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2215年5月31日

そちら21世紀日本の5月は、春季運動会の季節でしょうか。20世紀には運動会は秋とほぼ決まっていたのですが、21世紀には春が増えたそうです。理由は残暑による熱中症を防止するためとか、行事の分散化を図るためとか、受験勉強の妨げにならないようにするためとか、いろいろ言われているようですが、よくわかりません。

こちら23世紀日本ではどうかと言えば、そもそも運動会という学校行事自体がありません。運動会好きには寂しいかもしれませんが、私のような運動音痴には羨ましい限りです。ついでに言えば、修学旅行という定番行事もありません。これも、集団旅行苦手の私には羨ましい限りです。

要するに、23世紀の学校には全員参加型の行事というものが、ほとんどないということになります。あるのは入学式と卒業式くらい、学期ごとの始業・終業式もクラス単位の自由形式で行うだけと聞きます。

学校ごとに多少の違いはあったでしょうが、合唱コンクール、学習発表会、社会科見学等々、学校行事は毎学期何かしら組まれており、教師も生徒も準備やリハーサルなどで多忙だった学校時代を思い出すと、23世紀の学校とは、私どもが通った学校とはまるで別世界のようです。

23世紀型学校生活はずいぶんと簡素化されていることになりますが、これは、学校という場の存在理由が大きく変化したためです。かつての学校ではとかく「集団生活」への適応が強調され、悪く言えば子供たちを家から引っ張り出して昼間強制収容する場だとも言えたわけです。

従って、全員参加型の学校行事も単なる息抜きや娯楽ではなくして、集団としての団結心や集団における協調性を養うためといった教育目的の下に、長く続けられてきたものと考えられます。

それに対して、23世紀の学校は個別的に子供たちの資質を発見し、伸ばす場となったのです。そのため、以前の記事でも報告したとおり、学校はどの学年でも通学制/通信制を選択できるようになっており、通学制課程にあっても、集団性より個別性が優先されますから、カリキュラムの自由度が高く、行事も最小限なのです。
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by komunisto | 2015-05-31 09:25 | 教育
2215年5月25日

23世紀に消えたものシリーズ、今回は精神病院です。精神病院と言えば、そちら21世紀の日本は依然として入院患者30万人を数える世界に冠たる精神病院大国ですね。ところが、200年後の現在、精神病院入院患者は長期に限れば0人です。

そもそも精神病院という制度自体が廃止されて久しく、最後の精神病院が閉鎖されたのが約80年前ですから、これは一つ前の22世紀中の医療改革の成果でした。精神病院廃止は、「近代的」な精神病院制度ができる以前の「座敷牢」廃止に次ぐ第二の精神医療革命とも呼ばれています。

海外では、もっと早くに精神病院を廃止していたところも多いので、日本はこれでも遅かったくらいですが、その要因は精神障碍に対する差別意識でした。22世紀初頭の革命は、こうした日本に根強い差別意識の根絶を結果する大きな画期点でもありました。

ところで、精神病院がないということは、精神医療が提供されないことを意味しません。現在、精神科という診療科は存在せず、通常は総合神経科という名称の下に、旧精神科と神経内科とが統合されています。

精神医学と神経医学は今日でも別個の学術として個別に研究されているのですが、現在、脳の画像診断技術が進み、精神疾患でも画像診断ができるようになってきたことに加え、神経病でも精神症状が出ることは少なくないことから、臨床の現場では精神医学と神経医学が統合され、総合神経科という新しい診療科が生まれているわけです。

ただし、現在でも精神科の入院治療がないわけではありませんが、それは急性症状が発現している場合で、入院期間もせいぜい10日程度の集中治療です。また、かつて人権侵害的制度として悪名高かった強制的な措置入院制度も廃止されています。

ちなみに、アルコール・薬物依存症に対しても入院治療は不要なのかということですが、23世紀にはこうした依存症自体が激減しており、極めて例外的な治療施設として依存症専門病院が見られる程度です。しかしこれも精神病院ではなく、心療内科病院です。

21世紀には薬物依存を中心に世界的に深刻な社会問題ともなっていた各種依存症の激減は、23世紀における世界共通現象としていろいろな角度から研究もなされているようですので、機会を見てこの問題についてもご報告してみたいと思います。
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by komunisto | 2015-05-25 07:28 | 衛生
2215年5月19日

23世紀の社会では、200年前には一般常識的に皆がよく知っていた様々な文物制度が廃れていることはこれまでにもいくつかご報告してきましたが、司法の分野では、犯罪の被疑者の公訴を主要な任務としていた検察制度が廃止されています。代わって、民衆公訴制度というものが導入されているのです。

