2215年3月2日

3月に入ったばかりで少し早いですが、かつて日本の3月は引越しシーズンでもあり、ある種の「民族大移動」の季節でした。21世紀の社会では依然としてそうだと思いますが、23世紀の現在、そのようなことはありません。

その理由として、昨年3月の記事でも報告したように、4月に入社・異動・入学が集中する「4月基準社会」は過去のもので、従って3月も引越しシーズンではなくなっているということがありますが、そればかりでなく、23世紀の人たちはそもそも引越しをあまりしないようです。

一般世帯の引越し理由で一番多いのはやはり転勤・転職だと思いますが、23世紀には転勤がほとんどありません。これは各地に支社や事業所を持つ大企業というものが消滅したことが大きいですが、大規模組織でも地元固定採用が基本のため、転勤に次ぐ転勤ということがないのです。

一方、23世紀の労働者はしばしば転職しますが―ある統計によると、平均して生涯に3.5回―、職住近接を基本とした労働紹介システムが完備しているため、転職する場合でも、近傍で転職するのが一般ですから、やはり転居の必要はないわけです。

その結果、23世紀は産業社会でありながら、農耕社会並みに定住性の強い社会となっているのです。考えてみれば、転勤・転職に伴って、あちこち転居して回るという生活スタイルは、まさに20世紀的な働き蜂社会そのものだったのかもしれません。

とはいえ、諸事情から転居する必要が生じ得ることは23世紀でも変わりませんが、引越しが少なくなった現在、かつて御馴染みだった引越し専門業者も見当たりません。短距離の引越しなら、親族・友人などを頼んで個人的に転居作業する人が多いようです。

すると、21世紀からタイムトリップして来た筆者のように23世紀社会に親族・友人の少ない人間はどうすれば?探してみると、ボランティアで引越し作業を手伝う団体があるようで、こういうところに頼むしかないようです。
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# by komunisto | 2015-03-02 18:08 | 生活
2215年2月24日

23世紀に飛んできてしばらくすると、近所に学校に通っていないように見える子どもが少なからず存在するようなので、調べてみたところ、その訳がわかりました。それは、23世紀の学校が選択的通学制を採用しているためでした。

選択的通学制とは要するに、学校に通学するかどうかは子どもと保護者の選択に委ねられるという制度です。通学しない選択をした場合は、自動的に通信コースに編入されますので、一切学校教育を受けないという選択は許されません。

以前の記事でご報告したように、23世紀の学校制度は義務教育の期間を13年間に延長しつつ、通学/通信を選択式にして、柔軟な制度に設計されているわけです。なお、通学/通信の選択は学期の節目であれば、いつでも自由に切り替えが可能という極めて柔軟性の高い制度です。

ただし、例外があり、健康体育と生活技術という実技系科目だけは、その性質上通信受講は不可能なことから、一律に通学が義務づけられているため、結果として通信生でも週何日かは部分的に通学する日があります。

とはいえ、義務教育は通学オンリーという時代を経験した者には、13年間ずっと通信制で学ぶとなると、いわゆる社会性の涵養が疎外され、ある種の引きこもりになってしまうのでは?という心配も浮かびます。この点、教育関係者に尋ねてみると、怪訝な顔をされ、おおむね次のような回答をされました。

23世紀の学校は社会性云々ではなく、生徒個々の資質や適性を発見し、それを伸ばす手助けをすることに重点を置いているところ、学びのスタイルについては通学/通信いずれでもよく、自分に向いたコースを選択するほうがむしろ身につきやすい、と。

なるほど、23世紀的な合理主義思考に基づく教育観であると思います。考えてみれば、学校嫌いで毎朝の通学に苦痛を感じていた筆者にとっては、羨ましい制度です。

もっとも、社会性の涵養も無視されているわけではなく、それは学校とは切り離して、地域少年団という公的な集団活動の役割とされているそうです。これは通常の教育とは別立てとなっているため、改めてご報告することにします。
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# by komunisto | 2015-02-24 09:50 | 教育
2215年2月18日

今回は、前々回の記事で予告していた自治体が運営する登録パートナーシップのパートナー・マッチングサービス―言わば、公営結婚相談所―についてのご報告です。

今、21世紀人にもわかりやすくするため、「結婚相談所」になぞらえましたが、たびたびご報告しているように、23世紀には結婚という制度は登録パートナーシップ制度に置き換わっているので、厳密な言い方ではありません。

21世紀まで、この種のサービスは「結婚相談所」の名で民間の営利事業としてよく行われていましたが、貨幣経済の廃止に伴い、そうした営利的結婚相談事業も消滅し、今や公的サービスに移っているのです。

