2216年1月16日

そちら21世紀の日本では、そろそろ大学入試センター試験の季節ですか。最近は様々な電子機器の発達により、いわゆるカンニング防止策も細かく規定されるようですが、23世紀のこちらでは、そうした状況は一変しています。

以前のたよりでもご報告したとおり、そもそも大学という制度が存在しないので、当然大学入試もないのですが、試験という制度は校内試験から各種資格・免許試験まで種々あります。それらの試験では、程度の差はあれ「カンニング」が許されています。つまり、資料の参照が認められるのです。

これは、試験の意義が旧世界とは大きく異なっているからです。旧世界の試験は一定の膨大な事項を暗記して、与えられた問題に解答する能力を問うということで一致していました。ですから、ほぼ例外なく資料の参照は厳禁され、無断で参照資料を持ち込むことは「カンニング」として取り締まられたのです。

旧世界の試験は暗記力試験でした。ですから、試験直前には必死で詰め込み勉強をした苦い思い出が筆者にもあります。23世紀人にとっては、信じ難い話です。おそらく21世紀人にとっても『論語』完全暗誦のような前近代の暗誦教育は信じ難いものだったでしょうが、試験では基本的に暗記力を試していた点において前近代と近代とで変わりはなかったのです。

これに対して、23世紀の試験は考察力試験です。つまり、参照資料をもとに各自で考察すること、問題に解答するよりも、問題を発見することに主眼が置かれます。ですから、いかなる試験でも参照資料が与えられます。

ただし、参照資料が予め許可されたものに限られる場合や、出題当局側が試験場で配布する資料に限定されたりすることはあり、そうした場合に無許可資料を持ち込むことは禁じられますが、そのような限定参照型試験は代議員免許試験や高度専門職試験のような公的な免許・資格の取得に関わる試験の特例です。

こうした現象は大きくとらえれば、教育観の変遷によるものでしょう。時代が進むにつれて、何かを暗記することよりも、考察することが重視されるようになっていくのです。これは暗記ということに関して、人間の脳は電脳に全くかなわなくなってきたことにもよると考えられます。

こうして、「カンニング」という俗語も現在では死語となりました。23世紀的試験観による限り、「カンニング」は試験における正道であって、参照を一切許さなかったかつての試験こそ暗記力偏重の邪道ということになるのです。
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# by komunisto | 2016-01-16 13:50 | 教育
2216年1月9日

23世紀の世界では、これまでにもご報告してきたように、様々な事物が革新されていますが、200年前と比べてあまり進化していないように見えるのが、自動車でしょうか。

旧世界にいた頃、未来社会を描いたイラストやSF映画にも出てきた空中浮揚自動車に憧れたことがあり、200年後の23世紀世界では見られるかと期待したのですが、やはりあのような技術は実用化されていませんでした。

私がいた21世紀初頭にはまだ試作段階で、将来の普及が想定されていた「自動」自動車も普及していないどころか、自家用車については道交法で自動運転が禁止されています。この点は、電車が原則自動運転化されていること(過去記事参照)と比較して対照的です。

「自動」自動車は交通事故減少に寄与すると言われていましたが、検証の結果、電車のように定められた軌道上を走行しない自動車ではオール自動化は困難であるところ、運転者の手動運転の経験が不足することでかえって手動運転時の危険が高まることや、システム不具合への対処が素人の運転者では困難であることが考慮されたそうです。

一方で、長距離バスのような公共交通に投入される大型車は自動運転システムが導入されているのですが、この場合も訓練された職業運転手が必ず乗務し、必要に応じて手動運転への切り替えがいつでも実行できるように備えられています。

こういうわけで、自動車は以前のたよりでご報告した水素自動車の普及以外、特に大きな革新は見られず、外見上は旧世界と変わりありません。

しかも、これも以前のたよりでご報告したように、23世紀は車社会ではないので、自動車の台数が大幅に減少していて、自動車という乗り物自体、旧世界の産物とみなされているのです。
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# by komunisto | 2016-01-09 12:47 | 社会
2216年1月2日

私がまだ21世紀にいた頃、新年早々から撃ち合い場面の多いドラマを観せられてげんなりしたことがありました。あの頃の映画やドラマでは、撃ち合いは定番の演出的な要素として製作者の頭に刷り込まれていたようです。

一方、23世紀のドラマや映画を観ていて気がつくことは、撃ち合い場面がないことです。検閲とか自主規制によってそうなっているのではなくて、そもそも製作者の念頭に銃撃戦というものがインプットされていないからです。

それもそのはず、23世紀の世界には、軍隊も兵器も存在せず、戦争という行動も過去のものですから、23世紀人には戦闘という場面が思い浮かばないのです。また以前ご報告したように、警察さえも廃止の潮流にあります。

そもそも武装強盗とかテロのような武装犯罪がないので、制圧に際して武器を使用する必要性もないのでしょう。かつては世界最大の銃社会であったアメリカも現在では銃とは無縁の社会です。これも銃規制によってそうなったというより、犯罪の激減が銃の必要性をなくし、銃規制を後押ししたのです。

アメリカでも地方では警察が廃止され、まだ警察が存続している大都市圏でも、警察官は少なくとも日中、丸腰で勤務することが多いと聞きます。革命前のアメリカ人には信じ難い光景でしょう。

ちなみに、有名なハリウッドはいまも映画製作の聖地であり続けていますが、ハリウッドが所在するカリフォルニアはもはやアメリカではなく、アメリカから分離し、メキシコと合併してできたアメヒコに属しています。
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# by komunisto | 2016-01-02 09:56 | 文化
2215年12月27日

