猫の政治学

漱石の有名なデビュー作『吾輩は猫である』は、野良猫上がりの主人公の猫「吾輩」が猫の目を通して近代の人間社会を皮肉を込めて批判的に観察批評するところに妙味がある。

中でも「人間とは天空海闊の世界を、我からと縮めて、おのれの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだ」という一節には考えさせられる。

現実の猫も「縄張り」を持つ動物であるが、猫の縄張りは「ホーム・テリトリー(寝食の縄張り)」と「ハンティング・テリトリー(狩の縄張り)」とに分かれるという。このうち「ホーム・テリトリー」は猫にとってまさに「我が家」であり、相当に排他的であるが、「ハンティング・テリトリー」は他の猫とも共有する部分が多く、その境界はあいまいであると言われる。

人間の場合は、ホーム・テリトリーすなわち「マイホーム」も排他的であるが、言わばハンティング・テリトリーに相当する「領土」はそれ以上に排他的である。

だが、そのことによって移動の自由を自ら制約し、まさに「おのれの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工で自分の領分に縄張りをする」状態になってはいないか。その結果、それこそ猫の額のように狭小な小島の領有権をめぐって国同士が激しく角突き合うということも珍しくはない。

実際、人間のテリトリーに関する観念は、他の動物に比べてもいささか狭量すぎるようである。そういう狭量さは、時代下っていわゆる近代国家の建設が進むにつれて、いっそうエスカレートしてきた。古代中世までは国境の観念はあいまいであったから、遊牧民に限らず、人々はもっと自由に他国との境界を出入りしていたのだ。

そうした原点を見つめつつ、おそらくは人間の動物的本性に由来するのであろうテリトリーという観念自体を再考に付し、より開かれた領域概念を創案すべき時ではないか。それは人間が誇る“高等知能”を駆使すれば不可能ではあるまい。

領土主義的主張を高く掲げる勢力が「圧勝」の美酒に酔う今、最近、狭小な我がホーム・テリトリーの周辺に増え始めた野良猫たちを眺めながら、そんなことを思惟うこの頃である。
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