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はじめに

 
 当ブログは、筆者が提唱してきた自由な共産主義社会における具体的な暮らしのありようについて、できる限り具体的に描写することを目的としています。自由な共産主義社会とは、ごく簡単に言えば、貨幣と国家のない社会のことです。
 
 
そうした自由な共産主義社会のあり方全般に関しては、すでに『共産論』で論じており、そこでは必要に応じて暮らしの問題にも言及していますが、『共産論』はあくまでも政治経済論に重点があるため、具体的な暮らしに関する記述は最小限にとどまっています。
 そのため、実際、共産主義社会ではどんな暮らしになるのか、必ずしも具体的なイメージがつかみにくくなっています。そこで、当連載ではひとまず理屈はさておき、『共産論』で提示したような仕組みを備えた社会であれば、どのような暮らしぶりとなるのかに焦点を当てて、言わば生活百科的な叙述を試みます。
 
 その際、人の一生に沿ってまとめるのが最もわかりやすいかと思われます。すなわち出生に始まり、成長・成熟を経て死亡に終わる人生のサイクルです。こうした人の生涯は社会がどのようなものであろうと不変的です。ただし、社会の仕組みに応じて、暮らし方は大きく変わります。

 
 現在、世界に最も普及している資本主義社会であれば、その暮らし方は貨幣に支配されたものとなります。貨幣がすべてです。貨幣の手持ちなくしては一日たりとも暮らしは成り立ちません。そこで、暮らし方も貨幣の稼ぎ方及び使い方という点に収斂していきます。

 
 これに対して、自由な共産主義社会では貨幣という手段が存在しないため、暮らし方も大きく変化するでしょう。しかし貨幣経済に慣れ切っている「文明社会」の住人には、貨幣なき暮らしがなかなか想像できません。しかし、それは可能なのです。

 また、暮らしが国家という政治的な枠組みによって規定される「文明社会」の住人にとっては、国家なき社会の暮らしも想像し難く、よりどころを失う不安にすら駆られるかもしれません。しかし、国家なき社会の暮らしも可能なのです。
 
 共産主義に関しては、現在でもこれをことさらに悪夢として描くような反共宣伝が生き残っています。しかし、本連載で描写されるような共産主義的生活を悪夢ととらえる人はほとんどいないだろうと確信します。いずれにせよ、当連載を通じて、資本主義社会とは全く異なる暮らしの可能性について各自の想像力を掘り起こすことができれば、幸いです。

 なお、各記事は公開日時の新しい順に並んでいますが、右サイドバーの「カテゴリー」の欄では、ライフサイクルの順に整理された各カテゴリーごとに該当する記事へのリンクがついていますので、こちらから各カテゴリーに関連した記事を閲覧することができます。

# by komunisto | 2020-02-07 13:46 | はじめに

 人がライフサイクルを終え、次の世代へバトンタッチをする時に出てくるのが相続の問題です。相続は財産面で階級制を維持する最大の法的手段であるため、階級制の打破を目指す共産主義社会では否定されるのでしょうか。決してそうではありません。

 共産主義社会での相続は、日常的な衣食住に関わる物品の承継を認めて後に残された人の生活を保障するための方策として、きちんと存在します。そのような共産主義的相続制度にも二種類あります。
 
 一つは最も単純な法定相続と呼ばれるものです。これは、人が死亡すれば自動的に相続が始まるもので、相続人は被相続人と死亡時において同居していたパートナー及びその他の同居親族になります。共産主義的相続制度の本旨からすれば、相続による生活保障が必要なのは通常この範囲内の同居親族だからです。

 
 また法定相続人が複数存在する場合の相続は均等割合での共有となります。この割合は被相続人の生前の意思表示によって変更することはできず、持分の変更・調整は事後に相続人間で行ないます。これも、共産主義的相続の本旨が遺族の生活保障にあることによります。

