選挙カーから発せられる“大きな音”を聞かされるにつけ、政党というものの空虚さを体感する。同様に感じる人は少なくないらしく、各種世論調査でも、支持政党なしのいわゆる「無党派層」は増大の一途である。

おそらく、かつては民主主義の代名詞とも言えた政党政治そのものの消費期限が過ぎているのだ。そう結論せざるを得ないほど、近年の政党政治は劣化が進んでいる。

そのことを「民主主義の危機」として不安視する見方もあろう。たしかに「強いリーダー」待望論のような形で、指導者の鶴の一声で動く権威主義的な独裁政治への憧憬がじわりと生じてきている気配はある。

それはたしかに危険であるが、政党政治の終わりは決して民主主義の終わりを意味しない。むしろ、政党政治という形態こそ、民主主義の過渡的産物にすぎなかった。政党政治は世襲を基本とする古来の王侯貴族政治を克服し、政党を媒介して政治参加の枠を拡大した歴史的な功績を持つ。

しかし、今では政党こそが政治参加の枠を狭めていると言って過言でない。政党政治とは裏を返せば、政党にコネクションのない者を政治の中心―議会―から遠ざけ、単に定期的に投票するだけの周縁的存在へと追いやる仕組みだからである。

こうした政党政治の終わりは、政党なき民主主義の地平を開拓するチャンスでもある。すなわち、政党に媒介されない民主主義の制度が新たに発明される可能性が眼前に開けているのだ。

発明という言葉は政治の世界ではなじみが薄いが、本来、政治制度は鉱脈のように「発見」するものではなく、機械のように「発明」するものである。政党や議会といった諸制度も、元をただせば近代の政治的発明物であった。

政党なき民主主義の制度は、政治を政党が選抜する職業政治家に委任するのでなく、政治すなわち自分たちが住む社会の運営を自分たちで処理するような仕組みとなるはずである。ただ、それは現実的に不可能な「直接民主制」ではなく、代議制の仕組みを継承しつつ、それをより「直接的」なものに練り上げていく方向に行くだろう。

増大する「無党派層」を最終的に独裁政治に絡め取られる羊の群れではなく、新しい民主主義の政治的発明家集団とするためにも、政党政治を民主主義の唯一の方法であるとみなすような狭い政治学から脱却することが急がれるのである。
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家族の介護をしていて不便なことの一つは医療である。要介護者には多重的に疾患が現れる。そのため臓器・疾患別の縦割り診療では病院を何箇所も回る必要があるが、足腰の弱った要介護者をあちらこちらの病院へ連れ回すのは容易なことではない。

高齢者医療は成人医療の一環ではあるが、それは一般的な成人医療の単なる延長ではない。子どもに関しては子ども特有の疾患を横断的に診療する小児科があるように、高齢者を横断的に診療するワンストップ的な「老年科」があって然るべきではないだろうか。

介護者が望む「老年科」とは、内科(認知症を扱う神経内科を含む)を軸に、要介護者の大半が何らかの関連疾患を持つ整形外科、高齢になると意外に悩む人の多い排尿障害に対応する泌尿器科領域もカバーする診療科である。 

その他眼科や精神科といった「老年科」の枠内ではカバーし切れない領域でも、高齢期特有の疾患については暫定的な診断と適格な専門医紹介ができることも「老年科」の条件となる。

さらに、高齢者が避けて通れない終末期医療も「老年科」の重要な任務である。それとも関連して、通院困難な患者向けの在宅診療に対応する体制が常備される必要もある。

こうした「老年科」はそれ自体が一個の専門診療科でもある。特に認知症が進行すると、患者自身は言葉で症状を説明できなくなるため、老年科医には小児科医並みの直観力も必須で、老年科医は決して片手間ではできない仕事である。

しかし、すでに老年医学の専門家で構成する老年医学会は存在しており、本格的な専門医養成が可能な条件がなくはない。むしろ「学会あって診療科なし」という現状は、小児医学会はあるが小児科はないという状態と似て、奇妙である。

