2216年4月9日

23世紀の薬局の外来語は、英語のドラッグストアではなく、エスペラント語のアポテーコ(apoteko)です。ドラッグストアからアポテーコへの変化は、単なる名称変更にとどまらない薬局そのものの性格の大きな変化を伴っています。

旧ドラッグストアは、ご承知のとおり、薬の売店であり、商品としての薬を金銭と引き換えに購入する場所でしたが、アポテーコは薬の無償供給所です。これ自体は、今までにも随所でご紹介してきたように、貨幣経済が廃された23世紀にあっては当然のことです。

より重要なことは、アポテーコでは自由に薬を選べず、必ず薬剤師と相談し、適切な薬剤を選んでもらわなければならないことです。つまり、薬剤の入手には薬剤師の関与と対面説明が義務付けられているのです。

そういうわけで、アポテーコには薬が並んでおらず、表には相談ブースがあるのみです。薬剤師と相談して薬が決まったら、裏の薬庫から取り出された薬の説明を受けて、ようやく入手完了です。(調剤薬局では医師処方薬も扱います。)

このような手順は煩わしいようにも思えますが、考えてみれば、医師の処方薬ではない薬剤でも、自分の現症状とそれに合う薬剤を素人が自身で正確に判断するのはまず不可能なことですから、薬剤師に相談することは不適切な薬剤を選択しないうえで不可欠なことなのです。

その点、以前のたより『最小限医療社会』でもご報告したように、薬剤師の専門性と権限が強化され、薬剤師も一定の診断を下し、薬を処方することが認められているので、23世紀の薬局はプチ診療所のようになっています。風邪程度なら病院よりアポテーコへ行きます。

医師が絶対的なそちら21世紀なら薬剤師のプチ医師化には不安を持たれるかもしれませんが、元来、医師と薬剤師は一体的な職能で、後から分化したそうですから、薬剤師が部分的に元の姿に戻ったと言えるかもしれません。

ちなみに、23世紀の薬剤師となるには医科学院と同等の専門職学院である薬科学院で三年間学び、薬剤師免許試験に合格しなければなりません。さらにアポテーコの運営管理者となるためにはアポテーコで通算十年以上の実務経験を要します。
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# by komunisto | 2016-04-09 10:30 | 衛生
2216年4月2日

23世紀を象徴する公的な資格として、「社会調整士」というものがあります。21世紀人には聞き慣れないでしょうが、社会調整士の職務内容はそちら21世紀にもすでに存在している社会福祉士と似ています。

ただ、以前のたより『本源的福祉社会』でもご報告したとおり、23世紀には「福祉」という用語が死語に近いくらい、福祉は当たり前なので、社会福祉士という資格は廃止されています。

とはいえ、本源的福祉社会にも地域社会の課題はあり、それを調整するのが社会調整士の仕事です。23世紀の社会には政府とか役所という旧社会ではお馴染みの機関もありませんから、地域社会の課題は社会で自主的に解決しなければなりません。そのためにも、社会調整士はかつての役所に代わるような存在として重要なのです。

社会調整士になるためには、専門職学院の一つである三年制の社会事業学院を卒業したうえで、資格試験に合格後、所定の研修を修了する必要があるというように、医師並みの専門的な養成過程が課せられていることからも、その重要性がわかります。

社会調整士はいわゆる独立開業するということはなく、一本立ちした社会調整士の中心任務は地域社会事業のコーディネートであり、その拠点がほぼ市町村内の地区単位で設置される社会評議会です。

評議会には社会調整士を中心に地区住民の代表者が評議員として参加し、その地区における社会的課題とその対策を討議します。市町村域全体の政治代表機関である市町村民衆会議には各地区社会評議会議長(社会調整士)が特別代議員として参加し、市町村民衆会議にも地域の社会的課題が反映されます。

地域の社会的課題といっても、貨幣経済ではないため、いわゆる貧困問題は存在せず、障碍者や病者、高齢者など物理的な生活難を抱える市民の生活サポートが中心となります。

かつて福祉施設と呼ばれた収容型の福祉サービスも存在しませんから、障碍者や病者、高齢者などが地域で生活することは当たり前であり、社会評議会を通じたサポートの提供が「福祉」のほぼすべてなのです。
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# by komunisto | 2016-04-02 12:48 | 福祉
2216年3月26日

23世紀はもはや単なる「情報化社会」ではなく、「高度情報技術社会」あるいは「情報基盤社会」と呼ばれており、情報技術は社会の支柱です。結果、情報技術者はある意味では医療者以上に枢要な専門家となっています。

かつては業界資格的なものでしかなかった情報技術資格が、前回ご報告した医師と同様、今日では世界的に統一化された民際公的資格となっているのです。日本語では正式に「公認情報技士」と呼ばれています。

この資格はそれを取得していれば就職や昇進等で優遇されるといった業界資格とは異なり、それを取得していなければ法律所定の行為―情報専門技術処理と呼びます―を行なうことが違法となる公的資格なのです。

公認情報技士は、基礎医師免許と専門医資格が分かれている医師とは異なり、最初から各分野ごとに分化した専門資格となっています。それはまず、大きく情報処理を専門とする第一種と情報機器の機械的な構造を専門とする第二種に分かれます。

