2215年6月30日

そちら21世紀にはデフォルト問題など、何かとお騒がせで、ややお荷物的な立場になっているらしいギリシャですが、23世紀の現在、ギリシャは平穏な地中海の領域圏として人気です。

資本主義の時代、たしかにギリシャは優等生とは言えませんでした。理由はよくわかりませんが、のんびりした地中海の代名詞のような風土と気風は、生き馬の目を抜く競争の資本主義市場経済ではどうしても落ちこぼれ気味だったのでしょう。

それが貨幣経済が廃止された23世紀となりますと、俄然立場が変わりました。のんびりゆったりのギリシャ的なものは、一つの模範と考えられています。必要な物を必要なだけ生産し、あとはゆっくり休み、質素な生活を楽しむのです。

共産主義計画経済の時代、元劣等生のギリシャは優等生です。ただ、経済計画はやや大雑把で、需給関係のバランスを崩すことがたまにあるようなのですが、それもギリシャ流ということで、さほど問題視されないようです。

一方、かつて資本主義の優等生だったアメリカや日本、ドイツなどは、共産主義の時代にも健在ですが、どちらかと言えば地味な存在であり、ギリシャのほうが先進領域圏とみなされることもあるようです。

ちなみに、ギリシャは観光地として相変わらず人気ですが、老朽化してきた遺跡保護の規制が厳しく、観光名所の多くが立ち入り禁止となっています。この点も、めぼしい産業がないため、遺跡を売りに観光をドル箱としていた時代とは事情が異なります。

劣等生の時代からギリシャを贔屓にしていて、応援していた者としては、今、ギリシャが新しい時代の代表として評価されているのを見ると、駄目だった子の成長を見る親のような心境です。
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# by komunisto | 2015-06-30 16:28 | 経済
2215年6月24日

23世紀人の発想で当初いささか驚かされたことは、「癌死は格好いい」というような死生観を持つ人が少なからず見られることでした。そちら21世紀では癌は国をあげて世界的に征圧すべき「国民病」と言われているはずですから、驚かれることと思います。

以前ご報告したとおり、23世紀には癌自体が大幅に減少し、平均寿命も100歳台まで延びています。そのため、癌死者もそう多くないのですが、それでも癌死者は毎年確実に出ます。そうした中で死生観が大きく変わったのは、医療哲学の変化が要因と思われます。

これも以前のたよりでご報告したように、23世紀には臨床哲学士という専門職があり、そうした臨床哲学の重要な一分野として、医療哲学があります。例えば、癌に対してどう向き合うかといったことがこの臨床哲学の課題となります。

この問いに対して、23世紀には基本的に積極治療せず、自然の死期に委ねるという考え方が有力化しているのです。ばかな・・・と思われるかもしれませんが、このような考え方はすでに21世紀に提起されていたものの、癌は必ず治すべしという考えが支配的だった時代には、少数の異端説とみなされていました。

ところが、23世紀には西洋医学の枠組み内で漢方的な思想が再発見されていることで、特に外科治療を絶対視する思想が後退したのです(このことも、以前のたよりでご報告しました)。そのため、癌のような病変もできる限り切らずに治すか、そもそも積極治療せず、症状管理的な対応をするといった考えが医療界でも有力化しているわけです。

そのような事情から、癌死者はこうした新しい医療哲学の実践者として敬意を持たれることすらあるのだと思われます。それにしても、癌死の中には若年死も含まれますが、それが格好いいとは?

この点はよくわからないのですが、普通に健康であれば100歳までお迎えは来ないという長大な人生を生きなければならない社会では、案外、早めにお迎えが来た人は太く短い人生を生きた格好いい人という逆説的な死生観も生まれるのかしれません。
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# by komunisto | 2015-06-24 09:07 | 死生
2215年6月18日

23世紀の日本語はどうなっているの、21世紀の日本語は通じるのというご質問を受けました。実は21世紀からタイムトラベルしてきた当初、私も不安に思いましたが、間もなく不安は解消しました。日本語の骨格は、この200年であまり変わっていなかったからです。

近代以降に確立された標準語としての日本語は歴史的に定着しており、そのまま23世紀現在まで維持されていますので、タイムトラベルしてきた21世紀人にとっても、日常的に言葉で不自由することはありません。

ただし、日本語に特有の敬語体系はかなり廃れており、年長者に対しても、かつてなら「ため口」と非難されるような話法が一般化しており、戸惑うことはあります。敬語表現はよほど改まった場でしか使用されなくなっているため、現代では「敬語」ではなく、「儀礼語」と呼ばれるようになっています。

なぜ敬語表現が廃れたかについてはいろいろな議論がなされているようですが、やはり革命後、社会的な平等性が高まり、儒教的な伝統に由来する長幼の序の観念が希薄になってきたことが指摘されています。敬語は用法が難しく、誤用もしやすかったので、敬語表現が廃れてきたのは、日本語話者にとっては幸いなことかもしれません。

もう一つの変化は、ほぼ全員がエスペラント語とのバイリンガルであることです。これは以前のたよりでもご報告したように、学校での言語教育が大きく変わり、世界公用語となっているエスペラントの習得が義務付けられ、早期からエスペラント教育が徹底されているためです。

日本語における外来語の豊富さは相変わらずなのですが、外語教育の変化を反映し、かつては圧倒的に英語由来の外来語が多かったのが、現在ではエスペラント由来の外来語が多くなっており、例えば、バイリンガルもエスぺラントのdulingvaに由来するドゥリングワという外来語が使われます。

