2215年5月1日

今回はいかめしいタイトルの記事ですが、23世紀の社会の特質を学者はしばしばこのように表現しています。本質的に福祉が埋め込まれた社会といった意味になります。つまり、23世紀の社会はあえて福祉対策をあれこれ採らなくとも、福祉は実現するということです。

そのこともあって、23世紀の社会には特にこれといった福祉政策の目玉が少ないので、この通信でも福祉カテゴリーに分類される報告記事は、生活カテゴリーの報告記事と比べても少なめとなっています。

資本主義時代にはなぜ福祉が叫ばれたかと言えば、何事を為すにも必須アイテムである貨幣の持ち高が少ないと生活が困難になるため、低所得者向けの様々な福祉的支援策を必要としたからです。

国家が税を課して福祉政策を充実させる「福祉国家」が理想とされた時代もありました。しかし結局のところ、資本主義は福祉の世話を必要としない有産者に重税負担を求める福祉政策とはどうしても相性が悪く、福祉国家も溶解・解体が進みました。

そちら2015年の日本も、伝えられるところによると、様々な福祉負担の増大、またはサービスの削減により、元々弱かった福祉政策がいっそう縮減されていこうとしているようですが、これは資本主義社会では必然的な流れと言えます。

この点、貨幣経済が廃止された現在はそもそも生活原理が一変しています。貨幣なしでも必要な衣食住はすべて無償供給制でまかなえるのですから、そもそも貧困という現象は過去のもので、この用語はほぼ死語となりました。

医療も高度な治療を含めてすべて無償ですから、医療保険のような補填制度に頼る必要はありません。病気や障碍で働けなくなっても、生活は成り立ちます。死後に遺族が生活に困らないようにと、生命保険に入る必要もありません。

退職者の年金制度も必要なく、基本的には望む年齢まで働き、望む時にリタイアすることができますし、リタイア後の生活に困ることもありません。高齢になり介護が必要になっても、無償で介護サービスを受けられます。

このように貨幣経済廃止を基点として、福祉がすべて初めから組み込まれていることが、本源的福祉社会の意味です。人類はどうしてこの単純な原理に長い間気がつかず、貨幣制度の発明から何千年もかけてようやく廃止したのか、今となっては不思議なくらいです。
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# by komunisto | 2015-05-01 09:17 | 福祉
2215年4月25日

先日、23世紀日本の持ち家比率は約40パーセントで、過半数の60パーセントは借家だというデータを見かけました。一方、そちら2015年に最も近い2013年度のデータによると、持ち家比率は約60パーセント、借家は約35パーセントとされていました(残り5パーセントは不明)。

この結果は、いささか意外でした。貨幣経済が廃止され、住宅建設も無料となった23世紀の今、大半は持ち家に住んでいるのはないかと想像していたからです。実際には逆で、この200年の間に持ち家と借家の比率はほぼ逆転していたことになります。これはどうしたことでしょうか。

いろいろ調べてみると、以前の記事でお伝えしたように、23世紀の社会では自治体が提供する公営住宅の制度が充実していることに行き着くようです。23世紀の公営住宅はもはや低所得層向けの福祉住宅ではなくして、より大衆的な一般住宅として普及しているからです。

それに加え、23世紀の環境的持続可能性に配慮された環境計画経済下では、土地私有制度が廃され、無計画な商業的宅地開発というものが一切行われておりません。個人が持ち家を建築する場合は、土地管理機構から土地を借り、指定された方法で環境調和的に施工しなければならないといった制約がかかります。

そういうわけで、現在マイホームを夢とする人はあまりおらず、よほどお仕着せの公営住宅では満足できず、自分の好みの設計で戸建てを建てたいという希望の強い人だけが、上述のような制約を甘受してでもマイホームを建てるようなのです。

ちなみに、21世紀には分譲マンション型の集合的持ち家というものもありましたが、23世紀にはこのような型の持ち家はほとんど聞いたことがありません。シェアハウスのようなものはあるようですが、それは普通の戸建て住宅を仕切って共有するようなタイプのものです。

また貨幣経済の廃止により、家を有償で貸して賃料収入を得るという賃貸事業も成り立ち得ませんから、民間の借家もほとんどなく、上述の60パーセントの人たちの大多数も公営住宅に居住していることがデータ上も示されています。

21世紀人からすると何と味気ない住宅事情よと思われるかもしれませんが、23世紀の公営住宅は画一的なコンクリート建築ではなく、外観・内装ともに芸術的な価値も十分に認められるようなお洒落な設計になっていますから、かえって下手なマイホームを建てるよりいいのかもしれません。
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# by komunisto | 2015-04-25 17:24 | 生活
2215年4月19日

かつて様々な専門職が広い意味での「資格制」になっていた時代がありました。特に日本はおそらく世界一の「資格社会」で、多種多様の職が資格化され、資格試験への合格が社会へのパスポートになっていました。まだ21世紀に生きる方々は実感できるでしょう。

しかし、現在23世紀はもはや資格社会ではなくなっています。もちろん医師、看護師など医療系専門職のようなものは依然として資格制(免許制)で、しかも医師免許などは一度取得すれば終身間有効な特権ではなく、一定期間ごとに更新されていくというように厳格化されています。

