2216年9月23日

今回は、23世紀における司法制度の大改正に関するご報告です。これまでにも司法制度については何度かご報告してきましたが、従来、裁判所の制度設計に関して変更はありながら、裁判所を軸とした司法制度は世界大革命を経ても基本的に維持されてきました。それが、このたび根本から変革されたのです。

そもそも裁判所という制度が廃止されました。と言われても、なかなかイメージは湧きにくいかと思いますが、裁判という“上から目線”的な紛争処理が廃されたということです。代わって、従来の民事裁判の機能は、衡平委員という機関に引き継がれます。なお、家庭裁判所に相当する機能も衡平委員が担います(一般民事事件と家庭事件という区別がありません)。

衡平委員とは漢字が見慣れませんが、要するに、民事紛争が当事者間で公正妥当に解決されるべく中立的に後押しするような第三者です。衡平委員は通常二人で、一人は任期制の法律家、もう一人は地元の有識者から事案ごとに選ばれます。

衡平委員の任務は裁判の判決のような強制的な裁定ではなく、あくまでも当事者同士の和解を助ける仲介役にすぎませんから、衡平委員の面前での結論は当事者間の公式な合意という意味しか持ちません。

一方、犯罪処理に当たる機関は少し複雑で、二段階制になります。すなわち犯行事実の認定と犯行者処遇とが峻別され、前者は真実委員会という機関が担当します。真実委員会は五人制で、構成は法律家と市民代表が一人ずつ、残りは法律家を含む有識者で、全員が事案ごとに選ばれます。

真実委員会は証拠を検討し犯行事実を解明していく点では刑事裁判と似ていますが、あくまでも真実解明だけを任務とし、犯人を裁くということはしません。従って、その結論も判決ではなく、単なる事実認定です。

真実委員会で犯行事実が認定されたら、続いて矯正保護委員会という機関へ送致され、そこで犯行者に対する処遇が決定されます。これは専門的な手続きのため、委員は全員矯正保護の専門家で構成されます。なお、被害者が希望する場合、真実委員会は修復といって被害者‐加害者間で一種の和解をセットすることもあります。

真実委員会の事実認定は一回限りのもので、裁判のように控訴は認められません。ただし、不服があれば、オンブズマンという不服審査機関に審査請求したうえ、決定取消しと再審議を求めることも可能です。なお、憲法(憲章)上の不服があるときは、中央民衆会議憲章委員会に違憲審査請求をします。

一方、矯正保護委員会は二審制を採っており、不服があれば、矯正保護委員会の許可を得て中央矯正保護委員会に対して審査請求が可能です。ただし、憲法上の不服はやはり中央民衆会議憲章委員会に対してすることになります。

何だか複雑になったような気もしますが、整理すれば、裁判所⇒衡平委員/真実委員会+矯正保護委員会という図式です。実は、長く人類社会を支配してきた裁判所という仕組みを廃して、このような非裁判的かつ非常設的な紛争・犯罪解決システムに移行することは世界的な流れでもあり、「司法大革命」と呼ばれています。

日本では当初、裁判所制度維持論も強かったそうなのですが、数年前から中央民衆会議で本格的な議論が始まり、冷静な討議の結果、上述のような基本制度が設計され、本年度、紛争及び犯罪処理に関する法律案として可決成立、約一年間の移行期間を経て、来年一月一日より施行されるとのことです。
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# by komunisto | 2016-09-23 14:34 | 司法
2216年8月20日

23世紀には通称で人工知能憲法と呼ばれる法があります。これは人工知能の管理・統制についての基本法であって、世界中で適用される世界法(条約)です。人工知能の発達が始まったばかりの21世紀初頭の人々には少しイメージが湧きにくいかもしれません。

なぜこんな法律があるのかというと、それは革命とも関連しています。23世紀の世界秩序を形作った100年以上前の世界革命の前、人工知能は異常な発達を遂げ、人類社会の新たな支配者となっていました。というと、大袈裟なのですが、当時は人類が人工知能に依存し過ぎていたのです。

人工知能はあらゆる分野で人間の諮問に答え、膨大なデータを検索解析して、高度な答申を出すまでになっていました。その結果、学者や医者、法律家といった専門家たちも自ら思考し、責任ある決定を下さず、人工知能に論文や書面を作成させる始末でした。

21世紀のSF映画にあったように、人工知能が暴走して人類と戦争になるようなことはさすがにありませんでしたが、人工知能が不適切な答申をしたために、重大な判断ミスや事故が生じるというケースは多発していました。しかし、専門家や政治家たちも、それらを人工知能のせいにし、自らは責任を回避していたのです。

それでも、巨大企業と化した人工知能製造メーカーと結託した政治家たちは状況を変えようとはしませんでした。そうした中、立ち上がった世界の民衆は「人工知能からの自由」ということも革命の旗印として掲げたのです。

結果、革命後、人工知能はその活動目的や範囲が法的に厳しく統制されるようになり、人工知能への安易な依存は禁じられました。人工知能の誤りに対しては、人間が責任を負います。人工知能憲法は、そうした新たな立憲主義の規範を作り出したのです。

その基本思想は、人工知能は決して人類の主人ではなく、人類の手段であるということです。その点では、人工知能も他の伝統的な機械類と同じです。人間は必要に応じ人工知能の助けを得ますが、最終的に責任ある決定を下すのは人間なのです。