ちなみに、以前のたよりでは近隣外語一つを加えたトリリンガル(トリリングワ:trilingva)話者の育成が目指されているとご報告しましたが、ここまではなかなか理想どおりにいかないもので、実際に三言語を同等に使える人はまだ限られているようです。

さらに、これも別のたよりでご報告したように、手話も学校教育で必修となっているため、初歩的な手話はほぼ全員が習得しており、非障碍者同士でも少々おどけて手話で会話することもあるほど普及していることも、21世紀の言語状況とは大きく変化した点と言えるでしょう。
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# by komunisto | 2015-06-18 08:39 | 文化
2215年6月12日

前回のたよりで、23世紀における「持たざる文明」のことをご報告しましたが、それに関連して、今回は「持たざる文明」が法的な理屈にも反映されていることをご紹介しようと思います。

かつての人類にとって最も重要な法的観念はと言えば、圧倒的に所有権でした。すべては所有権に始まり、所有権に終わると言っても過言でないほど、人類は所有権が支配する世界に住んでいましたし、そちら21世紀の世界はいまだそうでしょう。

これに対して、「持たざる文明」の下でも、所有権の観念は否定されないものの、それは住宅とその内部で日常使用される生活用具にほぼ限局されているため、そうした所有物も含め、事実上所持しているという占有権が優先されるのです。

ですから、窃盗罪の理解も大きく変容しています。窃盗罪と言えば、かつては圧倒的に他人が所有する物を盗むことと観念されていましたが、今では、他人が所持する物を盗むことが窃盗罪なのです。

ちなみにもう一歩突っ込みますと、この場合、占有状態には所有権が推定されるから占有権をひとまず優先するという理解ではなく、所有権とは切り離された占有権そのものが優先されるのです。

どう違うかと言えば、例えば、前回も触れたように、リユースされている大型家電のように、借り物であっても、他人の家庭で所持している物を盗み出せば、他人の占有権を侵害したがゆえに窃盗罪となります。

さらに、その家電泥棒氏が自分の家に所持していた盗品をさらに他人が盗み出した場合でも、泥棒氏の占有権を侵害したがゆえに、それも窃盗罪となるというのです。このことは、まさに占有権が所有権と切り離されて保護されることを示しています。

では、家電を盗まれた被害者が自ら犯人の自宅を突き止め、こっそり取り戻した場合はどうでしょうか。この場合、他人の自宅に不法に侵入した住居侵入の罪は免れませんが、窃盗罪にはなりません。この場合も犯人の占有権は侵害されてはいますが、被害者との関係では、加害者の占有権は保護されないというわけです。

なお、いわゆる「万引き」に関しては、窃盗罪ではなく、「社会的物資横領罪」という資本主義時代には聞いたことのない罪に問われることについては、初期のたよりでご報告しています。
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# by komunisto | 2015-06-12 09:26 | 法律
2215年6月6日

そちら21世紀とこちら23世紀における文明の最大の違いは何かと問われれば、それは「持てる文明」と「持たざる文明」の違いだと言えます。21世紀は20世紀の延長で、持つことが最大の美徳であるような文明でした。それに対して、22世紀を大きな画期点として、23世紀は持たないことが美徳であるような文明に転換したのです。

20世紀後半から21世紀前半にかけて全盛期を迎え、そちらでは「グローバル化」の名の下に、全世界に拡大された資本主義は、持てる文明の最終的到達点であり、持って持って持ちまくれ!が合言葉であり、最大の持てる者=富豪はヒーローでした。

もっとも、21世紀には「断捨離」なる流行語のもと、物欲からの解放が擬似宗教的に説かれたりするようになりましたが、これには裏がありました。ここでの「断捨離」は、もともと不用品まで大量に所有していた持てる者が要らない物を捨てることを意味しており、もともと持たざる者にとって、断捨離も何もあったものではありません。

貨幣経済が廃止された今日、人類の物欲のほぼ100パーセントを占めていたカネというものを知らない世界にある意味原点回帰したわけですから、言わば文明そのものが「断捨離」されているのです。

それは精神論にとどまらず、地球規模での計画経済とそれに基づく計画的な経済協力が実施されることで、政策的にも確証されています。従って、毎日大量のゴミが発生・廃棄されるような無軌道な大量生産はあり得ない話です。

ただし、所有権の観念が消滅したわけではありません。日常の生活必需品の多くは、今日でも個人の所有物ですが、以前のたよりでも報告したように、リサイクルを前提としたリユース制が行き渡っており、特に大型家電は法律によりリユースが義務づけられています。もちろん、使用料は一切かかりません。

また、これも以前のたよりで報告したとおり、土地は誰にも属さない自然の無主物という扱いですが、土地の上物としての建物は私有が認められています。ただし、これまた以前のたよりで報告したように、持ち家比率は40パーセントほどに下がっています。

このように物欲の法的表象であるところの所有権の観念が狭く限局されているのも、持たざる文明の帰結です。従って、21世紀以前とは正反対に、23世紀の文明にあっては、持たざる者こそがヒーローです。テレビの情報番組でも、今や「豪邸」の紹介ではなく、余分な物を持たずに持続可能かつ効率的に生活している家庭の紹介が人気です。
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# by komunisto | 2015-06-06 09:08 | 文化
2215年5月31日

そちら21世紀日本の5月は、春季運動会の季節でしょうか。20世紀には運動会は秋とほぼ決まっていたのですが、21世紀には春が増えたそうです。理由は残暑による熱中症を防止するためとか、行事の分散化を図るためとか、受験勉強の妨げにならないようにするためとか、いろいろ言われているようですが、よくわかりません。