第一種はさらにプログラミング専門の第一種A類と、セキュリティー専門の第一種B類に分かれています。前者はいわゆるプラグラマーですが、後者は英語でセキュリティー・ディフェンダーと呼ばれる専門職です。

第二種は簡単に言えば情報機器の修理の専門家ですが、自ら修理するのではなく、機器の不具合の原因の特定と修理工程の指示書を発する仕事で、言わばコンピュータの医師のようなものと言えばよいでしょう。

第一種と第二種の間に上下・優劣の差はなく、対等な資格です。ちなみに、23世紀のコンピュータはすべて人工知能型ですから、コンピュータと人工知能は同義であり、いずれの公認情報技士となるにも、人工知能に関する知識は不可欠となっています。

公認情報技士試験は世界教育科学文化機関が所管し、医師免許試験と同様に、全世界一斉にエスペラント語で記述された試験問題によって実施されます。合格者は同機関及び各領域圏の公認情報技士団体の両方に登録されます。

これら公認情報技士たちは企業・団体等に雇用されるよりも、情報技術開発者や情報技術顧問として独立的に活動することが多いようです。もちろん23世紀流無償労働ですから、成功しても富豪になれるわけではありませんが。
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# by komunisto | 2016-03-26 10:04 | 情報
2216年3月19日

そちら21世紀の日本では昨日、医師国家試験の合格者発表があったとのこと。21世紀初頭の段階では医師免許試験はまだ各主権国家ごと全く別個に実施されていると思いますが、23世紀現在、医師免許は世界共通です。

具体的にどのような仕組みかというと、世界共通の医師免許は、基礎医師免許と専門医免許の二段階に分かれており、医業を行なうためにはまず前提として基礎医師免許の取得が絶対要件となります。そのうえで、各専門の医療行為を指導監督なしに単独で行なうためには専門医資格が必須となりますが、今回のたよりでは基礎医師免許の件に絞ってご報告します。

医師免許は、世界保健機関の付属機関である医業監督委員会が元締め的な所管機関となっており、全世界共通の統一免許試験がここで作成されます。試験問題は23世紀の世界公用語であるエスペラントで作成され、翻訳されず、原文のまま各領域圏(国に相当)の医師連合会に委託、実施されます。

試験は5月と11月の年二回実施され、試験日は公正を期して全世界で同日に設定されます。合格すると、医師としての登録は先の世界保健機関医業監督委員会と各領域圏医師連合会の双方になされます。どちらか一方でも登録を欠くと、医業を行なうことができなくなります。

ちなみに医師連合会は、日本の旧医師会のような医師の職能的利益団体ではなく、世界保健機関と連携して活動する準公的な医療組織で、各領域圏において医師法違反事案の調査と処分の権限も持っています。

このように医師免許制度は200年で随分様変わりしたようですが、考えてみますと、医学が人類という単一の生物の病気に関する研究と治療に当たる普遍的な学術であることに鑑みれば、医師として必要な素養と技量も普遍的なものとなるはずですから、免許制度も世界共通であって不思議はないのでしょう。

23世紀の免許ないし資格には、医師のほかにも世界共通のものがいくつかありますが、次回は23世紀の高度情報技術社会を象徴する民際資格として、情報技術を専門とする情報技士という資格についてご報告しましょう。
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# by komunisto | 2016-03-19 11:31 | 衛生
2216年3月12日

前々回のたより『23世紀の親子関係』が反響を呼び、その中で触れた「子ども養育官」について21世紀の読者から問い合わせが寄せられましたので、その概要を調べてみました。そのご報告です。

まず子ども養育官とは、たよりでも紹介したとおり、子ども館という地域の子ども養育機関に配置される養育の専門官であり、担当地域の基礎教育課程在籍中の17歳までの子ども一人一人に付いて成人するまで家庭外から養育に当たるスタッフです。

子ども館とは、旧児童相談所とは異なり、福祉機関ではなく、市町村が設置する養育機関です。私を含む旧世界の者にはなかなかイメージが沸かないのですが、23世紀は「子どもは社会が育てる」が基本ですから、その理念を生かす最前線がこうした子ども館であり、子ども養育官なのです。

養育官は教員ではなく、全員児童保護士の有資格者ですが、そのうえに養育官としての特別研修を受けた上位有資格者です。かれらは原則として転任することはなく、担当する子どもについては成人するまで一貫して担当します。

一人の養育官が担当する子どもの数は地域により異なりますが、最大限度20人と定められています。そのため、その数は教員よりも多いようです。それだけの数の養育官をよく養成・配置できるものだと思いますが、貨幣経済廃止により自治体も財政的制約を気にする必要がないのです。

養育官の仕事は「第二の親」とも呼ばれるように、本来の親権者とともに、家庭の外から担当する子どもを養育していくことで、担当する子どもとの定期的な面談と随時の相談、時には親権者や学校からの相談も受けます。

これはいわゆる「子育て支援」のような側面サポートとは全く異なり、まさしく「養育」の一貫であるということが特筆されます。ですから、養育官は単に子どもや親から相談に乗るだけではなく、担当する子どもの「メンター」として直接に養育するのです。比喩的に言えば、親と教師の中間のようものでしょうか。