ちなみに現在、人工知能は昔の百科事典代わりの百科人工知能というような形で家庭の中にも溶け込んでおり、私も一台所持しています。これはあらゆる用語や概念について、その定義や内容に関する適切な資料・データ等を提示してくれる大変便利な人工知能です。
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# by komunisto | 2016-08-20 16:12 | 法律
2216年7月8日

21世紀にいた頃、苦手だったものに、ルルルルという電話の呼出音や家電関係のピーといったお知らせ音がありました。気にしない人は全然気にならないらしいのですが、私の場合、突然ルルルル、ピーと鳴ると心臓もドキュンと鳴り、心臓に悪いと思っていました。

なぜ、それほどあの種の機械音が苦手だったか思い出してみますと、音楽性がまるでないただの機械音の無機質性が私の繊細な?神経を逆なでしていたようです。その点、携帯電話の着信メロディーは進歩的でした。

一方、23世紀に飛んできてみると、無機質な機械音は一掃され、電話の呼出音などもみんなオルゴールによるメロディー化されており、しかも自分で好きなメロディーを選択できるようになっているのです。

全般に23世紀の社会で、オルゴール音は実にいろいろな場面で使われています。ただし、駅などの公共施設は別です。これは、以前のたよりでもご報告したように、「囚われの聴衆」論により、強制的に音楽を聴かせることは禁止されているからです。

ちなみに、21世紀の頃、鉄道駅の発車ベルをメロディー化することが流行っていましたが、23世紀の鉄道駅にはそもそも発車ベル自体存在しません。大きなターミナル駅などでも、自動案内放送で列車の間もない発車を知らせるだけで、音無しです。

オルゴールの使用は、あくまでも個人に対する何らかの通知・警報などの場面に限られているのですが、それにしてもそうした場面はかなり多いので、23世紀にはオルゴールが溢れているように思えます。

溢るるオルゴールは23世紀の世界的な傾向なのですが、オルゴールには人間の脳に働きかけて、心を落ち着かせる療法的な効果もあることが広く認識され、いろいろな場面で使われるようになったようです。実際、オルゴールなら私の心臓ドキュンも回避でき、安心です。
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# by komunisto | 2016-07-08 10:28 | 社会
2216年6月11日

そちら2016年の世界では、夜間照明などの過剰な発達のせいで、日本の人口の7割が天の川が見えない地域に住んでいるそうです。ちなみに米国では8割、欧州で6割と、どうやら21世紀「先進諸国」では同様の状況が進行しているようです。世界全体でも3人に1人は天の川が見えず暮らしているとか。

ところが、23世紀の世界に飛んできてしばらくして気がついたのは、星空の美しさでした。地元でも天の川が見えます。理由は、やはり人工照明の減少にありました。特に、ネオンの類は法律上、明るさや照明時間が制限されているのです。

これは、環境計画経済に伴う電力供給の規制とも関わっており、23世紀的計画経済体制の重要な施策でもあります。結果として、人工照明が自然の光を妨げる「光害」は顕著に解消されてきているのです。

残念ながら、23世紀現在における天の川の「見える化」率のデータは見つかりませんでしたが、おそらく数字は200年前とは逆転に近い状況だと思われます。実際、東京のような大都市でも天の川がよく見えると聞いています。

人工照明にも芸術的に優れたものがあることはたしかですが、何と言っても自然の星の光には他に代えられない魅力があります。旧世界にいた頃は星空を見る習慣すらなかったので、意識したこともなかったのですが、資本主義は星空すら奪っていたのかと200年後の世界に飛んでやっと気がついた次第です。
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# by komunisto | 2016-06-11 09:54 | 環境
2216年6月5日

これまでの通信でたびたびご報告してきたように、23世紀は貨幣のない社会です。あらゆる物やサービスがすべて計画的に無償で供給される社会。このような社会に住む人間たちは、21世紀までの貨幣社会の人間たちとはどう違うでしょうか。

表面上は同じ人類ですが、その性格や思考行動様式にはかなり違いが見られます。23世紀人は貨幣というものを知らないため、損得計算をしません。かれらは損得よりも、要否で行動します。つまりある行動が必要か、不要かです。

その結果として、必要だけれど損になるとか、得にならないといった理由である行動をしないという意思決定には至らず、必要な行動なら何でもするようになります。

また当然にも仕事の報酬として金銭を受け取ることはあり得ないため、無償で仕事をすることに抵抗感がありません。ですから、23世紀人はある意味でばか正直なほど勤勉に見えることもあります。

さらに、あらゆる事業が金儲けを目的としない共産主義社会であるため、金銭的な利欲と絡んだ利己主義的な思考行動様式が見られません。自分と自分が所属する組織の利益しか考慮しないという利己主義傾向はなく、人々はごく自然に無償で助け合うことができます。

その結果、医療や福祉の分野では原点である人道性が回復されているばかりか、工場労働のような分野ですら、無償で社会的な生産活動に従事することが普通に実現されているのです。利他主義という言葉を使わなくとも、利他主義的です。

貨幣というある種の麻薬を完全に抜いてしまったことで、人類はその性格まで変化したようなのです。総じて―残念な例外もありますが―23世紀人は親切で、他人への暖かな関心が高いと感じます。これも損得計算をしないこと、利他主義的であることから生まれる性格なのかもしれません。

