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2215年11月27日

23世紀に飛んできて、当初不便に思ったのは、公式の天気予報がないことです。かつて生活の一部のようになっていた天気予報は、いったいなぜ消滅したのでしょうか。驚いたことに、天気予報は法律で禁止されているのです。

その理由として、予報は外れるからというのです。気象観測の技術レベルがどんなに向上しても、科学は予測するものではなく、事後分析するものですから、予報は外れます。天気予報外しは時に人を誤った判断に導き、重大な結果を招くので公式の予報は許されないのです。

ただし、重大災害の警報は別です。災害警報は予報とは異なり、重大災害の差し迫った危険が認められる場合に発せられるもので、かつてのように危険性に応じたランク付けはありません。警報にランクを付けると、そのランク予測が外れた場合に、やはり重大な結果を招きかねないからです。

こうした重大災害警報を出すのは、中央災害対策本部という常設の危機管理機関であって、気象庁ではありません。気象庁という役所は廃止され、旧気象庁は現在、気象地質観測センターという純粋の研究機関に再編されています。災害警報は同機関の観測をベースに、災害対策本部が発する仕組みです。

ここで天気予報禁止といっても、それはメディアなどを通じて公に予報することの禁止であって、各人が個人的に予測すること、言わば「マイ天気予報」は自由です。気象地質観測センターはリアルタイムで気象観測画像及び天気図を公開しており、それを端末に取り込むアプリもありますから、個人で天気を予測することは自由なのです。

つまり平時の天気予報は自己責任で、ということです。ちなみに、かつてテレビではちょっとした「顔」だった気象予報士という資格はもう存在しません。気象を専門にやりたければ、先のセンターに入職するのが近道とされています。

公式の天気予報がなくて不便に思わないか周囲に聞いてみますと、「天気予報なんて星占いみたいなものでしょ」という冷めた答えが返ってきました。これも23世紀人に科学的思考習慣が定着しているゆえんかもしれません。
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by komunisto | 2015-11-27 07:55 | 文化
2215年11月21日

前々回触れた安楽死の合法化政策についてです。安楽死はもう半世紀ほど前、22世紀中の法律で実現したことなので、「23世紀特有」とは言えないのですが、現在ではごく当たり前に定着しているという点では、これも23世紀的現象でしょう。

病院に安楽死部門があると言いましたが、もちろん全病院にあるわけではなく、大きな総合病院に限られます。そして、どんな場合でも患者が望めばOKというわけではなく、事前の審査と所定の手続きを経る必要があり、これらを経ない言わば「闇安楽死」は違法行為です。

まず事前審査では、患者の病名やその症状に関して、不治の病で終末期ないし高度に進行したステージにあり、その肉体的苦痛が制御不能なほど著しいことが要求されます。ここでは単に精神的な苦痛から「死にたい」という願望にとどまる場合は除外され、あくまでも肉体的苦痛が甚大な場合に限られます。

そのため、この事前審査に入る前の段階として、まず安楽死専門医が患者と面談し、患者の安楽死の希望が鬱病等の精神疾患に由来する自殺願望でないかどうかの診断をすることが義務付けられています。

この審査をクリアした後、次はカウンセリングです。ここでは、専門のカウンセラーが安楽死の意義、その経過と結果について説明し、患者が本当に安楽死を受け入れるかどうかについて、話し合います。この場合、家族・親族は同席できません。安楽死はあくまでも患者個人の自己決定によるもので、その是非について周囲から影響を受けるべきものではないとの考えからです。

このカウンセリングの結果、患者の安楽死への自己決定が充分でなく、なお逡巡があると認められた場合は、いったん手続きは打ち切りとなります。もし患者の自己決定が確固として揺るぎないと判定されれば、安楽死のプロセスに入ります。

安楽死も他の医療行為と同様、まずインフォームド・コンセントが義務付けられます。ここでは、医学的な見地から、安楽死の経過と結果が改めて説明され、患者は最終的な同意書への署名が求められます。ここで、署名せず、安楽死を取りやめることもなお可能です。

最後のインフォームド・コンセントもクリアして、いよいよ安楽死のプロセスに入ります。ちなみに、安楽死の撤回は施術の直前まで認められており、施術直前にも最終的な意思確認が義務付けられます。

安楽死プロセスの詳細は筆者が専門外の医学の話になるので、省きますが、はじめに麻酔で眠らせ、「いざ」という時の不安やパニックを防止するような措置が採られるようです。

こうした一連の安楽死対応をする部署は通常、「タナトロジー・センター」と呼ばれています。タナトロジーとは「死生学」を意味する英語由来の外来語で、ここでは医学的な「臨床死生学」を意味しています。

同センターは、安楽死のほか、患者が意識不明状態にある場合の「尊厳死」の是非を判断する役目も負っており、安楽死の施術をする麻酔科医に加え、タナトロジー専門の精神科医、内科医が常駐し、さらに看護師、カウンセラーといった支援スタッフも常勤するかなり大きな部署です。

安楽死自体は23世紀現在、ほぼ全世界中で認められているそうですが、日本の安楽死法はその中でも相当に厳格な部類に属するといいます。ここには、かつては安楽死に否定的だった日本社会における死生観がなお一定投影されているのでしょう。
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by komunisto | 2015-11-21 09:16 | 衛生
2215年11月15日

23世紀人の思考法の特質について、自身と比較してあれこれと思いをめぐらせることが多いのですが、最近気のついた23世紀的思考法として、良い/悪いという善悪二元論的な思考をしないことがあります。このことは、21世紀から飛んできた筆者にとっては一種のカルチャーギャップとなっています。