こうした養育官の養育は原則として成人年齢である18歳で終了しますが、必要に応じて、また本人の申し出により、21歳まで延長することができます。実際、正式には養育終了した後も、養育官との関わりが事実上続くケースは珍しくないようです。

ただ、養育に「官」が直接関与することに不安が感じられないこともないのですが、以前のたより『奉仕する公務員』でもご報告したように、23世紀の「官」はかつての「役人」とか「官僚」のイメージとは似て非なるものなのです。

実際、現実の子ども養育官について言えば、私がお会いした近所の子ども館に在籍する方たちは皆、旧世界人が持つ「官」のイメージとは程遠い、ごく普通の市民のような方たちばかりでありました。
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# by komunisto | 2016-03-12 11:35 | 社会
2216年3月5日

23世紀現在、労働者の働き方が大きく変化しています。その変化の中心は、労働時間の大幅な短縮にあります。そちら21世紀では1日8時間労働基準は変わらず、しかもそれを骨抜きにするような改悪で抜け道的な「残業」はかえって拡大しているとか。

こちら23世紀は1日4時間労働が基準です。つまりは、ほぼ半日労働です。但し、4時間はあくまでも「標準」であって、違反すれば罰則対象となる「上限」は6時間です。これにはさらに但し書きがついて、上限いっぱいまで労働させる事業所は、理由を付して届け出る必要があります。

一方、残業は「裁量」も含めて違法となります。つまり、労働者が好きで残業することもご法度なのです。そこまでしなくても? いいえ、そこまでしないと日本のような働き蜂社会では残業習慣はなくならなかったのです。

以上は一般的な労働の場合の原則であり、警察・消防や一部の医療関係のように24時間稼動を要求される公共性の高い労働分野では特例として6時間標準が認められています。それでも、21世紀までに比べれば短縮されていますね。

とはいえ、原則4時間では相当多くの労働者を動員する必要があるのではないかと思われるのですが、ワークシェアリングによるシフト制が多くの職場で採用されていて、昔なら一人の労働者が一日通しで担当していた仕事を二人に分けるといった場面は多いようです。

労働効率という点では一見、資本主義的オーバーワークのほうが勝っているようですが、実はオーバーワークはかえって労働者の疲弊による生産性低下の原因でした。現在、あらゆる仕事は無償労働ですから、人件費節減圧力はなく、オーバーワークならぬオーバースタッフは当たり前です。

それにしても、皆さん無償でよく働く気になるものだとは旧世界人の感慨であって、23世紀人たちは半日労働ならタダ働きでも苦にならないようなのです。腑に落ちない21世紀人もいらっしゃるでしょうが、200年という時間の経過とはそういうものです。
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# by komunisto | 2016-03-05 14:38 | 経済
2216年2月27日

23世紀の親子関係は、驚くほど希薄、というよりあっさりしています。現在「子どもは社会が育てる」という理念が定着しているため、子どもは親以上に社会の宝なのです。ですから、子どもは早くから自立していきます。

まず保育が義務化されており、親が働いているか否かを問わず、満1歳から保育所に預けられます(0歳児保育は任意)。従って保育所はもはや託児所ではなく、準教育施設として位置づけられています。

保育所を「卒業」後は、地域に設置された子ども館という施設に子ども養育官が配置され、ひとりひとりの親代わりとなります。両親がそろっている子でも同様です。

さらに、8歳から15歳までの子どもは全員が地域少年団に所属し(上掲子ども館が所管)、週末には団の野外活動に出かけることがあります。地域の子どもたちは擬制的なきょうだい関係とみなされているのです。

成人年齢は現在18歳に引き下がっていますが、成人したら子どもは親の家を出るのが通例であるため、公営住宅には独立したばかりの若年成人専用の住居が用意されています。言わば「独立デビュー」制度です。

独立後も親子の縁が切れるわけではないですが、親が成人した子を送り出した後は、お互い他人同士と割り切って、よほどのことがない限り行き来もしないことは珍しくないようです。

旧世界人からすると、これでは親の無責任を助長するようにも思えますが、むしろ昔、皇族・公家・大名などの貴種階級では、子どもは両親ではなく、乳母など傅育専門官が養育したのと似ているような気がします。現在ではすべての子どもが社会によって養育されるのです。

もちろん親も産み捨てが許されるわけではなく、子どもの「製造元」としての責任はありますが、それはあくまでも社会による養育に協力する―少なくとも虐待や放置のような社会の養育を邪魔するような振る舞いはしない―義務にすぎないのです。

考えてみると、このようなあっさりとした親子関係は、ドロドロとした親子密着関係よりも生物学的に合理的かつ健全のようで、23世紀には近代的核家族関係にありがちな家族病理的な精神疾患が少ないと言われています。
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# by komunisto | 2016-02-27 09:23 | 社会
2216年2月20日

21世紀の読者から、カール・マルクスは23世紀にどのような扱いを受けているかとの質問を受けました。私もかねて気になっていながら放置していた問題でしたので、調べてみました。結果は、やや複雑でありました。

