためだそうです。一方で、早幼児期からの「英才教育」は一般に考えられているほど効果がないことも実証されたことから、幼稚園は廃止されたのです。また保育段階では障碍児と健常児を区別しない統合保育が実践されています。

こうして保育が義務となれば、保育園を民間任せにして、待機児童の行列を作ることは許されません。23世紀の保育園はすべて市町村営の公立保育園となっており、待機はあり得ません。ただ、都市部では定員の関係上、別地域の保育園に入園せざるを得ない場合はあるようですが、どこにも入れないということはないのです。

また保育が義務となったことで、保育専門家の役割も重大となり、保育士は今や漢字表記も「保育師」に変わっています。保育師にはセラピストとしての素養もあり、問題行動の見られる園児や障碍を持つ園児に対しては、個別に療法的な保育も行なうことができるなど、保育士時代に比べ、専門性が格段に上がっています。

一方、保育が義務となったことで、親は仕事の有無を問わず、子が1歳に達すれば、平日の半日は育児から解放される時間を確保でき、育児ストレスを軽減できるので、学齢前に起こりがちな児童虐待の防止にも効果があるとされています。
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by komunisto | 2014-11-09 09:37 | 教育
23世紀の社会で特徴的なことは、公務員が非常に多いことです。統計上は、労働者の3人に1人以上が公務員だそうです。それもそのはず、23世紀社会には民間資本というものが存在せず、多くの事業が公的に担われているためです。

やはり、共産主義社会は役人天国なのか、と思いきや、そうでもないようです。というのも、23世紀の公務員は市民の奉仕者としての性格が明瞭だからです。資本主義時代にも「公共の奉仕者」という理念が憲法にも謳われていましたが、その意味内容は曖昧で、美辞麗句にとどまっていました。

21世紀人の知っている公務員とは、親方日の丸に安住し、市民のことなど眼中になく、上から目線の杓子定規で融通が利かない、でも安定しているので就職口としては人気といったイメージだったと記憶します。要するに、公務員とは行政(一部は司法)を管理する役人でした。

23世紀の公務員は単に行政を管理する役人なのではなく、市民に奉仕するサービス提供者です。ですから、民の上に立つお偉方ではないのはもちろん、ただ行政のルティーンワークをこなすだけの存在でもありません。ある意味では、ボランティアのようなものです。

実際、以前からご報告しているように、23世紀の労働はすべて無償で行なわれていますから、もはやボランティアと有給職の区別はなく、公務員も無給です。従って、感覚としては、公共の仕事を市民がボランティアで自ら担っているという感じです。

それでも、中央の公務員たちはまだ威張っているのだろう、とお思いでしょうか。これについても、以前の記事で書いたように、23世紀には「中央省庁」というものがもはや存在しません。政府機構自体が存在せず、民衆代議機関としての民衆会議がすべてを掌握し、旧中央省庁は政策シンクタンク的な研究調査機関に転換されているからです。

というわけで、かつて霞ヶ関を牙城としていた「中央官僚」という種族は絶滅していますから、官僚主導の非民主的な社会も過去のものです。まさに民が主人公である民主主義が実現されているという点では、目を見張る進歩があります。
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by komunisto | 2014-11-04 09:57 | 政治