2215年8月29日

23世紀の法律で興味深いのは、通貨偽造罪ならぬ通貨製造罪なる罪があることです。つまり偽金を作ることではなく、そもそも通貨を作ること自体が犯罪行為とされているのです。このことは、これまでにもご報告してきたとおり、貨幣経済が廃されていることの法的な帰結と言えます。

その点、そちら21世紀にはまだ常識中の常識であろう貨幣経済においては、通貨製造及びその流通は経済運営にとって必須である一方、通貨を偽造して流通させることは重大な犯罪として処罰される仕組みになっています。

貨幣経済が廃されているということは、物やサービスが貨幣と交換で取引されないことを意味しますから、通貨という媒介的流通物は存在し得ないということになります。存在し得ないということは、事実として存在しないばかりでなく、法的にもあってはならないことを意味します。

よって、法律上もおよそ通貨を製造することは罰則をもって禁じられているのです。この罪は貨幣経済における通貨偽造罪に相応する重罪とみなされています。ただし以前のたよりでご報告したとおり、23世紀には刑罰制度は存在しないため、通貨製造罪に科せられる処分は、没収及び最大5年の社会奉仕命令です。

紛らわしいのは、物々交換取引において事実上通貨的に機能する特定物や特定取引においてのみ通用するクーポンのような媒介物は通貨に該当しないかどうかですが、裁判所の判例により、これらは通貨に該当しないとされています。

そのため、貨幣経済の廃止とは、文字どおり通貨による交換経済の廃止という趣意であって、およそ交換経済の廃止(純粋贈与経済)を意味していません。ですから、これも以前のたよりでご報告したように、物々交換は結構盛んに行なわれています。

貨幣は現在一種の骨董品として、収集家たちの間でドルや円をはじめそれこそ世界中の廃貨が物々交換されています。切手の収集と同じようなものです。ちなみに、郵便料金前納証明書としての切手という制度も郵便無償化により廃止されていることも、ついでにご報告しておきましょう。
[PR]
# by komunisto | 2015-08-29 09:21 | 法律
2215年8月23日

以前のたよりでもご報告したように、23世紀には臨床心理士が開業運営する臨床心理クリニコが少なくないのですが、同時に臨床哲学士という相談専門の哲学者も存在しているのでした。

この両者はどちらも心の悩みの相談に乗る点では、似たような仕事をしているのですが、資格としてはまったく別ものです。どのように違うのでしょうか。

まず心理士のほうはすでにそちら21世紀にも見られる心理士と同様、心理療法の専門家ですが、主に行動療法を行ないます(細かいことですが、より深く心の内奥に踏み込む精神分析は現在、医師の専権とされています)。

それに対して哲学士のほうは、より広く人生や死生観に関する悩みの相談に応じる新しい仕事です。そのため、病院やホスピスのような医療機関に在籍して患者の相談に乗ることも多いようです(開業や出張サービスをしている人もいます)。

このように二種の相談専門家がいるので、悩みを抱えた場合どちらにいくべきか迷いも生じると思われますが、大雑把に言って、正常な心の悩みについては哲学士、やや病的な心の悩みになると心理士という振り分けがあるようです。

これは23世紀の心理士が医療系の資格とされ、専門性も向上していることに関係しているようです。心理士が扱うのは、精神疾患一歩手前のような状態なのです。一方、哲学士のほうは人文系の資格であり、人生相談のような領域を担当しています。

ちなみに心理士の学問的素養の基礎にある心理学自体、現在では身体の生理学に対応する基礎医学に分類されるようになっており、いわゆる文系の学問ではなくなったのです。

一方、哲学も昔のように哲人が書斎で沈思黙考する抽象的・思弁的な学問ではなくなり、より実際的に人々が日常の中で抱える悩みに解決を与える実学として新たな発達を見せているのです。
[PR]
# by komunisto | 2015-08-23 09:03 | 文化
2215年8月17日

21世紀初頭の世界では、世界各地で市民のデモ行動が盛んなようですが、23世紀の世界では同様のデモ行動はほとんど見られません。これはデモ行動が抑圧されているせいではなく、そもそもデモに訴えなければならないような不平不満がないからです。

デモ行動は市民の抗議行動の一形態ですから、デモの発生は抗議したくなるような施政がなされていることの証左です。いわゆる民主主義を標榜していても党派政治が行なわれていれば、党派的な不平不満は避けられません。

これまでにもしばしばご報告してきたように、23世紀には民衆会議を中心とした非党派的な政治が全世界に普及しているため、政治が党派的に左右されることはないのです。利害対立が起きても、抽選制の民衆会議で熟議され、中立的な落としどころが探られ、解決に導かれます。

23世紀の政治学者によると、民衆会議とは旧議会よりも裁判所に近いものだというのです。なぜなら、民衆会議は利害が対立する課題についても党派性抜きに審議し、中立的に結論を下すからです。

またデモによらなくとも、民衆会議への直接的な提議の手段が用意されているので、こうした民衆提議立法もよく行われます。そのように代表機関が文字通り民衆の代表として機能しており、議会制度のように選挙が終われば知らんぷりの間接代表機関とは根本的に異なるのです。

これも政治学者によると、代表者(議員)と一般市民が投票によって間接的にしか結ばれない旧議会とは異なり、民衆会議は代表者(代議員)と一般市民がより直接に結びつく「直接代議制」という理念に基づいているとのことです。