23世紀の社会の様子として特徴的なことは、BGMが聞こえてこないことです。BGMが空気のように当たり前だった旧人にとっては信じ難いことですが、BGMを規制する法律があるのです。これは、不特定多数の人が一定時間以上とどまる公共的な場所での音楽の強制聴取を禁じる法です。

中心的な規制エリアは、音楽の聴取を目的としない不特定多数人の集まる公共施設、公共交通機関などです。病院や学校はもちろんですが、かつてのスーパーに相当する物品供給所とか、食堂まで含まれます。周辺的な規制エリアとしては、住宅街やその隣接区域があります。

ただし、違反すれば即罰則という取締り法規ではなく、市民の申し立てにより差止めができるという緩やかなルールですから、差止めの申し立てがない限りはBGMを流しても処罰はされないのですが、多くの該当エリアでは念のため、このルールを遵守しているようです。結果として、非常に静謐な環境が保たれています。

それにしても、なぜこんなルールがあるのかと言えば、一定の場所に一定時間以上とどまる人に、意図しない音楽を強制聴取させることは人権の侵害に当たるといういわゆる「囚われの聴衆」の理論に基づいています。

逆言すれば、どんな音楽を聴取するかは、各人が自由に選択すべきだというのです。個人の尊重がそこまで徹底されているとも言えます。思い返せば、たしかにBGMが空気のようだった革命前、BGMが騒音と感じられることもありましたが、差止めを求めても応じてはくれないこともわかっていたので、我慢していた記憶があります。

とはいえ、音楽が聞こえてこない生活を23世紀人はどう考えているのか。これについては、以前のたよりでもご報告したように、23世紀人は音楽より美術を選好するようで、音楽の代わりに美術が溢れています。

ただ、揚げ足を取れば、これだって見たくないものを見せられる「囚われの視衆」(?)ではないかとも思えるのですが、見たくない美術の規制については、ポルノや過度の暴力描写に該当するものに限られています。

実は、今回取り上げたBGM規制も、ポルノや暴力描写などの規制ともども個人の感受性の尊重と法的保護を趣旨とする「感性保護法」という一本の法律にまとめられている同根の規定なのです。つまり、「人は聴きたくないものを聴かず、見たくないものを見ない権利がある」というわけです。
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# by komunisto | 2015-12-27 09:53 | 法律
2215年12月21日

23世紀にやってきてしばらくして気がついたことの一つは、一般市民の教養の高さです。失礼ながら、一般市民ってこんなに知的だったっけ?と思うほどです。200年前にはそれほどでもなかったはずですが、この違いは何なのか考えてみました。

以前のたよりでも報告したように、23世紀には大学という制度、それを頂点とするふるい落としの教育システムがありません。すべての人は旧義務教育に相当する課程を終えると、いったんは就労するのが普通です。

ある意味では、総労働者社会です。しかし、労働者=無教養ではないのです。以前ご報告した多目的大学校のような生涯教育のシステムが整備されており、社会に出た後、いつでもどこでも学ぶことができます。

旧大学制度は、「学位」に基づく知識階級制を作り出し、「学位」を持たない大衆の無教養のみならず、「学位」を持つ各種専門人の無教養―いわゆる“専門バカ”―をも結果していたのだと気づかされました。

こうした生涯教育制度に加えて、代議員免許試験も一般市民の教養向上に一役買っていると思われます。以前ご報告したように、代議員免許試験は社会科学全般にわたる幅広い素養を問う試験ですが、多くの人がこれを受験することで、市民の教養の向上に寄与しているのです。

代議員免許試験は、同時に市民の政治的・社会的関心の高さにも寄与しています。そのことを象徴する社会現象として、これも以前の記事でご報告した討論喫茶のようなものもあります。そのほか、ネット上でも市民同士の高度な意見交換がなされています。

23世紀的教養はもはや知識人層の専売ではなくなっているのです。そもそも「知識人」とか「有識者」といった言葉自体がほぼ死語と化していて、目にすることも耳にすることもまずありません。それだけ知が普遍化されているということでしょう。
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# by komunisto | 2015-12-21 16:38 | 文化
2215年12月15日

23世紀には様々な分野で職人的な生産様式が復活していることは、これまでにもいくつかの記事でご報告してきましたが、今回は職人の養成についてです。

23世紀の職人は「徒弟的資格制」と呼ばれる仕組みで養成されています。すなわち、23世紀の各種職人も20世紀以降に確立された近代的な資格制度によって最終的な資格認証がなされるのですが、単に形式的な資格だけに依存するのではなく、養成の過程では近代以前の徒弟制的な仕組みが復活しているのです。

例えば、前回ご紹介した「整容師」のような職人は、所定の専門学校を修了した後、まず業界から師範認定された職人が経営する修練施設で5年以上徒弟として訓練を受け、最終的な技能試験に合格しなければ、職人として業務に従事することができないとされています。

さらに、その業務に切れ目なく継続して10年以上従事し、業界が認定する研修を受けて初めて師範資格が得られ、徒弟を持つことができるようになります。

他の職人的な業種も同様のプロセスによって養成されるため、「徒弟的資格制」と総称されます。この制度は、実質的な技能の習得には効果的だった封建的な徒弟制と、公的な資格認定によってその技能を客観的に証明できる近代的な資格制度とを融合したものと言えるでしょう。