介護は医療と切り離せない。こうした「介護と医療の連携」はスローガンとしてはかねてから言われているが、内実は乏しい。「老年科」があれば、ケア・マネージャーを中心に介護と医療を実際につなぎやすくなるだろう。

ワンストップ型の効率的な「介護‐医療連携システム」は、日本社会が超高齢社会に突入した今、増大する医療・介護費の節減にもつながる必須の社会的インフラである。 
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環境問題・エコロジー関連のキーワードとして定着している「持続可能性」という理念について、筆者はかつてここに現存社会体制の保守という含意を読み取って忌避していたが、現在ではそうした誤解を解いて受容している。

しかし最近、また別の観点から懐疑が頭をもたげてきた。それは要するに、地球の生命自体が永遠不滅ではあり得ないのに、「持続可能性」を云々することにどんな意味があるのだろうかという疑念である。

筆者はいわゆる終末論の信奉者ではないが、地球が包摂される宇宙自体が、遠い未来には電子、陽電子、光、ニュートリノといった物質だけの世界―いわゆる「冷たい宇宙」―に変貌し、地球上に生命体が生存する余地がなくなってしまうという宇宙物理学的な予測がなされている。

そこまで至る前にも、地球が属する太陽系の宗主である太陽の寿命が尽きてしまうとの予測がある。太陽が死滅すれば、人間を含め太陽光に依存する生命体も死滅するであろう。

こうした「科学的終末論」を考慮すると、「持続可能性」という理念は再考を要するのではないかと思えてくるのだ。

もちろん、しょせん地球には終わりが来るのだから、未来のことなどお構いなく、今のうちに地球環境を思う存分食い尽くしてしまえというわけにはいかない。

予測されている「冷たい宇宙」の到来も、それは10の何十乗というまさに天文学的遠未来のことだし、太陽の死滅も50億年くらい先のこととされるから、「持続可能性」とは、せめて地球自体の物理学的な終焉が訪れる以前の近未来のうちに、地球環境を人間が蕩尽してしまうことのないようにしようとの理念ということになろう。

「無限」は数学上の観念としてはあり得ても、現実にはあり得ない。地球環境は無限ではないが、その持続性も決して無限ではない。そうした有限の地球環境の有限の持続性を確保することが「持続可能性」であると考えてみたい。
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かつてメディアと言えば、マス・メディアの代名詞であり、実際、マス・メディアは情報社会で圧倒的な支配力を持ち、一種の帝国を形成してきた。

インターネット時代にあっても、マス・メディア自身がネット上に進出しており、その支配力はなお過小評価できないが、マス・メディアの帝国には翳りが見えることもたしかである。

現在繁茂しているのは、ネット上に展開されるパーソナル・メディアである。これはブログやツイッターの隆盛に伴い、爆発的に増加してきた。

こうしたパーソナル・メディアの特性は、組織体であるマス・メディアとは異なり、組織的なしがらみが何もなく、自己編集権を行使してありとあらゆることをテーマとし得ることにある。しかも神出鬼没のゲリラ的活動形態であるがゆえに、完全な権力的抑圧は技術的に困難である。

反面、パーソナル・メディアの圧倒的主流である電子媒体が情報通信資本に依存しているため、運営企業の動向に左右されるという不安定さは否めない。また、運営企業の規約にも拘束されるため、規約を通じた間接的な抑圧の余地は残る。

また、パーソナル・メディアは内容上も玉石混交で、明らかな誤りが訂正されないまま放置されたり、社会性を失い、完全に個人的な内容に終始したりすることもしばしばある。

こうしたマス・メディアとパーソナル・メディアの中間にあるのが、フリー・ジャーナリストらで結成するパブリック・メディアである。その存在形態は独立系通信社のような形が主流であるが、ネット上だけで活動する形態もあり得る。