また以前の記事で紹介したように、歯科予防師とか、臨床哲学士児童保護士などといった23世紀ならではの未来資格も生まれています。

その一方で、かつて無数に林立していた業界資格的なものは多くが廃止されています。業界での技能評価は就職後、実地で行われ、形式的な資格証明によるのではありません。

思うに、かつて資格が隆盛だったのは、旧来の身分制社会が崩れ、多くの職業が世襲制や徒弟制ではなくなった反面、所定の職業能力を簡単に証明でき、かつ組織内研修の手間を省ける手段として、「資格」が利用されていたのでしょう。結果として、今度は「資格」によるある種の身分制社会が立ち現われており、その傾向は資格林立社会の日本で特に顕著化していたのでした。

現在、かつて皆が「資格」取得に奔走させられていた時代を、少し皮肉を込めて「士師時代」と呼んでいます。「士師」とは、今でもそうですが、日本の各種資格には「士」または「師」の付くものが多いため、それらを併せて「士師」と呼ぶようです。

23世紀が「士師時代」でなくなった理由として、一つには他目的大学校のように一度社会に出た後、いつでも必要に合わせて実用的な科目を学べる生涯教育制度が確立されたこと、また各職場ごとの内部研修制度が充実していることが挙げられます。

「士師」となるために個人の費用負担で資格取得に必要な、時に長期に及ぶ「受験勉強」に追い立てられる代わりに、実質的な技能習得・向上のための社会的な諸制度が確立されているのも、貨幣経済の廃止という人類的な大決断の成果と言えるようです。
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# by komunisto | 2015-04-19 09:30 | 経済
2215年4月13日

23世紀的システムの中でちょっと変わっているのは、電話のシステムです。現在でも、電話には固定型と移動型(いわゆる携帯)があることは変わらないのですが、固定電話と携帯電話の機能分化がより明確にされているのです。

固定電話は、家庭用としては公共機関等への事務連絡用途に限られています。例えば、警察・消防・救急への緊急連絡や災害伝言、その他の事務的な連絡用です。そういうものとして、固定電話は各世帯に必ず一台給付されます。また各種事業所には業務用固定電話が設置されていることも変わりありません。

こうした固定電話は日常の個人連絡用には使えない仕様に作られており、個人的な連絡用としては携帯電話に一本化されています。興味深いのは、行政手続き専用の携帯電話も18歳以上の市民には必ず一台ずつ給付されることです。

このようにして、23世紀の電話は固定、携帯ともに自動的に給付されるシステムとなっており、これらの給付される電話を総称して「給付電話」(給電)と呼びます。給電は正当な理由がない限り電話番号の変更ができません。

こうした給電だけでも十分生活は可能ですが、給電は番号変更の自由が制限され、機能も限られているため、多くの人は自分専用の携帯電話をもう一台所有し、ネット接続などはこちらでするという人が多いようです。

こうした自由所有の携帯電話は高機能化されており、携帯電話というより、携帯パソコンに近いので、テレコン(テレコンプティーロ:エスペラント語)と通称されています。

ちなみに、たびたびご報告しているとおり、貨幣経済が廃され、すべてが無償供給される23世紀社会では、電話料金もかからず、完全無料です。ただし、調子に乗って過度にかけ放題をすると、前触れなく通信遮断措置をかけられます。

また電信電話サービスは固定型も移動型もすべて日本電信電話機構という公企業が一括して担っているため、あまたある携帯電話会社のリストからどこにしようかと選択に迷うこともありません。無償なら独占企業体で十分なのです。
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# by komunisto | 2015-04-13 10:21 | 情報
2215年4月7日

2015年4月の日本では、中学校の全社会科教科書で領土に関する記述が増量されるなど、政府見解に沿った教科書検定が一段と厳しくなったとの不穏な報道がありました。愛国主義路線に則った教科書統制策でしょう。

少し歴史を先取りしておきますと、こうした「愛国」教科書で教育された子供たちが中年に達し、政治家や文科官僚として指導的地位に就き始めた2050年代になると、教科書統制はいっそう強化され、政府見解以外の見解の掲載禁止、政府見解に批判的な見解を教えた教員の処分など抑圧の嵐が吹き荒れることになります。

言論全般への抑圧も広がり、反愛国的言論の警察的取締りも行われました。23世紀から振り返って、革命前のこの時代は、20世紀前半期に次いで公然と思想統制が行なわれた「ネオ・ファシズム」の時代として記憶されています。

それから革命を経て23世紀に到達した現在、教科書はどうなっているでしょうか。以前の記事でもご報告したとおり、23世紀の教科書はオール電子化されており、紙書籍の教科書は過去のものです。

問題は電子教科書の中身ですが、生徒の一人から見せてもらって驚きました。昔の教科書と異なり、とても記述が簡単です。解説調の長文は一切なく、ただ必要最小限の情報が与えられ、あとは自分で問題を発見するように作られています。与えられた問題に解答せよ、ではなく、与えられていない問題を作成せよ、という趣旨です。