しかも、このサービスは自治体のお節介ではなく、法律で市町村ごとに設置が義務づけられたれっきとした公的サービスです。筆者のような旧世界人的感覚では、自治体がそこまでする必要があるのか疑問も多少ありますが、23世紀の自治体の役割は生活全般のサービスととらえられているので、こうした縁結びのサポートも仕事の内とみなされているようです。

さて、このサービスの仕組みですが、マッチングを希望する人は原則として自身が居住する市町村に所要データを登録します。データの登録は地方圏(例えば近畿とか東北など)の広域的レベルで共通化されていますので、その広域圏内の登録者とマッチングされます。

登録パートナーシップは異性間・同性間どちらの組み合わせも認められるため、同性パートナーのマッチングサービスもあり、登録者は自由に選択することができます。

マッチングに際しては、心理学的な知見も踏まえたコンピュータ解析で精密に相性が分析されるため、自分で相手を探すより、効率的な面もあるようです。

マッチする相手がヒットすると、登録者に通知され、双方の合意が得られれば、指定された場所でコーディネーターが最初の対面をセットし、以後も継続して会う場合は当事者同士で決めます。ちなみに、この制度を悪用して性犯罪その他の不正行為を犯した者は、登録抹消と同時に不正行為者のブラックリストに搭載されてしまいます。

またこうした制度にはつきものの不安材料となる個人情報漏洩に関しては、各自治体ごとに個人情報保護監という独立した監察機関が置かれ、情報管理に目を光らせていますから、21世紀よりも安心なぐらいです。

ちなみに、地元地方圏のデータによると、登録パートナーシップのおよそ42%がこのサービスを介して成立したとのことで、半分弱が利用している計算になります。
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# by komunisto | 2015-02-18 11:22 | 人生
2215年2月12日

前々回の記事で、トリリンガルな言語人の育成を目指す23世紀の外語教育について報告しましたが、これは少し修正する必要があります。というのは、四つめの「言語」として、手話が必修とされているからです。

手話には、母語手話とエスペラント手話の二種類がありますが、とりあえず学校で必修科目となっているのは、母語手話のほうです。日本なら、言うまでもなく、日本語手話です。

21世紀には手話というと、聴覚障碍者向けのコミュニケーション手段と考えられていましたが、23世紀の手話は、ボディーランゲージの代表として、非障碍者も身につけるべき「言語」だと考えられているのです。

従って、手話は特殊な授業ではなく、「言語」という科目の中で扱われます。この「言語」とは、かつての国語にエスペラント語及び近隣外語、手話まで併せて、言語全般の運用能力を総合的に涵養するすぐれて23世紀的な授業科目です。

こうした手話必修化も世界レベルで実践されているため、基礎教育を修了した23世紀人なら、普通に母語の読み書きができるのと同じレベルで母語手話もできます。またテレビ番組は原則として手話通訳が法律で義務づけられています。

面白いのは、非障碍者同士でも、少々おどけて手話で会話する光景が見られることです。実際、23世紀人はその気になれば、すべて手話で会話し合うことも可能なわけです。

そんな光景を見るにつけ、筆者が20世紀後半に受けた音声言語至上主義的な―それも国語と英語に偏った―旧言語教育は、いかに人間の言語運用能力を制約し、ひいては思考世界をも狭めていたか、痛感させられます。
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# by komunisto | 2015-02-12 09:28 | 教育
2215年2月6日

23世紀には婚姻の制度が大きく変革され、結婚制度(法律婚制度)はよりインフォーマルな登録パートナーシップ制度に変化していることについて、これまでにも、いくつかの記事でご報告してきました。

この制度の下では、もはや夫と妻という性別役割関係もなく、どちらも完全対等なパートナーです。ですから、男性同士、女性同士のパートナー関係も全く自由です。

これによって、「嫁」という語は死語になりました。辞書にはまだ搭載されていますが、【死語】もしくは【廃語】の表記が付され、「旧結婚制度の下で、妻の別称」などと解説されています。辞書によっては、「女性配偶者を家政婦扱いする古い男性優位の観念に基づく用語」といったご丁寧な注記をしているものまであるほどです。

こういう次第ですから、当然、「夫は仕事、妻は家事育児」などという性別役割分担は全く見られません。パートナー同士は仕事も、家事育児も対等分担が常識です。古い性別役割分担の習慣が根強く残されていることで悪名高かった日本社会も、この点では革命的に変化しています。

女性陣にとっては、まさに「家付きの女」=「嫁」という古い従属的地位からの解放の時代の到来ですが、男性陣はどう思っているのか、周囲に聞いてみると、特に不満はないようです。男性にとっても、「夫」という役割に束縛される旧結婚制度は良くないという意見も見られました。

