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カテゴリ:文化( 16 )

2214年4月14日

2014年の日本では、いわゆるSTAP細胞論文をめぐる研究不正問題が長期に及ぶ係争に発展するわけですが、23世紀現在でも研究不正問題はしばしば発生します。しかし200年前ほどの騒動にならないのは、こうした問題を中立公正に裁く仲裁機関が存在するためです。

その名を科学仲裁裁判所と言います。これは各領域圏ごとに一つ設置されていて、日本では横浜に置かれています。「裁判所」といっても、通常の司法裁判所とは全く異なり、実績ある研究者で構成される民間団体である日本学術協会が運営しており、裁判官役を務めるのは、ベテランの研究者と弁護士です。

仕組みはこうです。まず問題の起きた研究機関―人文社会科学系も含む―の内部調査で特定の研究者の研究不正が認定された場合、その研究者が結論に不服であれば、科学仲裁裁判所に提訴し、そこで審理され、改めて正不正の認定がなされます。

自然科学分野に限っては、領域圏科学仲裁裁判所の認定判断に不服のある当事者は、さらに世界科学仲裁裁判所という世界共同体レベルの仲裁機関に控訴することもできます。

この機関は、ユネスコの後身である世界科学教育文化機関に設置された同種の仲裁機関で、裁判官役は世界的な科学者と法律家です。自然科学研究は世界的な影響範囲が大きいことから、このように海を越えた二審制の仕組みとなっているのです。

STAP細胞論文のように、世界的な科学雑誌に掲載され、世界で広く反響を呼んだ論文をめぐる問題などは、こうした二審制の仲裁制度によって解決されるのにまさに打ってつけの案件となるでしょう。

なお、科学仲裁裁判制度はあくまでも研究上の正不正問題に限定しての法廷外裁定制度で、研究不正を理由とする所属研究機関による懲戒処分の適否をめぐる係争は扱いません。こうした労使関係に関わる法的紛争に関しては、通常の司法裁判所の管轄となります。
by komunisto | 2014-04-14 10:18 | 文化
2214年1月26日

23世紀人は討論好きです。それを象徴するのが、「討論カフェーヨ」(カフェーヨとは、カフェのエスペラント語)。これは様々な討論を目的としたお客の集まる喫茶室です。

こうした喫茶室がほとんどの市町村にいくつかは必ずあり、結構人で賑わっています。外見上はかつてのカフェとそう変わらず、コーヒーや紅茶が飲めるのですが、お客たちは普通の茶飲み話ではなく、政治経済や哲学・科学などに関する討論を交わすのです。

私も市内に行きつけのカフェーヨがあり、時々お邪魔をしています。ここには地元のS市民衆会議の代議員なども訪れ、市民と気軽に討論したりしていますし、地元にある私立系学術研究センターの研究員が来て、ゼミナール的な会を開いたりと、様々な目的に使われるちょっとした会議室のようなものです。

21世紀初頭に生きていた頃、日本では一般市民がこうした討論に参加する風潮はほとんどなく、社会的無関心が蔓延していました。そうした状況が大きく変わった要因としては、やはり民衆会議制度の確立が大きいと考えられます。

民衆会議は免許制ではありますが、代議員免許さえ取得して、くじ引きに当たれば、誰でも代表機関である中央及び地方の民衆会議代議員として直接に政治参加できる制度ですから、基本的にお任せ主義だった選挙制議会制度の時代よりも、人々の政治的・社会的な関心は高まります。

また大学を頂点としたエリート主義的な高等教育制度が廃され、老若男女問わずすべての市民に開かれた生涯教育制度に転換されたことも、一般市民の知的関心と向学心を高めていることは間違いありません。

そうした社会的変革の文化的な象徴が、討論カフェーヨだと言えるでしょう。ちなみに、貨幣経済が廃された現在、討論カフェーヨでも無料で飲食が提供されるのはもちろんです。
by komunisto | 2014-01-26 10:20 | 文化
2214年1月18日

23世紀の世界では結婚という伝統的な旧制が廃れ、パートナーシップ制が主流です。こうした問題ではとかく保守的な日本ですら、以前ご報告したとおり婚姻制度はすでに廃止され、契約的なパートナーシップ制に移行しています。

このような契約主義の最も進歩的な(?)シンボルは浮気特約です。つまりパートナー関係を結ぶに当たり、お互いに浮気してもパートナーシップを解消しないとの特約も有効だというのです。これがあると、パートナーが浮気しても離婚に相当するパートナーシップ解消事由にならないというわけです。

さすがに日本の制度ではここまで認められていないのですが、欧米圏のパートナーシップ制度では近年、このような浮気特約を認める例が主流だそうです。

この場合、浮気はもはや倫理の問題(=不倫)とは考えられていないようです。浮気はお互いの信頼を裏切る行為として一般的には不法行為なのですが、お互いが浮気を認め合うならばとやかく言うことはないというのです。

たしかに、現パートナー以外の人が好きになってしまうということは生きていればあり得ることで、それを一概に不道徳だと決めつけられない一方、ひとたびパートナーになったらお互いを独占できると当然に言えるわけでもないので、浮気を信頼の問題とすることは、個人本位のパートナーシップ制では自然な流れなのかもしれません。

ここには、単なる法律問題を超えて、広い意味でのパートナーシップを道徳という社会の高みから考えるか(婚姻制度はその典型)、それとも個々人の尊重という水平な視座から考えるかという価値観の文化的差異が反映されているようです。
by komunisto | 2014-01-18 14:19 | 文化
2213年10月23日

前回は23世紀人の食についてご報告しましたが、今回は23世紀人の服についてです。23世紀人はいったいどんな服を着ているのか。実は、衣服については表面上21世紀とそう代わり映えしませんが、その生産方法が大きく変わっています。