ここには、教育理念の革命的な変化が反映されています。すなわち、教育とは生徒に既存知識体系を暗記させることではなく、生徒自身の知の探求を手助けすることだというのです。比喩的に言えば、軍隊的行軍から森の散策への変化でしょうか。

当然、政府見解の強制などあり得ません。もっとも、以前の記事でご報告したとおり、23世紀には政府という機関はなく、民衆会議あるのみですから「政府見解」なるものも存在し得ないのですが。

こうした問題発見型教科書で教育される23世紀の生徒たちは、知的探究心と自由な創造性に富んでおり、萎縮し、ロボットのように政府見解を暗唱する21世紀の生徒たちとはまるで別の生き物のように感じられるでしょう。
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# by komunisto | 2015-04-07 15:25 | 教育
前回、ウィリアム・モリスを話題にしましたが、モリスは社会の「システム過剰」に批判的で、単純素朴な田園社会を理想と考えていました。その点、23世紀の未来社会はシステム過剰気味ではないか、という疑問を続けていただきました。

たしかに、前回もご報告したように、23世紀社会はモリス的田園ユートピアではありませんから、単純素朴とはいかず、かなりシステマティックに構築されている印象を受けるかもしれません。しかし、筆者がかつて生きていた21世紀社会に比べれば、システムは緩和されていると感じます。

システム化が高度に進んだ21世紀社会の仕組みは錯綜し、全体像が見えなくなっていました。そうした錯綜の元は、市場経済機構の複雑化と、行政機構の肥大化であったと思われます。金の複雑な流れ―ことに金融―、そして法と権力の複雑な体系が迷路のような社会を作り出していたのです。

21世紀の学者たちは、こうした社会の高度なシステム化をあたかも「進歩」の証しであるかのようにみなし、モリスのように批判的に見ることはありませんでした。

その点、23世紀社会は、経済的には計画経済を機軸とした非貨幣経済でまとまり、政治的にはすべてが民衆会議に集約されています。簡単に言えば、商業と金権政治が消滅したわけです。それは、以前の記事でもご紹介したように、透明感のある社会の元にもなっています。

その結果、社会のシステム化は抑制され、見えやすいものになっています。こうして社会のシステム化が抑制されていることを、23世紀の学者たちは「システム緩和」と呼ぶようです。現在では、こうしたシステム緩和こそが進歩の証しとみなされています。

すなわち、できる限り簡明なシステムをもって高度な産業/情報社会を維持していくことこそが、新たな進歩の方向性だと考えられているのです。今回は、ややメタなご報告となりましたが、23世紀社会を理解するうえでのご参考まで。
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# by komunisto | 2015-04-01 10:28 | 社会
2215年3月26日

『未来社会だより』という当ブログのタイトルについて、これは19世紀英国のアーティスト・作家で社会活動家でもあったウィリアム・モリスの代表作『ユートピアだより』に着想を得たものではないかとのご指摘を21世紀の読者より受けました。

慧眼と博識に敬意を持ちます。モリスの名は21世紀には一部の人々の間でしか知られなくなっていましたので、それをご存知であったとは、相当な方です。たしかに、タイトルは同書から着想を得ました。ですが、内容はかなり違います。

モリスの「ユートピア」は、明らかに全員平等の共産主義的田園ユートピアを想定しています。それは彼が生きていた19世紀後半の英国が世界に先駆けて歩んでいた資本主義産業社会への鋭いアンチテーゼでした。

そのため、モリスの「ユートピア」は結局のところ、一人称主人公の夢幻であったことが結末で明かされます。その終わり方はいささか寂しさを感じさせ、所詮ユートピアなどかなわぬ夢にすぎないのだというペシミスティックなメッセージを読み取ることすら不可能ではありません。

これに対して、当ブログでご報告している23世紀未来社会は、これまでの通信からも明らかなように、高度な共産主義的産業・情報社会であり、農業・手工業中心のモリス的「ユートピア」とは大きく異なります。

23世紀社会は、「ユートピア」=どこにもない理想社会ではなく、23世紀の地球世界に遍く実在する未来社会、理想と現実が統一された未来現実です。それは21世紀までの資本主義産業社会と全面で対立するものではなく、旧時代の成果をもより高い次元で継承した後続社会でもあるのです。

当ブログの各通信では、そうした旧時代からの継承面と革新面とをできるだけ明瞭に切り分けて報告するよう努めてきましたので、そのあたりはある程度お読み取りいただけるかと思います。

このようなモリス的ユートピアとの相違点を別としても、モリス『ユートピアだより』は21世紀時代の私のお気に入りでした。マルクス『資本論』―こちらはある意味、資本主義的ディストピア文学としても読めます―よりも面白く感じたくらいでした。

ちなみに、23世紀の現在、モリスは作家よりもアーティストとして再発見されており、デザインの世界で「新モリス派」が形成されています。『ユートピアだより』については、民主的な農村自治体のあり方として参照されることはあるようです。
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# by komunisto | 2015-03-26 09:33 | 思考
2215年3月20日

遺憾なことに、21世紀は、23世紀から振り返って「テロの世紀」と呼ばれています。何しろ、21世紀最初の年2001年は、資本主義の象徴ニューヨークの世界貿易センタービルを倒壊させたまさに空前の航空突撃テロで幕を開けたのですから。