民衆公訴制度とは、犯罪の被疑者の公訴を市民から抽選された陪審員が決定する制度をいいます。そのような陪審のことを起訴陪審とも呼びます。これは起訴された事件を法廷で審理し、判決する審理陪審に対する用語です。

警察が捜査を終えた事件は、いったん管轄の裁判所に送致され、そこで改めて起訴陪審が招集されます。陪審員の任務は民衆会議代議員免許取得者の場合は義務的ですが、それ以外の市民の場合は理由をつけずに辞退することができます。

起訴陪審は23人という大人数から成り、審理は非公開で行われますが、被疑者は弁護人の同席・助力を求める権利が保障されます。起訴陪審の起訴決定は多数決によりますが、12対11という一票差の僅差決定での起訴は認められず、13人以上の賛成という特別多数決によります。

ただし、このように起訴陪審が招集されるのは一定以上の重罪事件に限られ、軽罪の場合は予審判事という予備審理専従の裁判官が起訴を決定します。

どちらの流れにせよ、起訴が決定されると、事件は公判に付せられます。その後、法廷で旧検察官の役を担うのは、民間の弁護士から選任された民衆側代理人です。正式には公訴代理人と呼ばれるこの職務は弁護士の公的義務とされていて、事件ごとに裁判所から弁護士会を通じて割り当てられることになっています。

公訴代理人は原則として一件に付き二人選任され、コンビで当たりますが、大きな事件の場合は三人以上の公訴代理人が選任され、チームで当たることもあります。

以上のような処理がなされるのは一定以上の犯罪の場合で、微罪になりますと、起訴は所轄の警察署長が直接に行います。そして、こうした微罪裁判では公訴代理人は選任されず、裁判官と被告弁護側だけの簡易裁判で処理されます。

このように検察制度が廃され、民衆公訴制度に移行した理由として、民衆主権の原理があります。この原理は政治のみならず、司法にも及びますから、国家が検察官を通して公訴を担う古典的な国家訴追の制度は廃されたわけです。

ちなみに、周囲の人に旧検察制度のことを尋ねてみると、半分ぐらいが「聞いたことはある」との答えでしたが、そのイメージを尋ねると「古い」「後進的」といった回答が大半を占めました。どうやら23世紀人にとっての旧検察制度は、21世紀人にとっての「お奉行様」みたいなイメージを醸し出すようです。
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by komunisto | 2015-05-19 09:43 | 司法
2215年5月13日

先月の記事で、23世紀の問題発見型教科書についてご報告しました。その後、記事では触れていなかった教科書検定制度はどうなっているのかというご質問を21世紀の読者からいただいていました。遅れましたが、お答えします。

23世紀に教科書検定制度はありません。といっても、オール自由化というわけではなく、全土で統一教科書を使用しているからなのです。それでは究極の検定、教科書統制では?と思われるかもしれません。

しかし、前回記事でご説明したように、23世紀型教科書は既存知識体系を教え込むのではなく、問題発見の手助けをするツールであるため、統一教科書を使用しても、特定見解の刷り込みになるようなことはありません。同一教科に何種類もの教科書は必要ないのです。

教科書自由化とは、実は教科書販売の自由化を意味しており、教科書を手がける出版資本の自由な売り込み競争に委ねることを意味します。そこでは、生徒の教育的な利益は二次的な関心にとどまります。教科書採択をめぐる癒着・汚職も起こるでしょう。

23世紀の教科書は統制でも営利でもなく、純粋に教育的な観点から、日本学術会議傘下の中央教科書編纂委員会という機関が各界の中堅研究者を集めて、教科ごとに編纂しています。

また言語教育と科学教育に関しては、ユネスコの後身である世界教育科学文化機関が世界統一の指導指針を数年ごとに改定して各領域圏に提示し、これをもとに各領域圏で教科書を編纂する体制が採られています。

こうした世界的な統一教育という発想はまさに世界共同体ならではのことでして、全世界統一指針をもって、世界公用語であるエスペラント語や科学分野(数学や社会科学を含む)の教育が世界共同体全域で統一されることが期待されているわけです。

ところで、先進的な領域圏の中には、そもそも教科書という制度自体を廃止し、教科ごとの指導指針だけを提示し、後はすべて教師の独自教材に委ねているところもあります。日本でもそうした議論はありますが、伝統的な教科書の制度はなかなか手放せないようです。