ちなみに、デモの自由は世界で広く認められていまして、21世紀にはデモが抑圧されていたような地域にあっても市民的自由が保障されるようになっていますから、民衆の抗議方法としては有効なのですが、それは奥にしまってあるというわけです。
[PR]
# by komunisto | 2015-08-17 12:05 | 政治
2215年8月11日

個人の遺伝情報を利用したオーダーメイド医療とか個別化医療といった新しい医療は21世紀に登場していましたが、23世紀の医療ではこうした医療のあり方は普通のことで、遺伝子検査が定番となっています。

かつて定番検査といえば、レントゲンなどの画像検査であり、こうした画像検査では現在、いっそう精緻化されたアイソトープ検査が主流です。しかし、臓器等の現状態を視覚的に認識するだけでなく、どのような病気の遺伝因子があるかを検査して、予防や治療にも役立てるのが遺伝子検査です。

こうした遺伝子検査は革命前の資本主義時代には営利的な医療ビジネスに委ねられており、倫理的な面でも疑義がありましたが、現在では健康診断のメニューにも普通に入っており、また病院での検査でも画像検査と同時に行なわれることもあります。

医療情報の中でも遺伝情報は特に厳重管理を要する個人情報であるため、そうした情報面での不安がつきまといますが、営利ビジネスが存在しない共産主義社会では遺伝情報が営利的に悪用される危険はありません。

そのせいか、大胆にも個人の遺伝子検査結果はすべて中央医療情報センターにデータベース化され、医療機関が情報共有できるようにシステム設計されているのです。従って、遺伝子検査はどこかで原則として一度だけ受ければよいわけです。

こうした個人情報管理は中央情報保護庁によって常時技術的に監査されるとともに、中立的な個人情報オンブズマンによって法的な権利保護がなされるという技術面‐法律面の二重の防護体制によって守られています。

ちなみに貨幣経済が廃された23世紀には生命保険のような商業保険も存在しないため、生命保険加入に当たり遺伝病因子を理由に拒否される心配をする必要もないのです。貨幣経済廃止はこんなところでも効果を発揮しています。

ただし、遺伝病因子が社会的な差別の対象となる危険は残るわけですが、これに関しては包括的な差別禁止法において病気を理由としたあらゆる差別の禁止が規定され、法的な救済手段が用意されています。
[PR]
# by komunisto | 2015-08-11 10:40 | 衛生
2215年8月5日

米国民を対象とした2015年の米世論調査によると(2015年8月5日東京新聞報道)、日本への原爆投下に関して、44歳以下の年齢層では「誤った判断だった」と答えた人が「正しい判断だった」と回答した人より多いという結果が出たそうです。

全体でも原爆投下を正しかったとする多数意見は46パーセントまで下がったとのこと。200年後の現在から振り返ると、この調査結果は一つの吉兆だったようです。21世紀には想像を超えることでしたが、世界最初の原爆使用国にして、世界最大の核保有国でもあったアメリカでも民衆革命が勃発し、アメリカ合衆国が解体されたことが(旧稿参照)、核兵器廃絶の大きな推進力となったからです。

2年前のたより「軍隊なき世界」からも推察されるとおり、2215年現在、核兵器はもちろん、そもそも兵器自体が存在しません。より正確に言えば、地球上で使用する兵器は存在しないということになります。すなわち、23世紀の兵器は地球外からの攻撃に備えた航空宇宙兵器に限定されています。

ここまで到達する道のりは長かったわけですが、このような兵器なき世界の構築こそ、21世紀末から22世紀初頭にかけての世界連続革命の大きな成果の一つでした。その手始めが、今から100年以上遡る2110年に発効した核兵器全廃条約です。

核兵器廃絶を突破口として、核以外の大量破壊兵器、さらには通常兵器に至るすべての兵器の保有禁止が地球的な規範となったのです。このことは、旧国際連合に代わって世界を束ねる世界共同体の憲章として明文化されています。

ちなみに先に言及した航空宇宙兵器ですが、これは異星からの攻撃といういささかSF的な想定に基づき、世界共同体が共同で製造・保有する共用兵器です。もちろん大量破壊兵器ではなく、防衛的な通常兵器です。その運用は厳格な手続きに従い、世界共同体の航空宇宙警戒軍がこれを行ないますが(上記旧稿参照)、幸い、これまで一度も発動されていません。

識者の中には、信頼できる従来の宇宙研究の結果からみて、地球を攻撃し得る能力を備えた異星人が存在する確率はほぼゼロだとして、こうした共用兵器の廃止を主張する意見もありますが、そこまで徹底した兵器廃絶論はなお一般化していません。

とはいえ、核兵器なき世界の構築さえ、空疎な美辞麗句にとどまり、実のある進展がなかった21世紀に比べれば、こうした23世紀のSF的論議はそれこそ夢のような観があるでしょう。しかし、200年後の人類は確かに兵器なき世界を構築しているのです。
[PR]
# by komunisto | 2015-08-05 20:04 | 政治
2215年7月30日

23世紀の社会における日常生活で20世紀のSF的な感覚に最もとらわれるのは、住宅設備です。住宅は過去200年間で最も大きく進化した生活手段であると言えます。といっても何からご報告すべきか迷うのですが、まずは玄関から。

かつて住宅には鍵が必需で、鍵をなくすと一騒動でしたが、23世紀住宅は鍵でなく、カードキーで開ける仕組みがすべての住戸に導入されています。もっとも、鍵も廃止されたわけではないのですが、鍵はカードキーを紛失した場合に備えた予備的開扉手段にすぎません(どちらか一方を紛失しても、セーフなわけですね)。