一方、こうしたインフォーマルで対等なパートナー関係は解消されるのも早いのではないかと予想したのですが、予想は外れました。統計上解消(離婚)に至るパートナーシップは全体の20パーセント程度で、大部分は長持ちしているようです。

その理由はまだはっきりと把握できていないのですが、一つには自治体が運営するマッチングサービス―言わば公共結婚相談所―が効果を発揮しているようです。これについては、稿を改めてご報告しましょう。
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# by komunisto | 2015-02-06 14:11 | 社会
2215年1月31日

23世紀には外語教育のあり方も大きく変化しています。現在エスペラント語が世界公用語の地位を与えられているため、世界の学校でエスペラント語が必修科目として教えられていることは、以前の記事でもご報告したところです。

エスペラント語はちょうど21世紀の英語と同様の地位にあり、世界共同体の公式会議等はもちろん、民間の民際会議でも公用語として普通に用いられますから、民際人として活躍したい人には必須の言語です。

反面、英語は任意選択科目となり、その地位を大幅に低下させています。一方で、重視されているのが近隣外語教育です。近隣外語とは境界を接している周辺領域圏の公用語のことをいい、日本の場合には、中国語と韓国語、ロシア語がそれに当たります。

ちなみに、再三再四説明しているように、23世紀には「国」という政治体が存在しないので、現在では中国語は漢語、韓国語は高麗語と呼ぶようになっています。

こうした近隣外語教育の目的は、近隣領域圏との友好善隣を深めることにあり、世界共同体の教育憲章でも、エスペラント語教育とともに、近隣外語教育が構成領域圏に義務づけられているため、すべての領域圏においてそれぞれの近隣外語教育がなされています。例えば、日本の近隣では日本語が教えられているわけです。

日本の近隣外語教育は、21世紀の教育制度でいえば、小学校高学年に相当する課程から、必修選択科目として課せられます。つまり、すべての生徒は漢語、高麗語、ロシア語のいずれか一つを選択しなければなりません。

このようにして、全員必修のエスペラント語に選択必修の漢語・高麗語・露語のいずれかを加え、理想的には、母語(日本語)とエスペラント語及び漢語または高麗語のいずれかのトリリンガルな言語人の育成が目指されているのです。
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# by komunisto | 2015-01-31 14:48 | 教育
2215年1月25日

20世紀から21世紀にかけて、国際刑事警察機構(インターポール)という国際警察機関があり、国際手配を中心とした捜査協力機関として機能していました。

かつてインターポールはよくドラマやアニメなどにも登場する存在でしたが、実在のインターポールは主権国家間の国際協力機関にすぎなかったため、創作の世界のように自ら逮捕などの強制捜査をすることはありませんでした。

23世紀には、民際捜査機構というインターポールの後身のような機関があります。「民際」と訳されるのは、これまでに幾度も報告しているように、23世紀に「国」という政治体は存在しないからです。

民際捜査機構は、その名のとおり、一個の捜査機関であって、逮捕のような強制捜査権も持っています。国が存在しないため、主権なるものを気にせず、独自に捜査することができるのです。ただし、国に相当する領域圏の捜査機関とは緊密な協力関係にあります。

民際捜査機構は世界共同体の付属機関であり、逮捕状のような令状を発行するのは、世界共同体人権裁判所です。このように、国という枠組みを取り払ったおかげで、かつては創作の世界にしかなかった民際捜査が現実に可能なものとなっているのです。

従って、民際捜査官は警察官そのものではありませんが、強制捜査権を持って世界中で捜査活動をする権限を与えられたエキスパートです。

とはいえ、かつてのように国際的なテロ組織とか麻薬組織といったものは23世紀には見られないため、民際捜査機構の役割は個人の逃亡被疑者の追跡・拘束が中心的なものとなっています。

これについては、前回記事でも報告したように、国境という観念がなく、出入り自由の時代、被疑者の海外逃亡は容易になっているため、海外追跡の切実な必要性が生じているのです。

しかし、21世紀に比べれば、世界中で犯罪が減少しており、民際捜査機構も大忙しというわけではなさそうなのは、23世紀にとって幸いなことと言えるでしょう。
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# by komunisto | 2015-01-25 14:29 | 司法
2215年1月19日

以前の記事で、23世紀は移民不要の時代になったと報告しました。すなわち、貨幣経済の廃止により、貧困国から富裕国へ移住する経済移民の必要がなくなったのでした。

そのため、21世紀の欧州が直面している移民社会と先住国民社会の間の文化摩擦や社会的排除、それを温床とするテロリズムなどの諸問題は、23世紀には想定できません。

とはいえ、移民はゼロというわけでもありません。23世紀の移民は、経済的理由からの移民ではなく、自分が気に入った領域圏に移り住むという、文化的な理由からの移民―文化移民―です。例えば日本が気に入った人が海外から移り住む、反対に海外が気に入った日本人が海外へ移り住むといったものです。