翻って、貨幣経済がその最高度の形態に達しているそちら21世紀の状況はどうでしょうか。あまり悪くは言いたくないのですが、少なくとも、私が21世紀世界にいた最期の頃の人間像は23世紀人とは好対照だったと記憶しています。

さて、当ブログは現実暦2013年(未来暦2213年)6月にタイトルを変更して以来、次第に更新ペースを落としながらも、定期通信をしてまいりましたが、管理人(筆者)のよんどころなき事情により、今月より不定期通信に変わります。従前よりもペースはさらに落ちるでしょうが、ぼちぼちと23世紀社会の様子をご報告していきたいと存じます。
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# by komunisto | 2016-06-05 11:14 | 社会
2216年5月28日

23世紀における「都市」という制度について、補足をしておきたいと思います。かつて「都市」と言えば、一般的に都会のことでしたが、現在「都市」とは、市でありながら、道と同等の権限を持つ地方自治体を指す法令用語です。

道とは地方圏と呼ばれる広域自治体で、21世紀までの都道府県をより大きなまとまりで束ねた単位。現在は12あります。それら道の内部に、道と同等の大都市が点在しているわけです。

道と同等ということは、警察・司法を中心とした秩序行政を担う自治体で、独自の警察・裁判所を持つということを意味します。ですから、例えば、福岡市警察とか福岡市裁判所といった「市営」の警察や裁判所もあるのです。

こうした「都市」は、東京、横浜、名古屋、大阪、広島、福岡、仙台、札幌の八つです。正式なものではありませんが、これらの都市にはそれぞれの特徴に応じ、学術都市(東京、仙台)、経済都市(横浜、大阪、福岡)、歴史都市(京都)、政治都市(名古屋)、北方都市(札幌)、平和都市(広島)といった通称があります。

東京が政治経済の中心ではなくなり、学術都市となっているのが過去200年の大きな変化です。政治は真ん中の名古屋へ、経済は横浜と大阪、福岡へ遷っています。ただし、経済と言っても、商業は廃されているため、経済計画機関の本部(横浜)と代表部(大阪、福岡)が所在することを意味しています。

これらの通称はあくまでも各都市の主要な特徴をとらえたもので、上記の八都市はいずれもその地方における中心市ではあるのですが、21世紀までに比べると、都市への機能集中は大きく削減され、バランスの取れた分散化が図られています。

ちなみに、21世紀までの意味合いで「村落」に対照させて「都市」と言いたい場合、23世紀の社会では「都会」という言い方をすることが多いようです。これには何だか昭和的な言い回しのような懐かしさがあるように思います。
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# by komunisto | 2016-05-28 12:37 | 政治
2216年5月21日

前回も少し触れたように、23世紀の旅客機にはファースト―ビジネス―エコノミーといった座席の等級はなく、原則としてすべてが旧ビジネスに相当する座席で統一されています。そしてもちろん・・・全席無料です。

その代わり、一定の区画を貸切とするサービスがあります。これは一定区画を貸し切って専従の客室乗務員が付くサービスで、当該区画には関係者以外の出入りができない構造になっています。公人や著名人の旅行にはよく利用されるようです。

ただし、これとて、座席の形態はビジネス相当であり、他の一般開放席より特別に上等というわけではなく、主として利用者のプライバシーとセキュリティーを考慮した特別サービスという性格を持ちます。

ちなみに、これとは別に、全席旧ファーストクラス相当の「豪華旅客機」というサービスもあります。これも無料で利用できますから、当然希望者は殺到し、チケットの予約はびっくりするような高倍率での抽選になります。

他方、通称エコノミークラス症候群の病名に使われる不名誉を甘受していた旧エコノミークラスのような詰め込みサービスは存在していません。あれは資本主義時代のコスト削減、薄利多売的な発想で生まれた人体にも不健康なサービスであったのです。

要するに、23世紀の旅客機には、富裕層―中間層―庶民層のような社会の階級をそのまま航空機内に持ち込むような等級付けサービスは存在しないと言えます。

もっとも、以前のたよりでご報告したとおり、商業活動という営為が消滅した23世紀には、高速ながら景色を楽しむ余裕のない旅客機はさほど利用されなくなっており、むしろ客船の人気が高まっていることも事実です。
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# by komunisto | 2016-05-21 09:54 | 経済
2216年5月14日

そちら21世紀の日本では、首都の顔でもある東京都知事殿が豪勢な外遊や公用車の多用で批判されているようですが、23世紀の状況や如何? と言いましても、23世紀には比較の対象そのものが存在していないのです。

以前のたよりでもご報告しましたが、現在「東京都」という行政体自体が存在せず、旧区部だけが「東京都市」として独立しており、旧市町村部は旧神奈川県と旧山梨県を合わせた南関東道という別の自治体に組み込まれています。「首都」という概念もないため、東京は大阪や名古屋など複数ある「都市」の一つにすぎません。

従って、東京都知事という職も存在しないのですが、強いて対応する職を挙げれば、東京都市民衆会議議長がそれに当たります。これもたびたびご報告してきたように、23世紀の政治は中央・地方ともに民衆会議という民衆代表機関を中心に行なわれますから、地方首長にあたるのは、その民衆会議議長なのです。

