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2216年1月30日

23世紀に飛んできて、助かったことはいろいろありますが、押印という慣習が消滅していることはその一つです。23世紀の日本人の多くは、ハンコ(判子)という単語をご存知ありません。

ハンコ慣習の廃絶で私が助かるのは、押印が苦手だったからです。まっすぐ綺麗に押印できず、印章の鮮明さが要求される文書の場合、恥ずかしながらしょっちゅう突き返されていたのでした。

私が旧世界にいた最後の頃、すなわち21世紀初頭の時代には次第に押印慣習が廃れ始め、押印省略・サインのみで可という場面が増えていましたし、サインも電子サインの導入が始まっていました。ですので、23世紀の押印廃絶はそうした証明行為の現代化の延長上のことと考えられます。

23世紀の証明はサインのみですが、直筆ではなく、電子サインです。指ではなく、電子サインペンを使って画面に署名します。私の記憶では21世紀初頭ではまだ電子サインシステムが導入されていなかった郵便局の配達でも、現在は配達員が電子サインに対応する端末を携帯しています。

ただし、例外があります。一つは公印と呼ばれる公的機関や企業体の言わばハンコです。これは、組織ごと個別に所持され、組織発行の正式な文書には必ず押印されます。この限りではハンコの制度が残されているわけですが、これは個人のハンコとは異なる組織のお印です。

もう一つの例外は、例えば法廷に提出される可能性のある文書のように、高度な証拠価値を要求される文書については、作成者の指紋を押すことが義務付けられていることです。これを「押紋」と呼びます。押紋の手続きは通常、証拠提出時に裁判所などの司法機関で行なわれます。

ここまで来ると、ハンコのほうがまだましのようにも思えてくるのですが、23世紀の人たちは存外平気のようです。おそらく個人情報保護のレベルが極めて高いことによる安心感なのでしょう。
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by komunisto | 2016-01-30 11:44 | 社会
2216年1月23月

そちらでは廃棄食品の横流し事件が大きな波紋を呼んでいるようですが、こんな話は23世紀の現在ではあり得ません。なぜなら、現在では消費も計画経済によって適正にコントロールされているからです。

問題になっているような日常食品は、23世紀のシステムでは、消費事業組合と呼ばれる公的組織が一括して分配します。消費事業組合は地方圏(例えば東海地方圏や東北地方圏等々)ごとに設置される協同組織ですが、同時に消費計画機関でもあります。

消費事業組合は、その管轄地方圏の住民なら自動的に加入する仕組みで、住民権の中に組合員資格も組み込まれています。最高議決機関は組合員総会ですが、組合員数が多いため、総代制度が採られています。

消費計画案の策定は第一次的には事業組合の計画委員会が行ないますが、消費計画は中央における3か年計画を参照しつつ、毎年更新される1年計画として策定されます。基本的に地産地消主義のため、地方圏住民の世帯数を基準に日常食の生産量や製品概要が決められます。

製品開発に当たっては、組合員でもある消費者からの企画も募集され、環境や健康に配慮しつつ、栄養士や調理師も加わった開発委員会―その内部は製品の種類ごとに分かれていますが、食料品は食品部が担当―で決定されます。

計画委員会が策定した計画案は組合員総会に上程、審議の末承認されれば、最終的に地方圏の議会に相当する地方圏民衆会議に付託され、承認審査を受けます。そこで承認されれば、諸費計画が正式に発効します。その後、消費計画に基づき、消費事業組合と提携する生産協同組合に委託して生産がなされます。

このように厳密な計画の下に食料品を含む消費財の生産・分配がなされるため、廃棄物も最小限に抑えられ、また廃棄・リサイクルのプロセスも計画的にコントロールされますから、横流しの余地もメリットもありません。

とはいえ、以上はあくまでも冷凍などの既成食品に関するものですが、23世紀の社会では既成食品は比較的消費期限の長い保存食的なものに限られています。社会の仕組みの変革により、食品は再び第一次的な食材を使って各家庭で料理する古来の食習慣が復活してきているので、そちら21世紀ほど既製品に依存していないのです。

というわけで、廃棄食品横流し事件は、料理をしなくなった既製品依存かつ過剰生産の飽食社会という、ある意味では資本主義的な食の異常が引き起こした不祥事でもあると言えるのではないでしょうか。
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by komunisto | 2016-01-23 11:00 | 経済
2216年1月16日

そちら21世紀の日本では、そろそろ大学入試センター試験の季節ですか。最近は様々な電子機器の発達により、いわゆるカンニング防止策も細かく規定されるようですが、23世紀のこちらでは、そうした状況は一変しています。

以前のたよりでもご報告したとおり、そもそも大学という制度が存在しないので、当然大学入試もないのですが、試験という制度は校内試験から各種資格・免許試験まで種々あります。それらの試験では、程度の差はあれ「カンニング」が許されています。つまり、資料の参照が認められるのです。