テロの犠牲はどれも悲惨ですが、中でも観光客の巻き添え死は気の毒です。21世紀は同時に「観光の世紀」でもあり、各国が競争のように観光のビジネス化を進め、観光ブームが起きていましたから、観光客がテロに巻き込まれる危険も増していたのです。

めぼしい産業のない国やすでに斜陽化している国にとっては、観光客の落としていく金は重要な恵みでしたが、一方で観光客の落し物は金だけではありません。ゴミや汚物も落としていきます。それは環境悪化の要因となり、また重要遺跡の汚損等の原因ともなります。

世界遺産云々といって多額の費用を要する保存を義務付けながら、一方で観光による劣化については知らぬふり。こうしたポリシーに、21世紀時代の筆者はどこか偽善を感じていました。

では、23世紀の観光やいかに?以前の記事で、世界が一つになった23世紀には、国というものがなく、従って国境もないので、世界旅行は完全自由というご報告をしましたが、これには重要な留保があります。

たしかに世界共同体を構成する各領域圏は原則出入り自由なのですが、観光目的の入領には毎年何人までと上限を設けるのが決まりです。一方で、長期滞在目的での入領に特段の制限はないのです。これは、21世紀までのやり方とは正反対ですね。

このように観光のような一時滞在目的の入領を制限する理由として、遺跡や保護区の環境保全もあるのですが、もう一つの重要な理由として、これも以前の記事でご報告した貨幣経済の廃止もあります。

現在、どの領域圏でも貨幣なしにあらゆる物が手に入る一方、物の生産量には自ずと限界がありますから、海外から押し寄せる観光客の大量取得による物不足という事態を防ぎたいわけです。

かくして、23世紀の観光は旅行会社を通した商業観光ではなく、各領域圏観光局が直担管理する上限付きの「管理観光」の形をとります。従って、人気の高い領域圏では何年も先まで予約待ちという「行列」ができることも珍しくありません。
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# by komunisto | 2015-03-20 10:49 | 政治
2215年3月14日

以前の記事で、選択的通学制を採る23世紀の学校は生活人として必要/有益な素養の涵養に重点を置き、社会性の涵養については、学校制度と切り離して地域少年団活動が担うと記しました。

この地域少年団というのは、21世紀人には耳慣れないものですが、類似の活動としてはボーイスカウト・ガールスカウトに近いかもしれません。ただし地域少年団は各市町村が所管する公式の制度で、スカウトのように軍隊活動のアナロジーではなく、むしろ非軍事的な自然観察活動のようなものです。

従って、スカウトのような制服の着用はなく、私服で活動します。しかも、単なる任意のクラブ活動ではなく、満8歳から15歳までの少年少女全員が加入を義務付けられる野外活動です。団は各市町村の地区ごとに編成され、数名の成人が指導員として配置されます。

年齢構成は学校と異なり、横断的で、如上の年齢層に含まれる地域の子どもたちが包括的に含まれます。そうすることで、地域の子どもたちの間で擬似きょうだい関係を設定し、社会性を涵養することが目的とされます。

具体的な活動内容は、主に週末を利用して、日帰り、時に一泊で田園や高原、海岸など比較的安全かつ自然環境の豊かな場所で散策活動をします。内容的には自然環境教育に近く、従って指導員もスポーツ指導者ではなく、自然レンジャーのような研修を受けた人が充てられるとのことです。

ただ、活動は授業そのものではないため、「勉強」というよりもレジャー的な要素が強く、近隣地域の子どもたちが遊びを通して社会性を身につけ、併せて23世紀世界の共通原理でもある環境的持続可能性を体得できるように工夫されています。

この活動は義務的ですから、学校では通信制を選択して日頃は自宅学習している生徒も少年団活動には参加しなければなりません。障碍のある子どもも、医学的に参加不能な状態でない限り、平等に参加するため、健常児と障碍児が触れ合ったり、介助したりということがごく自然に行われ、障碍者のインクルージョンにも一役買っているとの指摘もあります。

ところで、週末の子どもたちは塾や習い事に多忙で参加できないのでは?という心配は無用です。人生設計の自由度が驚くほど高い23世紀には、塾や習い事に駆り立てられる子どもは皆無なのです。
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# by komunisto | 2015-03-14 11:13 | 社会
2215年3月8日

23世紀から振り返りますと、21世紀は中国の世紀でした。中国が米国と並ぶ超大国として台頭してきたのです。あれから200年、世界共同体という新たな世界システムの下、以前の記事で報告したように、旧米国は北アメリカ領域圏とアメヒコ領域圏に分割されていますが、中国はどうなっているでしょうか。

23世紀の中国は、中華連合領域圏という正式名称を持つ領域圏に姿を変えて存続しています。連合領域圏とは、かつての連邦制に近い構成体で、高度な自治権を有する複数の準領域圏がまとまって一つの領域圏を構成するものです。中華連合の場合は、現時点では20の準領域圏で構成されています。

領域圏は旧世界人には御馴染みの「国」ではないので、もはや「中国」という略語は使われず、中華連合領域圏を縮めた「中連領」もしくは「中連」という略語が使われるのですが、21世紀の読者にもわかりやすくするため、記事タイトルでは「中国」という旧語を用いておきました。