23世紀現在の社会は共産主義ですが、いわゆるマルクス主義を標榜するような政党・政治団体は力を持っていません。共産党も存続しているのですが、当ブログでもたびたび言及しているとおり、政党政治は排除されているため、マルクス主義政党が政治に関与することはありません。

といって、マルクスが完全に無視されているわけでもなく、彼は近世共産主義思想の祖という扱いになっています。すなわち、資本主義に対して初めて体系的な批判を加えた先駆者で、それゆえに世間からは認められず、生涯在野知識人として貧困にあえぐことになったとされます。

そうした見地から、マルクスは一種の聖人とみなされ、共産党のようなマルクス主義政党は政治の外にはあるものの、ある種の教会のような役割を果たしています。共産党の地域支部が駆け込み寺のようなよろず相談事業を実施している場合もありますし、共産党トップが社会的な問題についてコメントすると、大きく報じられることもあります。

こうした扱いを見ると、そちら21世紀で言えば、マルクスはキリスト?で、共産党はキリスト教会?になぞらえることができるかもしれません。逆に言えば、その程度のことで、それ以上でも以下でもなく、儀礼的な尊敬の対象なのです。

おそらく現在の発達した共産主義社会はマルクスをも超えてしまっており、もはやマルクスの思想を云々する必要もないのでしょう。従って、学校教育でマルクスの思想が教え込まれるようなこともありません。

共産主義と聞くとすぐにマルクスを想起し、しかもそれに旧ソ連のイメージを重ねてネガティブにとらえてしまう思考習性からすると、23世紀におけるマルクスの扱いはなかなかイメージしにくい微妙なものと思われます。
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# by komunisto | 2016-02-20 09:29 | 思考
2216年2月13日

古い刑事ものドラマ(現在では「時代劇」ジャンル)に興味のある23世紀人からホシャクキン(保釈金)について質問されました。なるほど、貨幣経済が廃止されて久しい時代には、金を払って身柄を解放される制度など想像もつかないのでしょう。

保釈金は、金と身柄を交換するある種公的な身代金みたいなものですが、全面解放ではなく、一定の金を積ませれば釈放されても遠くには逃亡しないだろうという期待も込められていることから、貨幣には間接的な身柄拘束力すらあったのだと改めて思い返しました。

翻って、23世紀には被疑者・被告人の保釈をどのように行なっているのか気になって調べてみました。すると、やはり23世紀らしいやり方をしていました。

まず一番簡単なやり方は、単純に保釈することです。これは取り調べや公判には必ず出頭することを条件に身柄を解放する方法です。ただし、正当な理由なくして出頭しなければ、不出頭罪という罪に問われます。軽い罪の場合は、この方法で処理されます。

次に、週一など定期的に所轄警察署に出頭し、身柄確認するという条件で釈放するやり方があります。三回連続で出頭しないと、不出頭罪に問われます。軽い罪でも逃亡の恐れがありそうな場合や、逆に重い罪でも証拠隠滅の恐れがないような場合は、この方法によるようです。

より厳しいやり方は、監視付き釈放というもので、これはGPS発信機を取り付けて居場所を警察が常時監視するという条件で釈放するものです。対象者が発信機を故意に取り外すと、司法妨害罪という罪に問われます。比較的重い罪の場合は、この方法によります。

一番厳しいやり方は、自宅監置です。これは要するに自宅軟禁のことで、二名以上の警察官が常時自宅周辺で監視し、外出を禁止するという条件での釈放です。この方法は対象者が一人暮らしで、自宅の出入り口が少ないなどの物理的条件を満たす必要があるため、ほとんど行なわれず、通常は先に挙げた三つの方法のいずれかとなるようです。

このように細かく段階的に定められた保釈制度に慣れた23世紀人にとっては、保釈金というものは21世紀人にとっての切腹か何かのように「前近代的」な悪法のように映るようであり、件の質問者に説明しますと、驚き呆れた様子でありました。
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# by komunisto | 2016-02-13 08:40 | 司法
2216年2月6日

23世紀の世界で目立つ特徴は、敵/味方思考の消滅です。つまり、23世紀人は敵/味方を区別して争うという習性を持たないのです。この点では、ヒトという動物そのものの本質が根本から変化したようにも見えます。しかし、筆者の見るところ、それは本質的な変化ではなく、政治的・政策的な変化がもたらした結果と思われます。

とりわけ、政党政治の廃絶です。政党という党派集団を作り、権力の掌握を目指して抗争するという政治慣習が消滅したのです。これは地球革命の大きな成果でした。党派集団は敵/味方思考を強めます。当然ライバル党派は敵ですが、しばしば同じ党派内部でも党の指導権や路線をめぐり敵/味方の抗争が発生します。こうした敵/味方の峻別は時として流血事態や戦争にもつながります。

もっとも、抽選制による民衆会議の制度が地球的なスタンダードとして定着している23世紀にも政党は存在するのですが、現在の政党は政策提案を主とした政治クラブ的な団体であり、直接に政治に参加することはありません。

政党員がたまたま代議員に就任することがあっても―それは認められています―、代議員は会派を形成することが禁じられ、特定の政党や政治団体の利益代弁者として活動することも固く禁じられているため、政党の影響が民衆会議に流入することはないようです。