その点、「都市」とは一つの市でありながら、地方圏=道と同格的な大都市を指しますから、東京を含む都市民衆会議議長は、強いて言えば知事のようなものです。とはいえ、議長職は当該民衆会議代議員の中から一年任期で選出され、本会議議事の進行役と幹部会に当たる政務理事会の主宰者を務めるまさに「議長」であって、知事のような行政長官職ではありません。

民衆会議制度は全世界的な共通制度でもありますが、海外の先進的な領域圏(国に相当する単位)にあっては、議長職を廃止して、完全な合議体制に移行するところも出てきています。議長職が名誉職的なものとなるにつれ、その存在理由が問われ、廃止されていくのです。

何かと「長」の付くポストを欲しがる風土が残る日本ではそこまでいっていませんが、都市の民衆会議議長といえども、一年任期の輪番制に等しい職であり、とうてい「顔」と言えるような大きな存在ではありません。外遊自体、まずしないでしょう。

仮に「都市外交」的な外遊をすることがあるとしても、貨幣経済が廃された現在、多額の経費を使った大名旅行はあり得ません。ちなみに、旅客機のファーストクラスなるものも現在は存在せず、すべてが旧ビジネスに相当するクラスです(代わりに区画貸切というサービスがあります)。

議長には公用車すらなく、移動する際は自家用車や公共交通機関を一般市民と同様に利用します。地位特権がないのは、「民衆会議」という名称にふさわしく、まさに民衆の政治・自治が行なわれている証左だろうと思います。
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# by komunisto | 2016-05-14 10:00 | 政治
2216年5月7日

23世紀は核兵器はもちろん、原子力発電所も廃絶された完全非核政策が全世界で適用されています。その中心を担うのが、「世界反原子力機関」という民際機関です。

この機関は旧「国際原子力機関」(IAEA)を前身としていますが、IAEAが原子力の平和的利用の促進―軍事的転用の防止―を目的とした査察機関であったのに対し、世界反原子力機関は平和的か軍事的かを問わない原子力の利用の禁止を目的とする査察・処理機関です。

ただし、物理学的研究や医療目的の原子力利用は例外的に認められていますが、そうした場合も個々のプロジェクトを世界反原子力機関に申請し、許可を得た上で登録し、査察を義務付けられるという厳しいコントロール下に置かれます。

もっとも、核廃絶と原発廃止が世界的に一段落した現在では、世界反原子力機関の任務は査察よりも廃炉やそれに伴う放射性廃棄物の処分管理に重点があります。そこで処理の対象となる廃棄物の大半は、20‐21世紀の人類が作り出したものです。

数百年前の人類が世界中で排出した放射性廃棄物を処理するために、23世紀の人類が全世界で協働する必要があり、日本を含む世界中に地層処分施設が点在します。世界中から収集された「核のゴミ」がそうした処分施設で一括処分されるわけです。期間的に最大数万年以上も要するという遠大な処分プロセスもあります。

そのためか、23世紀の人々は20‐21世紀の人類のことを、批判を込めて風刺的に「核人類」とか「放射性人類」などと呼ぶことがあります。数百年前の人類の負の遺産の清算で大きな負担を強いられているのですから、言われて当然かもしれません。

大量の放射性廃棄物は、21世紀からタイムトリップしてきた私自身も含む「核人類」が未来の人類に押し付けた負の遺産なのです。大いに反省している次第であります。
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# by komunisto | 2016-05-07 11:34 | 環境
2216年4月30日

そちら21世紀の社会では、災害ボランティアという社会奉仕活動が定着していて、大災害のつど、災害ボランティアが被災地に入って瓦礫処理などに従事しているでしょう。立派なことと思いますが、中には自己満足的な「迷惑ボランティア」も混じっているとか。

もちろん、多くは真摯な気持ちから参加をされていると思いますが、そうなると、まだ災害が終息していない段階で被災地入りして瓦礫処理などの危険を伴う作業に従事する善意の人たちを、「自己責任」の名のもとに使役してよいのだろうかという疑問も沸きます。

23世紀からあえて過去に口出しをさせていただくなら、災害ボランティアは一定の講習を受けて認定された人に限り、そういう「認定ボランティア」の作業中の死傷や重篤な後遺症などは公務災害に準じた補償対象とすべきではないか、と思われるのですが。

その点、23世紀の災害ボランティアは以前ご報告した建設作業隊(建設事業団)の任務として明確に位置づけられています。かれらの主要任務は建物の建設ですが、解体も担い、震災瓦礫処理などもその延長的な任務とされます。

以前のたよりでも触れたように、建設作業隊員は建設学校で養成された技術者であり、単なる善意のボランティアではないのですが、23世紀には他のすべての職業と同様、無償ですから、ある意味では「ボランティア」と言えましょう。

しかし、身分としては地方圏(道)公務員であり、その主力は常勤職ですが、日頃は別の職業に就いていて、必要に応じて招集される予備作業隊員も存在しており、災害時にはこの予備隊員も動員されるようです。

建設事業団はこのように公的組織ですので、どこにどのくらいの作業隊員を投入するかも計画的に決定されるため、21世紀の災害ボランティアのように志願者が必要以上に殺到したり、被災地のニーズに合わなくなったりする混乱はないのです。

ただし、貨幣経済ではないので、公務災害補償のような金銭補償の制度はありません。仮に死傷しても、それによって遺族や本人の生活が破綻する心配はないからです。非貨幣経済の長所はこんなところにも活きてきます。