これは、試験の意義が旧世界とは大きく異なっているからです。旧世界の試験は一定の膨大な事項を暗記して、与えられた問題に解答する能力を問うということで一致していました。ですから、ほぼ例外なく資料の参照は厳禁され、無断で参照資料を持ち込むことは「カンニング」として取り締まられたのです。

旧世界の試験は暗記力試験でした。ですから、試験直前には必死で詰め込み勉強をした苦い思い出が筆者にもあります。23世紀人にとっては、信じ難い話です。おそらく21世紀人にとっても『論語』完全暗誦のような前近代の暗誦教育は信じ難いものだったでしょうが、試験では基本的に暗記力を試していた点において前近代と近代とで変わりはなかったのです。

これに対して、23世紀の試験は考察力試験です。つまり、参照資料をもとに各自で考察すること、問題に解答するよりも、問題を発見することに主眼が置かれます。ですから、いかなる試験でも参照資料が与えられます。

ただし、参照資料が予め許可されたものに限られる場合や、出題当局側が試験場で配布する資料に限定されたりすることはあり、そうした場合に無許可資料を持ち込むことは禁じられますが、そのような限定参照型試験は代議員免許試験や高度専門職試験のような公的な免許・資格の取得に関わる試験の特例です。

こうした現象は大きくとらえれば、教育観の変遷によるものでしょう。時代が進むにつれて、何かを暗記することよりも、考察することが重視されるようになっていくのです。これは暗記ということに関して、人間の脳は電脳に全くかなわなくなってきたことにもよると考えられます。

こうして、「カンニング」という俗語も現在では死語となりました。23世紀的試験観による限り、「カンニング」は試験における正道であって、参照を一切許さなかったかつての試験こそ暗記力偏重の邪道ということになるのです。
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by komunisto | 2016-01-16 13:50 | 教育
2216年1月9日

23世紀の世界では、これまでにもご報告してきたように、様々な事物が革新されていますが、200年前と比べてあまり進化していないように見えるのが、自動車でしょうか。

旧世界にいた頃、未来社会を描いたイラストやSF映画にも出てきた空中浮揚自動車に憧れたことがあり、200年後の23世紀世界では見られるかと期待したのですが、やはりあのような技術は実用化されていませんでした。

私がいた21世紀初頭にはまだ試作段階で、将来の普及が想定されていた「自動」自動車も普及していないどころか、自家用車については道交法で自動運転が禁止されています。この点は、電車が原則自動運転化されていること(過去記事参照)と比較して対照的です。

「自動」自動車は交通事故減少に寄与すると言われていましたが、検証の結果、電車のように定められた軌道上を走行しない自動車ではオール自動化は困難であるところ、運転者の手動運転の経験が不足することでかえって手動運転時の危険が高まることや、システム不具合への対処が素人の運転者では困難であることが考慮されたそうです。

一方で、長距離バスのような公共交通に投入される大型車は自動運転システムが導入されているのですが、この場合も訓練された職業運転手が必ず乗務し、必要に応じて手動運転への切り替えがいつでも実行できるように備えられています。

こういうわけで、自動車は以前のたよりでご報告した水素自動車の普及以外、特に大きな革新は見られず、外見上は旧世界と変わりありません。

しかも、これも以前のたよりでご報告したように、23世紀は車社会ではないので、自動車の台数が大幅に減少していて、自動車という乗り物自体、旧世界の産物とみなされているのです。
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by komunisto | 2016-01-09 12:47 | 社会
2216年1月2日

私がまだ21世紀にいた頃、新年早々から撃ち合い場面の多いドラマを観せられてげんなりしたことがありました。あの頃の映画やドラマでは、撃ち合いは定番の演出的な要素として製作者の頭に刷り込まれていたようです。

一方、23世紀のドラマや映画を観ていて気がつくことは、撃ち合い場面がないことです。検閲とか自主規制によってそうなっているのではなくて、そもそも製作者の念頭に銃撃戦というものがインプットされていないからです。

それもそのはず、23世紀の世界には、軍隊も兵器も存在せず、戦争という行動も過去のものですから、23世紀人には戦闘という場面が思い浮かばないのです。また以前ご報告したように、警察さえも廃止の潮流にあります。

そもそも武装強盗とかテロのような武装犯罪がないので、制圧に際して武器を使用する必要性もないのでしょう。かつては世界最大の銃社会であったアメリカも現在では銃とは無縁の社会です。これも銃規制によってそうなったというより、犯罪の激減が銃の必要性をなくし、銃規制を後押ししたのです。

アメリカでも地方では警察が廃止され、まだ警察が存続している大都市圏でも、警察官は少なくとも日中、丸腰で勤務することが多いと聞きます。革命前のアメリカ人には信じ難い光景でしょう。

ちなみに、有名なハリウッドはいまも映画製作の聖地であり続けていますが、ハリウッドが所在するカリフォルニアはもはやアメリカではなく、アメリカから分離し、メキシコと合併してできたアメヒコに属しています。
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by komunisto | 2016-01-02 09:56 | 文化