それによって、徒弟制が持つ身分制的な隷属的要素を除去しつつ、資格制が陥りがちなペーパー資格化、気概を欠いた「精神なき専門人」の弊害を克服することに目的があると考えられています。

この厳正な養成制度のおかげで、たしかに23世紀の各種職人は社会的な信頼性が高く、また職人は社会的に敬意を持たれる人気職種ともなっているのです。
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# by komunisto | 2015-12-15 09:03 | 社会
2215年12月9日

整髪は、いつの時代でも暮らしに欠かせません。21世紀まで筆者は理容室を利用していましたが、23世紀には理容室というものがありません。整髪業はすべて整容室と呼ばれる一種のエステサロンに一本化されているからです。

整容室とは、旧理容室・美容室を併せたようなものと考えれば間違いないのですが、散髪、整髪に限らず、顔面のお手入れまで、要するに首から上の整容全般をやるので、整容室と呼ばれているようです。そこにいるのは、整容師と呼ばれる専門職です。

整容師も旧理容師・美容師を一人で兼ねたようなものですが、ヘアカット、ヘアスタイルに限らず、エステの技術も習得した職人で、かなり厳しい修練を要する公的資格となっています。

こういうわけで、昔のように男性→理容室、女性→美容室というふり分けはもはやなく、男女とも整容室を利用しています。もっとも、21世紀には男性も美容室に行くことが多くなっていたので、その延長上にこうした一本化があるのでしょう。

一方、旧理容室に似たものとして、頭髪院という施設があります。頭髪院とは、頭髪の衛生を専門とする施設で、主に脱毛治療や頭皮ケアを行なっています。担当しているのは、頭髪衛生士という専門職です。

頭髪衛生士は整容師とは異なり、あくまでも衛生的な観点から頭髪の問題を扱う専門職です。ただし、医師ではないので、薬物投与などの医療行為はできず、頭髪・頭皮の非医療的なケアをするのです。従って、医療を要する重症の脱毛症や頭皮疾患の場合は、医療機関にかかる必要があります。

ちなみに、西洋の理容師の起源は医師だったと聞きますが、現在の頭髪衛生士は医師ではないものの、衛生職なので、起源に一部立ち戻ったような感じでしょうか。

以上、大まかにまとめると、正常な髪のセットは整容室へ、頭髪・頭皮のトラブルは頭髪院へ、というのが23世紀流です。理容室と美容室のふるい分けが今ひとつわかりにくかった時代と比べると、すっきり合理化されていますね。
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# by komunisto | 2015-12-09 09:36 | 生活
2215年12月3日

占いにご興味はお持ちでしょうか。もしそうだとしたら、23世紀はいささか味気ないかもしれません。というのも、23世紀現在、占いは完全に廃れ、過去の大衆文化として歴史学的な考察対象と化しているからです。

思えば、「科学の時代」と言われた21世紀になっても、科学の対極にある占いが人気だったのは、人々の生活不安の投影だったのでした。革命前の貨幣経済社会は、将来への不安が支配していましたから、多くの人が科学では予測できない自分の運命を知りたがったのです。

これに対し、貨幣経済から解放された23世紀の世界は、もはや生活不安とは無縁です。少なくとも、カネにまつわる山あり谷ありの人生というものは想定されません。とは言っても、自分の人生を予測したいという欲求が23世紀人に全くないわけではないようです。

現在、占いのあった場所を埋めているものがあるとすれば、それは「人生予測ソフト」です。これは、各自の年齢、性格や趣味・特技、経歴や現在の生活状況、家族構成や家族・親族の地位といった詳細な要素情報を入力することで、今後の人生を予測するソフトです。

21世紀にも「ライフプランソフト」なるものがすでに開発されていたらしいのですが、これは家計予測を中心としたまさに貨幣経済社会の経済計算ソフトの一種です。「人生予測ソフト」は経済計算ではなく、社会学的な変数を使用した人生そのもののシュミレーションソフトなのです。

このソフトは誰でも無償で入手してすぐに実行できるのですが、万一望ましくない結果が出たらショックですね。その場合、自分の意思で変更可能な要素情報を置き換えて再度実行すると、今度は望ましい結果が出ることもあります。それによって、どこを軌道修正すれば、良い人生行路が描けるかを把握することができるわけです。

早速私もソフトを入手して実行してみたところ、生涯無名の草ブロガーで終わるという結果が出ました。ショックかと言うと逆に安心しました。有名人には有名ゆえの様々な労苦が付いて回ることを知っていますので。
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# by komunisto | 2015-12-03 10:39 | 人生
2215年11月27日

23世紀に飛んできて、当初不便に思ったのは、公式の天気予報がないことです。かつて生活の一部のようになっていた天気予報は、いったいなぜ消滅したのでしょうか。驚いたことに、天気予報は法律で禁止されているのです。

その理由として、予報は外れるからというのです。気象観測の技術レベルがどんなに向上しても、科学は予測するものではなく、事後分析するものですから、予報は外れます。天気予報外しは時に人を誤った判断に導き、重大な結果を招くので公式の予報は許されないのです。

ただし、重大災害の警報は別です。災害警報は予報とは異なり、重大災害の差し迫った危険が認められる場合に発せられるもので、かつてのように危険性に応じたランク付けはありません。警報にランクを付けると、そのランク予測が外れた場合に、やはり重大な結果を招きかねないからです。