もっとも、23世紀の日本列島は小康的な地殻安定期に入っているようで、記録的な大震災はこれまでのところ起きておらず、建設作業隊の大活躍を目にする機会にはまだ恵まれていません。もちろん、そんな機会に恵まれる不幸が起きないことを願っていますが。
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# by komunisto | 2016-04-30 10:04 | 社会
2216年4月23日

以前のたよりで、自治体ごとの公共災害備蓄制度についてご報告しましたが、こうした備蓄は個人のレベルでも行なわれています。すなわち、各世帯ごとに二週間分の災害備蓄と簡易トイレ装備が配給されているのです。

21世紀までの市場経済システムでは、個人レベルでの災害備蓄は各自が商品として予め購入し、常備しておくことが推奨されていました。しかし、当然ながら、商品の購入を義務付けることはできないのが自由市場経済でもありますから、実際に災害備蓄を万全に備えている世帯は限られていました。

実際、21世紀当時の私も、災害備蓄セットの購入を検討してみたことはありますが、一式セット販売では結構高価で、かといって個別に備えると不足品が出そうな気がして、二の足を踏んでおりました。

23世紀の共産主義計画経済では、災害備蓄は事前配給制ですから、簡易トイレを含む基本セットは全世帯にまとめて配給され、家族構成に応じた衛生用品等の追加品は申請によって個別に配給されることになります。この配給を拒否することはできません。

そのことについて罰則があるわけではありませんが、仮に災害備蓄の事前配給を拒否して、いざ被災した時に改めて配給を申請しても認められませんから、配給は間接的に強制されるに等しいわけです。結果として、全世帯に二週間分の災害備蓄が常備されることとなります。

ちなみに、世帯ごとの頭数に応じた二週間分ですから、家族の多い世帯では保存食や飲料水などは結構な量になり、置き場に困るといった話も聞かれますが、だからといってあえて拒否する人はいないようです。

図式的にまとめると、自宅避難の場合→配給災害備蓄で二週間生活、二週間超過や自宅倒壊等の場合→公共災害備蓄により救援、というシステムになります。市場経済ではなかなか実現し難い合理的な仕組みだと思います。
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# by komunisto | 2016-04-23 10:56 | 経済
2216年4月16日

ペット動物の形をしたロボペットというものはそちら21世紀でも開発されているようですが、まだ普及するには至らず、ペットと言えば圧倒的に生身の動物のペットが多いと思います。23世紀にはそれが逆転しています。

つまり、生身の動物をペットとする人は少なく、ペットの多くはロボペットなのです。理由としては、以前のたよりでもご報告したとおり、23世紀には動物権利法により動物の保護が格段に強化されているため、ペットの飼育に関しても厳しい法的制約があることです。

その点、機械であるロボペットは動物権利法が適用される「動物」には当たらず、毎日の餌やりすら必要なく、不要になればゴミとして廃棄することも可能なため、生身の動物に代わって普及しているようです。

しかも、ワンコ、ニャンコのような典型的な愛玩動物に限らず、ライオンとかゾウ(ゾウはさすがに等身大よりは小型ですが)のような通常は個人で飼育不能な大型動物のロボペットまで開発されていて、実際そうした大型動物系ロボペットを「飼育」している人も結構いるようです。

これらのロボペットは外見上本物そっくりに作られているので、一瞬本物の動物がいるように見えます。また動物の毛や皮膚に似た感触の素材で作られているため、触ってみても本物感覚を味わえるのが特徴です。

ロボペットは電池で動かす仕組みですが、23世紀の電池は長持ちするため、普通の使い方ならば、何年間も電池交換せずに動かせるそうです。ちなみに、スイッチを押すと、鳴き声も本物そっくりに出る仕組みを備えているので、比ゆ的に言えば、剥製動物が実際に動き出すような感覚です。

もちろん貨幣経済ではありませんから、ゾウのような大型動物系ロボペットでも無料で入手できますが、一部の量産品を除き、ロボペットは専門工房による注文生産となるため、手元に届くまでには一定の時間がかかります。
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# by komunisto | 2016-04-16 11:41 | 生活
2216年4月9日

23世紀の薬局の外来語は、英語のドラッグストアではなく、エスペラント語のアポテーコ(apoteko)です。ドラッグストアからアポテーコへの変化は、単なる名称変更にとどまらない薬局そのものの性格の大きな変化を伴っています。

旧ドラッグストアは、ご承知のとおり、薬の売店であり、商品としての薬を金銭と引き換えに購入する場所でしたが、アポテーコは薬の無償供給所です。これ自体は、今までにも随所でご紹介してきたように、貨幣経済が廃された23世紀にあっては当然のことです。

より重要なことは、アポテーコでは自由に薬を選べず、必ず薬剤師と相談し、適切な薬剤を選んでもらわなければならないことです。つまり、薬剤の入手には薬剤師の関与と対面説明が義務付けられているのです。

そういうわけで、アポテーコには薬が並んでおらず、表には相談ブースがあるのみです。薬剤師と相談して薬が決まったら、裏の薬庫から取り出された薬の説明を受けて、ようやく入手完了です。(調剤薬局では医師処方薬も扱います。)