こちら23世紀日本ではどうかと言えば、そもそも運動会という学校行事自体がありません。運動会好きには寂しいかもしれませんが、私のような運動音痴には羨ましい限りです。ついでに言えば、修学旅行という定番行事もありません。これも、集団旅行苦手の私には羨ましい限りです。

要するに、23世紀の学校には全員参加型の行事というものが、ほとんどないということになります。あるのは入学式と卒業式くらい、学期ごとの始業・終業式もクラス単位の自由形式で行うだけと聞きます。

学校ごとに多少の違いはあったでしょうが、合唱コンクール、学習発表会、社会科見学等々、学校行事は毎学期何かしら組まれており、教師も生徒も準備やリハーサルなどで多忙だった学校時代を思い出すと、23世紀の学校とは、私どもが通った学校とはまるで別世界のようです。

23世紀型学校生活はずいぶんと簡素化されていることになりますが、これは、学校という場の存在理由が大きく変化したためです。かつての学校ではとかく「集団生活」への適応が強調され、悪く言えば子供たちを家から引っ張り出して昼間強制収容する場だとも言えたわけです。

従って、全員参加型の学校行事も単なる息抜きや娯楽ではなくして、集団としての団結心や集団における協調性を養うためといった教育目的の下に、長く続けられてきたものと考えられます。

それに対して、23世紀の学校は個別的に子供たちの資質を発見し、伸ばす場となったのです。そのため、以前の記事でも報告したとおり、学校はどの学年でも通学制/通信制を選択できるようになっており、通学制課程にあっても、集団性より個別性が優先されますから、カリキュラムの自由度が高く、行事も最小限なのです。
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# by komunisto | 2015-05-31 09:25 | 教育
2215年5月25日

23世紀に消えたものシリーズ、今回は精神病院です。精神病院と言えば、そちら21世紀の日本は依然として入院患者30万人を数える世界に冠たる精神病院大国ですね。ところが、200年後の現在、精神病院入院患者は長期に限れば0人です。

そもそも精神病院という制度自体が廃止されて久しく、最後の精神病院が閉鎖されたのが約80年前ですから、これは一つ前の22世紀中の医療改革の成果でした。精神病院廃止は、「近代的」な精神病院制度ができる以前の「座敷牢」廃止に次ぐ第二の精神医療革命とも呼ばれています。

海外では、もっと早くに精神病院を廃止していたところも多いので、日本はこれでも遅かったくらいですが、その要因は精神障碍に対する差別意識でした。22世紀初頭の革命は、こうした日本に根強い差別意識の根絶を結果する大きな画期点でもありました。

ところで、精神病院がないということは、精神医療が提供されないことを意味しません。現在、精神科という診療科は存在せず、通常は総合神経科という名称の下に、旧精神科と神経内科とが統合されています。

精神医学と神経医学は今日でも別個の学術として個別に研究されているのですが、現在、脳の画像診断技術が進み、精神疾患でも画像診断ができるようになってきたことに加え、神経病でも精神症状が出ることは少なくないことから、臨床の現場では精神医学と神経医学が統合され、総合神経科という新しい診療科が生まれているわけです。

ただし、現在でも精神科の入院治療がないわけではありませんが、それは急性症状が発現している場合で、入院期間もせいぜい10日程度の集中治療です。また、かつて人権侵害的制度として悪名高かった強制的な措置入院制度も廃止されています。

ちなみに、アルコール・薬物依存症に対しても入院治療は不要なのかということですが、23世紀にはこうした依存症自体が激減しており、極めて例外的な治療施設として依存症専門病院が見られる程度です。しかしこれも精神病院ではなく、心療内科病院です。

21世紀には薬物依存を中心に世界的に深刻な社会問題ともなっていた各種依存症の激減は、23世紀における世界共通現象としていろいろな角度から研究もなされているようですので、機会を見てこの問題についてもご報告してみたいと思います。
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# by komunisto | 2015-05-25 07:28 | 衛生
2215年5月19日

23世紀の社会では、200年前には一般常識的に皆がよく知っていた様々な文物制度が廃れていることはこれまでにもいくつかご報告してきましたが、司法の分野では、犯罪の被疑者の公訴を主要な任務としていた検察制度が廃止されています。代わって、民衆公訴制度というものが導入されているのです。

民衆公訴制度とは、犯罪の被疑者の公訴を市民から抽選された陪審員が決定する制度をいいます。そのような陪審のことを起訴陪審とも呼びます。これは起訴された事件を法廷で審理し、判決する審理陪審に対する用語です。

警察が捜査を終えた事件は、いったん管轄の裁判所に送致され、そこで改めて起訴陪審が招集されます。陪審員の任務は民衆会議代議員免許取得者の場合は義務的ですが、それ以外の市民の場合は理由をつけずに辞退することができます。

起訴陪審は23人という大人数から成り、審理は非公開で行われますが、被疑者は弁護人の同席・助力を求める権利が保障されます。起訴陪審の起訴決定は多数決によりますが、12対11という一票差の僅差決定での起訴は認められず、13人以上の賛成という特別多数決によります。

ただし、このように起訴陪審が招集されるのは一定以上の重罪事件に限られ、軽罪の場合は予審判事という予備審理専従の裁判官が起訴を決定します。

どちらの流れにせよ、起訴が決定されると、事件は公判に付せられます。その後、法廷で旧検察官の役を担うのは、民間の弁護士から選任された民衆側代理人です。正式には公訴代理人と呼ばれるこの職務は弁護士の公的義務とされていて、事件ごとに裁判所から弁護士会を通じて割り当てられることになっています。