これも以前の別記事で報告したように、地球全域が世界共同体にまとまった23世紀には、国とその境界線を示す国境という概念も制度もなく、簡素な手続きだけで自由に海外渡航できるので、好きなところに行って住むことができます。

同時に、国民国家時代には各国とも外国人の長期滞在・永住に様々なハードルを設け、しかもその政策が国によりまちまちで不統一という煩雑さがありましたが、現在の世界共同体の仕組みにおいては、全領域圏共通の制度のもとに、簡単な登録手続きだけで長期滞在・永住も認められます。

こうした文化移民は好きで移住してきた以上、現地の言語や文化にも深い関心があり、現地社会に溶け込もうとしますから、文化摩擦や排除の問題も起きにくいのです。

貧しいから移民する経済移民から、好きだから移民する文化移民へ―。こうした移民のあり方の歴史的転換の背景には、世界の政治経済構造の根本的な変革があったのです。
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# by komunisto | 2015-01-19 14:06 | 社会
2215年1月13日

23世紀人の思考法の最大の特徴として、差別することを知らないことがあります。特に人間同士を比較して優劣を付けるという発想がないのです。だから、「優秀」とか「劣等」といった言葉はほぼ死語となっています。

ある意味では、大人たちも差別を知らない小さな子どものようなのですが、このような差別フリーな思考法はどのようにして身につくのか興味を持って調べてみますと、一つには保育や学校教育の中で、意識的に反差別の価値観を教えていることがあります。しかし、どうやらそれだけではないようです。

やはり貨幣経済が廃止され、貨幣価値という観念が消滅したことが決定的と思われます。貨幣価値というのは、21世紀人なら誰でも知っているように、物に値段をつけて、100万円の品は100円の品より価値が高いというように、物を等級付けするうえでの基礎になります。

物の等級付けで止めておけばまだよいのですが、かつては人間まで等級付けされました。士農工商のような身分制度はもちろん、それが廃止されても、社会的地位による公的な等級付けとか容姿による私的な等級付けまで、実に様々な要因から人間が等級付けされていました。

当然にも、等級が低いほど価値が低いとみなされ、蔑視、無視、排除される確率も高くなります。21世紀にも、人間の差別は良くないということは道徳的なタテマエとして認識されていながら、実際には種々の差別が世界中で横行していましたし、容姿による差別などはそもそも「差別」ではなく、それこそ物の値段と同じように当然視されていたことでしょう。

かつての人類社会における差別は、突き詰めれば貨幣価値という観念の発明に端を発していたのでしょうか。思想史家でない筆者にはよくわかりませんが、貨幣に換算した等級付けを止めたことの影響が人間の思考法にも及んでいることは明らかと思われます。

21世紀の世界に住んでいた最後の頃、差別をやめようとしない人類社会そのものに否定的になっていたものですが、過去200年の進歩を見ると、人間もまだまだ捨てたものではないとポジティブな気持ちになります。
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# by komunisto | 2015-01-13 14:01 | 思考
2215年1月7日

2015年の年初は、年末以来の原油安で始まり、予測どおり、世界経済の減速要因となるのでしたが、原油輸入国である日本のような国にとっては僥倖となりました。他人の不幸は我が身の幸福という資本主義らしい現象です。

商業活動が廃された23世紀には、石油はそもそも売り買いの対象とならないので、市場での値動きに左右されることもあり得ません。石油をはじめ、天然資源は人類共通資源として民際管理がなされています。

民際管理とは、21世紀的な表現なら「国際管理」となりますが、23世紀の世界に「国」という制度は存在しないので、「国際」ではなく、「民際」という言葉が充てられるのです。

資源の民際管理とは、従って、石油をはじめとする天然資源を売買したり、資源埋蔵地の独占物とするのでなく、民際機関を通じて地球規模で管理することを意味します。

そうしたことを可能とするために、世界天然資源機関が設置されています。以前は石油の枢要性に照らして、石油専門の機関が設けられていましたが、脱石油燃料が世界に行き渡り、天然資源機関に統合されています。

天然資源機関は世界経済計画機関と連携して、環境的に持続可能な資源開発を統括する開発・供給機関でもあり、地球規模での資源の計画的かつ公平な分配を担保しています。

このような資源管理体制は21世紀までの資本主義的常識では意想外のことだったでしょうが、共産主義的にはむしろ常識で、原油が取引され、日々の値動きに世界が右往左往するなど、23世紀人にとっては信じ難い話のようです。
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# by komunisto | 2015-01-07 11:39 | 経済
2215年1月1日