ちなみに、かつて分離独立運動も盛んで中国当局との衝突もしばしば起きていた西方のチベットとウイグルの両自治区は、それぞれチベット領域圏、ウイグル領域圏として独立の領域圏を構成しつつ、中華連合領域圏とは緩やかな合同領域圏―正式名称はチャイナ‐チベット‐ウイグル合同領域圏―を形成しています。

また台湾については、大陸と平和裏に統合され、中華連合領域圏を構成する準領域圏の一つ(台湾省)として存続しています。

こうした再編は、すべて21世紀末乃至22世紀初頭の世界革命の後、貨幣経済が廃止され、もはや経済的な利害関係にとらわれることなく、民衆の自発的な意思と平和的な協議により一滴の血も流さずに行なわれたのですから、旧世界人にとっては奇跡のように思えます。

ところで、近代中国と言えば共産党と切り離せませんが、中国共産党は現在解散されています。といっても、共産主義でなくなったからではなく、「共産主義が実現されたから」です。これも、一見奇妙なことなのですが、地球が共産化され、グローバルに共産主義が実現された現在、共産党は役割を終えたのです。

現在の中華連合では、世界共同体のシステムの下、各領域圏共通の標準制度となっている民衆会議が基本的な政治制度となっている点では、他の領域圏と変わりありません。ただ、人口は21世紀よりは若干減少したものの、なお10億人を擁する世界最大の領域圏です。

世界最大といっても、連合領域圏における準領域圏の自治権は相当に高度であるため、20の準領域圏はそれぞれが小さな領域圏のようなものですから、現在の中華連合は20の領域圏に分割されたに等しいものです。もちろん、これも民衆の自発的な意思によるもので、帝国主義的な分割とは全く異なるものです。
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# by komunisto | 2015-03-08 11:31 | 政治
2215年3月2日

3月に入ったばかりで少し早いですが、かつて日本の3月は引越しシーズンでもあり、ある種の「民族大移動」の季節でした。21世紀の社会では依然としてそうだと思いますが、23世紀の現在、そのようなことはありません。

その理由として、昨年3月の記事でも報告したように、4月に入社・異動・入学が集中する「4月基準社会」は過去のもので、従って3月も引越しシーズンではなくなっているということがありますが、そればかりでなく、23世紀の人たちはそもそも引越しをあまりしないようです。

一般世帯の引越し理由で一番多いのはやはり転勤・転職だと思いますが、23世紀には転勤がほとんどありません。これは各地に支社や事業所を持つ大企業というものが消滅したことが大きいですが、大規模組織でも地元固定採用が基本のため、転勤に次ぐ転勤ということがないのです。

一方、23世紀の労働者はしばしば転職しますが―ある統計によると、平均して生涯に3.5回―、職住近接を基本とした労働紹介システムが完備しているため、転職する場合でも、近傍で転職するのが一般ですから、やはり転居の必要はないわけです。

その結果、23世紀は産業社会でありながら、農耕社会並みに定住性の強い社会となっているのです。考えてみれば、転勤・転職に伴って、あちこち転居して回るという生活スタイルは、まさに20世紀的な働き蜂社会そのものだったのかもしれません。

とはいえ、諸事情から転居する必要が生じ得ることは23世紀でも変わりませんが、引越しが少なくなった現在、かつて御馴染みだった引越し専門業者も見当たりません。短距離の引越しなら、親族・友人などを頼んで個人的に転居作業する人が多いようです。

すると、21世紀からタイムトリップして来た筆者のように23世紀社会に親族・友人の少ない人間はどうすれば?探してみると、ボランティアで引越し作業を手伝う団体があるようで、こういうところに頼むしかないようです。
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# by komunisto | 2015-03-02 18:08 | 生活
2215年2月24日

23世紀に飛んできてしばらくすると、近所に学校に通っていないように見える子どもが少なからず存在するようなので、調べてみたところ、その訳がわかりました。それは、23世紀の学校が選択的通学制を採用しているためでした。

選択的通学制とは要するに、学校に通学するかどうかは子どもと保護者の選択に委ねられるという制度です。通学しない選択をした場合は、自動的に通信コースに編入されますので、一切学校教育を受けないという選択は許されません。

以前の記事でご報告したように、23世紀の学校制度は義務教育の期間を13年間に延長しつつ、通学/通信を選択式にして、柔軟な制度に設計されているわけです。なお、通学/通信の選択は学期の節目であれば、いつでも自由に切り替えが可能という極めて柔軟性の高い制度です。

ただし、例外があり、健康体育と生活技術という実技系科目だけは、その性質上通信受講は不可能なことから、一律に通学が義務づけられているため、結果として通信生でも週何日かは部分的に通学する日があります。

とはいえ、義務教育は通学オンリーという時代を経験した者には、13年間ずっと通信制で学ぶとなると、いわゆる社会性の涵養が疎外され、ある種の引きこもりになってしまうのでは?という心配も浮かびます。この点、教育関係者に尋ねてみると、怪訝な顔をされ、おおむね次のような回答をされました。