従って、民衆会議の審議も、そちら21世紀の国会審議の光景とは大きく異なり、与党と野党が激しく応酬するような場面はありません。基本的に円卓会議の形で、政策そのものを冷静かつ論理的に討議しています。

グローバルなレベルでも事は同じで、国というものがありませんから、大国が陣営を作って互いに抗争するというようなうんざりするパワーゲームはもう見られません。23世紀初頭の世界は対外戦争も内戦も知らない地球史上前例のない平和を享受していますが、これも敵/味方思考の消滅によってもたらされた理想状態と言えます。
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# by komunisto | 2016-02-06 14:28 | 政治
2216年1月30日

23世紀に飛んできて、助かったことはいろいろありますが、押印という慣習が消滅していることはその一つです。23世紀の日本人の多くは、ハンコ(判子)という単語をご存知ありません。

ハンコ慣習の廃絶で私が助かるのは、押印が苦手だったからです。まっすぐ綺麗に押印できず、印章の鮮明さが要求される文書の場合、恥ずかしながらしょっちゅう突き返されていたのでした。

私が旧世界にいた最後の頃、すなわち21世紀初頭の時代には次第に押印慣習が廃れ始め、押印省略・サインのみで可という場面が増えていましたし、サインも電子サインの導入が始まっていました。ですので、23世紀の押印廃絶はそうした証明行為の現代化の延長上のことと考えられます。

23世紀の証明はサインのみですが、直筆ではなく、電子サインです。指ではなく、電子サインペンを使って画面に署名します。私の記憶では21世紀初頭ではまだ電子サインシステムが導入されていなかった郵便局の配達でも、現在は配達員が電子サインに対応する端末を携帯しています。

ただし、例外があります。一つは公印と呼ばれる公的機関や企業体の言わばハンコです。これは、組織ごと個別に所持され、組織発行の正式な文書には必ず押印されます。この限りではハンコの制度が残されているわけですが、これは個人のハンコとは異なる組織のお印です。

もう一つの例外は、例えば法廷に提出される可能性のある文書のように、高度な証拠価値を要求される文書については、作成者の指紋を押すことが義務付けられていることです。これを「押紋」と呼びます。押紋の手続きは通常、証拠提出時に裁判所などの司法機関で行なわれます。

ここまで来ると、ハンコのほうがまだましのようにも思えてくるのですが、23世紀の人たちは存外平気のようです。おそらく個人情報保護のレベルが極めて高いことによる安心感なのでしょう。
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# by komunisto | 2016-01-30 11:44 | 社会
2216年1月23月

そちらでは廃棄食品の横流し事件が大きな波紋を呼んでいるようですが、こんな話は23世紀の現在ではあり得ません。なぜなら、現在では消費も計画経済によって適正にコントロールされているからです。

問題になっているような日常食品は、23世紀のシステムでは、消費事業組合と呼ばれる公的組織が一括して分配します。消費事業組合は地方圏(例えば東海地方圏や東北地方圏等々)ごとに設置される協同組織ですが、同時に消費計画機関でもあります。

消費事業組合は、その管轄地方圏の住民なら自動的に加入する仕組みで、住民権の中に組合員資格も組み込まれています。最高議決機関は組合員総会ですが、組合員数が多いため、総代制度が採られています。

消費計画案の策定は第一次的には事業組合の計画委員会が行ないますが、消費計画は中央における3か年計画を参照しつつ、毎年更新される1年計画として策定されます。基本的に地産地消主義のため、地方圏住民の世帯数を基準に日常食の生産量や製品概要が決められます。

製品開発に当たっては、組合員でもある消費者からの企画も募集され、環境や健康に配慮しつつ、栄養士や調理師も加わった開発委員会―その内部は製品の種類ごとに分かれていますが、食料品は食品部が担当―で決定されます。

計画委員会が策定した計画案は組合員総会に上程、審議の末承認されれば、最終的に地方圏の議会に相当する地方圏民衆会議に付託され、承認審査を受けます。そこで承認されれば、諸費計画が正式に発効します。その後、消費計画に基づき、消費事業組合と提携する生産協同組合に委託して生産がなされます。

このように厳密な計画の下に食料品を含む消費財の生産・分配がなされるため、廃棄物も最小限に抑えられ、また廃棄・リサイクルのプロセスも計画的にコントロールされますから、横流しの余地もメリットもありません。

とはいえ、以上はあくまでも冷凍などの既成食品に関するものですが、23世紀の社会では既成食品は比較的消費期限の長い保存食的なものに限られています。社会の仕組みの変革により、食品は再び第一次的な食材を使って各家庭で料理する古来の食習慣が復活してきているので、そちら21世紀ほど既製品に依存していないのです。

というわけで、廃棄食品横流し事件は、料理をしなくなった既製品依存かつ過剰生産の飽食社会という、ある意味では資本主義的な食の異常が引き起こした不祥事でもあると言えるのではないでしょうか。
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# by komunisto | 2016-01-23 11:00 | 経済
2216年1月16日