21世紀までの日本では新年参賀と言えば、2日に行われる天皇・皇后をはじめとする皇族の「お目見え」が恒例で、これに新年の始まりを感じるという方もあったでしょう。23世紀の現在、もはやこのようなことはありません。

23世紀の新年参賀は、中央民衆議事堂前広場で行なわれる新年の儀です。これは大晦日の前夜からカウントダウンの形で行なわれる一大行事となっており、毎年大勢の市民が集まります。

新年の儀には中央民衆会議議長をはじめとする民衆会議執行部のメンバーも加わって、盛大に新年を祝い、議長が新年の辞を演説します。音楽の演奏などもあるようです。

このイベントが行なわれる中央民衆議事堂前広場は、ほぼ旧皇居前広場に当たるエリアです。皇居跡地に中央民衆議事堂が建てられており、その前に広場があるという構成になります。

ところで、民衆広場という空間は全世界にあり、全世界同時にカウントダウンすることが恒例となっていて、その様子はテレビや動画で中継されます。世界共同体の下、世界が一つになったことを実感できる瞬間です。

では、どうしてもロイヤルファミリーの参賀に駆けつけたい人は?残念ながら、その期待はかなえられません。いずれ詳しくご紹介するように、23世紀にはロイヤルファミリーというものはもはや存在せず、天皇・皇族は称号を保持しながらも、一般市民化されているからです。

天皇家は現在、「特例市民」という特別な市民として明治維新までの居住地であった京都に住んでいますが、実質は一般市民と同等なため、新年に特別な参賀を受けることもなく、一般家庭同様、プライベートに新年を迎えます。
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# by komunisto | 2015-01-01 13:43 | 社会
2214年12月28日

21世紀の読者より、23世紀の共産主義的なインターネットの仕組みはどうなっているのかという質問が届いています。そこで、本年最後の記事はこれをテーマとします。

まず、インターネット接続に際して不可欠なプロバイダーは、21世紀の国に相当する各領域圏ごとに設立された公営の接続業者が一括して全サービスを提供する仕組みです。

つまり資本主義時代のように、営利系の業者が林立し、価格を比較して選ぶということは必要ないのです。しかし、それでは選択の自由がなく、つまらないと言われるでしょうか。

これは23世紀のサービス全般に言えることですが、選択の自由より安定性や安全性、公平性が優先されるのが、23世紀の特徴なのです。23世紀人たちは、そのことに確信と誇りを持っているように見えます。

ネットの場合は、日本情報通信機構という事業体が唯一の接続業者ですから、ここに申し込む以外にないわけです。

申し込みと契約は簡単ですが、若干違うのは毎日の接続に際して実名認証が求められる点です。これは煩雑で、プライバシーへの制約に及びますが、安全性確保のためのやむを得ない手段と考えられています。

過去にネット上で不正行為をして摘発され、有罪となった人は一定期間ネット接続が禁止されるなどのペナルティーを受けるため、そうした認証システムがあるのです。

ちなみにセキュリティーに関しては、営利系のセキュリティーベンダーが競争的にソフトを開発・提供するのではなく、世界情報安全機関という民際機関が開発したソフトが(もちろん無償で)提供されるのです。

とはいえ、貨幣経済の廃止はネット上での金銭目的の不正行為を根絶したため、ネットの安全性は21世紀に比べれば格段に確保されており、そう深刻ではないのですが。
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# by komunisto | 2014-12-28 16:29 | 情報
2214年12月22日

23世紀の地球からはおよそ軍隊は消滅したとご報告したことがありますが、ついには軍隊に次ぐ「暴力装置」である警察を廃止する潮流も起き始めていることを知りました。

こうした先進的な社会実験ではかねてより世界をリードしてきた北欧やベネルクスの領域圏ではこのところ、警察廃止が相次いでいます。もちろん警察を廃止して、全く犯罪を取り締まらないということではないのは言うまでもありません。

警察を廃止する代わりに、警察機能を防犯や犯罪捜査に当たる民間団体に委託するのです。ある意味では警察の「民営化」ですが、資本主義のように営利企業の警備会社に委ねるのではなく、あくまでも公益的な民間団体です。

その名称は領域圏により様々ですが、社会安全協会とか公共安全協議会といった名称が与えられています。この点、以前ご報告したように、日本でも交番の運営は社会安全連絡会という民間団体に委託されており、警察業務の一部民営化は実現していますが、それを全面化するのが警察廃止です。

そうすると、身柄拘束などの強制処分をすべて民間人がするのかということになりますが、警察を廃止した場合、強制処分は裁判官の権限とされ、民間団体の捜査員は裁判官の令状の執行のみを受け持つことになるようです。

民間団体とはいえ、その要員は治安業務のプロとして専門的な訓練を施されるので、実質は旧警察と変わりないとも言えますが、ともかく、警察というしばしば人権侵害の温床ともなってきた「暴力装置」を廃し、民間の手に委ねるということには大きな意味があると考えられます。

