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2215年4月25日

先日、23世紀日本の持ち家比率は約40パーセントで、過半数の60パーセントは借家だというデータを見かけました。一方、そちら2015年に最も近い2013年度のデータによると、持ち家比率は約60パーセント、借家は約35パーセントとされていました(残り5パーセントは不明)。

この結果は、いささか意外でした。貨幣経済が廃止され、住宅建設も無料となった23世紀の今、大半は持ち家に住んでいるのはないかと想像していたからです。実際には逆で、この200年の間に持ち家と借家の比率はほぼ逆転していたことになります。これはどうしたことでしょうか。

いろいろ調べてみると、以前の記事でお伝えしたように、23世紀の社会では自治体が提供する公営住宅の制度が充実していることに行き着くようです。23世紀の公営住宅はもはや低所得層向けの福祉住宅ではなくして、より大衆的な一般住宅として普及しているからです。

それに加え、23世紀の環境的持続可能性に配慮された環境計画経済下では、土地私有制度が廃され、無計画な商業的宅地開発というものが一切行われておりません。個人が持ち家を建築する場合は、土地管理機構から土地を借り、指定された方法で環境調和的に施工しなければならないといった制約がかかります。

そういうわけで、現在マイホームを夢とする人はあまりおらず、よほどお仕着せの公営住宅では満足できず、自分の好みの設計で戸建てを建てたいという希望の強い人だけが、上述のような制約を甘受してでもマイホームを建てるようなのです。

ちなみに、21世紀には分譲マンション型の集合的持ち家というものもありましたが、23世紀にはこのような型の持ち家はほとんど聞いたことがありません。シェアハウスのようなものはあるようですが、それは普通の戸建て住宅を仕切って共有するようなタイプのものです。

また貨幣経済の廃止により、家を有償で貸して賃料収入を得るという賃貸事業も成り立ち得ませんから、民間の借家もほとんどなく、上述の60パーセントの人たちの大多数も公営住宅に居住していることがデータ上も示されています。

21世紀人からすると何と味気ない住宅事情よと思われるかもしれませんが、23世紀の公営住宅は画一的なコンクリート建築ではなく、外観・内装ともに芸術的な価値も十分に認められるようなお洒落な設計になっていますから、かえって下手なマイホームを建てるよりいいのかもしれません。
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by komunisto | 2015-04-25 17:24 | 生活
2215年4月19日

かつて様々な専門職が広い意味での「資格制」になっていた時代がありました。特に日本はおそらく世界一の「資格社会」で、多種多様の職が資格化され、資格試験への合格が社会へのパスポートになっていました。まだ21世紀に生きる方々は実感できるでしょう。

しかし、現在23世紀はもはや資格社会ではなくなっています。もちろん医師、看護師など医療系専門職のようなものは依然として資格制(免許制)で、しかも医師免許などは一度取得すれば終身間有効な特権ではなく、一定期間ごとに更新されていくというように厳格化されています。

また以前の記事で紹介したように、歯科予防師とか、臨床哲学士児童保護士などといった23世紀ならではの未来資格も生まれています。

その一方で、かつて無数に林立していた業界資格的なものは多くが廃止されています。業界での技能評価は就職後、実地で行われ、形式的な資格証明によるのではありません。

思うに、かつて資格が隆盛だったのは、旧来の身分制社会が崩れ、多くの職業が世襲制や徒弟制ではなくなった反面、所定の職業能力を簡単に証明でき、かつ組織内研修の手間を省ける手段として、「資格」が利用されていたのでしょう。結果として、今度は「資格」によるある種の身分制社会が立ち現われており、その傾向は資格林立社会の日本で特に顕著化していたのでした。

現在、かつて皆が「資格」取得に奔走させられていた時代を、少し皮肉を込めて「士師時代」と呼んでいます。「士師」とは、今でもそうですが、日本の各種資格には「士」または「師」の付くものが多いため、それらを併せて「士師」と呼ぶようです。

23世紀が「士師時代」でなくなった理由として、一つには他目的大学校のように一度社会に出た後、いつでも必要に合わせて実用的な科目を学べる生涯教育制度が確立されたこと、また各職場ごとの内部研修制度が充実していることが挙げられます。

「士師」となるために個人の費用負担で資格取得に必要な、時に長期に及ぶ「受験勉強」に追い立てられる代わりに、実質的な技能習得・向上のための社会的な諸制度が確立されているのも、貨幣経済の廃止という人類的な大決断の成果と言えるようです。
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by komunisto | 2015-04-19 09:30 | 経済
2215年4月13日

23世紀的システムの中でちょっと変わっているのは、電話のシステムです。現在でも、電話には固定型と移動型(いわゆる携帯)があることは変わらないのですが、固定電話と携帯電話の機能分化がより明確にされているのです。

固定電話は、家庭用としては公共機関等への事務連絡用途に限られています。例えば、警察・消防・救急への緊急連絡や災害伝言、その他の事務的な連絡用です。そういうものとして、固定電話は各世帯に必ず一台給付されます。また各種事業所には業務用固定電話が設置されていることも変わりありません。

こうした固定電話は日常の個人連絡用には使えない仕様に作られており、個人的な連絡用としては携帯電話に一本化されています。興味深いのは、行政手続き専用の携帯電話も18歳以上の市民には必ず一台ずつ給付されることです。