そちら21世紀の日本では、そろそろ大学入試センター試験の季節ですか。最近は様々な電子機器の発達により、いわゆるカンニング防止策も細かく規定されるようですが、23世紀のこちらでは、そうした状況は一変しています。

以前のたよりでもご報告したとおり、そもそも大学という制度が存在しないので、当然大学入試もないのですが、試験という制度は校内試験から各種資格・免許試験まで種々あります。それらの試験では、程度の差はあれ「カンニング」が許されています。つまり、資料の参照が認められるのです。

これは、試験の意義が旧世界とは大きく異なっているからです。旧世界の試験は一定の膨大な事項を暗記して、与えられた問題に解答する能力を問うということで一致していました。ですから、ほぼ例外なく資料の参照は厳禁され、無断で参照資料を持ち込むことは「カンニング」として取り締まられたのです。

旧世界の試験は暗記力試験でした。ですから、試験直前には必死で詰め込み勉強をした苦い思い出が筆者にもあります。23世紀人にとっては、信じ難い話です。おそらく21世紀人にとっても『論語』完全暗誦のような前近代の暗誦教育は信じ難いものだったでしょうが、試験では基本的に暗記力を試していた点において前近代と近代とで変わりはなかったのです。

これに対して、23世紀の試験は考察力試験です。つまり、参照資料をもとに各自で考察すること、問題に解答するよりも、問題を発見することに主眼が置かれます。ですから、いかなる試験でも参照資料が与えられます。

ただし、参照資料が予め許可されたものに限られる場合や、出題当局側が試験場で配布する資料に限定されたりすることはあり、そうした場合に無許可資料を持ち込むことは禁じられますが、そのような限定参照型試験は代議員免許試験や高度専門職試験のような公的な免許・資格の取得に関わる試験の特例です。

こうした現象は大きくとらえれば、教育観の変遷によるものでしょう。時代が進むにつれて、何かを暗記することよりも、考察することが重視されるようになっていくのです。これは暗記ということに関して、人間の脳は電脳に全くかなわなくなってきたことにもよると考えられます。

こうして、「カンニング」という俗語も現在では死語となりました。23世紀的試験観による限り、「カンニング」は試験における正道であって、参照を一切許さなかったかつての試験こそ暗記力偏重の邪道ということになるのです。
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# by komunisto | 2016-01-16 13:50 | 教育
2216年1月9日

23世紀の世界では、これまでにもご報告してきたように、様々な事物が革新されていますが、200年前と比べてあまり進化していないように見えるのが、自動車でしょうか。

旧世界にいた頃、未来社会を描いたイラストやSF映画にも出てきた空中浮揚自動車に憧れたことがあり、200年後の23世紀世界では見られるかと期待したのですが、やはりあのような技術は実用化されていませんでした。

私がいた21世紀初頭にはまだ試作段階で、将来の普及が想定されていた「自動」自動車も普及していないどころか、自家用車については道交法で自動運転が禁止されています。この点は、電車が原則自動運転化されていること(過去記事参照)と比較して対照的です。

「自動」自動車は交通事故減少に寄与すると言われていましたが、検証の結果、電車のように定められた軌道上を走行しない自動車ではオール自動化は困難であるところ、運転者の手動運転の経験が不足することでかえって手動運転時の危険が高まることや、システム不具合への対処が素人の運転者では困難であることが考慮されたそうです。

一方で、長距離バスのような公共交通に投入される大型車は自動運転システムが導入されているのですが、この場合も訓練された職業運転手が必ず乗務し、必要に応じて手動運転への切り替えがいつでも実行できるように備えられています。

こういうわけで、自動車は以前のたよりでご報告した水素自動車の普及以外、特に大きな革新は見られず、外見上は旧世界と変わりありません。

しかも、これも以前のたよりでご報告したように、23世紀は車社会ではないので、自動車の台数が大幅に減少していて、自動車という乗り物自体、旧世界の産物とみなされているのです。
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# by komunisto | 2016-01-09 12:47 | 社会
2216年1月2日

私がまだ21世紀にいた頃、新年早々から撃ち合い場面の多いドラマを観せられてげんなりしたことがありました。あの頃の映画やドラマでは、撃ち合いは定番の演出的な要素として製作者の頭に刷り込まれていたようです。

一方、23世紀のドラマや映画を観ていて気がつくことは、撃ち合い場面がないことです。検閲とか自主規制によってそうなっているのではなくて、そもそも製作者の念頭に銃撃戦というものがインプットされていないからです。

それもそのはず、23世紀の世界には、軍隊も兵器も存在せず、戦争という行動も過去のものですから、23世紀人には戦闘という場面が思い浮かばないのです。また以前ご報告したように、警察さえも廃止の潮流にあります。

そもそも武装強盗とかテロのような武装犯罪がないので、制圧に際して武器を使用する必要性もないのでしょう。かつては世界最大の銃社会であったアメリカも現在では銃とは無縁の社会です。これも銃規制によってそうなったというより、犯罪の激減が銃の必要性をなくし、銃規制を後押ししたのです。

アメリカでも地方では警察が廃止され、まだ警察が存続している大都市圏でも、警察官は少なくとも日中、丸腰で勤務することが多いと聞きます。革命前のアメリカ人には信じ難い光景でしょう。