23世紀の学校は社会性云々ではなく、生徒個々の資質や適性を発見し、それを伸ばす手助けをすることに重点を置いているところ、学びのスタイルについては通学/通信いずれでもよく、自分に向いたコースを選択するほうがむしろ身につきやすい、と。

なるほど、23世紀的な合理主義思考に基づく教育観であると思います。考えてみれば、学校嫌いで毎朝の通学に苦痛を感じていた筆者にとっては、羨ましい制度です。

もっとも、社会性の涵養も無視されているわけではなく、それは学校とは切り離して、地域少年団という公的な集団活動の役割とされているそうです。これは通常の教育とは別立てとなっているため、改めてご報告することにします。
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# by komunisto | 2015-02-24 09:50 | 教育
2215年2月18日

今回は、前々回の記事で予告していた自治体が運営する登録パートナーシップのパートナー・マッチングサービス―言わば、公営結婚相談所―についてのご報告です。

今、21世紀人にもわかりやすくするため、「結婚相談所」になぞらえましたが、たびたびご報告しているように、23世紀には結婚という制度は登録パートナーシップ制度に置き換わっているので、厳密な言い方ではありません。

21世紀まで、この種のサービスは「結婚相談所」の名で民間の営利事業としてよく行われていましたが、貨幣経済の廃止に伴い、そうした営利的結婚相談事業も消滅し、今や公的サービスに移っているのです。

しかも、このサービスは自治体のお節介ではなく、法律で市町村ごとに設置が義務づけられたれっきとした公的サービスです。筆者のような旧世界人的感覚では、自治体がそこまでする必要があるのか疑問も多少ありますが、23世紀の自治体の役割は生活全般のサービスととらえられているので、こうした縁結びのサポートも仕事の内とみなされているようです。

さて、このサービスの仕組みですが、マッチングを希望する人は原則として自身が居住する市町村に所要データを登録します。データの登録は地方圏(例えば近畿とか東北など)の広域的レベルで共通化されていますので、その広域圏内の登録者とマッチングされます。

登録パートナーシップは異性間・同性間どちらの組み合わせも認められるため、同性パートナーのマッチングサービスもあり、登録者は自由に選択することができます。

マッチングに際しては、心理学的な知見も踏まえたコンピュータ解析で精密に相性が分析されるため、自分で相手を探すより、効率的な面もあるようです。

マッチする相手がヒットすると、登録者に通知され、双方の合意が得られれば、指定された場所でコーディネーターが最初の対面をセットし、以後も継続して会う場合は当事者同士で決めます。ちなみに、この制度を悪用して性犯罪その他の不正行為を犯した者は、登録抹消と同時に不正行為者のブラックリストに搭載されてしまいます。

またこうした制度にはつきものの不安材料となる個人情報漏洩に関しては、各自治体ごとに個人情報保護監という独立した監察機関が置かれ、情報管理に目を光らせていますから、21世紀よりも安心なぐらいです。

ちなみに、地元地方圏のデータによると、登録パートナーシップのおよそ42%がこのサービスを介して成立したとのことで、半分弱が利用している計算になります。
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# by komunisto | 2015-02-18 11:22 | 人生
2215年2月12日

前々回の記事で、トリリンガルな言語人の育成を目指す23世紀の外語教育について報告しましたが、これは少し修正する必要があります。というのは、四つめの「言語」として、手話が必修とされているからです。

手話には、母語手話とエスペラント手話の二種類がありますが、とりあえず学校で必修科目となっているのは、母語手話のほうです。日本なら、言うまでもなく、日本語手話です。

21世紀には手話というと、聴覚障碍者向けのコミュニケーション手段と考えられていましたが、23世紀の手話は、ボディーランゲージの代表として、非障碍者も身につけるべき「言語」だと考えられているのです。

従って、手話は特殊な授業ではなく、「言語」という科目の中で扱われます。この「言語」とは、かつての国語にエスペラント語及び近隣外語、手話まで併せて、言語全般の運用能力を総合的に涵養するすぐれて23世紀的な授業科目です。

こうした手話必修化も世界レベルで実践されているため、基礎教育を修了した23世紀人なら、普通に母語の読み書きができるのと同じレベルで母語手話もできます。またテレビ番組は原則として手話通訳が法律で義務づけられています。

面白いのは、非障碍者同士でも、少々おどけて手話で会話する光景が見られることです。実際、23世紀人はその気になれば、すべて手話で会話し合うことも可能なわけです。

そんな光景を見るにつけ、筆者が20世紀後半に受けた音声言語至上主義的な―それも国語と英語に偏った―旧言語教育は、いかに人間の言語運用能力を制約し、ひいては思考世界をも狭めていたか、痛感させられます。
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# by komunisto | 2015-02-12 09:28 | 教育
2215年2月6日

23世紀には婚姻の制度が大きく変革され、結婚制度(法律婚制度)はよりインフォーマルな登録パートナーシップ制度に変化していることについて、これまでにも、いくつかの記事でご報告してきました。