次に住戸内の光熱設備ですが、これらは音声入力により自動でオン/オフの切り替えをする方式が一般です。ただし、発声できない場合に備えて、手動スイッチも付置されていますので、どちらを使うかを選択することができます。また窓の開閉・施錠も音声入力による自動となっていることが多いようです。

こうした住宅IT化は実のところ、すでに前世紀までにだいたい整備されていたのですが、23世紀住宅の大きな特徴は、バリアフリー化が高度化していることです。先の音声入力もその一つですが、他にもあります。

例えば、私有以外の公営住宅のトイレ・バスは、初めから障碍者仕様に設計されており、障碍のいかんにかかわらず使えるようになっています。また屋内の段差がなく、ベランダとの境目もスロープになっています。こうした設計は、公営住宅の場合は法律で義務付けられているのです。

ちなみにバリアフリー化は、住文化的な面でも日本で長く保持されてきた靴を脱いで上がる習慣をほぼ一掃し、土足型に変化させました。これにより、日本家屋に付き物だった玄関の段差が消失し、車椅子のまま入室することも可能となっています。

さらに公営住宅の場合、家具などの調度品は初めからリユース品がセットで備わっており、すべて自分で導入する面倒はありません。ただ、必要なものを追加したり、どうしても気に入らない既設品を交換することもできるようになっています。

なお、私有住宅の場合、設備はすべて所有者が好みに合わせて設計できるので、上記のことは必ずしも全面的には当てはまりませんが、以前のたよりでご報告したように、23世紀における私有住宅の割合は全体の4割程度に減少しています。
[PR]
# by komunisto | 2015-07-30 09:58 | 生活
2215年7月24日

先般、中央民衆会議傍聴のご報告をしましたが、中央民衆会議も旧国会と同様、否、それ以上にたくさんの常任委員会を擁しています。その中で最も影響力の強い常任委員会はと言うと、環境持続性委員会になります。

この委員会は、名称のとおり環境政策全般の立案と法案作成を所管する常任委員会で、旧国会では環境委員会に相当します。ただ、旧環境委員会がどちらかと言えば地味で、所属を希望する議員も限られていたのに対し、環境持続性委員会のほうは中央民衆会議の花形として人気なのだそうです。

ちなみに、旧国会で最も強力な委員会はおそらく予算委員会であったと思われますが、これはまさに貨幣経済下で国の運営の基盤であった政府予算を扱う委員会だったからでしょう。貨幣経済が廃止された現在、予算なる制度自体が存在しませんから、予算委員会もありません。

代わって政策の軸は環境になっており、あらゆる政策が環境的な枠組みによってコントロールされることから、環境持続性委員会が事実上の筆頭的な常任委員会として強い影響力を持つようになっているのです。

現在、中央省庁という制度は存在せず、民衆会議が立法機関であると同時に行政機関でもあるという地位にあるため、各常任委員会が即行政機能も果たします。従って、環境持続性委員会は旧環境省の機能も果たす環境政策の元締めなわけです。

そうした大きな常任委員会だけあって、委員は200人近くもおり、10の小委員会に分かれて、日々環境政策の立案と審議に当たっています。中でも環境影響評価小委員会がエース格で、名称のとおり領域圏が担当するあらゆる政策・公共事業等の環境影響評価を担当し、ダメ出しをする権限を持っています。

旧国会と異なり、民衆会議は市民とのつながりが強いので、一定の署名条件を満たせば、市民が環境持続性委員会に対して特定の事業案件に関する環境影響評価を請求することもできるなど、市民からの突き上げにも答えることがあります。

また同小委員会は各地に設置された環境保全事務所を管轄しており、ここには「環境Gメン」と渾名される環境犯罪に対する警察権をも与えられた環境保全調査官が配置され、強力な環境的目付け役を果たしています。
[PR]
# by komunisto | 2015-07-24 00:00 | 環境
2215年7月18日

先日、中央民衆会議議事堂のある名古屋までリニア高速線で東京から50分と書きましたが、このリニア高速線とは、そちら21世紀初頭の日本で政治問題化している中央新幹線のことではありません。これは旧「東海道新幹線」です。

23世紀のリニア高速線は、既設の全新幹線網を継承・統合する形で、東京と新大阪を基点に北端は旭川、南端は鹿児島中央までを一本に結ぶリニア高速線網に整理されており、「新幹線」という呼び名も「リニア高速線」に改称されているのです。

一方で、反対運動を押していったんは開業にこぎつけたリニア中央新幹線のほうは、革命後に廃止されました。理由は、環境破壊問題や地下鉄区間が多く、観光的にもマイナスだったことです。要するにリニア新幹線を新設することは経済合理性を欠くと判断されたのです。

そこで、革命後に、既存新幹線のオール・リニア化事業という形で、リニア高速線網の建設が始まりました。しかし、ほとんどの区間が高架線である既存新幹線をリニア化するというのは、大胆な計画のように思われますが、どのように克服したのか。

まず、何度も指摘してきたように、貨幣経済が廃されたことで、建設費の負担に悩む必要がなくなったことがあります。また中央リニア線で問題とされた超高速走行に伴う風切り音問題は、超高速走行区間を最小限にとどめるという実に単純な方法で解決したのです。

それでは夢の超高速走行というリニアの利点が生かされないのでは?と思われるかもしれません。しかし、以前のたよりでもご報告したように、23世紀の社会は徒にスピードを追求しません。リニア高速線にしても、例えば富士山付近のような風光明媚区間に到達すると、指定速度を落として走行したりします。

