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2215年6月30日

そちら21世紀にはデフォルト問題など、何かとお騒がせで、ややお荷物的な立場になっているらしいギリシャですが、23世紀の現在、ギリシャは平穏な地中海の領域圏として人気です。

資本主義の時代、たしかにギリシャは優等生とは言えませんでした。理由はよくわかりませんが、のんびりした地中海の代名詞のような風土と気風は、生き馬の目を抜く競争の資本主義市場経済ではどうしても落ちこぼれ気味だったのでしょう。

それが貨幣経済が廃止された23世紀となりますと、俄然立場が変わりました。のんびりゆったりのギリシャ的なものは、一つの模範と考えられています。必要な物を必要なだけ生産し、あとはゆっくり休み、質素な生活を楽しむのです。

共産主義計画経済の時代、元劣等生のギリシャは優等生です。ただ、経済計画はやや大雑把で、需給関係のバランスを崩すことがたまにあるようなのですが、それもギリシャ流ということで、さほど問題視されないようです。

一方、かつて資本主義の優等生だったアメリカや日本、ドイツなどは、共産主義の時代にも健在ですが、どちらかと言えば地味な存在であり、ギリシャのほうが先進領域圏とみなされることもあるようです。

ちなみに、ギリシャは観光地として相変わらず人気ですが、老朽化してきた遺跡保護の規制が厳しく、観光名所の多くが立ち入り禁止となっています。この点も、めぼしい産業がないため、遺跡を売りに観光をドル箱としていた時代とは事情が異なります。

劣等生の時代からギリシャを贔屓にしていて、応援していた者としては、今、ギリシャが新しい時代の代表として評価されているのを見ると、駄目だった子の成長を見る親のような心境です。
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by komunisto | 2015-06-30 16:28 | 経済
2215年6月24日

23世紀人の発想で当初いささか驚かされたことは、「癌死は格好いい」というような死生観を持つ人が少なからず見られることでした。そちら21世紀では癌は国をあげて世界的に征圧すべき「国民病」と言われているはずですから、驚かれることと思います。

以前ご報告したとおり、23世紀には癌自体が大幅に減少し、平均寿命も100歳台まで延びています。そのため、癌死者もそう多くないのですが、それでも癌死者は毎年確実に出ます。そうした中で死生観が大きく変わったのは、医療哲学の変化が要因と思われます。

これも以前のたよりでご報告したように、23世紀には臨床哲学士という専門職があり、そうした臨床哲学の重要な一分野として、医療哲学があります。例えば、癌に対してどう向き合うかといったことがこの臨床哲学の課題となります。

この問いに対して、23世紀には基本的に積極治療せず、自然の死期に委ねるという考え方が有力化しているのです。ばかな・・・と思われるかもしれませんが、このような考え方はすでに21世紀に提起されていたものの、癌は必ず治すべしという考えが支配的だった時代には、少数の異端説とみなされていました。

ところが、23世紀には西洋医学の枠組み内で漢方的な思想が再発見されていることで、特に外科治療を絶対視する思想が後退したのです(このことも、以前のたよりでご報告しました)。そのため、癌のような病変もできる限り切らずに治すか、そもそも積極治療せず、症状管理的な対応をするといった考えが医療界でも有力化しているわけです。

そのような事情から、癌死者はこうした新しい医療哲学の実践者として敬意を持たれることすらあるのだと思われます。それにしても、癌死の中には若年死も含まれますが、それが格好いいとは?

この点はよくわからないのですが、普通に健康であれば100歳までお迎えは来ないという長大な人生を生きなければならない社会では、案外、早めにお迎えが来た人は太く短い人生を生きた格好いい人という逆説的な死生観も生まれるのかしれません。
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by komunisto | 2015-06-24 09:07 | 死生
2215年6月18日

23世紀の日本語はどうなっているの、21世紀の日本語は通じるのというご質問を受けました。実は21世紀からタイムトラベルしてきた当初、私も不安に思いましたが、間もなく不安は解消しました。日本語の骨格は、この200年であまり変わっていなかったからです。

近代以降に確立された標準語としての日本語は歴史的に定着しており、そのまま23世紀現在まで維持されていますので、タイムトラベルしてきた21世紀人にとっても、日常的に言葉で不自由することはありません。

ただし、日本語に特有の敬語体系はかなり廃れており、年長者に対しても、かつてなら「ため口」と非難されるような話法が一般化しており、戸惑うことはあります。敬語表現はよほど改まった場でしか使用されなくなっているため、現代では「敬語」ではなく、「儀礼語」と呼ばれるようになっています。

なぜ敬語表現が廃れたかについてはいろいろな議論がなされているようですが、やはり革命後、社会的な平等性が高まり、儒教的な伝統に由来する長幼の序の観念が希薄になってきたことが指摘されています。敬語は用法が難しく、誤用もしやすかったので、敬語表現が廃れてきたのは、日本語話者にとっては幸いなことかもしれません。

もう一つの変化は、ほぼ全員がエスペラント語とのバイリンガルであることです。これは以前のたよりでもご報告したように、学校での言語教育が大きく変わり、世界公用語となっているエスペラントの習得が義務付けられ、早期からエスペラント教育が徹底されているためです。

日本語における外来語の豊富さは相変わらずなのですが、外語教育の変化を反映し、かつては圧倒的に英語由来の外来語が多かったのが、現在ではエスペラント由来の外来語が多くなっており、例えば、バイリンガルもエスぺラントのdulingvaに由来するドゥリングワという外来語が使われます。