こうした重大災害警報を出すのは、中央災害対策本部という常設の危機管理機関であって、気象庁ではありません。気象庁という役所は廃止され、旧気象庁は現在、気象地質観測センターという純粋の研究機関に再編されています。災害警報は同機関の観測をベースに、災害対策本部が発する仕組みです。

ここで天気予報禁止といっても、それはメディアなどを通じて公に予報することの禁止であって、各人が個人的に予測すること、言わば「マイ天気予報」は自由です。気象地質観測センターはリアルタイムで気象観測画像及び天気図を公開しており、それを端末に取り込むアプリもありますから、個人で天気を予測することは自由なのです。

つまり平時の天気予報は自己責任で、ということです。ちなみに、かつてテレビではちょっとした「顔」だった気象予報士という資格はもう存在しません。気象を専門にやりたければ、先のセンターに入職するのが近道とされています。

公式の天気予報がなくて不便に思わないか周囲に聞いてみますと、「天気予報なんて星占いみたいなものでしょ」という冷めた答えが返ってきました。これも23世紀人に科学的思考習慣が定着しているゆえんかもしれません。
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# by komunisto | 2015-11-27 07:55 | 文化
2215年11月21日

前々回触れた安楽死の合法化政策についてです。安楽死はもう半世紀ほど前、22世紀中の法律で実現したことなので、「23世紀特有」とは言えないのですが、現在ではごく当たり前に定着しているという点では、これも23世紀的現象でしょう。

病院に安楽死部門があると言いましたが、もちろん全病院にあるわけではなく、大きな総合病院に限られます。そして、どんな場合でも患者が望めばOKというわけではなく、事前の審査と所定の手続きを経る必要があり、これらを経ない言わば「闇安楽死」は違法行為です。

まず事前審査では、患者の病名やその症状に関して、不治の病で終末期ないし高度に進行したステージにあり、その肉体的苦痛が制御不能なほど著しいことが要求されます。ここでは単に精神的な苦痛から「死にたい」という願望にとどまる場合は除外され、あくまでも肉体的苦痛が甚大な場合に限られます。

そのため、この事前審査に入る前の段階として、まず安楽死専門医が患者と面談し、患者の安楽死の希望が鬱病等の精神疾患に由来する自殺願望でないかどうかの診断をすることが義務付けられています。

この審査をクリアした後、次はカウンセリングです。ここでは、専門のカウンセラーが安楽死の意義、その経過と結果について説明し、患者が本当に安楽死を受け入れるかどうかについて、話し合います。この場合、家族・親族は同席できません。安楽死はあくまでも患者個人の自己決定によるもので、その是非について周囲から影響を受けるべきものではないとの考えからです。

このカウンセリングの結果、患者の安楽死への自己決定が充分でなく、なお逡巡があると認められた場合は、いったん手続きは打ち切りとなります。もし患者の自己決定が確固として揺るぎないと判定されれば、安楽死のプロセスに入ります。

安楽死も他の医療行為と同様、まずインフォームド・コンセントが義務付けられます。ここでは、医学的な見地から、安楽死の経過と結果が改めて説明され、患者は最終的な同意書への署名が求められます。ここで、署名せず、安楽死を取りやめることもなお可能です。

最後のインフォームド・コンセントもクリアして、いよいよ安楽死のプロセスに入ります。ちなみに、安楽死の撤回は施術の直前まで認められており、施術直前にも最終的な意思確認が義務付けられます。

安楽死プロセスの詳細は筆者が専門外の医学の話になるので、省きますが、はじめに麻酔で眠らせ、「いざ」という時の不安やパニックを防止するような措置が採られるようです。

こうした一連の安楽死対応をする部署は通常、「タナトロジー・センター」と呼ばれています。タナトロジーとは「死生学」を意味する英語由来の外来語で、ここでは医学的な「臨床死生学」を意味しています。

同センターは、安楽死のほか、患者が意識不明状態にある場合の「尊厳死」の是非を判断する役目も負っており、安楽死の施術をする麻酔科医に加え、タナトロジー専門の精神科医、内科医が常駐し、さらに看護師、カウンセラーといった支援スタッフも常勤するかなり大きな部署です。

安楽死自体は23世紀現在、ほぼ全世界中で認められているそうですが、日本の安楽死法はその中でも相当に厳格な部類に属するといいます。ここには、かつては安楽死に否定的だった日本社会における死生観がなお一定投影されているのでしょう。
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# by komunisto | 2015-11-21 09:16 | 衛生
2215年11月15日

23世紀人の思考法の特質について、自身と比較してあれこれと思いをめぐらせることが多いのですが、最近気のついた23世紀的思考法として、良い/悪いという善悪二元論的な思考をしないことがあります。このことは、21世紀から飛んできた筆者にとっては一種のカルチャーギャップとなっています。

実際、私は23世紀の知人から「きみは良い/悪いという発想をしすぎる」と苦言を呈されたことがあるのですが、このように何でも良い/悪いという二元定式にあてはめて物事を判断しようとするのは、おそらく21世紀―というより、専ら20世紀に生育した旧人の発想の癖かもしれません。

もっとも、用語のうえでは「良い」と「悪い」という単語は残されていますが、23世紀人は「良い」という言葉を道徳的に「良い」ではなく、「適切」とか「合理的」という意味で用いることが多いようです。他方で、「悪い」という単語はあまり使われず、「良い」の否定形「良くない」が使われます。これも、先ほど言った意味の反対、すなわち「不適切」とか「不合理」というニュアンスです。