これは組織ではあるが、権力と資本の翼賛化が進行するマス・メディアが意識的に無視する社会事象に対して、パーソナル・メディアにはない専門的取材力で切り込んでいく点に特徴がある。それだけに権力的に抑圧されやすく、記者が生命を奪われることすらある。日本のジャパンプレスに所属するジャーナリスト山本美香氏がシリア内戦取材中、シリア軍と見られる武装部隊に銃撃され、死亡したのもそうした事例の一つであった。

また、こうしたパブリック・メディアはマス・メディアのように商業資本として大衆向けに商品としての情報を売って儲けるのではなく、公共の利益に奉仕することを目的とするため、資本主義社会では経営面の難しさがあり、まだ少数にとどまる。しかし、マス・メディアとパーソナル・メディアの間をつなぐメディアとして、今後増加が期待される。

以上の三種のメディアは相互に孤立ないし対立し合うのでなく、それぞれの特性を生かして情報社会の憲法である「情報の自由」のために共闘できるし、そうでなければ「情報の自由」は画餅に帰するだろう。
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今年のノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥氏が若者向けに発した「失敗のすすめ」のメッセージがちょっとした波紋を呼んだことがあった。世間的に見れば社会的な大成功者である学者の発言だけに、耳目を集めたのであろう。

ただ、この発言に対しては「一度失敗すると再起の難しい日本社会で、若者に安易に失敗をすすめるべきでない」といった批判も向けられたようである。 

たしかに日本社会における再起の困難さは、事実である。とりわけ受験(入学試験のほか、国家試験等の受験を含む)と就職という人生の二大関門での失敗は取り返しのつかない結果を招きやすい。こうした傾向は、戦後改革で「法の下の平等」がうたわれて以降、それまでの「身分・出自」に代えて「学歴」・「職歴」がステータス・シンボルとなって生じた現象と言えよう。

この点、山中氏自身は医師・医学者であり、現代の学歴・職歴社会では特権的な階層に属する成功者である。ただ、自伝によると最初に就いた整形外科医としては「失敗」し、基礎医学の道に転じ、当時はまだ空想的と見られていた再生医学のマイナー分野で苦労した末、数年前に画期的発見にたどり着いて一躍ノーベル賞受賞者となったことは、失敗からの大逆転と言えなくはない。先の発言もそうした自己の経験から出たものなのであろう。

ただ、こういうレベルでの「失敗」であれば、後からでも挽回がきくというわけだ。人生設計上再起不能な失敗に見舞われた人から見れば、贅沢な「失敗」と言え、氏の「失敗のすすめ」がかえって“上から目線”の説教に聞こえたかもしれない。 

社会の機構化が進展した現在、人生設計も画一的なエスカレーターとなりがちであるのは、ほぼ世界共通現象である。簡単に言えば、この世に生まれ出た人の大半は、学校を経た後、資本に雇われて労務を提供して生活するしかない。人生とは、少しでもましな資本に雇われるべく、狭いエスカレーターに乗り込む競争である。

そうした人生のエスカレーターから脱落したり、乗り遅れたりすれば、社会の周縁に追いやられてしまう。これが、現代的な意味での「失敗」である。

だが、エスカレーターに身を任せた画一的な生き方が、果たして本当の意味での人生経験と言えるのであろうか、と反問してみてもよいかもしれない。

もしも「今日における経験の主要形態は没落であり倒産であり敗北であり失敗である」(藤田省三)とすれば、「失敗」という「経験」から意外な道が開かれる可能性も十分に残されているのではないだろうか。
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以前、NHKの番組だったと思うが、時間割も生徒が自由に決められるというオランダの小学校が紹介されていた。その雰囲気はまるでフリースクールである。

学校と言えば、教室に座り姿勢を正して予め定められた時間割に従い授業を拝聴するということが常識の日本人には軽い衝撃であった。

ただ、学校という制度は本来、子どもにとっては自由を抑圧される環境であって―日本語の「放課後」という用語はその反映である―、一種の「子ども収容所」であることは、欧米でも変わらない。