23世紀のリニア線の標榜最高可能速度は時速700キロに達していますが、実際の指定最高速度は600キロに抑えられ、しかも600キロ走行区間は人家が少ない区間などに限定されています。全体の平均時速は400キロ程度とされます。

とはいえ、リニア高速線で東京から名古屋まで50分ですから、旧新幹線の約半分の速達です。新大阪‐名古屋間はわずか30分弱ですから、中央民衆会議代議員の中には「リニア通勤」している人も少なくないとのことでした。
[PR]
# by komunisto | 2015-07-18 09:46 | 経済
2215年7月12日

計画経済最前線の経済計画評議会の傍聴に続き、今回は政治的な代表機関である中央民衆会議の傍聴にも行って参りました。経済計画評議会は横浜でしたが、中央民衆会議は名古屋にあるため、リニア高速線を使って、東京から50分ほどです。

以前のたよりでも報告したように、23世紀の東京はもはや政治の中心地ではなく、主として学術都市として機能しています。政治の中心は、日本本土のちょうど中央付近にある名古屋であり、まさに中央民衆会議所在地なのです。

名古屋市郊外にある中央民衆会議議事堂に就いてみると、それは美術館のような外観を持つ巨大なビルで、現在は憲政博物館となっている東京の旧国会議事堂とは大きく異なっていました。一階はレストランやその他の物品供給所が入っていて、21世紀ならちょっとしたショッピングモールのように、一般市民が普通に出入りしているのも、まさに民衆会議にふさわしい光景でした。

中央民衆会議は21世紀までの制度で言えば国会に相当しますが、以前のたよりで報告したとおり、代議員は投票ではなく、有資格者(代議員免許取得者)の中からくじ引きで抽選されます。代議員は地元ボスや学歴エリートではなく、普通の市民の中で免許を持つ人という程度の存在です。

二階の議場に入って早速傍聴すると、代議員は皆私服で、男性でも背広姿はありません。これは実は全世界共通で、以前のたよりでも報告したように23世紀はカジュアル社会だからです。堅苦しさはなく、市民集会のような光景で、これも民衆会議の名にふさわしく思われました。

さらに、旧国会との大きな違いとして、人数が多いことです。定数が2000もあるため、本会議場はまるでコンサートホール並みの広さです。この人数で審議ができるのかと思われますが、実際のところは細かく分けられた小委員会のレベルで実質審議がなされ、本会議は総論的な審議の場ということで成り立っているようです。

小委員会も原則的に公開されていますが、会議室のスペースから裁判のように抽選傍聴制となっています。この日はたまたま空きがあった教育関係の小委員会の一つを傍聴しましたが、ラウンドテーブル方式で活発な討議が行なわれていました。

さらに旧国会との大きな違いとして、女性や障碍を持つ代議員の多さがあります。女性に関してはそもそも定数が男女半数制であるため、2000人のうち1000人は必ず女性となるのです。障碍者の率は特に決まっていませんが、審議資料の点字化など障碍者の参加支援策が格段に充実しているため、自ずと障碍者代議員の数も増えるのだそうです。

中央民衆会議はまさに民衆の代表機関として、社会の縮図のような構成を持っているのです。従って、国会に相当する機関といっても、それはあくまでも形式的な比喩であって、男性富裕層中心の旧国会とは似て非なるものと言ってよいでしょう。
[PR]
# by komunisto | 2015-07-12 11:33 | 政治
2215年7月6日

23世紀世界の最大の目玉は、計画経済です。これは日本に限らず、かつては強固な資本主義大国であったアメリカを含め、全世界で行なわれています。世界共同体は、そうした計画経済の司令塔的な役割も果たしています。

計画経済の具体的なやり方は世界共同体を構成する各領域圏によって若干の違いはありますが、通常は経済計画評議会(以下、評議会という)という会議体が担っています。言わば、計画経済の最前線です。評議会の審議は公開されており、先日見学してきました。

評議会の議事堂は東京ではなく、横浜にあります。一見すると、議会の議事堂のようです。実際、評議会は基幹産業分野の企業体の代表者で構成される一種の議会のようなものであり、官庁ではありません。

議場も議会のようなセッティングになっており、各評議員がそれぞれの個別計画案を持ち寄り、それをめぐって審議し、最終的な総合計画案に仕上げていきます。内容的には、経済政策限定の議会のような観があり、それなりの知識がないと理解が難しい高度な審議をしていました。

評議会は官庁ではないとはいえ、事務局を擁し、ここには環境的な観点から経済分析をする専門家である環境経済調査士という資格を持つ専門員が配置され、経済計画に必要な統計資料の作成・提供などの補佐業務をこなします。審議にもこうした専門員が参考人として出席し、求めに応じて詳細な統計などの報告を行なっていました。

計画経済は三か年計画を基本としているため、評議会の本会議が開かれるのは三年に一度ですが、評議会は計画期間中も経済計画の実行をモニターする責務を負い、必要に応じて計画を修正することもできるため、常設会議として機能しています。

ちなみに、23世紀における議会に相当する政治的な代表機関は民衆会議であり、こちらは名古屋に所在しています。民衆会議と評議会の関係は二院制的なものとされますが、民衆会議優越原則により、評議会の計画案が発効するには、民衆会議の承認決議を要します。

評議会は専門性の高い会議のせいか、傍聴人はまばらで、ほとんどは民間の経済専門家や研究者らしき人たちでしたが、野次などの不品行は一切なく、まるで専門学会のような高品質な審議が行なわれていたのが印象的でした。
[PR]
# by komunisto | 2015-07-06 09:15 | 経済
2215年6月30日