21世紀までには衣服の生産でも資本主義的な大量生産体制が確立され、工場で生産された規格品をファション店で購買することが当たり前となっていました。しかし、共産主義の23世紀には、こうした服飾産業のあり方も大きく変わりました。

他の業界と同様、衣服も主に「生産協同組合」という共産主義的な中小企業が開発・生産していますが、こうした企業は規格品のほかに注文品も扱うのが一般で、各自の好みのデザインやサイズで服を仕立ててくれます。

21世紀には一部高級服を除いて消滅していた「仕立屋」が産業的に復活しているのです。これによって、サイズが微妙に合わない規格品に悩まされることもなくなっています(下着類まで仕立てができます)。

ところで、21世紀には洋服が世界中に普及していました。現在でも洋服が主流的であることは変わらないのですが、近年、民族衣装ブームが世界中で起きています。しかも、互いの民族衣装を交換し合うのです。例えば、アフリカ人と日本人がアフリカの民族衣装と日本の和服を交換し合うといった具合です。

こうしたことが起きるのも貨幣経済が廃され、インターネットを通じた物々交換が盛行しているためです。インターネットの衣服交換サイトは特に人気がありますし、オフラインでも海外の民族衣装専門の物々交換ブティックもあるようです。

実際、街を歩くと和服の人もいますが、どこか見知らぬ海外の民族衣装をまとっている日本人もしばしば見かけられ、日本にいながら海外旅行をしているような気分にもなります。

このように民族衣装ブームが偏狭な国粋主義の文化的表現ではなく、普遍的な世界主義的な文化の実践として発現していることは、世界が―貨幣を介することなく―ひとつになった23世紀ならではの現象なのかもしれません。
by komunisto | 2013-10-23 10:04 | 文化
2213年10月17日

前回、23世紀の中東ではもはや過激主義を生み出すような宗教熱は見られないと報告しました。このことは、イスラーム教に限らず、宗教全般について言えるようです。

かつては「文明の衝突」などと評され、イスラーム教に対抗したキリスト教も同様に下火です。キリスト教と言えば、カトリック総本山のバチカン法王庁が注目されていましたが、ローマ法王も今ではカトリック信徒団長といった趣きで、その動向が一般メディア上で報道されることはほとんどありません。

イスラーム教聖地メッカは、旧サウジアラビアにあった宗教都市で、世界中から巡礼者が詰めかけることで有名でしたが、現在は「アラブ合同領域圏」に属する都市で、巡礼地というより観光地となっています。

日本でも各地にあった仏教寺院の多くが継承者なく廃寺となり、宗教施設としてではなく歴史的建造物として住職不在のまま保存されている寺院も少なくありません。

このように宗教が下火なのは、人類が宗教に救いを求めることがめっきり減ったためです。宗教は貨幣経済がもたらす生活苦と相関関係にあることが、明らかにされています。つまり、貧困に苦しめば苦しむほど、人は神に救いを求めるものなのです。 

ただ、人間が死すべきものである限り、死者への追慕・哀悼の情を宗教で埋める必要はあるようで、現在でも葬儀が宗教的に営まれる習慣は世界中に残されています。しかし、これとて、かつてに比べると、無宗教の葬儀や一種の自然葬としての海洋散骨を選択する人が珍しくありません。

結局のところ、23世紀における宗教の主要な役割は、個人的な哲学―宗教哲学―としての側面にウェートがあり、宗教が社会的・政治的に重きを成す時代は終焉したと言えるでしょう。
by komunisto | 2013-10-17 12:12 | 文化
2213年8月12日

電子書籍はすでに21世紀初頭から普及し始めていましたから、21世紀人にとっても電子書籍自体は何ら珍しいものではないと思いますが、23世紀の今、電子書籍は完全に定着しています。言い換えると、紙書籍はほぼ廃れました。

このような方向性はすでに21世紀から予見されていて、紙書籍にこだわりを持つ人たちからは懸念されていました。そうした懸念が200年後には現実のものとなったわけです。

今、出版と言えば従って、電子出版を意味します。しかも、貨幣交換の廃止は当然にも商業出版をも消滅させましたから、23世紀の電子出版とは電子書籍の発表・展示を意味します。

そうした電子出版をコーディネートするのはいわゆる出版社ではなく、電子出版サービス事業所です。これには旧大手商業出版社の流れを汲む大手と中小・零細の事業所とがありますが、いずれも無償で電子書籍化をコーディネートしています。

電子書籍はこうした事業所を通さず自作でも公刊でき、電子書籍公刊者は誰でもウニヴェルサーラ・ビブリオテーコ(UB)という世界規模の電子書籍保存サイトに登録できます。UBに登録されると原則50年間保存されますが、すぐれた作品は審査により永久保存されます。

文学賞もありますが、23世紀の文学賞はやはり電子媒体に発表された文学作品に与えられる賞です、ちなみにかつて日本の二大文学賞とみなされていた芥川賞と直木賞はまだ続いていますが、現在ではかなりマイナーな賞となっており、日本デジタル文学大賞という賞のほうがプレスティージは圧倒的です。

では紙書籍は全く存在しないかと言うとそうでもなく、例えば作家が個人的に自作を贈呈する場合や文学賞受賞作品が記念として紙書籍に製本されて受賞者本人に贈呈されるといった形で、贈答・記念品としては生き残っています。

こうした電子書籍全盛時代は、紙書籍に慣れた20世紀生まれの「旧人類」たる私のような者にとっては味気なさもいくらかは感じるところですが、かつてパピルスが紙に変わったのと同様、紙が電子に変わったのも時代の流れでしょう。
by komunisto | 2013-08-12 11:01 | 文化