ちなみに、有名なハリウッドはいまも映画製作の聖地であり続けていますが、ハリウッドが所在するカリフォルニアはもはやアメリカではなく、アメリカから分離し、メキシコと合併してできたアメヒコに属しています。
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# by komunisto | 2016-01-02 09:56 | 文化
2215年12月27日

23世紀の社会の様子として特徴的なことは、BGMが聞こえてこないことです。BGMが空気のように当たり前だった旧人にとっては信じ難いことですが、BGMを規制する法律があるのです。これは、不特定多数の人が一定時間以上とどまる公共的な場所での音楽の強制聴取を禁じる法です。

中心的な規制エリアは、音楽の聴取を目的としない不特定多数人の集まる公共施設、公共交通機関などです。病院や学校はもちろんですが、かつてのスーパーに相当する物品供給所とか、食堂まで含まれます。周辺的な規制エリアとしては、住宅街やその隣接区域があります。

ただし、違反すれば即罰則という取締り法規ではなく、市民の申し立てにより差止めができるという緩やかなルールですから、差止めの申し立てがない限りはBGMを流しても処罰はされないのですが、多くの該当エリアでは念のため、このルールを遵守しているようです。結果として、非常に静謐な環境が保たれています。

それにしても、なぜこんなルールがあるのかと言えば、一定の場所に一定時間以上とどまる人に、意図しない音楽を強制聴取させることは人権の侵害に当たるといういわゆる「囚われの聴衆」の理論に基づいています。

逆言すれば、どんな音楽を聴取するかは、各人が自由に選択すべきだというのです。個人の尊重がそこまで徹底されているとも言えます。思い返せば、たしかにBGMが空気のようだった革命前、BGMが騒音と感じられることもありましたが、差止めを求めても応じてはくれないこともわかっていたので、我慢していた記憶があります。

とはいえ、音楽が聞こえてこない生活を23世紀人はどう考えているのか。これについては、以前のたよりでもご報告したように、23世紀人は音楽より美術を選好するようで、音楽の代わりに美術が溢れています。

ただ、揚げ足を取れば、これだって見たくないものを見せられる「囚われの視衆」(?)ではないかとも思えるのですが、見たくない美術の規制については、ポルノや過度の暴力描写に該当するものに限られています。

実は、今回取り上げたBGM規制も、ポルノや暴力描写などの規制ともども個人の感受性の尊重と法的保護を趣旨とする「感性保護法」という一本の法律にまとめられている同根の規定なのです。つまり、「人は聴きたくないものを聴かず、見たくないものを見ない権利がある」というわけです。
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# by komunisto | 2015-12-27 09:53 | 法律
2215年12月21日

23世紀にやってきてしばらくして気がついたことの一つは、一般市民の教養の高さです。失礼ながら、一般市民ってこんなに知的だったっけ?と思うほどです。200年前にはそれほどでもなかったはずですが、この違いは何なのか考えてみました。

以前のたよりでも報告したように、23世紀には大学という制度、それを頂点とするふるい落としの教育システムがありません。すべての人は旧義務教育に相当する課程を終えると、いったんは就労するのが普通です。

ある意味では、総労働者社会です。しかし、労働者=無教養ではないのです。以前ご報告した多目的大学校のような生涯教育のシステムが整備されており、社会に出た後、いつでもどこでも学ぶことができます。

旧大学制度は、「学位」に基づく知識階級制を作り出し、「学位」を持たない大衆の無教養のみならず、「学位」を持つ各種専門人の無教養―いわゆる“専門バカ”―をも結果していたのだと気づかされました。

こうした生涯教育制度に加えて、代議員免許試験も一般市民の教養向上に一役買っていると思われます。以前ご報告したように、代議員免許試験は社会科学全般にわたる幅広い素養を問う試験ですが、多くの人がこれを受験することで、市民の教養の向上に寄与しているのです。

代議員免許試験は、同時に市民の政治的・社会的関心の高さにも寄与しています。そのことを象徴する社会現象として、これも以前の記事でご報告した討論喫茶のようなものもあります。そのほか、ネット上でも市民同士の高度な意見交換がなされています。

23世紀的教養はもはや知識人層の専売ではなくなっているのです。そもそも「知識人」とか「有識者」といった言葉自体がほぼ死語と化していて、目にすることも耳にすることもまずありません。それだけ知が普遍化されているということでしょう。
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# by komunisto | 2015-12-21 16:38 | 文化
2215年12月15日

23世紀には様々な分野で職人的な生産様式が復活していることは、これまでにもいくつかの記事でご報告してきましたが、今回は職人の養成についてです。

23世紀の職人は「徒弟的資格制」と呼ばれる仕組みで養成されています。すなわち、23世紀の各種職人も20世紀以降に確立された近代的な資格制度によって最終的な資格認証がなされるのですが、単に形式的な資格だけに依存するのではなく、養成の過程では近代以前の徒弟制的な仕組みが復活しているのです。