そちら21世紀にはデフォルト問題など、何かとお騒がせで、ややお荷物的な立場になっているらしいギリシャですが、23世紀の現在、ギリシャは平穏な地中海の領域圏として人気です。

資本主義の時代、たしかにギリシャは優等生とは言えませんでした。理由はよくわかりませんが、のんびりした地中海の代名詞のような風土と気風は、生き馬の目を抜く競争の資本主義市場経済ではどうしても落ちこぼれ気味だったのでしょう。

それが貨幣経済が廃止された23世紀となりますと、俄然立場が変わりました。のんびりゆったりのギリシャ的なものは、一つの模範と考えられています。必要な物を必要なだけ生産し、あとはゆっくり休み、質素な生活を楽しむのです。

共産主義計画経済の時代、元劣等生のギリシャは優等生です。ただ、経済計画はやや大雑把で、需給関係のバランスを崩すことがたまにあるようなのですが、それもギリシャ流ということで、さほど問題視されないようです。

一方、かつて資本主義の優等生だったアメリカや日本、ドイツなどは、共産主義の時代にも健在ですが、どちらかと言えば地味な存在であり、ギリシャのほうが先進領域圏とみなされることもあるようです。

ちなみに、ギリシャは観光地として相変わらず人気ですが、老朽化してきた遺跡保護の規制が厳しく、観光名所の多くが立ち入り禁止となっています。この点も、めぼしい産業がないため、遺跡を売りに観光をドル箱としていた時代とは事情が異なります。

劣等生の時代からギリシャを贔屓にしていて、応援していた者としては、今、ギリシャが新しい時代の代表として評価されているのを見ると、駄目だった子の成長を見る親のような心境です。
[PR]
# by komunisto | 2015-06-30 16:28 | 経済
2215年6月24日

23世紀人の発想で当初いささか驚かされたことは、「癌死は格好いい」というような死生観を持つ人が少なからず見られることでした。そちら21世紀では癌は国をあげて世界的に征圧すべき「国民病」と言われているはずですから、驚かれることと思います。

以前ご報告したとおり、23世紀には癌自体が大幅に減少し、平均寿命も100歳台まで延びています。そのため、癌死者もそう多くないのですが、それでも癌死者は毎年確実に出ます。そうした中で死生観が大きく変わったのは、医療哲学の変化が要因と思われます。

これも以前のたよりでご報告したように、23世紀には臨床哲学士という専門職があり、そうした臨床哲学の重要な一分野として、医療哲学があります。例えば、癌に対してどう向き合うかといったことがこの臨床哲学の課題となります。

この問いに対して、23世紀には基本的に積極治療せず、自然の死期に委ねるという考え方が有力化しているのです。ばかな・・・と思われるかもしれませんが、このような考え方はすでに21世紀に提起されていたものの、癌は必ず治すべしという考えが支配的だった時代には、少数の異端説とみなされていました。

ところが、23世紀には西洋医学の枠組み内で漢方的な思想が再発見されていることで、特に外科治療を絶対視する思想が後退したのです(このことも、以前のたよりでご報告しました)。そのため、癌のような病変もできる限り切らずに治すか、そもそも積極治療せず、症状管理的な対応をするといった考えが医療界でも有力化しているわけです。

そのような事情から、癌死者はこうした新しい医療哲学の実践者として敬意を持たれることすらあるのだと思われます。それにしても、癌死の中には若年死も含まれますが、それが格好いいとは?

この点はよくわからないのですが、普通に健康であれば100歳までお迎えは来ないという長大な人生を生きなければならない社会では、案外、早めにお迎えが来た人は太く短い人生を生きた格好いい人という逆説的な死生観も生まれるのかしれません。
[PR]
# by komunisto | 2015-06-24 09:07 | 死生
2215年6月18日

23世紀の日本語はどうなっているの、21世紀の日本語は通じるのというご質問を受けました。実は21世紀からタイムトラベルしてきた当初、私も不安に思いましたが、間もなく不安は解消しました。日本語の骨格は、この200年であまり変わっていなかったからです。

近代以降に確立された標準語としての日本語は歴史的に定着しており、そのまま23世紀現在まで維持されていますので、タイムトラベルしてきた21世紀人にとっても、日常的に言葉で不自由することはありません。

ただし、日本語に特有の敬語体系はかなり廃れており、年長者に対しても、かつてなら「ため口」と非難されるような話法が一般化しており、戸惑うことはあります。敬語表現はよほど改まった場でしか使用されなくなっているため、現代では「敬語」ではなく、「儀礼語」と呼ばれるようになっています。

なぜ敬語表現が廃れたかについてはいろいろな議論がなされているようですが、やはり革命後、社会的な平等性が高まり、儒教的な伝統に由来する長幼の序の観念が希薄になってきたことが指摘されています。敬語は用法が難しく、誤用もしやすかったので、敬語表現が廃れてきたのは、日本語話者にとっては幸いなことかもしれません。

もう一つの変化は、ほぼ全員がエスペラント語とのバイリンガルであることです。これは以前のたよりでもご報告したように、学校での言語教育が大きく変わり、世界公用語となっているエスペラントの習得が義務付けられ、早期からエスペラント教育が徹底されているためです。

日本語における外来語の豊富さは相変わらずなのですが、外語教育の変化を反映し、かつては圧倒的に英語由来の外来語が多かったのが、現在ではエスペラント由来の外来語が多くなっており、例えば、バイリンガルもエスぺラントのdulingvaに由来するドゥリングワという外来語が使われます。