 
 もう一つ、法定相続人以外の親族が相続する方法として、相続させたい相手との合意に基づく約定相続があります。約定相続は、先に掲げた法定相続人がいない場合にだけ認められます。この場合は合意内容を公正証書にまとめ、生前に明確な意思表示をしておく必要があります。なお、親族以外の人に遺産を継承したい場合は、遺言による贈与(遺贈)によります。

 
 では、具体的にどんなものが相続の対象となるでしょうか。資本主義社会の相続財産において最も中核を占める現金資産・負債に関しては、これまでたびたびご説明してきたように、貨幣経済がそもそも存在しない共産主義社会では相続もあり得ないことになります。
 それから、交換価値の点で重要な土地に関しても、自由な共産主義社会ではそもそも土地は誰の所有の対象にもならないのでしたから(
過去記事参照)、土地も相続の対象ではありません。
 
 そうすると、相続財産として最大のものは不動産としての住宅となるでしょう。自由な共産主義社会でも、土地上の住宅については私有が認められるからです。


 ちなみに、借家の場合、公共住宅であっても借主の権利は原則相続されますが、貨幣経済の廃止により家賃という制度が存在しないため、ここで相続されるのは住宅の使用権、それに借地権です。
 これに対して、家主の好意に基づく無償の借家に関しては相続の対象とはならず、改めて遺族との交渉を経て借家の継続の可否が決められます。ここは、資本主義的な有償賃貸契約との大きな相違点となるでしょう。


 前々回、自由な共産主義社会における信仰は個人的な人生哲学か、半世俗的な願掛けのようなものになるだろうとご説明しました。人のライフサイクルの中で信仰と最も深く関わるのが、弔事です。特に葬儀のありようは信仰と分離できません。

 その点、共産主義社会の葬儀は、全般に無宗教的なものになると考えられます。無宗教性が強制されるわけではありませんが、人々の宗教への関心が薄れるのに伴い、宗教性を伴った葬儀も下火となるのです。葬儀を執行しないよう遺言する人も増えるかもしれません。
 
 とはいえ、共産主義社会にあっても、故人を敬重し、何らかの葬祭を執行するという人類共通の文化が完全に廃れるとは考えにくいところです。そこで葬儀という慣習自体は存続するものの、その執行は公共的なサービスとして提供されるようになります。
 その点、資本主義社会では葬儀も営利的なサービスとして売買されるものとなりつつありますが、共産主義社会では営利的な冠婚葬祭業者というものが存在しなくなるため、特に葬儀は基礎自治体(市町村)が提供する公共サービスに組み込まれるようになるでしょう。

 
 そのことと関連して、埋葬の慣習も変化します。埋葬も信仰と不可分で、故人を埋葬する墓という制度自体が信仰そのものの表現とも言えますが、共産主義社会ではそもそも墓を作らないよう遺言する人も増えると思われます。その代わりに、散骨が慣習的に広がるでしょう。
 
 散骨はそれ自体を宗教的な習俗とする社会を別にすれば、遺骨を遺棄するかのようなイメージが嫌われ、あまり普及していないと思われますが、共産主義社会ではそうした嫌悪感も薄れ、散骨慣習は世界的に広がると考えられます。
 その場合は、環境的な面からも海洋への散骨が志向されるでしょう。これは、人が生命の源である海へ還元され、自然のサイクルへ戻っていくという点でも、環境的持続可能性のある合理的な葬送法と言えます。
 
 もっとも、墓という伝統的な埋葬慣習も完全に廃れるようなことはないでしょうが、共産主義社会では墓地も広域自治体(道または州)が提供する公共的なサービスによって維持管理されることが多くなります。
 つまり、葬儀から埋葬まで一貫した無償の公共サービスとして確立されることで―海洋散骨もそれに適した湾などを域内に擁する広域自治体のサービスとして提供されるでしょう―、資本主義社会におけるように、葬儀や埋葬の費用の工面に苦慮することもなくなるわけです。