日本は今のところ、こうした潮流に加わることに慎重なようですが、民衆会議では担当の公安委員会で予備的な議論が始められているとのことで、その行方が注目されます。
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# by komunisto | 2014-12-22 11:31 | 司法
2214年12月16日

2014年も年末になり、寒くなってきたことと思います。200年後の2214年の年末もそう変わりませんが、大寒波・豪雪という異常気象は起きていません。温暖化が抑止されていることと関連があるのでしょうか。

ともあれ、南西諸島を除く日本の冬には暖房が欠かせません。しかし、暖房システムはかなり変化しているようです。

興味深いのは、囲炉裏の復活という現象が見られることです。特に戸建て住宅の建設は資本主義的なディベロッパーではなく、大工職人組合のような企業体が請け負うため、依頼主の希望で様々な工夫が施せます。囲炉裏の設定もその一つです。

もちろん23世紀にも近代的な暖房が普及していますが、石油式、電気式を問わず、ストーブは廃れています。代わりに、温水式床暖房の普及が見られます。集合住宅ではたいてい導入されています。電気式床暖房もありますが、過熱の危険から推奨されていません。

電気式の暖房では、高い位置に取り付けるエアコン式のものより、低い位置に取り付けるオイルヒーターが一般的です。かつては電気料金が高額のため、普及していなかったようですが、現在は電力も無償化されているため、経済的な問題はありません。

要するに、環境的持続可能性が社会の常識として定着している23世紀には、全体としてなるべく電力に頼らない暖房システムが志向されているのです。

ちなみに電力供給自体も、現在では再生可能エネルギーが大半を占めていますが、特に地熱発電の開発が進んでいます。統計上は、個人宅の冷暖房の半分以上を地熱発電でカバーしているとのことです。

元来大規模な火山帯に位置する日本列島は地熱発電のポテンシャルが大きな地帯であったので、特に不思議はありません。私権との調整の難航や総資本による原発依存の固定観念が豊かな地熱利用を阻んでいただけです。

現在居住している家も、温水床暖房完備の住宅となっていますが、かつて21世紀の旧世界で使用していた電気ストーブやエアコンではほとんど暖まらなかった足元が暖まり、暑さより寒さに弱い身には大変重宝しています。
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# by komunisto | 2014-12-16 13:19 | 環境
2214年12月10日

23世紀の公権力制度の中で、一番姿を大きく変えたのは、司法でしょう。21世紀までは、いわゆる三権の中で最も民衆から遠い位置にあった司法ですが、23世紀の司法制度は「民衆司法」とも呼ばれ、民主化が徹底されています。

まず、司法の頂点にあるはずの最高裁判所といういかめしい制度が消滅しています。では司法の頂点はどこにあるかといいますと、民衆会議です。国会に相当する中央民衆会議の司法委員会及び憲法委員会という機関が旧最高裁の役割を果たします。

つまり、国会が最高裁を兼ねているようなものです。ただし、裁判をするのは通常の代議員ではなく、法律家の資格を持った特別代議員が判事として裁判に当たります。ちなみに、憲法裁判は別立てで上記憲法委員会が審理します。

これに対して、下級裁判所のほうは地方圏と呼ばれる旧都道府県に相当するような広域自治体に属していて、全体の司法監督は地方圏民衆会議が行います。

つまり、上告審は中央民衆会議が直接担当し、下級審は地方圏民衆会議が管轄する下級裁判所が担当するという形で、司法分権がなされているということになります。

このように、あえて三権分立という古典的なシステムを壊して、中央民衆会議が最高司法権を掌握しつつ、司法分権により下級裁判権を地方圏に移譲するという制度を採用することで、司法を民主化しようとしているのです。

ただ、司法には中立性が要求されることから、民主化にはそぐわないという観念がかつては根強くありました。たしかに政党政治の下では、司法の民主化は中立性の喪失というリスクを伴います。

しかし、現在政党政治は一掃されており、民衆会議のメンバーは代議員免許取得者中から抽選で選出されるシステムですから、司法に政党が介入する心配はありません。そのため、中立性と民主性の矛盾という問題自体生じないのです。
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# by komunisto | 2014-12-10 09:59 | 司法
2214年12月4日

23世紀の教育制度は振るい落とし型のエリート選抜教育ではなく、基礎教育を中心とした平等な市民教育が徹底していることは前にご報告しましたが、スポーツ・芸術分野のように「才能」に大きく依存する分野はどうなっているのか、気になっていました。

こうした早期英才教育が必要と考えられている分野では、やはり少し例外があるようです。基本的には高度専門職学院の一環として、体育学院とか芸術学院といった教育機関が設置され、アスリートやアーティストの養成を行っています。