この制度の下では、もはや夫と妻という性別役割関係もなく、どちらも完全対等なパートナーです。ですから、男性同士、女性同士のパートナー関係も全く自由です。

これによって、「嫁」という語は死語になりました。辞書にはまだ搭載されていますが、【死語】もしくは【廃語】の表記が付され、「旧結婚制度の下で、妻の別称」などと解説されています。辞書によっては、「女性配偶者を家政婦扱いする古い男性優位の観念に基づく用語」といったご丁寧な注記をしているものまであるほどです。

こういう次第ですから、当然、「夫は仕事、妻は家事育児」などという性別役割分担は全く見られません。パートナー同士は仕事も、家事育児も対等分担が常識です。古い性別役割分担の習慣が根強く残されていることで悪名高かった日本社会も、この点では革命的に変化しています。

女性陣にとっては、まさに「家付きの女」=「嫁」という古い従属的地位からの解放の時代の到来ですが、男性陣はどう思っているのか、周囲に聞いてみると、特に不満はないようです。男性にとっても、「夫」という役割に束縛される旧結婚制度は良くないという意見も見られました。

一方、こうしたインフォーマルで対等なパートナー関係は解消されるのも早いのではないかと予想したのですが、予想は外れました。統計上解消(離婚)に至るパートナーシップは全体の20パーセント程度で、大部分は長持ちしているようです。

その理由はまだはっきりと把握できていないのですが、一つには自治体が運営するマッチングサービス―言わば公共結婚相談所―が効果を発揮しているようです。これについては、稿を改めてご報告しましょう。
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# by komunisto | 2015-02-06 14:11 | 社会
2215年1月31日

23世紀には外語教育のあり方も大きく変化しています。現在エスペラント語が世界公用語の地位を与えられているため、世界の学校でエスペラント語が必修科目として教えられていることは、以前の記事でもご報告したところです。

エスペラント語はちょうど21世紀の英語と同様の地位にあり、世界共同体の公式会議等はもちろん、民間の民際会議でも公用語として普通に用いられますから、民際人として活躍したい人には必須の言語です。

反面、英語は任意選択科目となり、その地位を大幅に低下させています。一方で、重視されているのが近隣外語教育です。近隣外語とは境界を接している周辺領域圏の公用語のことをいい、日本の場合には、中国語と韓国語、ロシア語がそれに当たります。

ちなみに、再三再四説明しているように、23世紀には「国」という政治体が存在しないので、現在では中国語は漢語、韓国語は高麗語と呼ぶようになっています。

こうした近隣外語教育の目的は、近隣領域圏との友好善隣を深めることにあり、世界共同体の教育憲章でも、エスペラント語教育とともに、近隣外語教育が構成領域圏に義務づけられているため、すべての領域圏においてそれぞれの近隣外語教育がなされています。例えば、日本の近隣では日本語が教えられているわけです。

日本の近隣外語教育は、21世紀の教育制度でいえば、小学校高学年に相当する課程から、必修選択科目として課せられます。つまり、すべての生徒は漢語、高麗語、ロシア語のいずれか一つを選択しなければなりません。

このようにして、全員必修のエスペラント語に選択必修の漢語・高麗語・露語のいずれかを加え、理想的には、母語(日本語)とエスペラント語及び漢語または高麗語のいずれかのトリリンガルな言語人の育成が目指されているのです。
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# by komunisto | 2015-01-31 14:48 | 教育
2215年1月25日

20世紀から21世紀にかけて、国際刑事警察機構(インターポール)という国際警察機関があり、国際手配を中心とした捜査協力機関として機能していました。

かつてインターポールはよくドラマやアニメなどにも登場する存在でしたが、実在のインターポールは主権国家間の国際協力機関にすぎなかったため、創作の世界のように自ら逮捕などの強制捜査をすることはありませんでした。

23世紀には、民際捜査機構というインターポールの後身のような機関があります。「民際」と訳されるのは、これまでに幾度も報告しているように、23世紀に「国」という政治体は存在しないからです。

民際捜査機構は、その名のとおり、一個の捜査機関であって、逮捕のような強制捜査権も持っています。国が存在しないため、主権なるものを気にせず、独自に捜査することができるのです。ただし、国に相当する領域圏の捜査機関とは緊密な協力関係にあります。

民際捜査機構は世界共同体の付属機関であり、逮捕状のような令状を発行するのは、世界共同体人権裁判所です。このように、国という枠組みを取り払ったおかげで、かつては創作の世界にしかなかった民際捜査が現実に可能なものとなっているのです。

従って、民際捜査官は警察官そのものではありませんが、強制捜査権を持って世界中で捜査活動をする権限を与えられたエキスパートです。

とはいえ、かつてのように国際的なテロ組織とか麻薬組織といったものは23世紀には見られないため、民際捜査機構の役割は個人の逃亡被疑者の追跡・拘束が中心的なものとなっています。

これについては、前回記事でも報告したように、国境という観念がなく、出入り自由の時代、被疑者の海外逃亡は容易になっているため、海外追跡の切実な必要性が生じているのです。

しかし、21世紀に比べれば、世界中で犯罪が減少しており、民際捜査機構も大忙しというわけではなさそうなのは、23世紀にとって幸いなことと言えるでしょう。
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# by komunisto | 2015-01-25 14:29 | 司法
2215年1月19日