 人のライフサイクルに沿って自由な共産主義社会の暮らしについて解説する本企画も、いよいよ終末まで来ました。人の終末とは死にほかなりませんが、死の迎え方は様々です。

 宗教道徳による縛りから解放される自由な共産主義社会では、自分の意思で望む死の迎え方をすることは一つの基本的人権として確立され、終末期法という法律が、尊厳死・平穏死・平安死という三つの終末について定めます。以下、順番に各定義を説明しますと、次のとおりです。

〇尊厳死:傷病により生命維持装置なくしては生存できなくなった人について、それ以上の延命措置をせず、自然な死を迎えられるよう導くこと。

〇平穏死:一般的に終末期を迎えた傷病者または高齢者について、人工的な栄養補給その他の延命措置をせず、自然な死を迎えられるよう導くこと。

〇平安死:進行性の疾患の末期に至った人について、身体的・精神的苦痛から解放するため、致死性薬物を投与して、安らかな死を迎えられるよう導くこと。旧称安楽死。

 さて、この三つの終末について共通するのは、原則として、ご本人の公正証書による事前の正式な意思表示に基づく必要があることです。これをリビング・ウィルといい、希望する人は公証人役場で作成してもらいます。

 これらのリビング・ウィルは、すべて公的機関である終末期医療評議会に登録・保管されます。この評議会は、終末期医療に関する医学的・法的な事務管理及び中立的審判を行う総合的な機関となります。

 ただし、リビング・ウィルがないケースも多々あり得るので、そうした場合、尊厳死と平穏死については、法律に定める近親者二名の要請(近親者が一人しかいない場合は、その近親者の要請)によって可能となります。

 平安死は、致死性薬物により人為的な死をもたらすという事の性質上、リビング・ウィルなしでの実施は認められませんが、例外的に、認知症や知的障碍等の事情により、事前の意思表示ができない方については、近親者二名(近親者が一人しかいない場合は、その近親者)の申請に基づき、終末期医療評議会の審判を経て、認められる場合もあります。

 また、中には近親者が一人もいない境遇の方もいます。そうした場合、尊厳死と平穏死については、ご本人が所在している医療施設または介護施設の管理者の申請に基づき、施設ごとに設置された中立的な外部委員から成る生命倫理委員会の全会一致の合意に基づき、認められます。

 同様の境遇で在宅療養の方の尊厳死・平穏死については、法律が定める要件を満たす主治医の申請に基づき、前出の終末期医療評議会の審判を経て、認められる場合があります。

 なお、平安死については、事の性質上、リビング・ウィルがなく、かつ近親者が一人もいない方の場合、主治医を含めた第三者の判断のみで実施することは許されません。

 寿命について見た前回に続き、いよいよライフサイクル最期の死と葬礼に関して言及する前に、信仰について見ておきます。葬礼は信仰とも深く結びついているからです。

 
 共産主義と言えば、無神論と同義のように思われてきましたが、それは半分イエスです。というのも、共産主義という思想・制度そのものは世俗的なものだからです。その点では、対の思想・制度である資本主義と同じです。
 
 しかし、自由な共産主義は個々人の信仰の自由を否定するものではありません。その意味で、先の言説は半分ノーになります。つまり、個人が信仰を持ち、それを実践することは抑圧されません。
 とはいえ、自由な共産主義社会における人々の信仰心は薄いものになっていくでしょう。なぜなら、信仰とはたいていの場合、現実生活の辛さを精神的に克服するために生まれるものだからです。
 
 その点、貨幣経済が存在せず、貨幣の持ち高が少ないことによる生活苦という状態から解放される―それこそが、究極の「自由」です―自由な共産主義社会では、生活苦を克服する精神的なよりどころとしての宗教のニーズが低下すると考えられます。
 その意味で、自由な共産主義社会における宗教は、暴力的に抑圧されるのではなく、ニーズが低下することによって自然に縮小し、個人的な人生哲学のようなものか、半世俗的な願掛けのようなものに変化するでしょう。