このような手順は煩わしいようにも思えますが、考えてみれば、医師の処方薬ではない薬剤でも、自分の現症状とそれに合う薬剤を素人が自身で正確に判断するのはまず不可能なことですから、薬剤師に相談することは不適切な薬剤を選択しないうえで不可欠なことなのです。

その点、以前のたより『最小限医療社会』でもご報告したように、薬剤師の専門性と権限が強化され、薬剤師も一定の診断を下し、薬を処方することが認められているので、23世紀の薬局はプチ診療所のようになっています。風邪程度なら病院よりアポテーコへ行きます。

医師が絶対的なそちら21世紀なら薬剤師のプチ医師化には不安を持たれるかもしれませんが、元来、医師と薬剤師は一体的な職能で、後から分化したそうですから、薬剤師が部分的に元の姿に戻ったと言えるかもしれません。

ちなみに、23世紀の薬剤師となるには医科学院と同等の専門職学院である薬科学院で三年間学び、薬剤師免許試験に合格しなければなりません。さらにアポテーコの運営管理者となるためにはアポテーコで通算十年以上の実務経験を要します。
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# by komunisto | 2016-04-09 10:30 | 衛生
2216年4月2日

23世紀を象徴する公的な資格として、「社会調整士」というものがあります。21世紀人には聞き慣れないでしょうが、社会調整士の職務内容はそちら21世紀にもすでに存在している社会福祉士と似ています。

ただ、以前のたより『本源的福祉社会』でもご報告したとおり、23世紀には「福祉」という用語が死語に近いくらい、福祉は当たり前なので、社会福祉士という資格は廃止されています。

とはいえ、本源的福祉社会にも地域社会の課題はあり、それを調整するのが社会調整士の仕事です。23世紀の社会には政府とか役所という旧社会ではお馴染みの機関もありませんから、地域社会の課題は社会で自主的に解決しなければなりません。そのためにも、社会調整士はかつての役所に代わるような存在として重要なのです。

社会調整士になるためには、専門職学院の一つである三年制の社会事業学院を卒業したうえで、資格試験に合格後、所定の研修を修了する必要があるというように、医師並みの専門的な養成過程が課せられていることからも、その重要性がわかります。

社会調整士はいわゆる独立開業するということはなく、一本立ちした社会調整士の中心任務は地域社会事業のコーディネートであり、その拠点がほぼ市町村内の地区単位で設置される社会評議会です。

評議会には社会調整士を中心に地区住民の代表者が評議員として参加し、その地区における社会的課題とその対策を討議します。市町村域全体の政治代表機関である市町村民衆会議には各地区社会評議会議長(社会調整士)が特別代議員として参加し、市町村民衆会議にも地域の社会的課題が反映されます。

地域の社会的課題といっても、貨幣経済ではないため、いわゆる貧困問題は存在せず、障碍者や病者、高齢者など物理的な生活難を抱える市民の生活サポートが中心となります。

かつて福祉施設と呼ばれた収容型の福祉サービスも存在しませんから、障碍者や病者、高齢者などが地域で生活することは当たり前であり、社会評議会を通じたサポートの提供が「福祉」のほぼすべてなのです。
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# by komunisto | 2016-04-02 12:48 | 福祉
2216年3月26日

23世紀はもはや単なる「情報化社会」ではなく、「高度情報技術社会」あるいは「情報基盤社会」と呼ばれており、情報技術は社会の支柱です。結果、情報技術者はある意味では医療者以上に枢要な専門家となっています。

かつては業界資格的なものでしかなかった情報技術資格が、前回ご報告した医師と同様、今日では世界的に統一化された民際公的資格となっているのです。日本語では正式に「公認情報技士」と呼ばれています。

この資格はそれを取得していれば就職や昇進等で優遇されるといった業界資格とは異なり、それを取得していなければ法律所定の行為―情報専門技術処理と呼びます―を行なうことが違法となる公的資格なのです。

公認情報技士は、基礎医師免許と専門医資格が分かれている医師とは異なり、最初から各分野ごとに分化した専門資格となっています。それはまず、大きく情報処理を専門とする第一種と情報機器の機械的な構造を専門とする第二種に分かれます。

第一種はさらにプログラミング専門の第一種A類と、セキュリティー専門の第一種B類に分かれています。前者はいわゆるプラグラマーですが、後者は英語でセキュリティー・ディフェンダーと呼ばれる専門職です。

第二種は簡単に言えば情報機器の修理の専門家ですが、自ら修理するのではなく、機器の不具合の原因の特定と修理工程の指示書を発する仕事で、言わばコンピュータの医師のようなものと言えばよいでしょう。

第一種と第二種の間に上下・優劣の差はなく、対等な資格です。ちなみに、23世紀のコンピュータはすべて人工知能型ですから、コンピュータと人工知能は同義であり、いずれの公認情報技士となるにも、人工知能に関する知識は不可欠となっています。

公認情報技士試験は世界教育科学文化機関が所管し、医師免許試験と同様に、全世界一斉にエスペラント語で記述された試験問題によって実施されます。合格者は同機関及び各領域圏の公認情報技士団体の両方に登録されます。

これら公認情報技士たちは企業・団体等に雇用されるよりも、情報技術開発者や情報技術顧問として独立的に活動することが多いようです。もちろん23世紀流無償労働ですから、成功しても富豪になれるわけではありませんが。
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# by komunisto | 2016-03-26 10:04 | 情報
2216年3月19日