これに対して、かつてイリイチらが「脱学校化」を訴え、非制度的なフリースクールの普及に一役買った。だが、オランダの例などを見ると、「脱学校化」が当の学校現場で試みられているかのように見える。「学校の脱学校化」と言ってもよい。つまり、学校の枠組みは残したまま、学校をフリースクール的に再構築するのである。

その点、正規の学校とフリースクールを二元化し、学校脱落者をフリースクールで救済するという発想では、正規の学歴で社会的地位と生活水準が決まる知識階級制を強めるだけであろう。従って、知識の平等化のためには、学校というある種の補償制度は欠かせない。だが、その学校は生徒の自発性を最大限尊重する脱学校的な場であってよい。

とはいえ、日本ではそうした発想自体がなかなか広まらないのは、学校を国民統制の場とみなす古い考えを捨てない文科省・歴代保守政権が掌握してきた統制的な学校教育の“成果”なのであろう。

学校教育の根本的な変革を考えるなら、何を標的とすべきか、じっくり熟考してみる必要がある。少なくとも、それは日教組・教委叩きといったレベルの話ではないはずである。 
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万国の動物よ、団結せよ!というわけではないが、「動物の解放」ということを冗談でなく真剣に考えてもよさそうな時期に来ている。

この点で注目されるのは、最近の動物愛護管理法改正で、ペットショップなどでの犬猫の夜間展示が禁止されるようになったことである。その理由の一つとして、動物の展示ストレスが挙げられている。

しかし展示ストレス、つまり「見られる」ことによるストレスは、動物園などでの昼間展示でも同じではないだろうか。そうではないというなら、一度人間も動物園で「展示」されてみるとよい。おそらく多くの人が多大なストレスを感じるのではないだろうか。人間以外の動物は下等なので、ストレスなど感じる能力はないなどというのは、人間の傲慢な憶断であろう。

というわけで、動物の展示ストレスに配慮するなら、動物園自体の廃止―水族館もこれに準じる―を真剣に検討してみるべきである。

たとえ展示ストレスが認められなくとも、愛玩用や食用に特化しておらず、一般に野生で生息することを原則とする動物を拘束して集団飼育することは動物の本性に反することであり、ある種の「動物権侵害」と言ってよい。そういう観点からも、動物園という制度は再考すべき時に来ている。

折から、動物園は一部の人気園を除き、来園者減に直面しているというだけに、制度自体の可否を検討するに適する時期でもある。

動物園廃止といっても、それは動物園を完全に閉鎖することを意味しない。すでに多くの動物園が副次的任務として実践しているように、希少種の保護・繁殖や傷病野生動物の救護をむしろ主任務とする「動物保護センター」として新装するのである。これは、生物多様性が地球環境問題の主要テーマとして国際関心事となっている時代にも沿う変革であろう。

ちなみに、こうした保護センターは動物園のような展示はしないが、活動内容の公開の一環として、保護動物の写真や動画を配信することは認められてよいであろう。

動物は自らの解放のため、団結することはできないが、動物の解放のため、人間が団結することは可能である。
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近年、一人きりで食事をすることを「孤食」としてマイナスに受け止め、「共食」をよしとする議論が聞かれる。

共食主義と言えば、古代共産主義的な「共同食事制」が想起されるが、今、共食を称揚する人たちはとうてい共産主義者とは思えない。むしろ、かつての大家族や地縁共同体を理想とみなす復古主義者が多いように見える。

だが、食ほど個別性の強いものもないのではないか。嗜好、容量に始まって、病気による食事制限まで、何をどれだけ食べるかは万人万色である。場合によっては、人と同じ物を食したことで、アレルギー発作等により生命を落とすことさえある。

となれば、食生活は「弧食」ならぬ「個食」が基本であってよい。ただ、大学の個室トイレにこもって独り食するという学生の話は寂しいが、食に適した場所で個食することに少しも後ろめたい点はあるまい。

もっとも、各自が個別のメニューで会食するという方法もあり、そういう「共食」なら当然あってよいだろうが、会食となるといきおい同じ物を食べないと気が引けるもの。会食で無理して嫌いな物にお付き合いした経験のある人は多いのではないだろうか。