 
 共通の信仰を共有する人たちが宗教団体を結成して活動することも自由です。しかしその場合、宗教団体に法人格は与えられません。自由な共産主義社会における宗教団体とはあくまでも信仰者が任意に結成する集団に過ぎず、法人格のような制約と引き換えの特権を付与されることはないのです。
 従って、寺社の運営もすべて該当する宗教団体によって自治的に行なわれ、宗教団体を管理する宗務官庁のような行政機関が置かれることもありません。宗教は抑圧されるどころか、真の「自由」を獲得するのです。
 
 ただし、「自由」といっても、その活動が一般的な法令に合致していなければならないことは当然であり、法令に違反した行為があれば取締りの対象となることは、他の任意団体と同じです。
 
 ちなみに、ローマ法王のような高位の宗教指導者を推戴するかどうかも各宗教団体の自由ですが、宗教指導者の言動が政治家のように注目されることはなくなるでしょう。自由な共産主義社会においては、法王のような宗教指導者といえども、一宗教団体の長にすぎず、社会的な権威者ではなくなるからです。
 
 宗教と政治が厳格に住み分けをする政教分離は、そのような特殊な概念を必要とするまでもなく、自由な共産主義社会に初めから備わった性質として自然に浸透し、実現することになります。


 当連載は、人の出生に始まり、死亡に至るライフサイクルに沿って、自由な共産主義社会で想定される生活のありようをご説明してきましたが、いよいよ人生の終末に関わるお話です。その点、そもそも共産主義社会において人の寿命は延びるのか、縮むのかが気になります。

 
 成功した資本主義社会は全般に平均寿命を延ばす傾向にあり、いわゆる長寿社会を生み出してきました。その要因としては様々なことが想定されますが、大量生産体制による飽食―大量の食品廃棄物という副産物を伴う―とまで呼ばれるほどの栄養の向上が最も大きいと考えられます。
 それに加えて、かつては不治だった病気の治療を可能とする医学の進歩に支えられた医療サービスの充実もあるでしょう。もっとも、そこには資本主義を修正する公的医療保険のような「社会主義的」な医療費保障制度の支えも寄与しています。
 

 こうして平均寿命はたしかに延びたのですが、一方で、医療や介護に依存せず健康に暮らせる質的な健康寿命となると、資本主義社会は必ずしも芳しい成績を上げず、医療費・介護費の増大という問題に直面しています。

 
 これに対して、共産主義社会では食品生産も環境的な持続可能性に配慮された計画経済によって行なわれますから、飽食はあり得ません。全般に(資本主義社会に比べれば)少量生産体制になるため、おおむね少食習慣が定着するでしょう。
 医療サービスも、以前の記事で述べたとおり、開業医・個人病院の激減により縮小されます。このような方向性は、資本主義社会に比べて平均寿命を短縮するようにも思えます。しかし、必ずしもそうではないでしょう。
 
 少食習慣は、食べ過ぎによる肥満やそれによって起こり得る病気を予防する可能性があります。加えて、共産主義社会における食品生産では、健康への配慮から健康リスクの少ない食品の生産が計画的に行なわれますから、品質の面からも、発癌などの危険が減少する可能性があります。


 また半日労働制に代表されるような労働時間の短縮、貨幣経済が廃されることによる労働と消費の分離は、過労死のような悲劇を防ぎ、労働に起因する死亡―過労自殺も含めて―を減らすでしょう。
 
 医療サービスが必要最小限度となることも、薬剤の副作用や手術に伴う合併症など、過剰または不適切な医療行為に起因する「医原病」のリスクを減らし、かえって寿命を延ばす可能性があると言えます。断言はできませんが、「平均百寿」時代となる可能性もあるのです。