前回ご報告した自殺論でもそうですが、自殺は「悪い」という価値観は希薄で、自殺は心の病の「良くない」症状とみなすという考え方も、こうした23世紀的思考法の適用例と言えます。さらには、他殺行為のような旧人的感覚では「悪い」ことでも、23世紀人はそのように断じません。

以前のたよりで、23世紀には刑罰制度が存在しないことをご報告しましたが、それは本稿の問題関心から言えば、犯罪を「悪い行為」として処罰するという発想が存在しないことを意味します。犯罪行為は逸脱行為ではあるものの、社会の歪み・欠陥が反映された一種の社会病理現象としてとらえ、個人の矯正とともに、社会の改良の手がかりとするという考え方が定着しているのです。

こうした発想は文化の面にも反映されていて、善人が悪人をやっつける勧善懲悪的なドラマのような創作はほとんど見かけません。かつての勧善懲悪ものは、古い時代の価値観を反映した古典作品として、鑑賞よりも学術的な分析の対象とされています。

良い/悪いという二元論的発想では、「悪い」と判定されたものは排斥・攻撃されることを予定していますから、良い/悪いの判断基準が異なる個人間・民族間・文明間では衝突が起きやすくなります。そちら21世紀が直面しているテロリズムもそうした衝突現象の最も憂慮すべき例なのかもしれません。
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# by komunisto | 2015-11-15 10:49 | 思考
2215年11月9日

以前のたよりで、23世紀の世界では自殺者数が顕著に減少していることをご報告しました。とはいえ、日本でも年間7000人ほどが自殺しています。このように希少な現象となった自殺について、23世紀の価値観ではどのようにとらえられているのか、気になり、調べてみました。

すると、自殺という行動は鬱病など心の病気の症状とみなされる傾向が強いことがわかりました。このような医学的自殺論は、すでに20‐21世紀中から有力化し、精神保健的な自殺予防策の取り組みなどありましたが、めざましい成果を上げているとは言えませんでした。

当時、私などは、生きていることが死ぬことより辛い情況下では、最後の最後のエスケープ手段として自殺も容認せざるを得ないのではないかとさえ想念していたのですが、このような自殺容認論は23世紀人には無縁のようです。

たしかに貨幣経済が廃された安心の23世紀的共産主義社会では、生きていることが死ぬことより辛い情況などなかなか想定できません。このことは、21世紀の社会に生き辛さを痛感していた筆者にもはっきりと感じ取れます。

また、政治的な抗議としての自殺というものもあり得ると考えられますが、23世紀にはこのような現象も見られません。民衆会議を通じた民主的な政治制度が根付いているため、自殺をもって抗議しなければならないほど深刻な不条理は存在しないからでしょう。

このようにして、23世紀の生き易く、公正な社会で自殺を企図するのは、やはり何らかの心の病気のせいだということになるのです。といっても、特別な「対策」を要するほど自殺者は多くないので、「自殺予防」などという用語も特に聞かれないのですが。

その一方、医療化された自殺とも言える安楽死が認められているのです。病院に安楽死を専門にする部門まであることには驚かされます。これはどのような価値観によるものなのか、またどのようなプロセスで安楽死が実施されるのか、別の機会にこの問題についてご報告しようと思います。
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# by komunisto | 2015-11-09 09:04 | 死生
2215年11月3日

今日11月3日は、そちら21世紀の日本ではまだ「文化の日」ですね。まだと言ったのは、こちら23世紀の日本では11月3日はもう祝日ではないからです。以前のたよりでもご報告したように、23世紀の公休日は春夏秋冬ごとの大型バカンスを基本としています。

ともあれ、旧「文化の日」の恒例行事は文化勲章授与式でした。実は、23世紀の世界にはこうした叙勲の制度も存在しないのです。勲章目当てに頑張っている方は消沈するかもしれませんが、世界革命は一代限りの勲章という制度も廃止に導きました。

例えば、日本領域圏の憲法に相当する憲章には、「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、これを行なわない。」とあります。ちなみに、旧憲法(そちらでは現憲法)では、「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」とされていました。両者比較すれば、違いは一目瞭然です。

この規定のおかげで、現在では文化勲章のような学術・芸術的な叙勲だけでなく、政治や行政、経済などの分野での功績を理由とした叙勲も廃止されているわけです。

叙勲とは君主が臣下に栄典を与えることで、元は世襲であったのが、民主化が進むと一代限りの栄典となり、そしてついに一代限りの栄典すらも廃止となったのです。漸次身分制が廃止されていった時代の流れとも言えるでしょう。

では、文化勲章に相当するような賞は一切存在しないかと言えば、そうでもなく、学術団体ないし芸術団体が高い功績を上げた学者や芸術家に授与する賞があり、そうした有力な賞の受賞者はかつての文化勲章に匹敵する栄誉を得ているようです。

学術や芸術分野の業績の表彰は本来、国や公共団体が政治的・行政的に行なうよりも、各専門団体がその専門的な知識・経験に基づいて自主的に行なうのが最も正確かつ公正なのですから、このような23世紀的な表彰のやり方は、大いに合理性があるように思われます。
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# by komunisto | 2015-11-03 13:58 | 文化
2215年10月28日

かつてアマゾンやニューギニア、インドのアンダマン諸島などにごくわずかながら、石器時代の生活様式を維持し続ける文明非接触部族と呼ばれる集団がいました。「文明世界」でも貨幣経済が廃止された23世紀、かれらはどうしているのか、気になり調べてみました。