とはいえ、家族間では皆で食卓を囲むのが本来の姿で、「家族=食の共同体」と定義しても過言でないほどだ。しかし、現代では自宅でも「個食」となることは珍しくない。

家族の食事時間が合わないのは、労働時間の外延的延長をもたらす資本主義的搾取労働の結果という側面も大きいので(特に日本)、そこにメスを入れない限り、根本的な解決にはならないだろう。

ただ、家族間でも毎日食卓を囲む必要はなく、家族だけの「記念日」や正月などの節目に集まって共食すればそれでよしとする現実的な考え方もあり得るかもしれない。

いずれにせよ、個食か共食かを二者択一と考える必要はなく、食とは「個の尊重を基本とした共同性」という社会的な問題系の中に位置づけられるべきテーマである。
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家族の在宅介護を男一匹で担う生活に入って約1年になる。この間、慣れない家事・介助による心身の疲労は10キロ以上の自然ダイエット効果をもたらしてくれたほどであるが、そういう苦労話は本意でない。

とはいえ、介護に休みはないので、こうした(超)少子(超)高齢社会を地で行く在宅介護を無理なく実現するには、終末を迎えるまで介護・医療にまたがる365日・24時間支援サービスが不可欠である。しかし、現状はお寒い限りだ。

制度としては、数年前からの健康保険による24時間在宅診療に加え、本年度より介護保険サービスとしての24時間訪問介護も発足してはいるが、担い手は決定的に不足しており、かつ地域間格差も著しい。

それもそのはず、24時間サービスという過酷な業務を民間事業者や開業医に丸投げしているからである。かれらは本質的に介護ないし医療サービスを有償の商品として提供する商人であるから、社会保険上の制約はあるにせよ、どのようなサービスをどこで提供するかということに関しては全くの自由である。

当然、24時間の過酷なサービスを365日提供できるような開業医を含む民間人・事業者は少ないし、やるなら一定以上のニーズと雇用人員の見込める人口の多い都市部で、ということになる。結果、地方の小都市や過疎地ではそうしたサービスの恩恵にはなかなか与れない。

こうして在宅介護は絵に描いた餅となり、ありていに言えば、在宅介護とは有料の「優良」な豪華老人ホームで余生を過ごす余裕のない無産階層が強いられる家族を巻き込んでの労苦であるということになってしまうのだ。

こうした状況からの出口は一つ、公的責任介護制度の創設である。特に24時間サービスは民間任せでは無理で、自治体を中心とする公的団体が十分なスタッフを配置して当番のチームで対応しなければ安定的・均一的に提供できない。

よって、自治体の財政難を口実とした介護サービスの民間丸投げ・ビジネス化の隠語にすぎない「介護の社会化」という旗に代えて、「介護の公的責任化」という理念を打ち出す必要があるし、日本では数少ない公立の診療所―デイケアやショートステイ機能を伴っていれば理想的―を増やすこともしなければならない。

派手な言葉だけの“維新”などではなく、こうした実のある社会改革の成否こそ、日本社会の将来像を大きく左右するだろう。残念ながら、現状、成功は全く望み薄であるが。
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反原発を訴える金曜デモが恒例となった。このデモが注目されるのは、これまでデモのような政治行動には無関心であった多数のノンポリ市民の参加が見られるからである。

それは、従来型のデモとは異なり、順法的かつお祭り的な要素があって、参加しやすいからだと言われる。それはこのデモの長所であると同時に、そこに落とし穴も認められる。

問題は今のところ、当局はデモを恐れていないということだ。当局にとってデモはせいぜい大きなノイズとしか認識されていない。これは合法デモに共通する限界である。

デモが民衆の意思表示として当局に圧力と感じられるのは、非合法デモの場合である。デモに対する弾圧を恐れない民衆の姿勢に当局はパニックに陥るのだ。より広く見れば、合法デモを含む順法闘争全般に、こうした威力の欠如という限界が内在する。