以前の記事で、23世紀は移民不要の時代になったと報告しました。すなわち、貨幣経済の廃止により、貧困国から富裕国へ移住する経済移民の必要がなくなったのでした。

そのため、21世紀の欧州が直面している移民社会と先住国民社会の間の文化摩擦や社会的排除、それを温床とするテロリズムなどの諸問題は、23世紀には想定できません。

とはいえ、移民はゼロというわけでもありません。23世紀の移民は、経済的理由からの移民ではなく、自分が気に入った領域圏に移り住むという、文化的な理由からの移民―文化移民―です。例えば日本が気に入った人が海外から移り住む、反対に海外が気に入った日本人が海外へ移り住むといったものです。

これも以前の別記事で報告したように、地球全域が世界共同体にまとまった23世紀には、国とその境界線を示す国境という概念も制度もなく、簡素な手続きだけで自由に海外渡航できるので、好きなところに行って住むことができます。

同時に、国民国家時代には各国とも外国人の長期滞在・永住に様々なハードルを設け、しかもその政策が国によりまちまちで不統一という煩雑さがありましたが、現在の世界共同体の仕組みにおいては、全領域圏共通の制度のもとに、簡単な登録手続きだけで長期滞在・永住も認められます。

こうした文化移民は好きで移住してきた以上、現地の言語や文化にも深い関心があり、現地社会に溶け込もうとしますから、文化摩擦や排除の問題も起きにくいのです。

貧しいから移民する経済移民から、好きだから移民する文化移民へ―。こうした移民のあり方の歴史的転換の背景には、世界の政治経済構造の根本的な変革があったのです。
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# by komunisto | 2015-01-19 14:06 | 社会
2215年1月13日

23世紀人の思考法の最大の特徴として、差別することを知らないことがあります。特に人間同士を比較して優劣を付けるという発想がないのです。だから、「優秀」とか「劣等」といった言葉はほぼ死語となっています。

ある意味では、大人たちも差別を知らない小さな子どものようなのですが、このような差別フリーな思考法はどのようにして身につくのか興味を持って調べてみますと、一つには保育や学校教育の中で、意識的に反差別の価値観を教えていることがあります。しかし、どうやらそれだけではないようです。

やはり貨幣経済が廃止され、貨幣価値という観念が消滅したことが決定的と思われます。貨幣価値というのは、21世紀人なら誰でも知っているように、物に値段をつけて、100万円の品は100円の品より価値が高いというように、物を等級付けするうえでの基礎になります。

物の等級付けで止めておけばまだよいのですが、かつては人間まで等級付けされました。士農工商のような身分制度はもちろん、それが廃止されても、社会的地位による公的な等級付けとか容姿による私的な等級付けまで、実に様々な要因から人間が等級付けされていました。

当然にも、等級が低いほど価値が低いとみなされ、蔑視、無視、排除される確率も高くなります。21世紀にも、人間の差別は良くないということは道徳的なタテマエとして認識されていながら、実際には種々の差別が世界中で横行していましたし、容姿による差別などはそもそも「差別」ではなく、それこそ物の値段と同じように当然視されていたことでしょう。

かつての人類社会における差別は、突き詰めれば貨幣価値という観念の発明に端を発していたのでしょうか。思想史家でない筆者にはよくわかりませんが、貨幣に換算した等級付けを止めたことの影響が人間の思考法にも及んでいることは明らかと思われます。

21世紀の世界に住んでいた最後の頃、差別をやめようとしない人類社会そのものに否定的になっていたものですが、過去200年の進歩を見ると、人間もまだまだ捨てたものではないとポジティブな気持ちになります。
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# by komunisto | 2015-01-13 14:01 | 思考
2215年1月7日

2015年の年初は、年末以来の原油安で始まり、予測どおり、世界経済の減速要因となるのでしたが、原油輸入国である日本のような国にとっては僥倖となりました。他人の不幸は我が身の幸福という資本主義らしい現象です。

商業活動が廃された23世紀には、石油はそもそも売り買いの対象とならないので、市場での値動きに左右されることもあり得ません。石油をはじめ、天然資源は人類共通資源として民際管理がなされています。

民際管理とは、21世紀的な表現なら「国際管理」となりますが、23世紀の世界に「国」という制度は存在しないので、「国際」ではなく、「民際」という言葉が充てられるのです。

資源の民際管理とは、従って、石油をはじめとする天然資源を売買したり、資源埋蔵地の独占物とするのでなく、民際機関を通じて地球規模で管理することを意味します。

そうしたことを可能とするために、世界天然資源機関が設置されています。以前は石油の枢要性に照らして、石油専門の機関が設けられていましたが、脱石油燃料が世界に行き渡り、天然資源機関に統合されています。

天然資源機関は世界経済計画機関と連携して、環境的に持続可能な資源開発を統括する開発・供給機関でもあり、地球規模での資源の計画的かつ公平な分配を担保しています。

このような資源管理体制は21世紀までの資本主義的常識では意想外のことだったでしょうが、共産主義的にはむしろ常識で、原油が取引され、日々の値動きに世界が右往左往するなど、23世紀人にとっては信じ難い話のようです。
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# by komunisto | 2015-01-07 11:39 | 経済