通常、医科学院とか法科学院等の専門職学院に進学するには、基礎教育を修了した後、一定年数の就労経験を要するのですが、スポーツや芸術では性質上早期からの専門教育やトレーニングが必要なため、基礎教育終了後、直ちに進学することも認められています。

こうした特殊な専門職学院は附属の予備課程も擁していて、基礎教育課程に在籍するスポーツ・芸術面で特に際立った才覚を発揮している生徒には、この予備課程への編入が認められることもあります。附属予備課程では通常の基礎教育とともに、各専門分野の教育も並行して行われています。

従って、厳密に言えば、エリート選抜教育もないことはないのですが、あくまでも例外的なコースにとどまっていて、いわゆる受験専門進学校のようなエリート校は存在しないことに変わりありません。

ちなみに、個人的な関心のある芸術学院の音楽科を覗いてみて印象的だったのは、21世紀までのいわゆる音大にはほとんど見られなかった大衆音楽専攻のコースもあることでした。クラシック音楽を特別に高尚なものとみなし、“低級な”大衆音楽を教育対象から外すという階級的発想が一掃されています。

もちろん、伝統的なクラシック音楽のコースも用意されていて、一応別系統で教えられているのですが、どちらが偉いというような差別はないことが印象的でした。それだけ芸術の世界も良い意味で共産化され、階級的な垣根が取り除かれているようです。
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# by komunisto | 2014-12-04 13:53 | 教育
2214年11月29日

23世紀の民衆会議代議員は代議員免許取得者の中からくじ引きで選ばれるとご報告したことがありますが、代議員免許試験とはどんなものなのか、興味があり、覗いてみました。

まずこの免許試験で問われることは、市民が中央・地方の代議員として活動するうえで必要な社会科学的な素養です。などと言えば、各種資格試験のような難関なのかと思われるでしょうが、そうではなく、合格率80%以上、落ちても最悪三回以内で合格するとされています。

内容は[Ⅰ]基礎科目として「政策立案」、「立法技術」、「政治倫理」、[Ⅱ]政策科目として(A群)は必修科目の「政治・法律」、「経済・環境」、(B群)は「福祉・医療」、「教育・文化」のいずれか一方を選択します。

結構盛りだくさんで大変なように見え、21世紀の人なら「受験対策」に走りたくなるかもしれませんが、問われる内容は、13年間一貫制の基礎教育(義務教育)の内容に多少上積みした程度のことにすぎません。逆に言えば、それだけ基礎教育の内容は充実しているということです。

しかも、試験方法も民衆会議が定期的に監修・発行する各科目の公式テキストを試験会場に持ち込んでよいという寛大なもので、いわゆる丸暗記は必要ないのです。設問は暗記力を問うのでなく、テキストの情報をもとに自ら課題を発見・解決するというまさに代議員の任務に沿ったものとなっているからです。

免許試験の受験資格も寛大で、基礎教育の過程を修了していなくとも、15歳以上なら誰でも受けられます。実際、毎年10代の免許取得者も少数ながら出ています(ただし、代議員の適格年齢は19歳以上)。

また海外からの移民でも居住2年以上なら受験可能です(代議員となるには、地方で3年以上、中央なら5年以上の居住歴が必要)。そして、嬉しいことに、私のように過去から来た旧世界人にも受験資格があります。

21世紀にいた頃、丸暗記が何より苦手だった私にとって、テキスト参照OKの問題発見型試験は理想の試験に思え、旧世界人なりに政治貢献すべく、受験を考えているところです。
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# by komunisto | 2014-11-29 10:42 | 政治
2214年11月24日

2014年の日本では、依然として悲惨な児童虐待事件が跡を絶たないようですが、23世紀の社会では児童虐待のニュースはほとんど耳にしません。23世紀の親たちはみんな責任感溢れる立派な親揃いなのでしょうか。

たぶんそうではなく、子育て観の大きな変化が影響していると思われます。現在、「子どもは社会が育てる」という考え方が定着しているのです。

その意味は21世紀なら誤解を招く恐れがありますが、親は育児の責任を負わないということではありません。親権とそれに伴う親の養育義務は変わりませんが、子の養育は親のみの責任ではなく、むしろ究極的には社会の責任であるという意味です。

いつの時代であれ、親の養育能力には埋め難いほどの格差があります。頭の下がる立派な親もいれば、無責任極まりない親まで様々です。親になるのに資格や免許は必要なく、誰でもなれてしまうのですから、こうした「親格差」は考えてみれば当然のことです。