ちなみに、以前のたよりでは近隣外語一つを加えたトリリンガル(トリリングワ:trilingva)話者の育成が目指されているとご報告しましたが、ここまではなかなか理想どおりにいかないもので、実際に三言語を同等に使える人はまだ限られているようです。

さらに、これも別のたよりでご報告したように、手話も学校教育で必修となっているため、初歩的な手話はほぼ全員が習得しており、非障碍者同士でも少々おどけて手話で会話することもあるほど普及していることも、21世紀の言語状況とは大きく変化した点と言えるでしょう。
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by komunisto | 2015-06-18 08:39 | 文化
2215年6月12日

前回のたよりで、23世紀における「持たざる文明」のことをご報告しましたが、それに関連して、今回は「持たざる文明」が法的な理屈にも反映されていることをご紹介しようと思います。

かつての人類にとって最も重要な法的観念はと言えば、圧倒的に所有権でした。すべては所有権に始まり、所有権に終わると言っても過言でないほど、人類は所有権が支配する世界に住んでいましたし、そちら21世紀の世界はいまだそうでしょう。

これに対して、「持たざる文明」の下でも、所有権の観念は否定されないものの、それは住宅とその内部で日常使用される生活用具にほぼ限局されているため、そうした所有物も含め、事実上所持しているという占有権が優先されるのです。

ですから、窃盗罪の理解も大きく変容しています。窃盗罪と言えば、かつては圧倒的に他人が所有する物を盗むことと観念されていましたが、今では、他人が所持する物を盗むことが窃盗罪なのです。

ちなみにもう一歩突っ込みますと、この場合、占有状態には所有権が推定されるから占有権をひとまず優先するという理解ではなく、所有権とは切り離された占有権そのものが優先されるのです。

どう違うかと言えば、例えば、前回も触れたように、リユースされている大型家電のように、借り物であっても、他人の家庭で所持している物を盗み出せば、他人の占有権を侵害したがゆえに窃盗罪となります。

さらに、その家電泥棒氏が自分の家に所持していた盗品をさらに他人が盗み出した場合でも、泥棒氏の占有権を侵害したがゆえに、それも窃盗罪となるというのです。このことは、まさに占有権が所有権と切り離されて保護されることを示しています。

では、家電を盗まれた被害者が自ら犯人の自宅を突き止め、こっそり取り戻した場合はどうでしょうか。この場合、他人の自宅に不法に侵入した住居侵入の罪は免れませんが、窃盗罪にはなりません。この場合も犯人の占有権は侵害されてはいますが、被害者との関係では、加害者の占有権は保護されないというわけです。

なお、いわゆる「万引き」に関しては、窃盗罪ではなく、「社会的物資横領罪」という資本主義時代には聞いたことのない罪に問われることについては、初期のたよりでご報告しています。
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by komunisto | 2015-06-12 09:26 | 法律
2215年6月6日

そちら21世紀とこちら23世紀における文明の最大の違いは何かと問われれば、それは「持てる文明」と「持たざる文明」の違いだと言えます。21世紀は20世紀の延長で、持つことが最大の美徳であるような文明でした。それに対して、22世紀を大きな画期点として、23世紀は持たないことが美徳であるような文明に転換したのです。

20世紀後半から21世紀前半にかけて全盛期を迎え、そちらでは「グローバル化」の名の下に、全世界に拡大された資本主義は、持てる文明の最終的到達点であり、持って持って持ちまくれ!が合言葉であり、最大の持てる者=富豪はヒーローでした。

もっとも、21世紀には「断捨離」なる流行語のもと、物欲からの解放が擬似宗教的に説かれたりするようになりましたが、これには裏がありました。ここでの「断捨離」は、もともと不用品まで大量に所有していた持てる者が要らない物を捨てることを意味しており、もともと持たざる者にとって、断捨離も何もあったものではありません。

貨幣経済が廃止された今日、人類の物欲のほぼ100パーセントを占めていたカネというものを知らない世界にある意味原点回帰したわけですから、言わば文明そのものが「断捨離」されているのです。

それは精神論にとどまらず、地球規模での計画経済とそれに基づく計画的な経済協力が実施されることで、政策的にも確証されています。従って、毎日大量のゴミが発生・廃棄されるような無軌道な大量生産はあり得ない話です。

ただし、所有権の観念が消滅したわけではありません。日常の生活必需品の多くは、今日でも個人の所有物ですが、以前のたよりでも報告したように、リサイクルを前提としたリユース制が行き渡っており、特に大型家電は法律によりリユースが義務づけられています。もちろん、使用料は一切かかりません。

また、これも以前のたよりで報告したとおり、土地は誰にも属さない自然の無主物という扱いですが、土地の上物としての建物は私有が認められています。ただし、これまた以前のたよりで報告したように、持ち家比率は40パーセントほどに下がっています。

このように物欲の法的表象であるところの所有権の観念が狭く限局されているのも、持たざる文明の帰結です。従って、21世紀以前とは正反対に、23世紀の文明にあっては、持たざる者こそがヒーローです。テレビの情報番組でも、今や「豪邸」の紹介ではなく、余分な物を持たずに持続可能かつ効率的に生活している家庭の紹介が人気です。
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by komunisto | 2015-06-06 09:08 | 文化