実際、私は23世紀の知人から「きみは良い/悪いという発想をしすぎる」と苦言を呈されたことがあるのですが、このように何でも良い/悪いという二元定式にあてはめて物事を判断しようとするのは、おそらく21世紀―というより、専ら20世紀に生育した旧人の発想の癖かもしれません。

もっとも、用語のうえでは「良い」と「悪い」という単語は残されていますが、23世紀人は「良い」という言葉を道徳的に「良い」ではなく、「適切」とか「合理的」という意味で用いることが多いようです。他方で、「悪い」という単語はあまり使われず、「良い」の否定形「良くない」が使われます。これも、先ほど言った意味の反対、すなわち「不適切」とか「不合理」というニュアンスです。

前回ご報告した自殺論でもそうですが、自殺は「悪い」という価値観は希薄で、自殺は心の病の「良くない」症状とみなすという考え方も、こうした23世紀的思考法の適用例と言えます。さらには、他殺行為のような旧人的感覚では「悪い」ことでも、23世紀人はそのように断じません。

以前のたよりで、23世紀には刑罰制度が存在しないことをご報告しましたが、それは本稿の問題関心から言えば、犯罪を「悪い行為」として処罰するという発想が存在しないことを意味します。犯罪行為は逸脱行為ではあるものの、社会の歪み・欠陥が反映された一種の社会病理現象としてとらえ、個人の矯正とともに、社会の改良の手がかりとするという考え方が定着しているのです。

こうした発想は文化の面にも反映されていて、善人が悪人をやっつける勧善懲悪的なドラマのような創作はほとんど見かけません。かつての勧善懲悪ものは、古い時代の価値観を反映した古典作品として、鑑賞よりも学術的な分析の対象とされています。

良い/悪いという二元論的発想では、「悪い」と判定されたものは排斥・攻撃されることを予定していますから、良い/悪いの判断基準が異なる個人間・民族間・文明間では衝突が起きやすくなります。そちら21世紀が直面しているテロリズムもそうした衝突現象の最も憂慮すべき例なのかもしれません。
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by komunisto | 2015-11-15 10:49 | 思考
2215年11月9日

以前のたよりで、23世紀の世界では自殺者数が顕著に減少していることをご報告しました。とはいえ、日本でも年間7000人ほどが自殺しています。このように希少な現象となった自殺について、23世紀の価値観ではどのようにとらえられているのか、気になり、調べてみました。

すると、自殺という行動は鬱病など心の病気の症状とみなされる傾向が強いことがわかりました。このような医学的自殺論は、すでに20‐21世紀中から有力化し、精神保健的な自殺予防策の取り組みなどありましたが、めざましい成果を上げているとは言えませんでした。

当時、私などは、生きていることが死ぬことより辛い情況下では、最後の最後のエスケープ手段として自殺も容認せざるを得ないのではないかとさえ想念していたのですが、このような自殺容認論は23世紀人には無縁のようです。

たしかに貨幣経済が廃された安心の23世紀的共産主義社会では、生きていることが死ぬことより辛い情況などなかなか想定できません。このことは、21世紀の社会に生き辛さを痛感していた筆者にもはっきりと感じ取れます。

また、政治的な抗議としての自殺というものもあり得ると考えられますが、23世紀にはこのような現象も見られません。民衆会議を通じた民主的な政治制度が根付いているため、自殺をもって抗議しなければならないほど深刻な不条理は存在しないからでしょう。

このようにして、23世紀の生き易く、公正な社会で自殺を企図するのは、やはり何らかの心の病気のせいだということになるのです。といっても、特別な「対策」を要するほど自殺者は多くないので、「自殺予防」などという用語も特に聞かれないのですが。

その一方、医療化された自殺とも言える安楽死が認められているのです。病院に安楽死を専門にする部門まであることには驚かされます。これはどのような価値観によるものなのか、またどのようなプロセスで安楽死が実施されるのか、別の機会にこの問題についてご報告しようと思います。
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by komunisto | 2015-11-09 09:04 | 死生
2215年11月3日

今日11月3日は、そちら21世紀の日本ではまだ「文化の日」ですね。まだと言ったのは、こちら23世紀の日本では11月3日はもう祝日ではないからです。以前のたよりでもご報告したように、23世紀の公休日は春夏秋冬ごとの大型バカンスを基本としています。

ともあれ、旧「文化の日」の恒例行事は文化勲章授与式でした。実は、23世紀の世界にはこうした叙勲の制度も存在しないのです。勲章目当てに頑張っている方は消沈するかもしれませんが、世界革命は一代限りの勲章という制度も廃止に導きました。

例えば、日本領域圏の憲法に相当する憲章には、「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、これを行なわない。」とあります。ちなみに、旧憲法(そちらでは現憲法)では、「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」とされていました。両者比較すれば、違いは一目瞭然です。

この規定のおかげで、現在では文化勲章のような学術・芸術的な叙勲だけでなく、政治や行政、経済などの分野での功績を理由とした叙勲も廃止されているわけです。

叙勲とは君主が臣下に栄典を与えることで、元は世襲であったのが、民主化が進むと一代限りの栄典となり、そしてついに一代限りの栄典すらも廃止となったのです。漸次身分制が廃止されていった時代の流れとも言えるでしょう。

では、文化勲章に相当するような賞は一切存在しないかと言えば、そうでもなく、学術団体ないし芸術団体が高い功績を上げた学者や芸術家に授与する賞があり、そうした有力な賞の受賞者はかつての文化勲章に匹敵する栄誉を得ているようです。

学術や芸術分野の業績の表彰は本来、国や公共団体が政治的・行政的に行なうよりも、各専門団体がその専門的な知識・経験に基づいて自主的に行なうのが最も正確かつ公正なのですから、このような23世紀的な表彰のやり方は、大いに合理性があるように思われます。
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by komunisto | 2015-11-03 13:58 | 文化