公訴代理人は原則として一件に付き二人選任され、コンビで当たりますが、大きな事件の場合は三人以上の公訴代理人が選任され、チームで当たることもあります。

以上のような処理がなされるのは一定以上の犯罪の場合で、微罪になりますと、起訴は所轄の警察署長が直接に行います。そして、こうした微罪裁判では公訴代理人は選任されず、裁判官と被告弁護側だけの簡易裁判で処理されます。

このように検察制度が廃され、民衆公訴制度に移行した理由として、民衆主権の原理があります。この原理は政治のみならず、司法にも及びますから、国家が検察官を通して公訴を担う古典的な国家訴追の制度は廃されたわけです。

ちなみに、周囲の人に旧検察制度のことを尋ねてみると、半分ぐらいが「聞いたことはある」との答えでしたが、そのイメージを尋ねると「古い」「後進的」といった回答が大半を占めました。どうやら23世紀人にとっての旧検察制度は、21世紀人にとっての「お奉行様」みたいなイメージを醸し出すようです。
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# by komunisto | 2015-05-19 09:43 | 司法
2215年5月13日

先月の記事で、23世紀の問題発見型教科書についてご報告しました。その後、記事では触れていなかった教科書検定制度はどうなっているのかというご質問を21世紀の読者からいただいていました。遅れましたが、お答えします。

23世紀に教科書検定制度はありません。といっても、オール自由化というわけではなく、全土で統一教科書を使用しているからなのです。それでは究極の検定、教科書統制では?と思われるかもしれません。

しかし、前回記事でご説明したように、23世紀型教科書は既存知識体系を教え込むのではなく、問題発見の手助けをするツールであるため、統一教科書を使用しても、特定見解の刷り込みになるようなことはありません。同一教科に何種類もの教科書は必要ないのです。

教科書自由化とは、実は教科書販売の自由化を意味しており、教科書を手がける出版資本の自由な売り込み競争に委ねることを意味します。そこでは、生徒の教育的な利益は二次的な関心にとどまります。教科書採択をめぐる癒着・汚職も起こるでしょう。

23世紀の教科書は統制でも営利でもなく、純粋に教育的な観点から、日本学術会議傘下の中央教科書編纂委員会という機関が各界の中堅研究者を集めて、教科ごとに編纂しています。

また言語教育と科学教育に関しては、ユネスコの後身である世界教育科学文化機関が世界統一の指導指針を数年ごとに改定して各領域圏に提示し、これをもとに各領域圏で教科書を編纂する体制が採られています。

こうした世界的な統一教育という発想はまさに世界共同体ならではのことでして、全世界統一指針をもって、世界公用語であるエスペラント語や科学分野(数学や社会科学を含む)の教育が世界共同体全域で統一されることが期待されているわけです。

ところで、先進的な領域圏の中には、そもそも教科書という制度自体を廃止し、教科ごとの指導指針だけを提示し、後はすべて教師の独自教材に委ねているところもあります。日本でもそうした議論はありますが、伝統的な教科書の制度はなかなか手放せないようです。

ちなみに、私学ではどうしているのでしょうか。実は、公教育制度が完備した23世紀に私学はほとんどありません。例外的な私学でも、正規の学校として認可されるためには、統一教科書に基づく教育が義務付けられています。
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# by komunisto | 2015-05-13 09:21 | 教育
2215年5月7日

23世紀の経済史の本によると、日本社会では永く年功序列が維持されていたところ、21世紀に入ると能力主義が強調されるようになり、徐々に年功序列は崩れていったと説明されています。

2015年の日本はまだ過渡期と思われますが、2050年の日本では年功序列は完全に崩壊していたようです。ところが、2215年の今また年功序列は復活しており、ほぼすべての組織が年功序列によっているとされます。このような復古はなぜ起きたのでしょうか。

ここにはやはり経済体制の変化が絡んでいるようです。何度も報告しているように、23世紀は貨幣経済が廃止された共産主義体制をとっております。労働はすべて無償のボランティアにより、23世紀人は労賃というものを全く知りません。

能力主義とは労賃を年功に比例させず、能力に基づかせる方法をいうわけですが、結果として労賃によって定まる職階も年功でなく、能力によることになり、部下より年次が下の上司というものも存在してきます。

これによって、ある種和気あいあいとした雰囲気を特徴とした日本の組織―特に企業組織―は次第に殺伐としたものとなり、労働者のストレス障碍なども急増したと、史書には記されています。競争淘汰的な雰囲気が強まったせいでしょう。

ところが、賃労働が消滅した現在、能力を労賃に反映させることはそもそも想定できません。それでも、能力主義の職階制をとることはなお可能ですが、23世紀にはそういう習慣もないようです。職階も年功によるため、年次が下の上司はまずいません。

ただし、終身雇用習慣は廃れて久しく、転職は普通のことなので、ここで言う年次とは前職場での在職年数なども合算した広い意味での経験年数のことです。

能力主義が称揚されていた頃は、年功序列は組織の活力を失わせるなどと宣伝されていましたが、現在このような批判はありません。むしろ、年功序列は組織の安定と持続を担保し、労働者の心身の健康にも寄与するという効用が説かれています。

能力主義はまさに資本主義的な競争至上主義の哲学を前提とした資本主義的組織論であったのですが、競争ではなく協働を重んじる共産主義的組織論は安定的な年功序列を再発見したのでしょう。
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# by komunisto | 2015-05-07 11:22 | 経済
2215年5月1日

今回はいかめしいタイトルの記事ですが、23世紀の社会の特質を学者はしばしばこのように表現しています。本質的に福祉が埋め込まれた社会といった意味になります。つまり、23世紀の社会はあえて福祉対策をあれこれ採らなくとも、福祉は実現するということです。