ちなみに、以前のたよりでは近隣外語一つを加えたトリリンガル(トリリングワ:trilingva)話者の育成が目指されているとご報告しましたが、ここまではなかなか理想どおりにいかないもので、実際に三言語を同等に使える人はまだ限られているようです。

さらに、これも別のたよりでご報告したように、手話も学校教育で必修となっているため、初歩的な手話はほぼ全員が習得しており、非障碍者同士でも少々おどけて手話で会話することもあるほど普及していることも、21世紀の言語状況とは大きく変化した点と言えるでしょう。
[PR]
# by komunisto | 2015-06-18 08:39 | 文化
2215年6月12日

前回のたよりで、23世紀における「持たざる文明」のことをご報告しましたが、それに関連して、今回は「持たざる文明」が法的な理屈にも反映されていることをご紹介しようと思います。

かつての人類にとって最も重要な法的観念はと言えば、圧倒的に所有権でした。すべては所有権に始まり、所有権に終わると言っても過言でないほど、人類は所有権が支配する世界に住んでいましたし、そちら21世紀の世界はいまだそうでしょう。

これに対して、「持たざる文明」の下でも、所有権の観念は否定されないものの、それは住宅とその内部で日常使用される生活用具にほぼ限局されているため、そうした所有物も含め、事実上所持しているという占有権が優先されるのです。

ですから、窃盗罪の理解も大きく変容しています。窃盗罪と言えば、かつては圧倒的に他人が所有する物を盗むことと観念されていましたが、今では、他人が所持する物を盗むことが窃盗罪なのです。

ちなみにもう一歩突っ込みますと、この場合、占有状態には所有権が推定されるから占有権をひとまず優先するという理解ではなく、所有権とは切り離された占有権そのものが優先されるのです。

どう違うかと言えば、例えば、前回も触れたように、リユースされている大型家電のように、借り物であっても、他人の家庭で所持している物を盗み出せば、他人の占有権を侵害したがゆえに窃盗罪となります。

さらに、その家電泥棒氏が自分の家に所持していた盗品をさらに他人が盗み出した場合でも、泥棒氏の占有権を侵害したがゆえに、それも窃盗罪となるというのです。このことは、まさに占有権が所有権と切り離されて保護されることを示しています。

では、家電を盗まれた被害者が自ら犯人の自宅を突き止め、こっそり取り戻した場合はどうでしょうか。この場合、他人の自宅に不法に侵入した住居侵入の罪は免れませんが、窃盗罪にはなりません。この場合も犯人の占有権は侵害されてはいますが、被害者との関係では、加害者の占有権は保護されないというわけです。

なお、いわゆる「万引き」に関しては、窃盗罪ではなく、「社会的物資横領罪」という資本主義時代には聞いたことのない罪に問われることについては、初期のたよりでご報告しています。
[PR]
# by komunisto | 2015-06-12 09:26 | 法律
2215年6月6日

そちら21世紀とこちら23世紀における文明の最大の違いは何かと問われれば、それは「持てる文明」と「持たざる文明」の違いだと言えます。21世紀は20世紀の延長で、持つことが最大の美徳であるような文明でした。それに対して、22世紀を大きな画期点として、23世紀は持たないことが美徳であるような文明に転換したのです。

20世紀後半から21世紀前半にかけて全盛期を迎え、そちらでは「グローバル化」の名の下に、全世界に拡大された資本主義は、持てる文明の最終的到達点であり、持って持って持ちまくれ!が合言葉であり、最大の持てる者=富豪はヒーローでした。

もっとも、21世紀には「断捨離」なる流行語のもと、物欲からの解放が擬似宗教的に説かれたりするようになりましたが、これには裏がありました。ここでの「断捨離」は、もともと不用品まで大量に所有していた持てる者が要らない物を捨てることを意味しており、もともと持たざる者にとって、断捨離も何もあったものではありません。

貨幣経済が廃止された今日、人類の物欲のほぼ100パーセントを占めていたカネというものを知らない世界にある意味原点回帰したわけですから、言わば文明そのものが「断捨離」されているのです。

それは精神論にとどまらず、地球規模での計画経済とそれに基づく計画的な経済協力が実施されることで、政策的にも確証されています。従って、毎日大量のゴミが発生・廃棄されるような無軌道な大量生産はあり得ない話です。

ただし、所有権の観念が消滅したわけではありません。日常の生活必需品の多くは、今日でも個人の所有物ですが、以前のたよりでも報告したように、リサイクルを前提としたリユース制が行き渡っており、特に大型家電は法律によりリユースが義務づけられています。もちろん、使用料は一切かかりません。

また、これも以前のたよりで報告したとおり、土地は誰にも属さない自然の無主物という扱いですが、土地の上物としての建物は私有が認められています。ただし、これまた以前のたよりで報告したように、持ち家比率は40パーセントほどに下がっています。

このように物欲の法的表象であるところの所有権の観念が狭く限局されているのも、持たざる文明の帰結です。従って、21世紀以前とは正反対に、23世紀の文明にあっては、持たざる者こそがヒーローです。テレビの情報番組でも、今や「豪邸」の紹介ではなく、余分な物を持たずに持続可能かつ効率的に生活している家庭の紹介が人気です。
[PR]
# by komunisto | 2015-06-06 09:08 | 文化
2215年5月31日

そちら21世紀日本の5月は、春季運動会の季節でしょうか。20世紀には運動会は秋とほぼ決まっていたのですが、21世紀には春が増えたそうです。理由は残暑による熱中症を防止するためとか、行事の分散化を図るためとか、受験勉強の妨げにならないようにするためとか、いろいろ言われているようですが、よくわかりません。

