有限の「持続可能性」

環境問題・エコロジー関連のキーワードとして定着している「持続可能性」という理念について、筆者はかつてここに現存社会体制の保守という含意を読み取って忌避していたが、現在ではそうした誤解を解いて受容している。

しかし最近、また別の観点から懐疑が頭をもたげてきた。それは要するに、地球の生命自体が永遠不滅ではあり得ないのに、「持続可能性」を云々することにどんな意味があるのだろうかという疑念である。

筆者はいわゆる終末論の信奉者ではないが、地球が包摂される宇宙自体が、遠い未来には電子、陽電子、光、ニュートリノといった物質だけの世界―いわゆる「冷たい宇宙」―に変貌し、地球上に生命体が生存する余地がなくなってしまうという宇宙物理学的な予測がなされている。

そこまで至る前にも、地球が属する太陽系の宗主である太陽の寿命が尽きてしまうとの予測がある。太陽が死滅すれば、人間を含め太陽光に依存する生命体も死滅するであろう。

こうした「科学的終末論」を考慮すると、「持続可能性」という理念は再考を要するのではないかと思えてくるのだ。

もちろん、しょせん地球には終わりが来るのだから、未来のことなどお構いなく、今のうちに地球環境を思う存分食い尽くしてしまえというわけにはいかない。

予測されている「冷たい宇宙」の到来も、それは10の何十乗というまさに天文学的遠未来のことだし、太陽の死滅も50億年くらい先のこととされるから、「持続可能性」とは、せめて地球自体の物理学的な終焉が訪れる以前の近未来のうちに、地球環境を人間が蕩尽してしまうことのないようにしようとの理念ということになろう。

「無限」は数学上の観念としてはあり得ても、現実にはあり得ない。地球環境は無限ではないが、その持続性も決して無限ではない。そうした有限の地球環境の有限の持続性を確保することが「持続可能性」であると考えてみたい。
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