出版と人生

多少ともものを書く者であれば、誰しも一度は出版の可能性を考えるだろう。自分の着想を活字にすることは単なる技術的な表現手段にとどまらず、自らの生きた証しを遺すことであり、それは人生そのものである。

とはいえ、筆者のごとき無名著者には出版社側から対価を伴う原稿依頼は決して届かないから、逆に著者側が対価を支払って出版を依頼する自費出版という方法によらざるを得ない。となると、出版は人生などと感傷に浸っておられず、世知辛く「費用対効果」を計算せざるを得ない。

無名・無冠、おまけに堅いジャンルではそもそも商品として流通しないだろう。仮にある程度流通したとしても、ほどなく絶版となるのは確実である。無産者にとっては決して軽くない費用の負担という重荷だけが残ることになりかねない。

もっとも、書籍の購入者には図書館も含まれるから、図書館という言わば「本の博物館」で自著を眠りにつかせることはできるかもしれない。だが、効率偏重の“行革”流行りで図書館などの文化予算が真っ先にカットされる資本主義的文化破壊の時勢下、貸出実績のない無名著者の所蔵本は図書館でも廃棄処分されると聞く。

そればかりではない。幸運にも作品が後世に長く残されるとしても、誤謬や論理矛盾も一緒に残されるならば、読者・評者の失笑を買い、後世に恥をさらすし、そうでなくとも著者にとって意想外の誤読・誤解をされる恐れもある。

結局、自費出版の費用対効果は低いという結果に落ち着きそうだ。そう考えると、自らが生きている限りの期間限定で、なおかついつでも適宜修正可能な電子媒体を発表の場とするほうが人生の上でもベターかもしれないという結論になるのである。
[PR]