すると、もはや非接触部族というものは存在しないことがわかりました。それは「文明世界」によって踏査・征服されたからではなく、かつての非接触部族たちのほうから接触を求めてきたためだといいます。

非接触部族が長く接触を断っていた理由は、ジャングルの奥深くに住む生活様式のせいもあったでしょうが、それ以上に「文明世界」の貨幣経済から独自の自給自足経済を防衛するという意味もあったようなのです。

たしかに、かれらがひとたび貨幣経済圏と接触を持ってしまえば、部族は貨幣経済に取り込まれ、しかも経済計算に疎いために「文明人」に騙されたり、人身売買の餌食にされたりする運命が待ち受けていたでしょう。

ところが、世界大革命以降、「文明世界」でも貨幣経済が廃されたことで、かれらも長い防御体制を解除することができるようになったのです。といっても、ジャングル生活を捨てて町へ出てきたというわけではなく、ジャングルで伝統的な自給自足を続けながら、町とも交流を持ち、物々交換などをするようになったということです。

面白いことに、従来の「文明世界」に属する地域でも、農漁村では自給自足が再び成り立つようになり、実際に自給自足生活を営む農漁民は増えています。また農漁村に別荘を持ち、週末や休暇の時だけ自給自足を営むというようなライフスタイルも観察されています。

このように、23世紀の社会は計画経済を中核とした「文明世界」の裾野に自給自足経済も包摂されるような構造をしているのですが、こうしたことが無理なく可能になっているのも、「文明世界」が貨幣経済を放棄したことが大きく関わっているのだとわかります。
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# by komunisto | 2015-10-28 12:28 | 経済
2215年10月22日

22世紀の世界革命以前の旧人とそれ以降の新人とを分ける大きな相違点として、美意識の有無があります。すなわち、新人は美意識というものを持っていないのです。もっと正確に言えば、新人は美/醜という二元的価値規準を持っていないということになります。

この美/醜の二元的価値規準は長い間、人類共通の価値尺度だとして疑われていませんでした。しかし、実はこれこそがあらゆる差別の源泉であることが明らかにされたのです。当然ながら、美が優等視され、賞賛される一方で、醜は劣等視され、差別されます。

人間の価値評価すら、美男美女が理想的人間として賞賛され、それと対照される醜女醜男は蔑視されるということが当然のごとく行なわれてきたのです。実際上、人種差別や障碍者差別も、その根底には、そうした外見上の美/醜規準があったのです。

しかし、22世紀の世界革命は一面では「反差別」革命でもあったので、差別の根源にある美/醜二元論も批判・克服の対象として、厳しい検証にさらされたのでした。ことに見栄えを理由としたあらゆる美/醜の評価が槍玉に上がりました。

その結果、美人コンテストのようなイベントも差別的な“人間品評会”とみなされ、開催されなくなりました。旧世界では憧れの対象だった美人コンテストは今や、差別に鈍感な旧人の野蛮な風習として否定されているのです。

また美とは何かを追求する学問としての「美学」も批判にさらされ、23世紀には「美学」というものはなくなり、旧美学が扱っていた領域は「芸術学」という学問に吸収されており、その研究主題も「醜」と対照される「美」ではなく、対照項を持たない「芸術性」へと変化しています。

美/醜の二元的対照項がない芸術性ということは、旧人にはなかなか理解が難しいのですが、結果として、旧人的感覚では「美しい」とは評し得ないようなものでも「芸術的」と評されることがあるのです。

このように23世紀の新人には美意識がないといっても、このことはかれらが粗野・無粋であることを意味しません。かれらもすぐれた芸術、ことに美術には旧人以上に傾倒しており、住宅を含む建造物なども極めて芸術的に設計するのです。

ただ、そうした態度を支える価値観はもはや「美」ではありません。従って「美術」とは呼ばれず、「アルト」というエスペラント由来の外来語が使われます。ただ、これまでのたよりの中では、21世紀の旧人読者にもわかりやすいように、「美術」という語を使ってきましたが、これは23世紀の用語ではありません。

人間の価値評価に関しても同じことで、23世紀には美女とか美男その他これに類する俗語の類はほとんど死語と化しており、日常慣用されません。人間を外見のみで賞賛したり軽蔑したりする慣習一切が廃れているからです。

そんなこともあり、旧人の世界ではしばしば外見を理由とする被差別者であった筆者のような人間にとっても、美意識を持たない新人の世界は人目を気にすることなく住みやすく、ある種の楽園です。そちら旧世界へは二度と帰還できないという掟にも何ら悲嘆していません。
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# by komunisto | 2015-10-22 08:21 | 思考
2215年10月16日

そちら21世紀の日本では殺人を含む警察官の不祥事が多発し、改めて警察官という職務への関心が高まっているようですので、23世紀の警察官についても調べてみますと、その制度が大きく変わったことがわかります。

警察官は従来の警察官と同様に警察職務の最前線を担いますが、200年前との違いは巡査とか警部とかの階級呼称を持たないことです。もちろん指揮官と属官の区別はありますが、それは形式的な階級によるのでなく、実質的な職務内容によります。

他方、警察官の中でも逮捕状や捜索令状の請求のような司法捜査を指揮できるのは司法警察員の有資格者に限られます。司法警察員は階級ではありませんが、警察官の中でも特別な法的研修を受け、内部的な資格試験に合格した者だけが就くことのできる上級職とされます。

こうした言わば伝統的な警察官のほかに、警察監と呼ばれる管理専門職がいます。警察官と警察監―紛らわしいですが、発音の際のピッチで区別され、「官」は下降調、「監」は水平調で発音されるようです。