ちなみに、私学ではどうしているのでしょうか。実は、公教育制度が完備した23世紀に私学はほとんどありません。例外的な私学でも、正規の学校として認可されるためには、統一教科書に基づく教育が義務付けられています。
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by komunisto | 2015-05-13 09:21 | 教育
2215年5月7日

23世紀の経済史の本によると、日本社会では永く年功序列が維持されていたところ、21世紀に入ると能力主義が強調されるようになり、徐々に年功序列は崩れていったと説明されています。

2015年の日本はまだ過渡期と思われますが、2050年の日本では年功序列は完全に崩壊していたようです。ところが、2215年の今また年功序列は復活しており、ほぼすべての組織が年功序列によっているとされます。このような復古はなぜ起きたのでしょうか。

ここにはやはり経済体制の変化が絡んでいるようです。何度も報告しているように、23世紀は貨幣経済が廃止された共産主義体制をとっております。労働はすべて無償のボランティアにより、23世紀人は労賃というものを全く知りません。

能力主義とは労賃を年功に比例させず、能力に基づかせる方法をいうわけですが、結果として労賃によって定まる職階も年功でなく、能力によることになり、部下より年次が下の上司というものも存在してきます。

これによって、ある種和気あいあいとした雰囲気を特徴とした日本の組織―特に企業組織―は次第に殺伐としたものとなり、労働者のストレス障碍なども急増したと、史書には記されています。競争淘汰的な雰囲気が強まったせいでしょう。

ところが、賃労働が消滅した現在、能力を労賃に反映させることはそもそも想定できません。それでも、能力主義の職階制をとることはなお可能ですが、23世紀にはそういう習慣もないようです。職階も年功によるため、年次が下の上司はまずいません。

ただし、終身雇用習慣は廃れて久しく、転職は普通のことなので、ここで言う年次とは前職場での在職年数なども合算した広い意味での経験年数のことです。

能力主義が称揚されていた頃は、年功序列は組織の活力を失わせるなどと宣伝されていましたが、現在このような批判はありません。むしろ、年功序列は組織の安定と持続を担保し、労働者の心身の健康にも寄与するという効用が説かれています。

能力主義はまさに資本主義的な競争至上主義の哲学を前提とした資本主義的組織論であったのですが、競争ではなく協働を重んじる共産主義的組織論は安定的な年功序列を再発見したのでしょう。
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by komunisto | 2015-05-07 11:22 | 経済
2215年5月1日

今回はいかめしいタイトルの記事ですが、23世紀の社会の特質を学者はしばしばこのように表現しています。本質的に福祉が埋め込まれた社会といった意味になります。つまり、23世紀の社会はあえて福祉対策をあれこれ採らなくとも、福祉は実現するということです。

そのこともあって、23世紀の社会には特にこれといった福祉政策の目玉が少ないので、この通信でも福祉カテゴリーに分類される報告記事は、生活カテゴリーの報告記事と比べても少なめとなっています。

資本主義時代にはなぜ福祉が叫ばれたかと言えば、何事を為すにも必須アイテムである貨幣の持ち高が少ないと生活が困難になるため、低所得者向けの様々な福祉的支援策を必要としたからです。

国家が税を課して福祉政策を充実させる「福祉国家」が理想とされた時代もありました。しかし結局のところ、資本主義は福祉の世話を必要としない有産者に重税負担を求める福祉政策とはどうしても相性が悪く、福祉国家も溶解・解体が進みました。

そちら2015年の日本も、伝えられるところによると、様々な福祉負担の増大、またはサービスの削減により、元々弱かった福祉政策がいっそう縮減されていこうとしているようですが、これは資本主義社会では必然的な流れと言えます。

この点、貨幣経済が廃止された現在はそもそも生活原理が一変しています。貨幣なしでも必要な衣食住はすべて無償供給制でまかなえるのですから、そもそも貧困という現象は過去のもので、この用語はほぼ死語となりました。

医療も高度な治療を含めてすべて無償ですから、医療保険のような補填制度に頼る必要はありません。病気や障碍で働けなくなっても、生活は成り立ちます。死後に遺族が生活に困らないようにと、生命保険に入る必要もありません。

退職者の年金制度も必要なく、基本的には望む年齢まで働き、望む時にリタイアすることができますし、リタイア後の生活に困ることもありません。高齢になり介護が必要になっても、無償で介護サービスを受けられます。

このように貨幣経済廃止を基点として、福祉がすべて初めから組み込まれていることが、本源的福祉社会の意味です。人類はどうしてこの単純な原理に長い間気がつかず、貨幣制度の発明から何千年もかけてようやく廃止したのか、今となっては不思議なくらいです。
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by komunisto | 2015-05-01 09:17 | 福祉