そのこともあって、23世紀の社会には特にこれといった福祉政策の目玉が少ないので、この通信でも福祉カテゴリーに分類される報告記事は、生活カテゴリーの報告記事と比べても少なめとなっています。

資本主義時代にはなぜ福祉が叫ばれたかと言えば、何事を為すにも必須アイテムである貨幣の持ち高が少ないと生活が困難になるため、低所得者向けの様々な福祉的支援策を必要としたからです。

国家が税を課して福祉政策を充実させる「福祉国家」が理想とされた時代もありました。しかし結局のところ、資本主義は福祉の世話を必要としない有産者に重税負担を求める福祉政策とはどうしても相性が悪く、福祉国家も溶解・解体が進みました。

そちら2015年の日本も、伝えられるところによると、様々な福祉負担の増大、またはサービスの削減により、元々弱かった福祉政策がいっそう縮減されていこうとしているようですが、これは資本主義社会では必然的な流れと言えます。

この点、貨幣経済が廃止された現在はそもそも生活原理が一変しています。貨幣なしでも必要な衣食住はすべて無償供給制でまかなえるのですから、そもそも貧困という現象は過去のもので、この用語はほぼ死語となりました。

医療も高度な治療を含めてすべて無償ですから、医療保険のような補填制度に頼る必要はありません。病気や障碍で働けなくなっても、生活は成り立ちます。死後に遺族が生活に困らないようにと、生命保険に入る必要もありません。

退職者の年金制度も必要なく、基本的には望む年齢まで働き、望む時にリタイアすることができますし、リタイア後の生活に困ることもありません。高齢になり介護が必要になっても、無償で介護サービスを受けられます。

このように貨幣経済廃止を基点として、福祉がすべて初めから組み込まれていることが、本源的福祉社会の意味です。人類はどうしてこの単純な原理に長い間気がつかず、貨幣制度の発明から何千年もかけてようやく廃止したのか、今となっては不思議なくらいです。
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# by komunisto | 2015-05-01 09:17 | 福祉
2215年4月25日

先日、23世紀日本の持ち家比率は約40パーセントで、過半数の60パーセントは借家だというデータを見かけました。一方、そちら2015年に最も近い2013年度のデータによると、持ち家比率は約60パーセント、借家は約35パーセントとされていました(残り5パーセントは不明)。

この結果は、いささか意外でした。貨幣経済が廃止され、住宅建設も無料となった23世紀の今、大半は持ち家に住んでいるのはないかと想像していたからです。実際には逆で、この200年の間に持ち家と借家の比率はほぼ逆転していたことになります。これはどうしたことでしょうか。

いろいろ調べてみると、以前の記事でお伝えしたように、23世紀の社会では自治体が提供する公営住宅の制度が充実していることに行き着くようです。23世紀の公営住宅はもはや低所得層向けの福祉住宅ではなくして、より大衆的な一般住宅として普及しているからです。

それに加え、23世紀の環境的持続可能性に配慮された環境計画経済下では、土地私有制度が廃され、無計画な商業的宅地開発というものが一切行われておりません。個人が持ち家を建築する場合は、土地管理機構から土地を借り、指定された方法で環境調和的に施工しなければならないといった制約がかかります。

そういうわけで、現在マイホームを夢とする人はあまりおらず、よほどお仕着せの公営住宅では満足できず、自分の好みの設計で戸建てを建てたいという希望の強い人だけが、上述のような制約を甘受してでもマイホームを建てるようなのです。

ちなみに、21世紀には分譲マンション型の集合的持ち家というものもありましたが、23世紀にはこのような型の持ち家はほとんど聞いたことがありません。シェアハウスのようなものはあるようですが、それは普通の戸建て住宅を仕切って共有するようなタイプのものです。

また貨幣経済の廃止により、家を有償で貸して賃料収入を得るという賃貸事業も成り立ち得ませんから、民間の借家もほとんどなく、上述の60パーセントの人たちの大多数も公営住宅に居住していることがデータ上も示されています。

21世紀人からすると何と味気ない住宅事情よと思われるかもしれませんが、23世紀の公営住宅は画一的なコンクリート建築ではなく、外観・内装ともに芸術的な価値も十分に認められるようなお洒落な設計になっていますから、かえって下手なマイホームを建てるよりいいのかもしれません。
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# by komunisto | 2015-04-25 17:24 | 生活
2215年4月19日

かつて様々な専門職が広い意味での「資格制」になっていた時代がありました。特に日本はおそらく世界一の「資格社会」で、多種多様の職が資格化され、資格試験への合格が社会へのパスポートになっていました。まだ21世紀に生きる方々は実感できるでしょう。

しかし、現在23世紀はもはや資格社会ではなくなっています。もちろん医師、看護師など医療系専門職のようなものは依然として資格制(免許制)で、しかも医師免許などは一度取得すれば終身間有効な特権ではなく、一定期間ごとに更新されていくというように厳格化されています。

また以前の記事で紹介したように、歯科予防師とか、臨床哲学士児童保護士などといった23世紀ならではの未来資格も生まれています。

その一方で、かつて無数に林立していた業界資格的なものは多くが廃止されています。業界での技能評価は就職後、実地で行われ、形式的な資格証明によるのではありません。

思うに、かつて資格が隆盛だったのは、旧来の身分制社会が崩れ、多くの職業が世襲制や徒弟制ではなくなった反面、所定の職業能力を簡単に証明でき、かつ組織内研修の手間を省ける手段として、「資格」が利用されていたのでしょう。結果として、今度は「資格」によるある種の身分制社会が立ち現われており、その傾向は資格林立社会の日本で特に顕著化していたのでした。