例えば、前回ご紹介した「整容師」のような職人は、所定の専門学校を修了した後、まず業界から師範認定された職人が経営する修練施設で5年以上徒弟として訓練を受け、最終的な技能試験に合格しなければ、職人として業務に従事することができないとされています。

さらに、その業務に切れ目なく継続して10年以上従事し、業界が認定する研修を受けて初めて師範資格が得られ、徒弟を持つことができるようになります。

他の職人的な業種も同様のプロセスによって養成されるため、「徒弟的資格制」と総称されます。この制度は、実質的な技能の習得には効果的だった封建的な徒弟制と、公的な資格認定によってその技能を客観的に証明できる近代的な資格制度とを融合したものと言えるでしょう。

それによって、徒弟制が持つ身分制的な隷属的要素を除去しつつ、資格制が陥りがちなペーパー資格化、気概を欠いた「精神なき専門人」の弊害を克服することに目的があると考えられています。

この厳正な養成制度のおかげで、たしかに23世紀の各種職人は社会的な信頼性が高く、また職人は社会的に敬意を持たれる人気職種ともなっているのです。
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# by komunisto | 2015-12-15 09:03 | 社会
2215年12月9日

整髪は、いつの時代でも暮らしに欠かせません。21世紀まで筆者は理容室を利用していましたが、23世紀には理容室というものがありません。整髪業はすべて整容室と呼ばれる一種のエステサロンに一本化されているからです。

整容室とは、旧理容室・美容室を併せたようなものと考えれば間違いないのですが、散髪、整髪に限らず、顔面のお手入れまで、要するに首から上の整容全般をやるので、整容室と呼ばれているようです。そこにいるのは、整容師と呼ばれる専門職です。

整容師も旧理容師・美容師を一人で兼ねたようなものですが、ヘアカット、ヘアスタイルに限らず、エステの技術も習得した職人で、かなり厳しい修練を要する公的資格となっています。

こういうわけで、昔のように男性→理容室、女性→美容室というふり分けはもはやなく、男女とも整容室を利用しています。もっとも、21世紀には男性も美容室に行くことが多くなっていたので、その延長上にこうした一本化があるのでしょう。

一方、旧理容室に似たものとして、頭髪院という施設があります。頭髪院とは、頭髪の衛生を専門とする施設で、主に脱毛治療や頭皮ケアを行なっています。担当しているのは、頭髪衛生士という専門職です。

頭髪衛生士は整容師とは異なり、あくまでも衛生的な観点から頭髪の問題を扱う専門職です。ただし、医師ではないので、薬物投与などの医療行為はできず、頭髪・頭皮の非医療的なケアをするのです。従って、医療を要する重症の脱毛症や頭皮疾患の場合は、医療機関にかかる必要があります。

ちなみに、西洋の理容師の起源は医師だったと聞きますが、現在の頭髪衛生士は医師ではないものの、衛生職なので、起源に一部立ち戻ったような感じでしょうか。

以上、大まかにまとめると、正常な髪のセットは整容室へ、頭髪・頭皮のトラブルは頭髪院へ、というのが23世紀流です。理容室と美容室のふるい分けが今ひとつわかりにくかった時代と比べると、すっきり合理化されていますね。
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# by komunisto | 2015-12-09 09:36 | 生活
2215年12月3日

占いにご興味はお持ちでしょうか。もしそうだとしたら、23世紀はいささか味気ないかもしれません。というのも、23世紀現在、占いは完全に廃れ、過去の大衆文化として歴史学的な考察対象と化しているからです。

思えば、「科学の時代」と言われた21世紀になっても、科学の対極にある占いが人気だったのは、人々の生活不安の投影だったのでした。革命前の貨幣経済社会は、将来への不安が支配していましたから、多くの人が科学では予測できない自分の運命を知りたがったのです。

これに対し、貨幣経済から解放された23世紀の世界は、もはや生活不安とは無縁です。少なくとも、カネにまつわる山あり谷ありの人生というものは想定されません。とは言っても、自分の人生を予測したいという欲求が23世紀人に全くないわけではないようです。

現在、占いのあった場所を埋めているものがあるとすれば、それは「人生予測ソフト」です。これは、各自の年齢、性格や趣味・特技、経歴や現在の生活状況、家族構成や家族・親族の地位といった詳細な要素情報を入力することで、今後の人生を予測するソフトです。

21世紀にも「ライフプランソフト」なるものがすでに開発されていたらしいのですが、これは家計予測を中心としたまさに貨幣経済社会の経済計算ソフトの一種です。「人生予測ソフト」は経済計算ではなく、社会学的な変数を使用した人生そのもののシュミレーションソフトなのです。

このソフトは誰でも無償で入手してすぐに実行できるのですが、万一望ましくない結果が出たらショックですね。その場合、自分の意思で変更可能な要素情報を置き換えて再度実行すると、今度は望ましい結果が出ることもあります。それによって、どこを軌道修正すれば、良い人生行路が描けるかを把握することができるわけです。

早速私もソフトを入手して実行してみたところ、生涯無名の草ブロガーで終わるという結果が出ました。ショックかと言うと逆に安心しました。有名人には有名ゆえの様々な労苦が付いて回ることを知っていますので。
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# by komunisto | 2015-12-03 10:39 | 人生