だからと言って、金曜デモが無意味というわけではない。ただ、これをデモで終わらせずに、政治集会―一種の民衆大会―に発展させたい。そのためにはシュプレヒコールを叫ぶのみならず―その点では、金曜デモも従来型デモの要素を引きずっている―、討議の場も設ける必要がある。

実際、原発問題は単に発電手段としての原発の是非という技術問題にとどまらず、原発への依存・執着を本質的には断ち切れない資本主義生産体制そのものの是非、さらには原発政策の秘密性・操作性をもたらす議会制民主主義の限界といった諸課題へつながる広大なテーマである。

そうした根本的な問題の討議は、もはや国会を頂点とする議会という場では不可能である。それは民衆自身による討議の場で初めて可能になる。金曜デモが「金曜集会」となれば、議会制を超える新しい民主主義の萌芽となるかもしれない。
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「社会的起業」が世界的ブームという。これはバングラデシュのマイクロファイナンス、グラミン銀行が2006年度ノーベル平和賞を受賞したことの影響でもあろう。

こうした「社会的起業」が興味深いのは、資本の形式によりながら、蓄積を目指すのではなく、福利を目指すという点にある。蓄積でなく福利を目指すのは実質上慈善であるが、「慈善」そのものとしてではなく、「資本」としての要素は残しておく。

こういう新しい形態の資本現象をどう見るかは微妙だ。資本主義内部に生まれた資本主義を超克する内在的な変革の動きとして積極に評価すべきか、それとも慈善をすら資本に従属させる新自由主義的な資本主義の肥大化と見るか。

現状ではその両評価を両睨みするしかなさそうだ。結局は起業者自身のスタンスの問題である。意識的に資本による資本主義の超克を目指すのか、それとも慈善のビジネス化を狙っていくのか。

前者であればある種の変革者であるが、社会的企業資本は形式上資本である以上、資本主義の鉄則を無視し切れない。結果、慈善のビジネス化につながる恐れは大きい。とりわけ、労働搾取の問題である。

慈善自体が資本主義の渦中で実質上資本化している例は、日本の「社会福祉法人」や「医療法人」のビジネス的実態にも見られるところである。社会的企業資本はもっと大きな確率で労働搾取による利益追求に走る可能性を否定できず、その未来性を過大評価することには慎重であらざるを得ない。

とはいえ、富裕層の自己宣伝目的の偽善的“慈善”ではない「社会的起業」による福利という道が開けてきていることは、未来先取り的な新しい経済現象として注視するに値するだろう。
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ブログ書きを「職業」と決めて1年余り。この間、ブログ執筆を反復・継続的な「仕事」にしてきた。 

今、ミニブログの性格を持つツイッターによる発信を含めれば、同様の活動をしている人は内外に無数に生まれており、ブロガーはデジタル時代が生んだ最新の「職業」であると言ってよいだろう。

しかし、「世間」ではなかなかそうは認めてくれない。「世間」の常識では一定の「仕事」をして「報酬」を受け取っていない限り「職業」とはみなさないからだ。筆者もブログ収入はゼロ。これではブロガーを「職業」としては認められないだろう。マスメディア‐警察流に言えば、「自称ブロガー」だ。

「世間」など放っておけばよいという毅然たる意見もあろうが、人間とはその名のとおり、「世間」で生きている動物であるから、「世間」から認知されるかどうかは、生活に直結する。無報酬ブロガーのままでは、ブロガーとしての将来自体が危ういのはたしかだ。

だが現状、ブログを有償化すること、すなわち自作記事を商品化することは、一部専門家などが専業ブロガーとしてではなく、副業的にブログ発信をしているケースを除き困難であるから、ブロガーは基本的に無報酬の「職業」であり続けるだろう。

従って、ブロガーはすべてが商品中心に回る資本主義とは不調和な「職業」なのだ。我田引水的に言わせてもらえれば、ブロガーは来る共産主義社会で確立を見る未来型職業と言えるかもしれない。
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