警察監とは、名称どおり警察実務の監督を専門とする職務であって、全員が法曹資格を持っています。つまり法律家でもあるわけで、警察官の職務を法律的に監督する仕事です。昔のキャリア警察官と似てはいますが、単なる上級警察官ではなく、法律家である点が大きく違います。

警察監は制服を持たず、警察本部の総監をはじめとする幹部職や警察署長等の監督職に充てられます。ただし初任から5年間は見習いとして警察監補と呼ばれます。また警察署長は警察官の中からその法的識見により抜擢された法曹資格を持たない特例警察監を充てることもできるとされています。

警察官と警察監の関係性を簡単に整理すれば、制服組と背広組と言えるかもしれませんが、それはエリートとノンエリートという階級差ではなく、職能の相違に基づく区別です。警察監が法律的に警察業務を監督することで、警察組織の法令順守を制度的にも担保することに趣旨があると言われます。

このような一見複雑でややこしいシステムも、22世紀の革命後、警察制度そのものの廃止という一部の急進的な議論との相克の中から、新時代における順法的で公正な警察制度として編み出されたものだと言えるでしょう。
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# by komunisto | 2015-10-16 10:47 | 法律
2215年10月10日

23世紀の社会に住むようになってしばらくすると、近所で母子家庭が多いように見受けられたのですが、意外なことがわかりました。それは、精子バンクの幅広い普及により、初めからの母子家庭が多いことです。

23世紀の精子バンクは完全に公的な制度として確立されており、不妊症等の問題の有無を問わず、誰でも利用することができるオープンな制度となっています。これにより、実子の出産を望む女性には、パートナーシップを結んで子を生むか、精子バンクを通して子を生むかという二つの選択肢が保障されることになります。

毎年出産する女性の30パーセント近くが精子バンクを利用しているとのことで、母子家庭が多いのも首肯できます。「未婚の母」は決して珍しくも、後ろめたくもないのです。精子バンクの利用率は年々上昇傾向にあるとのことで、将来的には精子バンクを通じて生まれる子どもが半数を超えるとの予測もあります。

精子バンクの仕組みとして、以前は将来、子どもが遺伝上の父親を知る権利に答えるべく、精子提供者は原則として実名で登録しなければならなかったそうなのですが、それでは提供者が限られてしまうということから、実名を明かすかどうかを提供時点で選択できるようになりました。

ただし、匿名の場合でも、年齢(上限は45歳)や職業、出身領域圏などの部分情報は登録し、バンク利用者及び将来の子どもに開示される必要があり、完全な情報秘匿は認められていません。

ちなみに、利用者の中には精子提供者の容姿や人種を知りたい人もいるでしょうが、それを認めると容姿や人種による差別を助長する恐れがあるため、そうした差別につながる情報―差別誘発性情報―については、開示されないことになっています。

21世紀以前の旧人類的感覚からすると、精子バンクを当たり前のように利用する風潮には違和感を覚えるかもしれませんが、これまでにもご紹介してきたように、婚姻という制度が廃止された23世紀の人々にとって両親+子どもという家族構成は決して絶対のものではないようです。

実際、同じ母子家庭でも「離婚」―現行制度ではパートナーシップ解消―という子どもにとってもしばしば辛い過程を経て母子家庭化するよりも、初めから母子家庭のほうがすっきりするという見方もできそうです。

もっとも、精子バンクで生まれたことを知った子ども―知らせることは義務ではありません―がそれをどう受け止めるかは気になるところですが、同じ「仲間」が大勢いることを知れば、衝撃は少ないのかもしれません。
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# by komunisto | 2015-10-10 08:16 | 社会
2215年10月4日

23世紀の世界では、法律婚(いわゆる結婚)の制度が廃され、パートナーシップ制度に転換されていることは、これまでにも折に触れてご紹介してきましたが、パートナーシップとは具体的にどんな制度なのかとのご質問を受けました。

簡単に言えば、そちら21世紀の日本では「内縁」と呼ばれているような関係をそのまま正式のパートナー関係に昇格させたようなものとお考えになれば、間違いではありません。ですから、両パートナーは別姓が原則となります。

ただし、パートナーのに関しては両当事者の合意により、いずれか一方の姓に統一する「同姓」を選択することも可能ですので、その場合は表面上日本の旧法律婚と変わらないことになります。

また、パートナーのに関しては、異性間のほかに同性間のパートナーシップも認められています。従って、例えば「同性かつ同姓」というパートナーシップも成立可能です。

このようなパートナーシップと旧婚姻の最も大きな違いは、その手続きにあります。パートナーシップはある種の契約関係ですが、完全な事実上のものではないので、確かにパートナー関係にあることが公に証明されなければなりません。そのため、公証証書によることを要します。

ここで登場するのが、前回ご紹介した公証人です。従って、パートナー関係を結ぼうとする当事者は、まず公証人にパートナーシップ公正証書を作成してもらいます。反対に、パートナー関係を解消する場合も、公正証書による必要があります。このように公正証書が活用されるので、公証パートナーシップと呼ばれます。

パートナーシップの成立及び解消は公正証書だけで有効なのですが、そのままだと、行政上は単身者の扱いとなるので、自治体にも届け出ることが推奨されています。その限りでは、旧届出婚に近似していきます。