そこで、個々の親の養育義務は当然残しつつも、究極のところでは社会が養育するということが明確にされているのです。

具体的には、子どもの権利法という法律があり、これは民法の特例として、親に養育能力がない場合に裁判所の審判で親権を停止したり、剥奪したりすることが親絶対主義だった時代より容易にできるようになっています。

そうして親権者を失った子どもは厳格な適格性審査と講習を受けた里親が引き取って養育する認定里親制度が充実しているため、いわゆる児童保護施設というものは存在しません。ただ、児童擁護センターという機関で一時保護することがあるだけです。

その児童擁護センターは旧児童相談所の機能をいっそう拡充したもので、旧児童福祉司をより専門化した児童保護士が多数配置され、子どもの権利全般の擁護に当たっています。センターは警察機能すら持っており、児童虐待の疑いがあれば令状に基づく家庭への立ち入り調査や人身保護の権限が与えられています。

また前々回報告したように、1歳から保育が義務とされていることも、乳幼児の養育を親任せにせず、学齢前の子どもでも、社会が責任を持って養育するという「子どもは社会が育てる」の具体化と言えるかもしれません。
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# by komunisto | 2014-11-24 09:48 | 福祉
2214年11月19日

23世紀人に説明するのが一番難しいもの、それは知的財産権でしょう。このような概念はもはや存在しないからです。無形的な知まで財産権の対象となり、金に換えられるというのはまさに資本主義の象徴だったようです。

しかし、知的財産権が存在しないと、盗作や海賊版が横行するのではないか。実際、そのとおりです。ですが、23世紀人はそうした模倣を悪とは思わず、良い作品は真似されると割り切っているようで、盗作された著作家たちも憤激したりしないのです。

実際のところ、貨幣経済が廃されたことで、著作家たちも著作権料など手にすることはできなくなり、プロとアマの垣根も非常に低くなっていますから、カネをもらう人=プロ、もらわない人=アマという区別もありません。ただ、いわゆる人気のある・なしで、おおまかにプロ・アマの境界が分けられているだけです。

とはいえ、盗作が当然に認められているわけではなく、慣習上著作倫理が形成されています。盗作は著作倫理違反とはなるのですが、そのことが著作権侵害として法的追及の対象となることはないのです。ただ、盗作が発覚すれば盗作者は評判を落とし、社会的制裁を免れないことはあります。

以上のことは発明についても妥当します。21世紀には特許戦争という用語もあったほど、特許技術は知的財産権分野では最も資本主義的競争圧力にさらされていた分野でした。

ですが、この分野でも、新案技術は発明者や発明企業が独占することは許されず、人類共通財として扱われるため、競争どころか、以前にも報告したように、新案技術は必ず世界科学技術機関に登録する必要があります。

こうして、人間の頭脳が生み出す知的生産物も、所有権の対象として囲い込み、金儲けのネタにするのではなく、人類共通の知的財産として共有し合うのが、共産主義的な23世紀社会の知のありようとなっているようです。
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# by komunisto | 2014-11-19 16:51 | 文化
2214年11月14日

前回報告した保育の問題を引き継ぐ形になりますが、21世紀には保育園の増設に伴い、園児の遊び声が「騒音」として近隣から苦情化されるという新たな社会問題が生じていました。保育が義務制となり、保育所が診療所より多い23世紀、この問題はどうなっているのでしょうか。

近所の保育園で聞いてみると、住宅が近くまで迫っている園庭などで園児を遊ばせる場合は、あまり騒ぎ声を上げないように指導しているため、騒音苦情はないとのことです。これは、園庭とはいえ、私的空間から一歩外に出たら近隣社会にも配慮するという公私峻別の価値観を保育段階から体得させるという明確な保育方針に基づいているといいます。

実は、こうした公私峻別は23世紀社会では一つの共通した社会のモラルとして定着しています。21世紀にも公私混同はモラル違反として非難されましたが、その一方で公私混同がしばしば役得的に容認される風潮も見られたり、成人でも近隣に配慮せず大騒ぎするような振舞いも見られたところでした。

23世紀の社会には、あらゆる職務において「公私混同・即免職」という厳しい綱紀がありますし、公私混同をチェックするオンブズマンや社内監査なども厳正です。

こうした厳しい公私峻別は、自分たちの社会は自分たちで運営するという広い意味での自治の発想が根付いていることから生まれるようです。何度も報告しているように、23世紀には国家とか政府といった上から個人を管理規律する機構は存在せず、すべてが自治に委ねられるのです。

純粋に私的な領域に公権力は干渉しない反面、何らかの形で社会と接触する場面では、規律ある自己抑制的な振舞いが求められるわけですが、それを綱紀として強制するだけでなく、幼児期の保育でも、遊びの中で公私の別を自然に体得させるという方針には強い感銘を受けました。
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# by komunisto | 2014-11-14 09:09 | 社会