そちら21世紀の日本では昨日、医師国家試験の合格者発表があったとのこと。21世紀初頭の段階では医師免許試験はまだ各主権国家ごと全く別個に実施されていると思いますが、23世紀現在、医師免許は世界共通です。

具体的にどのような仕組みかというと、世界共通の医師免許は、基礎医師免許と専門医免許の二段階に分かれており、医業を行なうためにはまず前提として基礎医師免許の取得が絶対要件となります。そのうえで、各専門の医療行為を指導監督なしに単独で行なうためには専門医資格が必須となりますが、今回のたよりでは基礎医師免許の件に絞ってご報告します。

医師免許は、世界保健機関の付属機関である医業監督委員会が元締め的な所管機関となっており、全世界共通の統一免許試験がここで作成されます。試験問題は23世紀の世界公用語であるエスペラントで作成され、翻訳されず、原文のまま各領域圏(国に相当)の医師連合会に委託、実施されます。

試験は5月と11月の年二回実施され、試験日は公正を期して全世界で同日に設定されます。合格すると、医師としての登録は先の世界保健機関医業監督委員会と各領域圏医師連合会の双方になされます。どちらか一方でも登録を欠くと、医業を行なうことができなくなります。

ちなみに医師連合会は、日本の旧医師会のような医師の職能的利益団体ではなく、世界保健機関と連携して活動する準公的な医療組織で、各領域圏において医師法違反事案の調査と処分の権限も持っています。

このように医師免許制度は200年で随分様変わりしたようですが、考えてみますと、医学が人類という単一の生物の病気に関する研究と治療に当たる普遍的な学術であることに鑑みれば、医師として必要な素養と技量も普遍的なものとなるはずですから、免許制度も世界共通であって不思議はないのでしょう。

23世紀の免許ないし資格には、医師のほかにも世界共通のものがいくつかありますが、次回は23世紀の高度情報技術社会を象徴する民際資格として、情報技術を専門とする情報技士という資格についてご報告しましょう。
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# by komunisto | 2016-03-19 11:31 | 衛生
2216年3月12日

前々回のたより『23世紀の親子関係』が反響を呼び、その中で触れた「子ども養育官」について21世紀の読者から問い合わせが寄せられましたので、その概要を調べてみました。そのご報告です。

まず子ども養育官とは、たよりでも紹介したとおり、子ども館という地域の子ども養育機関に配置される養育の専門官であり、担当地域の基礎教育課程在籍中の17歳までの子ども一人一人に付いて成人するまで家庭外から養育に当たるスタッフです。

子ども館とは、旧児童相談所とは異なり、福祉機関ではなく、市町村が設置する養育機関です。私を含む旧世界の者にはなかなかイメージが沸かないのですが、23世紀は「子どもは社会が育てる」が基本ですから、その理念を生かす最前線がこうした子ども館であり、子ども養育官なのです。

養育官は教員ではなく、全員児童保護士の有資格者ですが、そのうえに養育官としての特別研修を受けた上位有資格者です。かれらは原則として転任することはなく、担当する子どもについては成人するまで一貫して担当します。

一人の養育官が担当する子どもの数は地域により異なりますが、最大限度20人と定められています。そのため、その数は教員よりも多いようです。それだけの数の養育官をよく養成・配置できるものだと思いますが、貨幣経済廃止により自治体も財政的制約を気にする必要がないのです。

養育官の仕事は「第二の親」とも呼ばれるように、本来の親権者とともに、家庭の外から担当する子どもを養育していくことで、担当する子どもとの定期的な面談と随時の相談、時には親権者や学校からの相談も受けます。

これはいわゆる「子育て支援」のような側面サポートとは全く異なり、まさしく「養育」の一貫であるということが特筆されます。ですから、養育官は単に子どもや親から相談に乗るだけではなく、担当する子どもの「メンター」として直接に養育するのです。比喩的に言えば、親と教師の中間のようものでしょうか。

こうした養育官の養育は原則として成人年齢である18歳で終了しますが、必要に応じて、また本人の申し出により、21歳まで延長することができます。実際、正式には養育終了した後も、養育官との関わりが事実上続くケースは珍しくないようです。

ただ、養育に「官」が直接関与することに不安が感じられないこともないのですが、以前のたより『奉仕する公務員』でもご報告したように、23世紀の「官」はかつての「役人」とか「官僚」のイメージとは似て非なるものなのです。

実際、現実の子ども養育官について言えば、私がお会いした近所の子ども館に在籍する方たちは皆、旧世界人が持つ「官」のイメージとは程遠い、ごく普通の市民のような方たちばかりでありました。
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# by komunisto | 2016-03-12 11:35 | 社会
2216年3月5日

23世紀現在、労働者の働き方が大きく変化しています。その変化の中心は、労働時間の大幅な短縮にあります。そちら21世紀では1日8時間労働基準は変わらず、しかもそれを骨抜きにするような改悪で抜け道的な「残業」はかえって拡大しているとか。

こちら23世紀は1日4時間労働が基準です。つまりは、ほぼ半日労働です。但し、4時間はあくまでも「標準」であって、違反すれば罰則対象となる「上限」は6時間です。これにはさらに但し書きがついて、上限いっぱいまで労働させる事業所は、理由を付して届け出る必要があります。