こちら23世紀日本ではどうかと言えば、そもそも運動会という学校行事自体がありません。運動会好きには寂しいかもしれませんが、私のような運動音痴には羨ましい限りです。ついでに言えば、修学旅行という定番行事もありません。これも、集団旅行苦手の私には羨ましい限りです。

要するに、23世紀の学校には全員参加型の行事というものが、ほとんどないということになります。あるのは入学式と卒業式くらい、学期ごとの始業・終業式もクラス単位の自由形式で行うだけと聞きます。

学校ごとに多少の違いはあったでしょうが、合唱コンクール、学習発表会、社会科見学等々、学校行事は毎学期何かしら組まれており、教師も生徒も準備やリハーサルなどで多忙だった学校時代を思い出すと、23世紀の学校とは、私どもが通った学校とはまるで別世界のようです。

23世紀型学校生活はずいぶんと簡素化されていることになりますが、これは、学校という場の存在理由が大きく変化したためです。かつての学校ではとかく「集団生活」への適応が強調され、悪く言えば子供たちを家から引っ張り出して昼間強制収容する場だとも言えたわけです。

従って、全員参加型の学校行事も単なる息抜きや娯楽ではなくして、集団としての団結心や集団における協調性を養うためといった教育目的の下に、長く続けられてきたものと考えられます。

それに対して、23世紀の学校は個別的に子供たちの資質を発見し、伸ばす場となったのです。そのため、以前の記事でも報告したとおり、学校はどの学年でも通学制/通信制を選択できるようになっており、通学制課程にあっても、集団性より個別性が優先されますから、カリキュラムの自由度が高く、行事も最小限なのです。
[PR]
# by komunisto | 2015-05-31 09:25 | 教育
2215年5月25日

23世紀に消えたものシリーズ、今回は精神病院です。精神病院と言えば、そちら21世紀の日本は依然として入院患者30万人を数える世界に冠たる精神病院大国ですね。ところが、200年後の現在、精神病院入院患者は長期に限れば0人です。

そもそも精神病院という制度自体が廃止されて久しく、最後の精神病院が閉鎖されたのが約80年前ですから、これは一つ前の22世紀中の医療改革の成果でした。精神病院廃止は、「近代的」な精神病院制度ができる以前の「座敷牢」廃止に次ぐ第二の精神医療革命とも呼ばれています。

海外では、もっと早くに精神病院を廃止していたところも多いので、日本はこれでも遅かったくらいですが、その要因は精神障碍に対する差別意識でした。22世紀初頭の革命は、こうした日本に根強い差別意識の根絶を結果する大きな画期点でもありました。

ところで、精神病院がないということは、精神医療が提供されないことを意味しません。現在、精神科という診療科は存在せず、通常は総合神経科という名称の下に、旧精神科と神経内科とが統合されています。

精神医学と神経医学は今日でも別個の学術として個別に研究されているのですが、現在、脳の画像診断技術が進み、精神疾患でも画像診断ができるようになってきたことに加え、神経病でも精神症状が出ることは少なくないことから、臨床の現場では精神医学と神経医学が統合され、総合神経科という新しい診療科が生まれているわけです。

ただし、現在でも精神科の入院治療がないわけではありませんが、それは急性症状が発現している場合で、入院期間もせいぜい10日程度の集中治療です。また、かつて人権侵害的制度として悪名高かった強制的な措置入院制度も廃止されています。

ちなみに、アルコール・薬物依存症に対しても入院治療は不要なのかということですが、23世紀にはこうした依存症自体が激減しており、極めて例外的な治療施設として依存症専門病院が見られる程度です。しかしこれも精神病院ではなく、心療内科病院です。

21世紀には薬物依存を中心に世界的に深刻な社会問題ともなっていた各種依存症の激減は、23世紀における世界共通現象としていろいろな角度から研究もなされているようですので、機会を見てこの問題についてもご報告してみたいと思います。
[PR]
# by komunisto | 2015-05-25 07:28 | 衛生
2215年5月19日

23世紀の社会では、200年前には一般常識的に皆がよく知っていた様々な文物制度が廃れていることはこれまでにもいくつかご報告してきましたが、司法の分野では、犯罪の被疑者の公訴を主要な任務としていた検察制度が廃止されています。代わって、民衆公訴制度というものが導入されているのです。

民衆公訴制度とは、犯罪の被疑者の公訴を市民から抽選された陪審員が決定する制度をいいます。そのような陪審のことを起訴陪審とも呼びます。これは起訴された事件を法廷で審理し、判決する審理陪審に対する用語です。

警察が捜査を終えた事件は、いったん管轄の裁判所に送致され、そこで改めて起訴陪審が招集されます。陪審員の任務は民衆会議代議員免許取得者の場合は義務的ですが、それ以外の市民の場合は理由をつけずに辞退することができます。

起訴陪審は23人という大人数から成り、審理は非公開で行われますが、被疑者は弁護人の同席・助力を求める権利が保障されます。起訴陪審の起訴決定は多数決によりますが、12対11という一票差の僅差決定での起訴は認められず、13人以上の賛成という特別多数決によります。

ただし、このように起訴陪審が招集されるのは一定以上の重罪事件に限られ、軽罪の場合は予審判事という予備審理専従の裁判官が起訴を決定します。

どちらの流れにせよ、起訴が決定されると、事件は公判に付せられます。その後、法廷で旧検察官の役を担うのは、民間の弁護士から選任された民衆側代理人です。正式には公訴代理人と呼ばれるこの職務は弁護士の公的義務とされていて、事件ごとに裁判所から弁護士会を通じて割り当てられることになっています。