現在、かつて皆が「資格」取得に奔走させられていた時代を、少し皮肉を込めて「士師時代」と呼んでいます。「士師」とは、今でもそうですが、日本の各種資格には「士」または「師」の付くものが多いため、それらを併せて「士師」と呼ぶようです。

23世紀が「士師時代」でなくなった理由として、一つには他目的大学校のように一度社会に出た後、いつでも必要に合わせて実用的な科目を学べる生涯教育制度が確立されたこと、また各職場ごとの内部研修制度が充実していることが挙げられます。

「士師」となるために個人の費用負担で資格取得に必要な、時に長期に及ぶ「受験勉強」に追い立てられる代わりに、実質的な技能習得・向上のための社会的な諸制度が確立されているのも、貨幣経済の廃止という人類的な大決断の成果と言えるようです。
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# by komunisto | 2015-04-19 09:30 | 経済
2215年4月13日

23世紀的システムの中でちょっと変わっているのは、電話のシステムです。現在でも、電話には固定型と移動型(いわゆる携帯)があることは変わらないのですが、固定電話と携帯電話の機能分化がより明確にされているのです。

固定電話は、家庭用としては公共機関等への事務連絡用途に限られています。例えば、警察・消防・救急への緊急連絡や災害伝言、その他の事務的な連絡用です。そういうものとして、固定電話は各世帯に必ず一台給付されます。また各種事業所には業務用固定電話が設置されていることも変わりありません。

こうした固定電話は日常の個人連絡用には使えない仕様に作られており、個人的な連絡用としては携帯電話に一本化されています。興味深いのは、行政手続き専用の携帯電話も18歳以上の市民には必ず一台ずつ給付されることです。

このようにして、23世紀の電話は固定、携帯ともに自動的に給付されるシステムとなっており、これらの給付される電話を総称して「給付電話」(給電)と呼びます。給電は正当な理由がない限り電話番号の変更ができません。

こうした給電だけでも十分生活は可能ですが、給電は番号変更の自由が制限され、機能も限られているため、多くの人は自分専用の携帯電話をもう一台所有し、ネット接続などはこちらでするという人が多いようです。

こうした自由所有の携帯電話は高機能化されており、携帯電話というより、携帯パソコンに近いので、テレコン(テレコンプティーロ:エスペラント語)と通称されています。

ちなみに、たびたびご報告しているとおり、貨幣経済が廃され、すべてが無償供給される23世紀社会では、電話料金もかからず、完全無料です。ただし、調子に乗って過度にかけ放題をすると、前触れなく通信遮断措置をかけられます。

また電信電話サービスは固定型も移動型もすべて日本電信電話機構という公企業が一括して担っているため、あまたある携帯電話会社のリストからどこにしようかと選択に迷うこともありません。無償なら独占企業体で十分なのです。
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# by komunisto | 2015-04-13 10:21 | 情報
2215年4月7日

2015年4月の日本では、中学校の全社会科教科書で領土に関する記述が増量されるなど、政府見解に沿った教科書検定が一段と厳しくなったとの不穏な報道がありました。愛国主義路線に則った教科書統制策でしょう。

少し歴史を先取りしておきますと、こうした「愛国」教科書で教育された子供たちが中年に達し、政治家や文科官僚として指導的地位に就き始めた2050年代になると、教科書統制はいっそう強化され、政府見解以外の見解の掲載禁止、政府見解に批判的な見解を教えた教員の処分など抑圧の嵐が吹き荒れることになります。

言論全般への抑圧も広がり、反愛国的言論の警察的取締りも行われました。23世紀から振り返って、革命前のこの時代は、20世紀前半期に次いで公然と思想統制が行なわれた「ネオ・ファシズム」の時代として記憶されています。

それから革命を経て23世紀に到達した現在、教科書はどうなっているでしょうか。以前の記事でもご報告したとおり、23世紀の教科書はオール電子化されており、紙書籍の教科書は過去のものです。

問題は電子教科書の中身ですが、生徒の一人から見せてもらって驚きました。昔の教科書と異なり、とても記述が簡単です。解説調の長文は一切なく、ただ必要最小限の情報が与えられ、あとは自分で問題を発見するように作られています。与えられた問題に解答せよ、ではなく、与えられていない問題を作成せよ、という趣旨です。

ここには、教育理念の革命的な変化が反映されています。すなわち、教育とは生徒に既存知識体系を暗記させることではなく、生徒自身の知の探求を手助けすることだというのです。比喩的に言えば、軍隊的行軍から森の散策への変化でしょうか。

当然、政府見解の強制などあり得ません。もっとも、以前の記事でご報告したとおり、23世紀には政府という機関はなく、民衆会議あるのみですから「政府見解」なるものも存在し得ないのですが。

こうした問題発見型教科書で教育される23世紀の生徒たちは、知的探究心と自由な創造性に富んでおり、萎縮し、ロボットのように政府見解を暗唱する21世紀の生徒たちとはまるで別の生き物のように感じられるでしょう。
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# by komunisto | 2015-04-07 15:25 | 教育
前回、ウィリアム・モリスを話題にしましたが、モリスは社会の「システム過剰」に批判的で、単純素朴な田園社会を理想と考えていました。その点、23世紀の未来社会はシステム過剰気味ではないか、という疑問を続けていただきました。