このようにして、23世紀の電話は固定、携帯ともに自動的に給付されるシステムとなっており、これらの給付される電話を総称して「給付電話」(給電)と呼びます。給電は正当な理由がない限り電話番号の変更ができません。

こうした給電だけでも十分生活は可能ですが、給電は番号変更の自由が制限され、機能も限られているため、多くの人は自分専用の携帯電話をもう一台所有し、ネット接続などはこちらでするという人が多いようです。

こうした自由所有の携帯電話は高機能化されており、携帯電話というより、携帯パソコンに近いので、テレコン(テレコンプティーロ:エスペラント語)と通称されています。

ちなみに、たびたびご報告しているとおり、貨幣経済が廃され、すべてが無償供給される23世紀社会では、電話料金もかからず、完全無料です。ただし、調子に乗って過度にかけ放題をすると、前触れなく通信遮断措置をかけられます。

また電信電話サービスは固定型も移動型もすべて日本電信電話機構という公企業が一括して担っているため、あまたある携帯電話会社のリストからどこにしようかと選択に迷うこともありません。無償なら独占企業体で十分なのです。
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by komunisto | 2015-04-13 10:21 | 情報
2215年4月7日

2015年4月の日本では、中学校の全社会科教科書で領土に関する記述が増量されるなど、政府見解に沿った教科書検定が一段と厳しくなったとの不穏な報道がありました。愛国主義路線に則った教科書統制策でしょう。

少し歴史を先取りしておきますと、こうした「愛国」教科書で教育された子供たちが中年に達し、政治家や文科官僚として指導的地位に就き始めた2050年代になると、教科書統制はいっそう強化され、政府見解以外の見解の掲載禁止、政府見解に批判的な見解を教えた教員の処分など抑圧の嵐が吹き荒れることになります。

言論全般への抑圧も広がり、反愛国的言論の警察的取締りも行われました。23世紀から振り返って、革命前のこの時代は、20世紀前半期に次いで公然と思想統制が行なわれた「ネオ・ファシズム」の時代として記憶されています。

それから革命を経て23世紀に到達した現在、教科書はどうなっているでしょうか。以前の記事でもご報告したとおり、23世紀の教科書はオール電子化されており、紙書籍の教科書は過去のものです。

問題は電子教科書の中身ですが、生徒の一人から見せてもらって驚きました。昔の教科書と異なり、とても記述が簡単です。解説調の長文は一切なく、ただ必要最小限の情報が与えられ、あとは自分で問題を発見するように作られています。与えられた問題に解答せよ、ではなく、与えられていない問題を作成せよ、という趣旨です。

ここには、教育理念の革命的な変化が反映されています。すなわち、教育とは生徒に既存知識体系を暗記させることではなく、生徒自身の知の探求を手助けすることだというのです。比喩的に言えば、軍隊的行軍から森の散策への変化でしょうか。

当然、政府見解の強制などあり得ません。もっとも、以前の記事でご報告したとおり、23世紀には政府という機関はなく、民衆会議あるのみですから「政府見解」なるものも存在し得ないのですが。

こうした問題発見型教科書で教育される23世紀の生徒たちは、知的探究心と自由な創造性に富んでおり、萎縮し、ロボットのように政府見解を暗唱する21世紀の生徒たちとはまるで別の生き物のように感じられるでしょう。
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by komunisto | 2015-04-07 15:25 | 教育
前回、ウィリアム・モリスを話題にしましたが、モリスは社会の「システム過剰」に批判的で、単純素朴な田園社会を理想と考えていました。その点、23世紀の未来社会はシステム過剰気味ではないか、という疑問を続けていただきました。

たしかに、前回もご報告したように、23世紀社会はモリス的田園ユートピアではありませんから、単純素朴とはいかず、かなりシステマティックに構築されている印象を受けるかもしれません。しかし、筆者がかつて生きていた21世紀社会に比べれば、システムは緩和されていると感じます。

システム化が高度に進んだ21世紀社会の仕組みは錯綜し、全体像が見えなくなっていました。そうした錯綜の元は、市場経済機構の複雑化と、行政機構の肥大化であったと思われます。金の複雑な流れ―ことに金融―、そして法と権力の複雑な体系が迷路のような社会を作り出していたのです。

21世紀の学者たちは、こうした社会の高度なシステム化をあたかも「進歩」の証しであるかのようにみなし、モリスのように批判的に見ることはありませんでした。

その点、23世紀社会は、経済的には計画経済を機軸とした非貨幣経済でまとまり、政治的にはすべてが民衆会議に集約されています。簡単に言えば、商業と金権政治が消滅したわけです。それは、以前の記事でもご紹介したように、透明感のある社会の元にもなっています。

その結果、社会のシステム化は抑制され、見えやすいものになっています。こうして社会のシステム化が抑制されていることを、23世紀の学者たちは「システム緩和」と呼ぶようです。現在では、こうしたシステム緩和こそが進歩の証しとみなされています。

すなわち、できる限り簡明なシステムをもって高度な産業/情報社会を維持していくことこそが、新たな進歩の方向性だと考えられているのです。今回は、ややメタなご報告となりましたが、23世紀社会を理解するうえでのご参考まで。
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by komunisto | 2015-04-01 10:28 | 社会