公訴代理人は原則として一件に付き二人選任され、コンビで当たりますが、大きな事件の場合は三人以上の公訴代理人が選任され、チームで当たることもあります。

以上のような処理がなされるのは一定以上の犯罪の場合で、微罪になりますと、起訴は所轄の警察署長が直接に行います。そして、こうした微罪裁判では公訴代理人は選任されず、裁判官と被告弁護側だけの簡易裁判で処理されます。

このように検察制度が廃され、民衆公訴制度に移行した理由として、民衆主権の原理があります。この原理は政治のみならず、司法にも及びますから、国家が検察官を通して公訴を担う古典的な国家訴追の制度は廃されたわけです。

ちなみに、周囲の人に旧検察制度のことを尋ねてみると、半分ぐらいが「聞いたことはある」との答えでしたが、そのイメージを尋ねると「古い」「後進的」といった回答が大半を占めました。どうやら23世紀人にとっての旧検察制度は、21世紀人にとっての「お奉行様」みたいなイメージを醸し出すようです。
[PR]
# by komunisto | 2015-05-19 09:43 | 司法
2215年5月13日

先月の記事で、23世紀の問題発見型教科書についてご報告しました。その後、記事では触れていなかった教科書検定制度はどうなっているのかというご質問を21世紀の読者からいただいていました。遅れましたが、お答えします。

23世紀に教科書検定制度はありません。といっても、オール自由化というわけではなく、全土で統一教科書を使用しているからなのです。それでは究極の検定、教科書統制では?と思われるかもしれません。

しかし、前回記事でご説明したように、23世紀型教科書は既存知識体系を教え込むのではなく、問題発見の手助けをするツールであるため、統一教科書を使用しても、特定見解の刷り込みになるようなことはありません。同一教科に何種類もの教科書は必要ないのです。

教科書自由化とは、実は教科書販売の自由化を意味しており、教科書を手がける出版資本の自由な売り込み競争に委ねることを意味します。そこでは、生徒の教育的な利益は二次的な関心にとどまります。教科書採択をめぐる癒着・汚職も起こるでしょう。

23世紀の教科書は統制でも営利でもなく、純粋に教育的な観点から、日本学術会議傘下の中央教科書編纂委員会という機関が各界の中堅研究者を集めて、教科ごとに編纂しています。

また言語教育と科学教育に関しては、ユネスコの後身である世界教育科学文化機関が世界統一の指導指針を数年ごとに改定して各領域圏に提示し、これをもとに各領域圏で教科書を編纂する体制が採られています。

こうした世界的な統一教育という発想はまさに世界共同体ならではのことでして、全世界統一指針をもって、世界公用語であるエスペラント語や科学分野(数学や社会科学を含む)の教育が世界共同体全域で統一されることが期待されているわけです。

ところで、先進的な領域圏の中には、そもそも教科書という制度自体を廃止し、教科ごとの指導指針だけを提示し、後はすべて教師の独自教材に委ねているところもあります。日本でもそうした議論はありますが、伝統的な教科書の制度はなかなか手放せないようです。

ちなみに、私学ではどうしているのでしょうか。実は、公教育制度が完備した23世紀に私学はほとんどありません。例外的な私学でも、正規の学校として認可されるためには、統一教科書に基づく教育が義務付けられています。
[PR]
# by komunisto | 2015-05-13 09:21 | 教育
2215年5月7日

23世紀の経済史の本によると、日本社会では永く年功序列が維持されていたところ、21世紀に入ると能力主義が強調されるようになり、徐々に年功序列は崩れていったと説明されています。

2015年の日本はまだ過渡期と思われますが、2050年の日本では年功序列は完全に崩壊していたようです。ところが、2215年の今また年功序列は復活しており、ほぼすべての組織が年功序列によっているとされます。このような復古はなぜ起きたのでしょうか。

ここにはやはり経済体制の変化が絡んでいるようです。何度も報告しているように、23世紀は貨幣経済が廃止された共産主義体制をとっております。労働はすべて無償のボランティアにより、23世紀人は労賃というものを全く知りません。

能力主義とは労賃を年功に比例させず、能力に基づかせる方法をいうわけですが、結果として労賃によって定まる職階も年功でなく、能力によることになり、部下より年次が下の上司というものも存在してきます。

これによって、ある種和気あいあいとした雰囲気を特徴とした日本の組織―特に企業組織―は次第に殺伐としたものとなり、労働者のストレス障碍なども急増したと、史書には記されています。競争淘汰的な雰囲気が強まったせいでしょう。

ところが、賃労働が消滅した現在、能力を労賃に反映させることはそもそも想定できません。それでも、能力主義の職階制をとることはなお可能ですが、23世紀にはそういう習慣もないようです。職階も年功によるため、年次が下の上司はまずいません。

ただし、終身雇用習慣は廃れて久しく、転職は普通のことなので、ここで言う年次とは前職場での在職年数なども合算した広い意味での経験年数のことです。

能力主義が称揚されていた頃は、年功序列は組織の活力を失わせるなどと宣伝されていましたが、現在このような批判はありません。むしろ、年功序列は組織の安定と持続を担保し、労働者の心身の健康にも寄与するという効用が説かれています。

能力主義はまさに資本主義的な競争至上主義の哲学を前提とした資本主義的組織論であったのですが、競争ではなく協働を重んじる共産主義的組織論は安定的な年功序列を再発見したのでしょう。
[PR]
# by komunisto | 2015-05-07 11:22 | 経済