たしかに、前回もご報告したように、23世紀社会はモリス的田園ユートピアではありませんから、単純素朴とはいかず、かなりシステマティックに構築されている印象を受けるかもしれません。しかし、筆者がかつて生きていた21世紀社会に比べれば、システムは緩和されていると感じます。

システム化が高度に進んだ21世紀社会の仕組みは錯綜し、全体像が見えなくなっていました。そうした錯綜の元は、市場経済機構の複雑化と、行政機構の肥大化であったと思われます。金の複雑な流れ―ことに金融―、そして法と権力の複雑な体系が迷路のような社会を作り出していたのです。

21世紀の学者たちは、こうした社会の高度なシステム化をあたかも「進歩」の証しであるかのようにみなし、モリスのように批判的に見ることはありませんでした。

その点、23世紀社会は、経済的には計画経済を機軸とした非貨幣経済でまとまり、政治的にはすべてが民衆会議に集約されています。簡単に言えば、商業と金権政治が消滅したわけです。それは、以前の記事でもご紹介したように、透明感のある社会の元にもなっています。

その結果、社会のシステム化は抑制され、見えやすいものになっています。こうして社会のシステム化が抑制されていることを、23世紀の学者たちは「システム緩和」と呼ぶようです。現在では、こうしたシステム緩和こそが進歩の証しとみなされています。

すなわち、できる限り簡明なシステムをもって高度な産業/情報社会を維持していくことこそが、新たな進歩の方向性だと考えられているのです。今回は、ややメタなご報告となりましたが、23世紀社会を理解するうえでのご参考まで。
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# by komunisto | 2015-04-01 10:28 | 社会
2215年3月26日

『未来社会だより』という当ブログのタイトルについて、これは19世紀英国のアーティスト・作家で社会活動家でもあったウィリアム・モリスの代表作『ユートピアだより』に着想を得たものではないかとのご指摘を21世紀の読者より受けました。

慧眼と博識に敬意を持ちます。モリスの名は21世紀には一部の人々の間でしか知られなくなっていましたので、それをご存知であったとは、相当な方です。たしかに、タイトルは同書から着想を得ました。ですが、内容はかなり違います。

モリスの「ユートピア」は、明らかに全員平等の共産主義的田園ユートピアを想定しています。それは彼が生きていた19世紀後半の英国が世界に先駆けて歩んでいた資本主義産業社会への鋭いアンチテーゼでした。

そのため、モリスの「ユートピア」は結局のところ、一人称主人公の夢幻であったことが結末で明かされます。その終わり方はいささか寂しさを感じさせ、所詮ユートピアなどかなわぬ夢にすぎないのだというペシミスティックなメッセージを読み取ることすら不可能ではありません。

これに対して、当ブログでご報告している23世紀未来社会は、これまでの通信からも明らかなように、高度な共産主義的産業・情報社会であり、農業・手工業中心のモリス的「ユートピア」とは大きく異なります。

23世紀社会は、「ユートピア」=どこにもない理想社会ではなく、23世紀の地球世界に遍く実在する未来社会、理想と現実が統一された未来現実です。それは21世紀までの資本主義産業社会と全面で対立するものではなく、旧時代の成果をもより高い次元で継承した後続社会でもあるのです。

当ブログの各通信では、そうした旧時代からの継承面と革新面とをできるだけ明瞭に切り分けて報告するよう努めてきましたので、そのあたりはある程度お読み取りいただけるかと思います。

このようなモリス的ユートピアとの相違点を別としても、モリス『ユートピアだより』は21世紀時代の私のお気に入りでした。マルクス『資本論』―こちらはある意味、資本主義的ディストピア文学としても読めます―よりも面白く感じたくらいでした。

ちなみに、23世紀の現在、モリスは作家よりもアーティストとして再発見されており、デザインの世界で「新モリス派」が形成されています。『ユートピアだより』については、民主的な農村自治体のあり方として参照されることはあるようです。
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# by komunisto | 2015-03-26 09:33 | 思考
2215年3月20日

遺憾なことに、21世紀は、23世紀から振り返って「テロの世紀」と呼ばれています。何しろ、21世紀最初の年2001年は、資本主義の象徴ニューヨークの世界貿易センタービルを倒壊させたまさに空前の航空突撃テロで幕を開けたのですから。

テロの犠牲はどれも悲惨ですが、中でも観光客の巻き添え死は気の毒です。21世紀は同時に「観光の世紀」でもあり、各国が競争のように観光のビジネス化を進め、観光ブームが起きていましたから、観光客がテロに巻き込まれる危険も増していたのです。

めぼしい産業のない国やすでに斜陽化している国にとっては、観光客の落としていく金は重要な恵みでしたが、一方で観光客の落し物は金だけではありません。ゴミや汚物も落としていきます。それは環境悪化の要因となり、また重要遺跡の汚損等の原因ともなります。

世界遺産云々といって多額の費用を要する保存を義務付けながら、一方で観光による劣化については知らぬふり。こうしたポリシーに、21世紀時代の筆者はどこか偽善を感じていました。

では、23世紀の観光やいかに?以前の記事で、世界が一つになった23世紀には、国というものがなく、従って国境もないので、世界旅行は完全自由というご報告をしましたが、これには重要な留保があります。

たしかに世界共同体を構成する各領域圏は原則出入り自由なのですが、観光目的の入領には毎年何人までと上限を設けるのが決まりです。一方で、長期滞在目的での入領に特段の制限はないのです。これは、21世紀までのやり方とは正反対ですね。

このように観光のような一時滞在目的の入領を制限する理由として、遺跡や保護区の環境保全もあるのですが、もう一つの重要な理由として、これも以前の記事でご報告した貨幣経済の廃止もあります。