ちなみに、公正証書も作成しない純然たる事実上のパートナーシップ関係も禁止されているわけではありませんが、この場合はパートナー関係の証明ができないため、社会生活上単なるルームシェア関係とみなされるなど、多少不便が生じるようです。
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# by komunisto | 2015-10-04 10:19 | 法律
2215年9月28日

23世紀の司法制度に関しては、これまでにも折に触れてご紹介してきていますが、今日は公証人についてです。公証人とは特定の事実の存在または契約等の法律行為の適法性等について、公的に証明·認証する法律専門家のことをいいます。

この職業そのものの歴史は古く、日本では20世紀初頭から存在していましたから、すでに300年以上の歴史があります。では何が23世紀的かといいますと、その活躍の範囲です。かつての公証人は上の定義のように、まさに公的な証明をする代書人的な存在でしたが、23世紀の公証人は弁護士と並ぶ法曹として位置づけられているのです。

たびたびご紹介しているとおり、23世紀社会は貨幣経済ではありません。よって、司法の世界でも、圧倒的に金銭トラブルの法的処理に携わっていた弁護士の職務内容が大きく変容し、その比重も下がった一方、各種の公的証明に当たる公証人の比重が高まったのです。

それとともに、国家の廃止に伴い、いわゆる役所というものが存在しない23世紀には、役所の公的証明に相当する証明行為も公証人が行なうようになっており、そうした点でも公証人の比重は高まっているのです。

その職務範囲は広いのですが、訴訟業務は現在も弁護士独占領域のため、公証人は訴訟を担当することはできません。しかし法廷に提出する証拠書類の公的証明は重要な任務の一つで、公証人の公証を受けた書類には高い証拠価値が認められるため、弁護士と公証人は提携することが多くなっているようです。

こうしたことから、日本の旧慣ではほとんどが検察官や裁判官の実質的な「天下り」であった公証人の任用方法も大きく変わり、公証人も統一的な法曹資格試験に合格し、所定の研修を受けた者から任用されるようになりました。現在では、弁護士以上に志望者が多いそうです。

ちなみに、日本の旧公証人は公務員で、その事務所は「公証役場」と呼ばれていましたが、23世紀の公証人は弁護士と同様の在野法律家であり、その事務所も「役場」ではなく、「公証事務所」と呼ばれます。ただし、公証という公的業務の性質上、管轄高等裁判所の監督を受けます。

なお、貨幣経済廃止に伴い、公証人が依頼人に金銭報酬を請求することはありません。依頼人から非金銭的な物による報酬を受け取ることも汚職行為として違法ですから、業務はすべて無償で行なわれます(この点は、弁護士についても同様)。
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# by komunisto | 2015-09-28 09:13 | 司法
2215年9月22日

23世紀という時代には、多くの文物・制度が200年前とは大きく変革していることは、これまでいろいろご報告してきたとおりなのですが、一つ手前の22世紀について教えてほしいとのお便りを読者よりいただきました。

実は、21世紀から23世紀に直接タイムトラベルしてきた私は22世紀という時代を直接体験していません。そのため、22世紀に関しましては、23世紀の史料によってお答えするしかありません。

そういう前提で申しますと、22世紀はまさに人類史上の大転換期だったと言えます。実際、現在2215年は23世紀が始まってまだ15年目ですので、その文物・制度の多くは22世紀のものを引き継いでいるわけです。そのため、22世紀のことは同時にご紹介しているに等しいのですが、22世紀は20世紀と同様、前半と後半とで大きく様相を異にしていました。

22世紀前半は、21世紀末から22世紀初頭にかけての世界連続革命―世界大革命とも呼ばれます―が一巡し、世界が資本主義から共産主義に塗り替えられた時期に相当します。この22世紀前半の50年はまさに激動の時代でした。21世紀までは常識とされてきた貨幣経済とか国家体制といった基本的枠組みとそれにまつわる諸々の諸制度・慣習のすべてが変わったのです。

その変化のスピードと急進性は、20世紀後半のそれに比せられていますが、歴史家によってはそれを上回る人類史上最大級の変革期だったとみなす人もいるほどです。世界の人々も、その変革についていくのが大変だったようです。

特に、貨幣経済の廃止によって、空気のごとく馴染んでいた貨幣という媒体が消え去ったことは変革のハイライトであり、日常の衣食住の根幹が大きく変わりました。本日から貨幣を廃止すると言われたその当時の人々の驚きが目に浮かびます。

その激動期を体験した方の話も聴きたいのですが、2215年の現在、100歳の古老でも2115年生まれで、激動期には乳幼児でしたので、激動期の暮らしを成人として体験したのは古老の親世代の人たちということになり、もはや存命していないのは残念です。

ただ、22世紀初頭の暮らしを体験した当時の著名人の証言を集めた電子書籍がありましたので、それを紐解いてみると、やはり貨幣が廃止された時は大騒ぎで、それまで当たり前のように貨幣と交換していた物品やサービスがすべて取得数量制限付きの無償となったことに体が馴れるまでに時間がかかったという体験が綴られていました。

一方、22世紀後半は、共産主義社会の成長期に当たります。激動が一段落し、新たな文物・制度が定着・発展を遂げていった時代です。23世紀初頭に現在する文物・制度の多くがこの時代に基礎が築かれたものです。

そうした意味では、23世紀未来社会としてこれまでご紹介してきた事柄は、実質上22世紀後半期の延長と言えるわけで、あと85年を残す23世紀という時代はこれからなのですが、私の寿命は世紀末までは持ちません。
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# by komunisto | 2015-09-22 07:25 | 社会