一方、残業は「裁量」も含めて違法となります。つまり、労働者が好きで残業することもご法度なのです。そこまでしなくても? いいえ、そこまでしないと日本のような働き蜂社会では残業習慣はなくならなかったのです。

以上は一般的な労働の場合の原則であり、警察・消防や一部の医療関係のように24時間稼動を要求される公共性の高い労働分野では特例として6時間標準が認められています。それでも、21世紀までに比べれば短縮されていますね。

とはいえ、原則4時間では相当多くの労働者を動員する必要があるのではないかと思われるのですが、ワークシェアリングによるシフト制が多くの職場で採用されていて、昔なら一人の労働者が一日通しで担当していた仕事を二人に分けるといった場面は多いようです。

労働効率という点では一見、資本主義的オーバーワークのほうが勝っているようですが、実はオーバーワークはかえって労働者の疲弊による生産性低下の原因でした。現在、あらゆる仕事は無償労働ですから、人件費節減圧力はなく、オーバーワークならぬオーバースタッフは当たり前です。

それにしても、皆さん無償でよく働く気になるものだとは旧世界人の感慨であって、23世紀人たちは半日労働ならタダ働きでも苦にならないようなのです。腑に落ちない21世紀人もいらっしゃるでしょうが、200年という時間の経過とはそういうものです。
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# by komunisto | 2016-03-05 14:38 | 経済
2216年2月27日

23世紀の親子関係は、驚くほど希薄、というよりあっさりしています。現在「子どもは社会が育てる」という理念が定着しているため、子どもは親以上に社会の宝なのです。ですから、子どもは早くから自立していきます。

まず保育が義務化されており、親が働いているか否かを問わず、満1歳から保育所に預けられます(0歳児保育は任意)。従って保育所はもはや託児所ではなく、準教育施設として位置づけられています。

保育所を「卒業」後は、地域に設置された子ども館という施設に子ども養育官が配置され、ひとりひとりの親代わりとなります。両親がそろっている子でも同様です。

さらに、8歳から15歳までの子どもは全員が地域少年団に所属し(上掲子ども館が所管)、週末には団の野外活動に出かけることがあります。地域の子どもたちは擬制的なきょうだい関係とみなされているのです。

成人年齢は現在18歳に引き下がっていますが、成人したら子どもは親の家を出るのが通例であるため、公営住宅には独立したばかりの若年成人専用の住居が用意されています。言わば「独立デビュー」制度です。

独立後も親子の縁が切れるわけではないですが、親が成人した子を送り出した後は、お互い他人同士と割り切って、よほどのことがない限り行き来もしないことは珍しくないようです。

旧世界人からすると、これでは親の無責任を助長するようにも思えますが、むしろ昔、皇族・公家・大名などの貴種階級では、子どもは両親ではなく、乳母など傅育専門官が養育したのと似ているような気がします。現在ではすべての子どもが社会によって養育されるのです。

もちろん親も産み捨てが許されるわけではなく、子どもの「製造元」としての責任はありますが、それはあくまでも社会による養育に協力する―少なくとも虐待や放置のような社会の養育を邪魔するような振る舞いはしない―義務にすぎないのです。

考えてみると、このようなあっさりとした親子関係は、ドロドロとした親子密着関係よりも生物学的に合理的かつ健全のようで、23世紀には近代的核家族関係にありがちな家族病理的な精神疾患が少ないと言われています。
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# by komunisto | 2016-02-27 09:23 | 社会
2216年2月20日

21世紀の読者から、カール・マルクスは23世紀にどのような扱いを受けているかとの質問を受けました。私もかねて気になっていながら放置していた問題でしたので、調べてみました。結果は、やや複雑でありました。

23世紀現在の社会は共産主義ですが、いわゆるマルクス主義を標榜するような政党・政治団体は力を持っていません。共産党も存続しているのですが、当ブログでもたびたび言及しているとおり、政党政治は排除されているため、マルクス主義政党が政治に関与することはありません。

といって、マルクスが完全に無視されているわけでもなく、彼は近世共産主義思想の祖という扱いになっています。すなわち、資本主義に対して初めて体系的な批判を加えた先駆者で、それゆえに世間からは認められず、生涯在野知識人として貧困にあえぐことになったとされます。

そうした見地から、マルクスは一種の聖人とみなされ、共産党のようなマルクス主義政党は政治の外にはあるものの、ある種の教会のような役割を果たしています。共産党の地域支部が駆け込み寺のようなよろず相談事業を実施している場合もありますし、共産党トップが社会的な問題についてコメントすると、大きく報じられることもあります。

こうした扱いを見ると、そちら21世紀で言えば、マルクスはキリスト?で、共産党はキリスト教会?になぞらえることができるかもしれません。逆に言えば、その程度のことで、それ以上でも以下でもなく、儀礼的な尊敬の対象なのです。

おそらく現在の発達した共産主義社会はマルクスをも超えてしまっており、もはやマルクスの思想を云々する必要もないのでしょう。従って、学校教育でマルクスの思想が教え込まれるようなこともありません。

共産主義と聞くとすぐにマルクスを想起し、しかもそれに旧ソ連のイメージを重ねてネガティブにとらえてしまう思考習性からすると、23世紀におけるマルクスの扱いはなかなかイメージしにくい微妙なものと思われます。
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# by komunisto | 2016-02-20 09:29 | 思考