現在、どの領域圏でも貨幣なしにあらゆる物が手に入る一方、物の生産量には自ずと限界がありますから、海外から押し寄せる観光客の大量取得による物不足という事態を防ぎたいわけです。

かくして、23世紀の観光は旅行会社を通した商業観光ではなく、各領域圏観光局が直担管理する上限付きの「管理観光」の形をとります。従って、人気の高い領域圏では何年も先まで予約待ちという「行列」ができることも珍しくありません。
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# by komunisto | 2015-03-20 10:49 | 政治
2215年3月14日

以前の記事で、選択的通学制を採る23世紀の学校は生活人として必要/有益な素養の涵養に重点を置き、社会性の涵養については、学校制度と切り離して地域少年団活動が担うと記しました。

この地域少年団というのは、21世紀人には耳慣れないものですが、類似の活動としてはボーイスカウト・ガールスカウトに近いかもしれません。ただし地域少年団は各市町村が所管する公式の制度で、スカウトのように軍隊活動のアナロジーではなく、むしろ非軍事的な自然観察活動のようなものです。

従って、スカウトのような制服の着用はなく、私服で活動します。しかも、単なる任意のクラブ活動ではなく、満8歳から15歳までの少年少女全員が加入を義務付けられる野外活動です。団は各市町村の地区ごとに編成され、数名の成人が指導員として配置されます。

年齢構成は学校と異なり、横断的で、如上の年齢層に含まれる地域の子どもたちが包括的に含まれます。そうすることで、地域の子どもたちの間で擬似きょうだい関係を設定し、社会性を涵養することが目的とされます。

具体的な活動内容は、主に週末を利用して、日帰り、時に一泊で田園や高原、海岸など比較的安全かつ自然環境の豊かな場所で散策活動をします。内容的には自然環境教育に近く、従って指導員もスポーツ指導者ではなく、自然レンジャーのような研修を受けた人が充てられるとのことです。

ただ、活動は授業そのものではないため、「勉強」というよりもレジャー的な要素が強く、近隣地域の子どもたちが遊びを通して社会性を身につけ、併せて23世紀世界の共通原理でもある環境的持続可能性を体得できるように工夫されています。

この活動は義務的ですから、学校では通信制を選択して日頃は自宅学習している生徒も少年団活動には参加しなければなりません。障碍のある子どもも、医学的に参加不能な状態でない限り、平等に参加するため、健常児と障碍児が触れ合ったり、介助したりということがごく自然に行われ、障碍者のインクルージョンにも一役買っているとの指摘もあります。

ところで、週末の子どもたちは塾や習い事に多忙で参加できないのでは?という心配は無用です。人生設計の自由度が驚くほど高い23世紀には、塾や習い事に駆り立てられる子どもは皆無なのです。
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# by komunisto | 2015-03-14 11:13 | 社会
2215年3月8日

23世紀から振り返りますと、21世紀は中国の世紀でした。中国が米国と並ぶ超大国として台頭してきたのです。あれから200年、世界共同体という新たな世界システムの下、以前の記事で報告したように、旧米国は北アメリカ領域圏とアメヒコ領域圏に分割されていますが、中国はどうなっているでしょうか。

23世紀の中国は、中華連合領域圏という正式名称を持つ領域圏に姿を変えて存続しています。連合領域圏とは、かつての連邦制に近い構成体で、高度な自治権を有する複数の準領域圏がまとまって一つの領域圏を構成するものです。中華連合の場合は、現時点では20の準領域圏で構成されています。

領域圏は旧世界人には御馴染みの「国」ではないので、もはや「中国」という略語は使われず、中華連合領域圏を縮めた「中連領」もしくは「中連」という略語が使われるのですが、21世紀の読者にもわかりやすくするため、記事タイトルでは「中国」という旧語を用いておきました。

ちなみに、かつて分離独立運動も盛んで中国当局との衝突もしばしば起きていた西方のチベットとウイグルの両自治区は、それぞれチベット領域圏、ウイグル領域圏として独立の領域圏を構成しつつ、中華連合領域圏とは緩やかな合同領域圏―正式名称はチャイナ‐チベット‐ウイグル合同領域圏―を形成しています。

また台湾については、大陸と平和裏に統合され、中華連合領域圏を構成する準領域圏の一つ(台湾省)として存続しています。

こうした再編は、すべて21世紀末乃至22世紀初頭の世界革命の後、貨幣経済が廃止され、もはや経済的な利害関係にとらわれることなく、民衆の自発的な意思と平和的な協議により一滴の血も流さずに行なわれたのですから、旧世界人にとっては奇跡のように思えます。

ところで、近代中国と言えば共産党と切り離せませんが、中国共産党は現在解散されています。といっても、共産主義でなくなったからではなく、「共産主義が実現されたから」です。これも、一見奇妙なことなのですが、地球が共産化され、グローバルに共産主義が実現された現在、共産党は役割を終えたのです。

現在の中華連合では、世界共同体のシステムの下、各領域圏共通の標準制度となっている民衆会議が基本的な政治制度となっている点では、他の領域圏と変わりありません。ただ、人口は21世紀よりは若干減少したものの、なお10億人を擁する世界最大の領域圏です。

世界最大といっても、連合領域圏における準領域圏の自治権は相当に高度であるため、20の準領域圏はそれぞれが小さな領域圏のようなものですから、現在の中華連合は20の領域圏に分割されたに等しいものです。もちろん、これも民衆の自発的な意思によるもので、帝国主義的な分割とは全く異なるものです。
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# by komunisto | 2015-03-08 11:31 | 政治